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バトシーラー日記

あまり知られていない様々な真実の知識をお届けします


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教えてくれない日本の歴史【作る会教科書は大嘘です】


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体罰も詰め込みも無かった江戸時代の教育

『テロリスト養成所の「松下村塾」を世界遺産にする歴史の偽造』

日露戦争以前と以後の2種類の明治人』

第二次世界大戦戦争中の日本の政府や軍指導者の道徳的退廃なら、今では誰でも知っている。
戦車兵として戦争体験がある司馬遼太郎は『愚劣な日本軍』を実体験しているので日露戦争以後の歴史小説を書かなかった。
ところが、 日露戦争以前の日本人(明治人)が最良と考える、いわゆる『司馬史観』は右翼だけでなく広く日本人に受け入れられている。
『新しい歴史教科書を作る会』は日本人の漠然とした誤解を利用して現在の平和憲法と『道徳の堕落とその原因を作った教育』を攻撃し、教育勅語の復活を叫ぶ。
全くの歴史の偽造である日本版ネオコン「作る会」の理想の教育が教育勅語の明治の教育であり、理想の道徳が明治人の道徳である。
彼らの理想の人物像が、明治人なわけだが、明治でも日露戦争までの明治人(軍人、政治家、経済人)で明治後期、大正、昭和は質が極端に落ちるそうです。
敗戦以前の日露戦争から大戦突入の日本は戦争に次ぐ戦争で、周辺諸国の人々にも多くの日本人にも多大な苦難を味あわせた。
この時の指導者は、みんな理想の教育勅語教育を受けた人ばかり。
そして、対照的に日露戦争時に日本の指導的立場に居た人たちは、すべて明治教育(教育勅語)では無く、江戸時代の道徳、教育で育った人ばかりだった。
しかし、江戸時代の道徳、教育を受けた世代が引退した後、文明開化の明治の義務教育を受けた世代が第一線で活躍するようになった日露戦争以後の日本は、果てしない戦争へと突入して、日本を破滅(自滅)に導いていく。


イギリスのドーアという社会学者によると、明治元年の日本全国の就学率は男子が43パーセント女子が10パーセントあったそうですがこれはかなり高い数字です。
都会に限れば識字率80パーセントという数字はうなずけます。
(『講談社日本の歴史19文明としての江戸システム』p306)

ゴローニンやシュリーマンは著書の中で「全ての日本人は読み書きができた」と述べています(翻訳は岩波文庫講談社学術文庫にあり)。
朝鮮通信使の申叔舟や捕鯨船員のアメリカ人マクドナルドも同じことを言ってるそうです。
井原西鶴の『西鶴織留』には「今時は物かかぬといふ男はなく」と書かれています。

むしろ18世紀まではヨーロッパよりも東アジアの方が出版は盛んでした。18世紀の識字率はロンドンが30パーセント、パリが10パーセントだったそうですが、当時のヨーロッパの出版状況からしてそんなもんでしょう。


アメリカ経済学者トーマス・スミスは日本の出生率抑制を高く評価していますが、それは授乳法が普及したお陰です。江戸前期にはむしろ人口が爆発的に増加しています。
間引きは禁止する法令がちゃんとありました。
ちなみにうば捨て山伝説は左翼が作った全くの嘘。


tomo1111のニコニコブロマガ

『驚愕の江戸日本の識字率』???

まことしやかに言われていることに「数字は嘘をつかない」しかし「統計は嘘をつく」というものがあります。たとえばアンケートなどがそれで、統計データとしては母集団をいじることでいくらでも都合の良い数字が出せます。
たとえば「ケーキが好きな人」と「嫌いな人どちらが多いか」というグラフを作りたいとして、母集団を「~~製菓学校の生徒」に絞って調査をすればおそらくほぼ100%が「好き」と答えるでしょう。さすがにこれは極論としても、この手の「いい加減な統計」は結構多いです。

しかしそれ以上に怪しいのが「出どころ不明の数字、統計」です。いったいどこの誰が、いつ、どこで調べたのかも全く不明のデータを引っ張り出して来て「~~は~~だった」というケースは、時折目につきます。
「江戸時代の日本の識字率」は「アヤシイ統計」の中でもよく見かける代表的な代物です。今回、ニュースにこのネタが出てきたのでブロマガにしてみます。ニュースのURLは以下
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1835605?
そこではこのように書かれています。
江戸時代の庶民の識字率は50%程度であったといわれています。これは、同時代のイギリスが25%程度であったことを考えれば、相当高い数字であることがわかります。

しかしこの50%という数字はどこから来たのでしょう?
なにせこのデータ、「江戸時代のいつ取ったのか(江戸時代は250年ほどありますが、安土桃山時代の気風を強く残している初期、出版が隆盛を迎えた中期、そして後期幕末とでは大きく世相が異なります)」「江戸時代の誰が取ったのか」「江戸時代のどこで取ったのか」一切不明なまま数字が独り歩きしているという代物です。
そこに「何を持って識字というか」という根本的問題まで完全無視です(自分の名前だけ書ける、と、漢文を読める、の間には広い広い差があります)。

実は近世の識字率に切り込んだ学術研究が存在します。八鍬 友広先生の「近世社会と識字」です(pdfでタダで閲覧できます。http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/8186/1/70)。この研究から「江戸時代の識字率」に関する疑問は割と解決できる部分はあると思います。
詳細は実際に論文を読んでいただくとして、ここでは慨論だけを取り上げると。

・ある程度公教育が普及した明治の調査においても、最低限の識字レベルである自署(つまり自分の名前が書けるだけのレベル)でさえ、かなりの地域格差がある(1877年滋賀県がでは男子89.23、女子39.31の自署率があるが、1881年青森県では男子37.39%、女子2.71%と、かなりの格差がある)
・商工業中心の都市部と、農業中心の農村では、自署率についても相当の格差がある。商工業者数と自署率には正の相関関係が、農業者数と自署率には負の相関関係がある(公教育が普及しだした明治においても農村は識字率有意に低い。このことから江戸時代においても同様であったと言える)。
・近世においても、有力な手習塾がある地域では識字率が高い(つまり識字は地域格差が非常に大きい)。
・日本の場合ひらがなさえなんとかなればある程度の識字が可能である。

特に最後の段については、双紙類などがかなり大量に出版されていたことから「絵があればひらがなはなんとか読める」という層がかなりいたことは以前から言われています(ただし近世においてその手の本は「童蒙子女が読むもの」つまり女子供や馬鹿が読むもの、と言われていましたが)。
いずれにしても、1899年の陸軍調査でも、男子の自署率でさえ76.61%、小学校レベルが50.62%となっていますから、「江戸時代の識字率が50%」というのはかなり荒唐無稽、根拠不明な数字であると言えます。

江戸時代の整版による出版や本の普及はたしかに優れたものでしたが、この手のいい加減な数字が「自尊史観」と呼べるような代物に悪用されていることもあるわけで・・・統計や数字が出てきたときには「本当に正しいのか?」を常に注意する必要があります。
「英国の識字率が25%」という点については、完全に門外の話ですので時間をいただいて調べてみようと思います。
ご質問、ご指摘等ありましたらコメントいただければ幸いです。


「江戸時代ごろのイギリスの識字率は25%程度」と言う嘘

前回は主に明治期の数値を元にした学術研究から、「江戸時代の識字率が50%」という話はあまりに荒唐無稽なものであり、50%というのも全く根拠が無い数字であるということを述べました。
 今回はそこで積み残した「江戸時代ごろの英国の識字率は25%程度」という点について、検証してみようと思います。ただしあらかじめお断りしなければならないのは、私は英国研究については専門外であり、また原書や原論文もすぐの入手が難しい(その上読解の時間がちょっととれない・・)ため、あくまで他の研究者の方が書いたもの、あるいは論文を元にデータとしてまとめたサイトを参照していくことになります。そのため主に孫引になってしまうことをご了承ください。

 まず、各国の世界がどのように発展していったか等々をあつめている「Our World in Data」の識字の項目(http://ourworldindata.org/data/education-knowledge/literacy/)ではどうなっているのでしょう?
 そこでは各国のデータとともに、特に現代社会の基礎を作った存在であるイングランドの識字研究を紹介しています(ただし識字の詳細については書かれていませんでした)。まず西洋全体のグラフですが、注においてBuringh & Van Zanden (2009) によるものとなっています。
 このグラフでは当時英国の一部であったアイルランドが分割されており、英国のデータがアイルランドを含むものなのか除いたブリテン島側だけのものなのかは不明です。また男女の別がなく、サンプル比率についても書かれていないため注意が必要です。
 そこでは1550年の16%から1650年には50%程度になったとなっています。その後1820年まではほぼ横ばい、1870年では一気に76%となっています。

 次いでイングランドのみの研究Gregory Clark (2008)を引用したグラフはややとぎれとぎれであり、また古い時代のものはそこまで大きくない地域での調査研究ではあるのですが、ある程度グラフになっている18世紀中ごろでも男性は60%程度、女性は30%超となっています。なお、こちらにおいても古い時代の物については結婚時の署名等であるようで基本的には自署率であると考えられます。

 ほかの資料では、R. A. Houston「Scottish literacy and the Scottish identity: illiteracy and society in Scotland and Northern England, 1600-1800」をグーグル先生で流し読み(英語読むの遅いため本文を読む時間が無く・・)してみたところ、男性のみではありますが不識字の割合が研究されていました(33ページ)。
 北イングランドでは、1655年-1699年においてはジェントリ(郷紳)などはほぼ不識字がいない(=ほぼ全員が識字できる)一方、農夫や労働者といった下層階級では7割超が不識字であったとされています(ただし独立自営農:ヨーマンについては49%と半々)。
 それが18世紀にはいると、独立自営農でさえ3割を切り、農夫や労働者といった下層階級であっても50%から60%まで不識字の割合が低下しています。
 スコットランドでもほぼ同様の傾向をしめしています。また商工業者の識字率は非常に良好(17世紀でも不識字は4割、18世紀にはいると3割以下にまで字が読めない人が減る)だという傾向は、日本の識字研究と共通するところです。

 日本の雪嶋宏一先生がまとめていた文章(http://www.f.waseda.jp/yukis/hpb/hpb2011.7.html)ではSuarez 2009を引用して「1714 識字率 男45% 女25%」等々が紹介されています。また1831年には人口13,254,000のうち識字率は男66%女50%にまで上昇し、さらに成人読書人口が4,287,000人に達していたとなっています。これは「未就学児も含めた全人口の3割超」が、自署より高度な識字をできていたとなります。

 結論として「江戸時代ごろのイギリスの識字率は25%程度」という話の根拠となる資料は何一つなく、ほとんど資料でそれより高い数字でした。19世紀前半の読書人口でさえ25%超なので完全にお話にならないのですが・・・
 念のため言っておけば、当たり前ですが自署率とより高度な文章識字の数字を並べても全く意味がありません。明治初期の日本の自署率が5割だったとして(もっとも、どう甘く見積もっても5割は厳しいというのは前回参照)、それを英国の読書人口と比べて「江戸時代の日本の識字50%、英国の識字は25%しかなかった」などというのは完全に阿呆です。


日本の識字率に関する誤解について
日本の識字率に関するやり取り。まとめを拒否されたので、自分のレスのみ記載(それでも情報価値ありと判断)。どちらが正しいかは読者にお任せしますが、まとめ側としては「日本に関する誇張されたデータが左右関係なく共有されている」ということに対する危機感として行いました。

@toshi_fujiwara あなたが拒否なさるなら、別にこちらは構いません。一応著作権というものは尊重しますので。
稲葉孝太郎 @InabaKotaro 2015-05-19 01:51:10
@toshi_fujiwara 自己に論拠があると思うならば、まとめさせてもらってもいいのではないですか? その場合に恥をかくのは私なわけですから。
稲葉孝太郎 @InabaKotaro 2015-05-19 01:47:58
@toshi_fujiwara 今回の議論は日本に関する幻想的な誇張が政治議論について拡張された例として興味深いので、あとでまとめさせていただきます。ありがとうございました。
稲葉孝太郎 @InabaKotaro 2015-05-19 01:44:40
@toshi_fujiwara それはまったく90%の根拠になっていません。あなたはおそらく江戸と日本(特に男子の武家階級)を混同しているものと思われます。
稲葉孝太郎 @InabaKotaro 2015-05-19 01:41:44
@toshi_fujiwara 定義は難しいですが、日本に関して具体的に数値化されているものに対して、逆の幻想を抱くことですね。
稲葉孝太郎 @InabaKotaro 2015-05-19 01:39:53
@toshi_fujiwara とりあえずあなたのような影響力のある人が「日本凄い」論に乗せられているのは、残念に思います。
稲葉孝太郎 @InabaKotaro 2015-05-19 01:27:28
@toshi_fujiwara 普通に、というのは意味が分かりません。「識字率」というのはCentral Intelligence Agencyが用いているように can read and writeのことです。ちなみに「ひらがなに限定すれば90%になる」という根拠はなんですか?
稲葉孝太郎 @InabaKotaro 2015-05-19 01:22:04
@toshi_fujiwara あなたはなにひとつ推計の根拠を出していないのですから、これで十分です。調べてみたところ、出典は文部省年報のようですね。
稲葉孝太郎 @InabaKotaro 2015-05-19 01:19:16
@toshi_fujiwara 識字率の定義の仕方のひとつに「自分の名前が書けるか」というものがあります。識字率というのはWikipediaにも書いてある通り母国語の「読み書き」の能力で、これを識字率として調査するのです。あなたの言う「識字率」というのは何ですか?
稲葉孝太郎 @InabaKotaro 2015-05-19 01:14:45
@toshi_fujiwara ネットで調べてみたところ、私が知っている調査以外にも文部省がやっているようですね。>明治初期から20年代半ばまでの識字率は最大で男子で50?60%、女子で30%前後であったと推測されています(文部省調査)

@toshi_fujiwara 数字、自名、村名などの記載から、刊行物の読解までを段階的に調査したものです。あなたが言う「推計」よりはよっぽど確かかと思います。
稲葉孝太郎 @InabaKotaro 2015-05-19 01:09:04
@toshi_fujiwara あります。1879年に山口県で、1881年に長野県で調査が行われているからです。
稲葉孝太郎 @InabaKotaro 2015-05-19 01:07:32
@toshi_fujiwara 明治期に行われた調査で、地方では自署率が50%を切っているのにですか?
稲葉孝太郎 @InabaKotaro 2015-05-19 00:52:46
@toshi_fujiwara 統計がないならば90%という数字は出ないはずです。これについては以前調べたところ、地方ではかなり低いのではないかと推測されますので、「日本」がどれくらいの識字率だったのかは不明です。
稲葉孝太郎 @InabaKotaro 2015-05-19 00:48:16
こういう間違いをしれっと書かれるのはちょっと(´・ω・`) ちなみに江戸時代の識字率が90%というのも、明治期の調査からはかなり疑わしいと思う。

寺子屋って裕福な家の子以外は1,2年でやめちゃうものだったらしい。ひらがなカタカナ自分の名前書くのがせいぜいで、それを識字=literacyと言えるかですね。


「識字」と聞くと、「読み書きができる/できない」というごく単純な枠組のなかで考えてしまいがちだ。
しかし、そもそも読み書きが「できる」とは、どういう状態を指すのだろうか。

自分の名前を読んで書くことさえできれば読み書きができるということなのだろうか。
難解な漢語彙を躊躇なく使いこなせないと読み書きができるということにはならないのだろうか。

この本を読むと、読み書きのありようは人ごと・場面ごとに実に多様であり、「読み書きができる/できない」の判断は一概にできうるものではないことがわかる。
そしてその多様性に目を向けると、たとえば「江戸時代の識字率は高かった」「日本人の識字率は99%」などという風説は、当然意味をなさないものである。
しかしながら、社会は読み書きをできる人とできない人との区別をおこない、「できない」人に、識字教育という善意の手をさしのべてきた。

 

怪しい話   「時代劇の嘘」

日本で時代劇といえば江戸時代を舞台にした作品が多いのですが、これを書いている時点で、昭和を舞台にした作品あたりまでは時代劇に該当するようになっているのではないかという説もあります。

 私的には怪しい話において”昭和45(1970)年が一つの分水嶺になっている”という説を展開していますので、1960年代くらいまでを舞台にした作品は時代劇に区分されても仕方が無いかなあと考えていますが、ほとんどの人が”自分が生まれた年”を基準にしてあれこれ時代に関して考える傾向がありますから、平成生まれの若い衆たちにはまた別の見解があるとは思います(笑)。

 ちなみに、明治以降の元号だと、M(明治)、T(大正)、S(昭和)といった略号に、H(平成)が加わった感がありますが、今となっては元号で何年と言われてもピンと来なくなって久しく、”えっと、今年は平成何年だったっけ?”と指折り数えることが役所の公文書がらみでたまに生じていたりもするのですが、これが江戸時代となるとそもそもの暦が太陰暦になる上に和暦に途中で切り替わったこともあって元号で何年と言われてもピンと来る方がどうかしている気がしないでもありません。

 もっとも、明治以降でも、元号、紀元、西暦の3つの年で話をする時期があっただけに、”どないせいっちゅんじゃい!”と言いたくなることがありますが、ま、大正から昭和一桁生まれくらいまでの人しかピンと来ない話かもしれませんな。

 そういえば、戦前の新聞などで日本語を横書きにするときに、左から右ではなく、右から左へと書いていることがあり、これは平成生まれあたりが”どないせっちゅんじゃい!”と叫びたくなる話かもしれませんが、これは現在でも船体に書かれた船の名前などに残っている書き方ですから完全に途絶えた風習でもなかったりはします。

 つまり、”いろは丸”と船体に書いていることもあれば、”丸はろい”と書いていることもあるということで、日本語の横書きは右から左へ横書きすることもあると知っていてもとまどうことがままある書き方ですが、どちらが正しいのか?と聞かれれば、考え方の違いということになります。

 左から右へ横書きするというのは、これは英語など欧米の横書きに準じた書き方ですし、右利きの人が文字を書く場合に墨やインクなどを手のひらでこするリスクが低い書き方になることは御存知の通りですが、アラブ圏の言語には右から左へ書く言語もあることは比較的知られた話になります。

 では、なぜ戦前までの日本で横書きにするときに、新聞の見出しなどを含めて、右から左へ書くことが珍しく無かったのか?というと、実はこれは純粋な横書きではなく”縦書き”を一文字ずつ書いているから右から左へ文字が並ぶことになるというのが定説で、まあ、そう言われてみればそんなもんかなという典型事例かもしれません。

 ただ、これが江戸時代を舞台にした時代劇となると話が一気に怪しくなり、泥棒が忍び込む豪商という設定で”伊勢屋”が登場する場合に、”屋勢伊”と横書きされた看板が店の正面の軒下や屋根のあたりに飾られていたりする ・・・ ある意味でとても設定が分かりやすい ・・・ ことが、ままあるわけです。

 もっとも、さらに分かりやすく”伊勢屋”と左から右へ書かれている横書き看板がアップになることもあるのですが、そもそも論で言えば、少なくとも江戸時代の江戸の町の商家で木製の横書きの看板を屋根などに設置していることの方が稀で、いわゆる”洒落看板”の類にしても縦書きが前提になっていたようです。

 というのも、江戸時代の識字率とも絡むのですが、江戸時代は手習いや寺子屋で庶民教育が次第に盛んになっていったのは確かな話ですが、その識字の水準に関しては諸説ありますし、都市部よりも田舎になればなるほど識字率も下がり識字の水準も下がる傾向があったりします。

 この江戸時代の庶民はどのくらいの識字水準だったのか?という疑問に関しての具体的な資料は、明治に入って全国一律の基準で義務教育が実施されるようになったあたりの調査資料が最古の確かな話になると考えられますが、惜しむらくは一斉の全国の識字調査ではなかったようで、一部の地域で実施された調査記録が現存する程度になるようです。

 故に、大枠の話になりますが、明治初期というか江戸時代末の農山村の識字率はそれほど高いものではなく、数字、自分の名前、居住している村の名称が書けない人が30~40%程度で、それくらいは書けるという人が40%程度となり、農山村の住人の8~9割程度の読み書きの水準というのはその程度だったと考えられます。

 逆に言えば、最上位水準の法令布達や新聞が(理解して)読める人の割合は2%程度、手紙や証書が書ける人だと4%程度、出納帳をつけることができる人で15%程度だったということですが、戦国時代の末から江戸時代初期の辺りまでの農山村の識字率に関しては10%という説(”農人などには文字の読めぬ者、十人に九人あり”)がありますから、農山村に関してはさほど識字率や識字水準が変わらないか微増程度で明治を迎えたことになります。

 ちなみに、”百姓に学問はいらない”という風潮は、田舎だと昭和も50年代の中頃くらいまでは残っていた考え方で、高等教育に金を使わなくても義務教育を終えたら直ぐに百姓仕事をさせても十分に食べていけるというか、学問をさせると理屈をこねて働かなくなるから学校へ行かせる必要は無い云々と主張する人が珍しく無かった時代もあったわけです。

 もちろん、生まれ故郷を出て都会で働くとなると、現在でも読み書きができなければ就ける仕事も限られますし、実入りのよい仕事にありつこうと思えば読み書き算盤の水準が高いにこしたことはないのは江戸時代でも共通していた傾向ですが、子供に学問をさせたくても金銭的な余裕がある人が限られていたこともありますし、江戸時代の庶民教育の代名詞が”寺子屋”や”手習い”であることからわかるように、寺の僧侶など宗教関係者が庶民教育の主要な担い手だったことを考えると、教える人や教育施設の絶対数が不足していたことも考慮する必要があります。

 興味深いのは、同時期の西洋では日本の庶民教育以下の識字水準だった国や地域の方が多いことと、基督教の教会関係者などが少なからず庶民教育を支えていたことですが、産業革命が生じた辺りから庶民への公教育に関して、その資金を負担することになる富裕層を説得する理屈として”庶民を教育することで、新しい技術の習得が容易になり作業効率などが上昇するので産業競争力が増加し、教育水準の低い他国よりも産業生産に関して優位となり、結果的に富裕層にとっても得になる云々といった理論が登場していることかもしれません。

 もちろん、明治に入ってからの、”富国強兵”や”殖産興業”を下支えする社会インフラとして庶民の知的水準の向上として義務教育の整備が急務と考えられた理由もそのあたりにあり、さしあたって”欧米列強の庶民教育”の水準に追いつけ追い越せともなったわけですが、そこで問題となったのが男尊女卑の風潮で、それこそ”女に学問はいらん!”という主張は平安時代に遡ることが可能だったりします。

 あの、自慢たらたらな部分があることで知られる”紫式部日記”において、後発の紫式部が宮中で才女として知られていた清少納言を念頭にしているのか”自分は難しい文字(漢字)は読めて理解できても分からないふりをしている云々”とやらかしているのは比較的知られた話で、女性は知っていても知らないふりをする方が上だという考え方が既に(少なくとも紫式部を教育した人には)存在していたことがわかります。

 まあ、この手の自分の才覚について才女と呼ばれた女性が書き残す場合は、”(文字などを教えた)父親が、私が同じように教わった兄弟よりも覚えが良かったことから、この娘が男子であればと嘆いた云々”とやらかしていたりもするのですが、その辺りから分かることは、いわゆる”学問”は男社会でこそ立身出世に繋がる技術と考えられていて、女性が学問をしてもそれを生かす場所が極めて限られたまま推移し、第二次世界大戦の敗戦後の教育改革や社会制度改革で多少なりとも改善されるようになったと言えます。

 男尊女卑を前提とした社会制度というのは、日本の場合は”儒教”の考え方が前提となり、江戸時代に200年くらいかけて定着していったわけですが、武家や商家などで表(男社会)と裏(女社会)の区分けが徹底していたあたりが知られていますが、単純に男社会に女性が参加しにくく口も出しにくいというのではなく、女社会に関しても男性が参加しにくく口も出しにくくなっていたようです。

 故に、商家で店の店頭で来客に湯茶を出す場合、奥でお茶の用意をすることはあっても(それが女中であっても)女性が表で給仕することは皆無に近く、小僧や丁稚あたりが給仕するのが普通とされていたように、社会生活における男性と女性の棲み分けや役割分担が明確だったが故に、時代劇で茶屋でもない普通の商家の女性に湯茶を来客に給仕させていれば、それは劇中の演出と考えた方がよい事例になるわけです。

 実際、一定の年齢になれば、祖父と孫娘といった身内の関係であっても男女で外出することが稀な話になるあたりにも反映していますから、舞台を江戸時代に設定していながら妙齢の女性が(成人している)男性を同道したり連れ歩いている光景というのは、無かったとは言わないまでも稀有な光景ということになりますし、外出中に夫婦であっても並んで歩くのではなく少し離れて歩く風習があったのも、同道しているのではないという言い訳っぽい建前がそこにはあったようです(笑)。

 もっとも、なぜ自分たちがそういったことをやっているのか?を理解して行っていた人は江戸の昔も少数派だったようで、上流階級の風習が次第に社会というか中間層あたりまで広まってまねされるようになっていったと考えられますし、高札で日々の生活の立ち振る舞いなどを規則化したものを布告したところで、地域によっては8割前後の人にとっては”何が書いてあるのかわからん!せめて全部をひらがなかカナで書いてくれ!”という人の方が多かったのも江戸時代の現実なわけです。

 

・山口田布施とは平家の落人と大内氏の子孫が暮らす朝鮮系部落である。
・薩摩田布施高麗ともいえ島津氏が連れて帰った李王家の末裔たちである。
・戦後の日本ではGHQにより焚書坑儒がなされた。

南京大虐殺がなかったという右翼論者もまた嘘つきであり、幕府山事件、スマイス調査、日中歴史共同研究、なども見ればよい。しかし誇張説も説得力がある部分とない部分があり、中国の研究者でも30万人虐殺を否定している研究者が存在する。


書論(別1) 和様を捨てた明治政府が作った酷い江戸時代

和様を捨てた影響が…酷い歴史教育に

明治政府が、和様“御家流”から唐様に書き文字を変えたことで、私達は江戸時代の文献を

読めなくなりました。

さすがに研究者はそんなことないだろう…いや、とんでもないことになっていたのです。

士農工商」も嘘、江戸時代の歴史があやしい

1990年以前に歴史を勉強した人は、江戸時代は身分制度や六公四民(6割が年貢)などで

庶民が苦しみ、江戸時代は暗い時代だったようなイメージを持っています。

しかし、近年、江戸研究が進んだ結果、江戸時代の庶民の暮らしは豊かだったようです。

なんと驚くことに「士農工商」という身分制度が存在せず、現在は教科書には非掲載です。

こんな重要なことを、調べず、否定せず、事なかれ主義で、ずーと教育してきたわけです。

同様に「慶安のお触書」も現物が発見されておらず、現在は教科書に載っていません。

これは、明治政府江戸幕府のイメージを悪くするために利用した可能性があるのです。

さらに、江戸時代の公式書体の和様“御家流”から唐様にしたため、江戸の文献に触れにくく、

明治政府の江戸否定に大きく貢献してしまったのです。


つくる会教科書の虚構を暴く】

④百姓の休日の過ごし方ー流入する都市文化

 では江戸時代の百姓は、休日をどのように過ごしたのか。教科書があげた「獅子舞や相撲・踊り」というのは、村の神社の祭礼の時のことであった。そしてこれらの興行は、都市の文化そのものであったのだ。
 中世編の23:「『家』と『一揆』の共同意識をつくりだす集団芸能の時代」の項ですでに述べたことだが、すでに室町時代後期において、自治の場としての村や町は、都市で発達した連歌や能・狂言などの集団芸能を受け入れ、各地の村や町には、都市の芸能者が興行あるいは芸能の教授の為に訪れ、能や狂言の興行は、村や町の共同体としての祭りに欠かせないものとなっていた。中世後期におけるこれらの芸能の興隆は都市が支えただけではなく、都市と密接に繋がっていた村や町によっても支えられていたのだ。都市と地方との文化交流。これはすでに中世において盛んであった。
 この傾向は、村や町が自治の場として継承された近世においても続いていた。だからこそ、近世の村でも、村の共同体の儀礼としての神社の祭礼に、都市から多くの芸能者が招かれ、そこで興行をはったのだ。ただしその芸能には変化があった。近世初頭に、従来の能・狂言やさまざまな舞などから、人形浄瑠璃や歌舞伎というより大衆的な芸能が生まれ、これが新たに村にも広がったのだ。そして近世は、中世以上に各地に都市が生まれた時代である。中世においては芸能の供給地は京の都しかなかったが、近世においては京の文化が地方の新興都市にも広がり、新たに生まれた城下町例えば江戸を拠点として、地方の村にも広く文化が普及したのであった。そして各地の村で、村人による狂言や歌舞伎の教習と自主上演も盛んに行われたのである。
 さらに教科書は記述しなかったが、近世の村には、さらに多くの都市文化が流入していた。それは、一つには都市で芽生えた浮世絵やお伽草子の流入であり、連歌から生まれた俳諧の流行であった。村にも都市の俳諧師に師事して俳諧を学ぶものが増え、村の中で俳諧の同好会が開かれるようになった。平和と豊かさの享受が、こうした文化の発展を支えたのである。だからこそ松尾芭蕉が、各地の俳諧の弟子筋を頼って各地で俳諧の会を開きながら、諸国見物という旅行をすることも可能なのであった。そしてこのようにして村に広がった都市文化には俳諧以外にも、立花やお茶、そしてこの時代に新たに広まった盆栽づくりや花の栽培などの新しい文化のサークルも村に出来た。
 またこのことは、先に農書によって新しい農業の工夫が広がったことで示されたように、村においても識字率の向上と、文字文化が広がったことをも示していた。百姓が商業に従事することは文字の読み書きが必須条件になっていたのだ。それゆえ各地に寺子屋ができたし、寺子屋と言う学校が設けられなくても、村の識字層である庄屋や大商人や職人の家に村の子供たちは通い、文字の読み書きを習っていた。したがって村には都市から多くの書物が持ちこまれ、それは先の浮世草子やさらに旅行の流行を背景とした各地の名所案内などの大衆的な書物だけではなく、儒学や医学、さらには歴史の書物まで多種多様な書物が持ちこまれ、この背景には、都市から村へ本を運ぶ貸し本屋の登場があったのだ。こうして村にも、近世になって発展した儒学や医学などの学問に従うものが生まれ、農業を科学的に考察することや村の歴史を探求する活動も生まれた。そして、こうしたことを背景として、近世後期には、村にも国学や様々な実学を修め、国の行く末を案じ、実際に藩政改革や幕政の改革にも携わる人々を多数輩出することとなったのである(「つくる会」教科書がのちにコラムで紹介する二宮尊徳はその典型である)。
 さらに教科書も記述したように、農閑期には村人は各地の神社仏閣の参詣に事寄せて、旅行すら楽しんだのだ。これは近場の神社仏閣のご開帳に足を運んだり、このころ各地に作られた様々な花の名所を訪れたりという、日帰りの散策だけではなく、お伊勢参り金毘羅参りといった、全国的に信仰を集めた寺社に参詣し、その旅の途中で、各地の名所旧跡や寺社を訪ねるという長期の旅行まで含まれていた。このような旅行の機会を通じて、村に都市の文化が持ちこまれたのである。
 またこの長期の旅行を実施するにあたっては、村の中に講という組織をつくり、村人が継続的に旅行費用を積みたててそれを運用することによって、毎年交代で複数の人を長期の参詣に送り出すと言う、集団的取り組みをも背景にしていたのであった。
 このように近世の村人は、さまざま趣味の活動によって余暇を楽しんでいたのである。
 近世の村の百姓の暮らしは、従来認識されていたよりは、はるかに豊かなものであった。そして全国的に商業網が広がることによって都市と村とはより緊密に繋がり、近世における都市大衆文化の発展は、都市の背景にある村の発展によっても支えられていたのだ。近世とはそういう時代だったのだ。「つくる会」教科書は、近世の百姓の豊かなくらしぶりを比較的よく記述しているほうであるが、もっと具体的に記述してもよかったであろう。そして、残念ながら都市文化の発展を記述した「元禄文化」(p142)「化政期の文化」(p160・161)にも、都市と村との交流の中で都市大衆文化の発展があったことは示されていない。

注:05年8月刊の新版では、この「農産品の生産」の項は大幅に記述が削減されてしまった。すなわち、第3節「産業の発達と三都の繁栄」という項の最初に「大開発の時代」という項が設けられ、そこに旧版の「大開発の時代」の末尾に、簡単に記すだけになった(p110)。すなわち、「各地では、染料のもととなる藍や紅花、麻、綿、菜種などの商品作物の栽培が広まり、養蚕もさかんになった」という記述である。このように記述が削減されたことにより、木綿や生糸の自給が始まったことも、村の人々の豊かな暮らしぶりも全て削除されてしまった。村の暮らしの豊かさについて比較的詳しく記述し、近世という時代の特色に迫れる優れた記述であっただけに、削除されたことは大変残念である。


(1)「新しい学問」発展の背景を民衆の教育水準の向上にのみ矮小化した記述の誤り

 「つくる会」教科書は、この小項目で四つの新しい学問・思想を取り上げている。
 一つは、石田梅岩の心学であり、二つ目は本居宣長国学とその社会的展開、さらに三つ目には「解体新書」の訳出事業に代表される蘭学とその社会的展開、最後に四つ目として、安藤昌益の思想と学問を取り上げている。
 それぞれの学問・思想の取り上げ方については別途詳述するが、最初に見ておきたいことは、これらの新しい学問・思想が生み出された背景を、「つくる会」教科書はあまりに狭く捉えていることである。
 教科書は次のように記述する(p164)。

 18世紀の諸産業の発展により、帳簿の整理や遠隔地との取引のために、民衆にも学問が必要となった。各地に寺子屋が多数つくられ、多くの子どもたちが読み書きやそろばんを身につけ、民衆の教育水準が向上していった。
 その結果、全国各地で、町人や農民の生活に即した新しい学問が花開いた。 町人たちに勤勉と倹約を説いた京都の石田梅岩の心学は、その代表的な例である。
 こう記述して、教科書はそのまま続けて本居宣長国学の説明に入り、さらに行を改めて、蘭学の発展や安藤昌益の思想についての説明に入っていく。
 そして教科書は欄外の資料として、渡辺崋山の「一掃百態」から寺子屋の図を掲載し、注として「寺子屋の数は全国で1万ともいわれた」と記述した。
 しかしこう記述してしまうと、心学や国学蘭学などが勃興してきた背景をあまりに矮小化した捉え方になってしまい、結果として新しい学問・思想が生み出された時代背景を全くつかめない誤った記述になってしまう。

①民衆にまで広がった高い教育水準-世界商業に繋がった日本近世社会の先進性の証明-

 たしかに日本近世社会は、支配階級だけではなく民衆にまで高い教育が普及していたことにその特徴の一つがある。

(a)「寺子屋」を通じた民衆教育の高さの実態
 読み書き算盤と呼ばれた教育は、早くも室町時代14世紀ごろには、自治的な都市や農村を束ねる勃興しつつある町衆などの商人階層や村における地主階層に広がっていた。彼らは商売や年貢の収納等において基本的な読み書きと計算の知識を必要としており、彼らの子どもたちが、寺に入って基礎的な学習を行い、読み書きと計算の知識を身につけて家に戻るということも、この時代に行われ始めていた。
 このような庶民階層への教育の普及を背景にして、15世紀後期には「節用集」と呼ばれる仮名引きの漢語辞書が生まれ、16世紀中ごろになると、「饅頭屋本」「天正十八年本」「易林本」と呼ばれる印刷本も作られて普及していたのだ。
 そしてこの傾向は江戸時代に入っても拡大を続け、17世紀・18世紀初頭の急速な商工業と商業的農業の拡大によって、庶民のための教育機関としての「寺子屋」は全国に次々と設立されていった。
 「寺子屋」の数は、宝暦年間から安永年間(1751~81)にかけて急激な増加を見せ始め、天保年間(1830~44)になるとその数は、安永年間(1772~81)のそれに比べて47から100倍という急増ぶりであったといい、「日本教育史資料」によれば、その数は1万5000校にものぼったという。
 そしてその教育内容は、手習いと算盤であるが、手習いは初歩的な文字の学習に留まらず、実用的な知識や教訓に至るまでかなり高度な内容も含まれていた。
 最初はいろは文字や方角・数字を覚えると、次には教科書を用いた学習が入ってくる。
 「寺子屋」で使用された教科書はかなりの種類に及び、それらは総称して「往来物」と呼ばれた。。
 「名頭字尽」という源平藤原氏に始まる姓名を網羅した書物で漢字を学び、さらには、「村尽」「郡尽」「国尽」という書物によって、近在の村々や町の名、さらには全国68ヶ国の国の名を覚えると共に、「江戸往来」などの書物によってかなり広範囲の地理の知識も学ぶ。ここまでが大部分の子どもたちが学ぶ基礎的な範囲である。
 そして更に学習が進んだ子どもたちは、もっと実用的な知識や教訓を学ぶ。
 それは、手紙文を集めた「消息往来」によって書簡文の実際を学ぶことや、「古状揃」と言って歴史物語を集めたもの、さらには、「商売往来」や「諸職往来」といった、様々な職業に関する知識を集めた本から、「実語教」「童子教」といった、仏教や儒教の経典から様々な文を集めて漢詩仕立ての五言にして多くの教訓的な文章を集めたものを通じて、行儀作法や言行の戒めや、子弟のあり方から父母への孝養など、生きていく上での様々な仕来りや作法や教訓を学ぶものまで多岐にわたっていた。
 また塾によってはさらにこれに加えて漢学の素養を取り入れていた所もあり、「小学」や「論語」「孟子」「春秋経」「詩経」など、漢学の初歩まで学んだ庶民も多くいたのであった。
 こうした初歩的な教育機関に、多くの子どもが7・8歳で入塾し、13・4歳で退塾するまでの一定の期間を、それぞれの必要や家の財力によって年限の長短はあるものの通っていたのが、近世江戸時代であった。
 だからこそ江戸時代は、従来の通説とは反して、文化活動において、多くの庶民が活動していたのである。
 このことはすでに、近世編1の【20】において、江戸時代初期にすでに多くの百姓によって農業技術を記録した農書が出版されていたことや村にも能や狂言や歌舞伎、さらには仮名草紙・連歌・俳諧が流行していたこと、近世編2の【24】で松尾芭蕉の旅を支えた多くの門人俳人の中に、たくさんの商人や百姓が含まれていたこと、さらに【25】では元禄文化の高揚の背景には旺盛 な出版文化があったことなどを指摘してきたが、これらの活動の背景には、近世江戸時代初頭からの庶民への教育の普及が背景にあったのだ。
 実際、元禄期に一世を風靡した井原西鶴の好色本は、江戸時代を通じて何度も版を変えて流布したのであるが、次第に大坂と江戸のような遠隔地の本屋の合板になっており、これは書店どうしが連携して、大都市だけではなくその周辺の農村地帯にも出張販売を行っていたことを背景としたものであることが指摘されている。
 ではどのぐらいの数の子どもたちが「寺子屋」と呼ばれた学校に通っていたのだろうか。
 残念ながら全国的な統計は存在しないが、のちの女性史のところで言及するが、「三くだり半」と総称されるほぼ同じ書式を使った離縁状が全国的に行渡っていることから、庶民における識字率がなかり高く、「寺子屋」においては、全国的にかなり共通した教科書が使用されていたことが推測できる。また地域的に限られた研究ではあるが、近江五個荘町の手習い塾には周辺地域の90%の子どもが通塾していたことが確認されており、地域的にはかなり高い識字率になっていたことがわかる。
 さらに、1781(天明元)年に広島藩儒者に登用された頼春水(1746‐1816)は、藩体制が揺らぐ中で、その建て直しのためには、「正学」である朱子学によって藩士だけではなく民衆も含めて教育することで、民衆までも藩主を頂点とする秩序のなかに統合できると考え、藩校の下に、藩校と連携した藩校の分校としての郷学をもうけ、さらに寺子屋(手習い塾)の半公営化まで構想していたのだが、このことは広島藩域における寺子屋(手習い塾)の普及の程が、かなりの程度に及んでおり、大部分の百姓・町人の子どもたちがここで学んでいたことを示唆している。
 江戸時代の庶民の識字率はかなり高かったのだ。
 この意味で庶民の間に読み書き算盤の教育が普及していたことを指摘した「つくる」会教科書の指摘は正しい。

(b)民衆の教育水準が高い背景-重商主義時代の自治の社会の進展-
 ただしこの背景を、単に「18世紀の諸産業の発展により、帳簿の整理や遠隔地との取引のために」庶民にも学問が必要となったとしたのでは、視野が狭い。
 これまで近世編1や2、そして本巻で指摘してきたように、近世江戸時代は、平和で商取引の活発な時代であった。
 幕府によって外国貿易には一定の制限が加えられていたものの、外国からは多くの文物が流入するとともに、それらの国産化や、さらには貿易による金銀の流出を抑えるために、外国への輸出品が積極的に開発された時代であった。それとともに、250を越えた諸藩はそれぞれ独立国として、藩の安定を図るためにも藩外からの流入品の国産化や藩の特産物の全国的販売にも力を入れており、この意味で近世江戸時代の社会は、世界交易に直結した重商主義の時代であった。
 そして長い間戦乱がなかったために、武士だけではなく百姓町人に至るまで、それぞれが家の存続を図ることができるようになり、それぞれの家の存続のための家職を確立していった時代であった。
 そして同時に近世江戸時代は、従来の通説に反して、農村と都市との人口移動がかなり自由であり、百姓と町人、百姓町人と武士との間の、身分間の移動も、実際にはかなり存在した。
 ある意味でこれは、個人がその才覚によって財を蓄え、身分を越えて出世できる社会であったのだ。
 だから人々は学問をした。学問をすることで社会をより容易く泳いでゆける、家を未来永劫にわたって存続していけるという観念が生まれていたからだ。
 と同時に近世江戸時代は、多くの天災が人々を襲った。
 そして江戸時代の人々は、近世編2の【26】の二宮尊徳で見たように、個人の勉励努力によってそれを乗り越えようとする傾向の強い人々であった。
 そのようにすることが道徳的もすばらしいことだとする儒学の教養が人々に行渡っていたことにも、それはあるだろう。
 この意味で江戸時代において庶民の間に教育熱が高まっていたのは何も18世紀以後だけではなかったのだ。
 むしろ18世紀は産業の発展が急速であったと同時に、その時代以後は飢饉に典型的なように、天災が次々と人々に降りかかった時代であった。この時代には、藩の経済も次第に立ち行かなくなり、武士の生活が窮乏化するとともに、藩における藩学の確立に見られるように、武士の統治自体を安定化させるために、統治者としての武士の意識の確立が叫ばれ、多くの藩において、武士の子どもたちを教育する藩校が次々と作られていった時代である。
 ちょうど時を同じくして、村や町でも「寺子屋」が数多く生み出された。
 この背景は、「つくる会」教科書が指摘した産業の発展が生み出した必要性だけではなく、百姓や町人も、武士による統治の強化と搾取の強化に対抗して、いかに自分たちの生活を守るかという意識から、子どもたちのより多くの知識と教養を身につけさせようとしたのではないだろうか。近世編2の【29】において、この時期に村の自治拡大の動きが広まり、従来村の地主層のみに任されていた村の自治を、小前百姓と呼ばれる小百姓にも開放するべく、村役人たちの会計帳簿の不正や年貢割付の不正が次々と暴かれ、村役人の選任が、本百姓だけではなく小前百姓も含めた広範な層による選挙へと変化していったことを見てきた。
 この動きは打ち続く天災と藩による搾取の強化に対抗した動きであり、村役人の不正を暴く力が小前百姓にもあったということは、彼らにも読み書き算盤の知識が広がっていたことを示している。
 こうした近世編2や本巻で見てきた危機の時代への突入と言う意識も、「寺子屋」の急激な増加という現象の背景にはあったに違いない。
 このことは先に見た寺子屋の増加傾向を示す数字において、天明の大飢饉天保の大飢饉を経た天保年間の寺子屋設置数の増加の勢いが急激であることが証明している。
 民衆の教育水準の高さは、近世江戸時代の社会が世界商業網に直結した重商主義のなかにあったことと、その社会が武士による封建的支配で統治されていただけではなく、極めて強固な村や町の自治によってその封建的統治は支えられもし侵食されもしていたという時代の性格に起因していたのである。

注:なお江戸時代における庶民の教育機関を「寺子屋」と呼ぶと言うのが通説であるが、こうした庶民向けの教育機関の教師は僧侶であることよりも、多くは神官・医者・浪人などの知識人であり、さらには百姓や町人であることも多く、一般的には「手習い所」と呼ばれ、生徒のことは「寺子」であるよりは、「手習子」とか「筆子」とかおばれていたことを付記しておこう。

注:なお。05年8月刊の新版では、百姓町人への教育の普及の問題の記述のあとに、次のような一項が挿入されている。すなわち、「いっぽう、武士の子弟は藩の設けた藩校で、儒学などを学んだ」と。つまり教育の普及は、百姓町人だけではなく武士階層においても同じ傾向があり、それは藩の主導権下において計画的になされたということが記述されたのだ。これは必要な追加である。しかし藩校が設けられた背景は、単に「産業の発展」だけではなかったことは全くここでも記述されていない。藩校は早い藩では17世紀に遡るが、多くの藩で設立されたのは後の時代で、しかも一定の時期に集中している。藩校設立ラッシュの時期は、宝暦年間(1751-64)から天明年間(1781-83)の時期である。この時期には全国の多くの中・大藩で藩校が設立されたのだが、その背景は、藩財政の危機の克服と藩の再建を図る上で有能な官僚としての武士の養成が必要になったからである。そしてこの傾向は次の寛政年間(1789-1801)にも続き、この時期には朱子学に基づいた藩の施政方針である藩是が確立され、これに基づいた計画的な教育課程が導入され、藩校の確立が藩論の統一の手段として認識されていった時代であった。つまり藩の危機が深刻化する中で、国家としての藩の統一のためには、為政者である武士層の意識や知識の統一が必要とされ、そのためには計画的な国家による教育が不可欠であるとの認識が広まったのである。そしてこのことは本巻の【31】寛政の改革で見た、湯島聖堂昌平坂学問所の確立へとつながる。さらにこの時期に、先に見た広島藩でのように、国家としての藩の統一のためには、武士層だけではなく、百姓町人までもがその担い手として統一した意識と知識の担い手として確立されねばならず、近代の入り口にあって国民意識の統一がなければ国家の確立はないという認識が広まった時期でもあった。これは要するに、明治維新において、国民国家日本の建設のためには、均質な意識と知識をもった日本国民の形成が必要であり、そのためには国家による計画的な教育が施されなければならないという認識で教育制度が次々と確立されたわけであるが、その先駆け的な意識と取り組みが、すでに天明年間に行われていたことを示している。そしてこうした国家としての藩の確立のために藩校建設が進められる傾向はされに次の時代・天保年間(1830-44)にも続き、この時期には小藩にも次々と藩校が建設されていった。ようするに武士層での教育の普及も、危機の時代への突入という背景があったわけであるが、残念ながら「つくる会」教科書の新版でも、このような次の時代につながる認識が希薄であることは残念である。

②新しい学問を生んだのは内外にわたる危機の時代への突入

 しかし庶民への知識の普及が直接的にさまざまな新しい学問を生み出したわけではない。むしろその背景となる基盤と言ったほうが正しい。
 詳しくは以下の諸項目に譲るが、「つくる会」教科書が扱った新しい学問の個々を検討してみると、それを生み出した直接の背景は危機の時代であったことは明白である。

(a)バブル崩壊と諸藩の財政危機を背景に生まれた石門心学
 石田梅岩(1685‐1744)の心学が生まれたのは、近世編2の【26】で見たように、1727(享保12)年から1744(延享元)年であった。この時代は江戸時代初期の経済成長絶頂期である「元禄バブル」がはじけ、これまでの官による公共投資に依存した商業からの脱却が図られた時代であった。
 諸藩は、幕府政治安定の課程で、それぞれの居城の周りに巨大な都市を建設すると共に、江戸や京都大坂につながる街道沿いに藩内の交通ネットワークを建設したり、荒地や海岸の開墾事業などを実施して領内の殖産興業をはかり、安定した収入の確立に努めてきた。しかし都市に集住し、行政官僚たる「公家」へと転進した武士層の生活は、次第に公家や都市の町衆の生活に染まってかなり贅沢となり、その上戦国期のままに膨大な家臣団を維持し続けたため、江戸時代初期の膨大な公共投資とそれに伴う借金と共に、次第に諸藩の財政は火の車になり、御用商人たちに用立てさせていた金子を次々と踏み倒していった。このため京や大坂の大商人の中には次々と破産し、身代を潰す者が出てきたのであった。
 だからこそ梅岩は、商人たちは大名に頼ることなく、自力更生によって商売を確立せよととき、商人の道徳として「質素倹約」「職分への忠勤」を説いて、商業を成り立たせてくれる人々への感謝に基づいた堅実な商いをすることを説いた のである。
 この意味で石田梅岩の心学の成立は、江戸時代初期の国家建設過程が一巡した後に起こった第一期の危機の時代が背景にあったわけだ。
 そして心学が、19世紀初頭には、69都町・28ヶ国に門弟が拡大し、その中には全国65の藩の大名まで含まれるほどさらに普及した背景には、江戸時代中期の天明から寛政の時期にいたる第二の危機の時代があり、心学が百姓町人への民衆教化の尖兵として利用されたことは、先に近世編2の【26】の石田梅岩の項への注(p220)で詳述し、本巻の【31】寛政の改革の項でも見たところである。

(d)打ち続く飢饉と民衆救済には無力な藩体制の中で生まれた反近代思想
 最後に安藤昌益(1703‐62)を見ておこう。
 彼が医者として八戸で活動したのは、1744(延享元)年から。そして1758(宝暦8)年には本家が断絶したので故郷の出羽国秋田郡二井田村(秋田県大館市)に戻り、安藤孫左衛門と称して本家を継いだ。しかしこの時故郷の村は宝暦の飢饉で疲弊しており、昌益は、酒食の費用がかさむ神事の停止など、村救済案を郷中に提案し実現している。そして彼が没したのは1762(宝暦12)年であった。
 彼の主著である「自然真営道」の刊本が出されたのは1753年(宝暦3)3月。その後も増補がなされ書き続けられていたようである。従って彼の思想が形成されたのは八戸時代から故郷へ戻る前の時代 、すなわち中心的には延享から宝暦年間である。
 昌益は、農耕こそ人の活動の基本であると説き、すべての人が直接自身で農耕を行って自分が生きるに必要なものは自分で作る「直耕」こそ、人のあるべき姿であると説いた。このため彼は、商人は最低限の物資の移動のためにしか必要ではなく、武士や大名、果ては公家や天皇すら、彼ら自身が何物も作ってはおらずただ消費するだけであるという根拠で、これらの人々は不要であると説いたのだ。
 彼の論は今日の言い方で言えば、極めて過激な農本主義であり、封建的社会・政治制度を否定する反近代の思想であった。
 残念ながら昌益がこのような思想に到達した背景は解明されていない。
 それは或いは医者としての彼の模索の中で生まれたものであるとか、彼より少し先の時期の中国で生まれた農本主義思想に感銘を受けたことがきっかけであったとか様々な説が行われている。しかし確実なことは、彼が自己の思想を明確な形で世に問うたのが、主著「自然真営道」を刊行した1753(宝暦3)年であったという事実である。
 宝暦年間の東北地方は毎年打ち続く飢饉で疲弊していた。しかも彼が町医者として活動した八戸を治める八戸藩は、飢饉が予想されたにかかわらず、江戸での米の値段の高騰に目がくらんで、郷内の米をかき集め、さらには城内の飢饉に備えた米すらすべて江戸に廻送して売り払ったのだ。従って八戸藩では、飢饉が到来したとき、藩内にそれに備えた食料はほぼない状態であった。そのため百姓町人に多数の餓死者を出しただけではなく、武士層にまで多数の餓死者を出したのであった。
 安藤昌益が「自然真営道」を刊行したのは、まさにその直後であった。
 彼がその思想を世に問うたのは、まさに為政者の間違った政治が、人々を飢饉という形で苦難に突き落としているその現実を見たからであった。
 こうして彼の過激な反近代の思想は、百姓町人の上層だけではなく、藩の重臣の中にも一定程度の共鳴者を見出して行ったのだ。
 安藤昌益の思想の広がりもまた、危機の時代を背景としていた。

 以上簡単に見てきたように、江戸時代中・後期の新しい学問の発展は、その背景に内外にわたる危機の時代への突入という時代背景があり、その中で人々が、社会・国家の新たな構成原理を追い求めている時代背景があったからである。
 この事実を見ようとしない「つくる会」教科書の記述姿勢には、おおいに問題がある。
 最後に一つ、なぜ「つくる会」教科書が、江戸時代中後期の新しい学問の発展の背景を、庶民の間での教育の普及という側面だけに限定したのかという問題を検討しておこう。
 それは、ここで取り上げた人物の多くが庶民の出であったからではなかろうか。
 すなわち、石田梅岩は百姓出身の木綿商人であり、本居宣長は木綿問屋の跡取り息子として生まれ、商人を継がずに医師になった。さらに伊能忠敬(1745‐1818)も問屋商人であり隠居してから学問をした人物。最後に安藤昌益もその来歴は百姓の家に生まれたが飢饉に伴って一家で村を捨てて町に出て、彼は百姓ではなく医師になった人物であった。このことから、「つくる会」教科書の執筆者たちは、新しい学問は庶民の間での教育の普及が背景にあると捉えたのではないだろうか。
 たしかにこの側面もあることは先に見たとおりである。しかし新しい学問の担い手は庶民だけではなかった。
 本居宣長はその家の遠い先祖が武士であり、尊王の念の篤い伊勢国司北畠氏に仕えた武士であったことから、血縁はないにも関らず先祖の名の本居を名乗ったものであり、彼は意識としては統治階級である武士であった。そして彼の門人は、当初こそ松阪の有力町人層に限られていたとはいえ、次第に彼の親族でもあった伊勢神宮の神官や、尾張紀伊、そしてはるか遠くの諸藩の神官や武士にまで拡大し、彼の人生の晩年には有力大名も門人に加わり、彼自身が紀州藩の奥鍼医師として召抱えられ、武士身分を獲得している。さらに彼の学問の思想的側面を継承して国学を社会運動として拡大させた門人である平田篤胤は、秋田藩の武士の生まれであり、終生武士であった。彼の国学本居宣長に欠けていた儒教や仏教ではない新しい宗教、それも当時の仏教の影響を受けた神道ではない新たな神道をその学問の根幹に据えていたため、彼の国学は武士層だけではなく、諸国の有力百姓 ・豪農層や有力町人に広がったに過ぎない。
 また蘭学者として著名な杉田玄白前野良沢は武士身分であり、共に藩の奥医師であった。さらに平賀源内(1728‐79)も、もともとは讃岐藩の藩士であり、藩士を辞めて後は町人や医師などの蘭学者などと広く交友したが、彼の庇護者は時の老中田沼意次であり、彼自身が公儀や大名の依頼を受けて、様々な殖産興業のために、彼の蘭学本草学の知識を生かして活動した人物であった。そして 商人の隠居であった伊能忠敬が測量術を学んだのは、幕府の官僚でもある学者からであり、彼が全国を測量して正確な日本地図を作成したのも、幕府の依頼を受けてのことであった。
 このように教科書に挙げられた人物を見ていくだけでも、新しい学問の担い手は庶民だけではなく武士層、それも大名までも含んでいるのであり、ここからみても新しい学問の発展の背景は、危機の時代に入ると共に、庶民や武士を問わず、新たな社会・国家構成原理を求めた活動が盛んになったことにもとめられるのである。

注:05年8月刊の新版では、「新しい学問の発展」の背景に関る部分の記述が少し変更されている。すなわち、冒頭の、民衆の教育水準が向上した結果花開いた町人や農民の生活に即した新しい学問の典型として石田梅岩の心学を理解できるように、心学の紹介までの項の前段に入れ、心学の記述のあとで段落を改めている。つまり、本居宣長国学蘭学の発展、そして安藤昌益の学問などは、心学とは異なる背景から生まれたと理解できるように、文の構成を改めている。しかしなおこの版の記述でも、新しい学問の発展の背景には、内外に渡る危機の時代への突入という背景があったという認識は残念ながら示されていない。
 
 
(2) 古代の日本に理想を求め、現実社会を変えようと試みた本居宣長

 では、この新しい学問を一つ一つその性格や背景を検討しておこう。
 最初に、本居宣長国学を検討してみよう。

注:なお「つくる会」教科書ではその筆頭に、石田梅岩の心学を先のように挙げているのだが、この詳細な検討はすでに、近世編2の【26】の項でやってあるので、あえてここでは検討しない。近世編2の該当項目を参照されたい。

 教科書は次のように記述している(p164)。

また伊勢松阪(三重県)の医師本居宣長は、「古事記」など日本の古典の研究をとおして、儒教や仏教の影響を受ける以前の、日本人の素朴な心情を明らかにした。特に皇室の系統が絶えることなく続いていること(万世一系)が、日本が万国にすぐれてるゆえんであると説いて、国学を発展させた。国学は、平田篤胤によって町人や農民の有力者の間に広められ、尊王思想(皇室を尊ぶ思想)をつちかった。
この記述には大きな間違いはない。大筋では正しいと言えよう。
 しかしそれでも以下のような幾つもの問題点を孕んでいる。

宣長国学の背景も現実社会への影響力も見えない欠陥

 歌の研究を通じて古代人の考え方を探求しようとする国学は江戸時代中期からすでに広く行われていたが、本居宣長は、その始祖である契沖の学問の方法や、直接の師である賀茂真淵万葉集に依拠した古代語の復元を通じた国学の深化の成果を踏まえて、古事記日本書紀などの古代文献の研究を通じて古代人の考え方だけではなく、古代日本の国のありかたまで明らかにしようとしたところに、彼の歴史的な位置の一つはある。
 さらに彼はこれを明らかにするだけではなく、当時の為政者である、大名や老中、さらには公家や天皇に接近して、宣長の学問の成果を彼らに披露・論述講義することを通じて、彼の理想とする社会に現代をより近づけようと努力したことに見られるように、彼は単なる学者ではなく、社会思想家であり政治思想家として、現実社会の変革に実際に携わろうとした。その結果として彼の門人は先に見たように、町人だけではなく、諸藩の武士や大名、さらには公家天皇にまで及び、後世に大きな影響を与えたのであった。ここにも宣長の歴史的位置はある。
 この観点から見ると、「つくる会」教科書の記述は間違いではないが、幾つか欠陥が存在する。
 一つはこの記述では、なぜ皇室の子孫が続いていることが日本が万国に優れているのかがよくわからない。
 彼は天皇は、この世界を作った天地創造の神の子孫だと理解し、その神の子孫である天皇によって統治され続けた日本だからこそ日本は万国に優れているという思想、つまり神国思想を展開したわけだが、この点が明確でないのは問題である。ここを押さえないと、尊王思想が攘夷思想と結合していく後世のありかたが理解できないからである。
 「つくる会」教科書の執筆陣は、この教科書に古代において神話を重視し、天皇・皇室は天照大神の子孫であると強調しているのだから、それは説明するまでのことではないと考えたのであろうが、宣長古事記神代巻に書かれたその神話を事実と信じていたということを明記しておかないと、その神話を信じていない現代人からは、宣長の思想の意味がわからなくなるからである。
 そして第二に、この記述では、宣長がなぜ儒教や仏教の影響を排除した古代に理想を求めたのかがよくわからない。
 これは次の第三の問題にも通じるのだが、彼が古代の日本を明らかにしようとしたのには、彼の生きた現代日本に対する鋭い批判・疑問があったからだ 。そして問題点が続出している現実社会の指導理念とされていたのが儒教(とその教学である儒学)と 仏教(とその教学である仏教哲学)であったので、宣長儒教・仏教思想によるのではなく、それが入っていない古代人の心に添えと主張したのだ。宣長がいう「日本人の素朴な心情」とは、反儒学反仏教教学の考えに基づいて古典を読み解いて抽出した「古代の日本人」の心を意味している。
 こうしたことが度外視されると、彼の思想が現実社会に大きな影響を与えたことの背景も理解できなくなるからである。
 最後に第三には、ここが最大の欠陥だが、彼が現実の世の為政者に彼の学説を知らせ、現実の世の中のあり方を変えようと動いたことがまったく度外視されていることは問題である。またこの点においては、彼の門人が庶民だけではなく為政者に も及んでいたことを度外視したことで、まるで彼の門人は、彼の弟子の平田篤胤と同様に町人や百姓のような庶民であるかのような錯覚を読むものに与えかねない。もちろん篤胤の門人 の中核は、地方で財力を蓄え村政を掌握していた豪農層を中心としていたが、彼の弟子ももまた、宣長と 同様に、武士層にまで及んでいたことを度外視しているのも問題ではある。
 では、この観点に沿って、以下宣長国学について詳しく見て置こう。

宣長以前の国学-和歌研究を通じた古代人の心の復元

 まず、宣長以前の国学のありかたを確認しておこう。
 学問としての国学は、契沖(1640‐1701)によって始められた。
 彼はそれまでの鎌倉時代の新古今和歌集を理想としてそれに倣うだけの歌学を脱して、万葉集に依拠して古代語を復元し、それによって古代人の心に倣った歌を詠もうとした。ここにおいて初めて、古典を研究することで、古代の言葉の意味や使い方を復元して古の日本に迫る学問として国学は成立したのだ。
 この時古代の日本を知る史料として重視されたのが万葉集であったが、その方法論は、儒学の古典を、これが成立した中国古代の時代に即して解釈し、その時代の言葉の意味や使い方をつかんでその意味するところを復元し、儒学で理想とされた聖人の世を、後世の解釈ではなく当代のありかたのままにつかもうとした荻生徂徠の方法が転用されていることは重要なことである。
 つまり国学も、17世紀後期から始まった考証学歴史学の隆盛の傾向の中で生まれたのだ。
 しかし契沖の時代の国学は、歌の読み方として古代に戻るといったまでで、古代の日本の社会や国家のあり方を理想とするものではなかった。これは彼の活動期が近世江戸時代初期の安定・発展期であったことにもよるのであろう。
 この、後に宣長において体系化された、古代の日本の社会や国家のあり方を理想とする傾向を初めて見せたのが、賀茂真淵(1697‐1769)であった。
 真淵も和歌の研究に重点を置いていたが、より儒学批判の傾向を強め、「からの文」が渡来したことで日本人の心が失われているとし、それ以前の日本人の心をよく示すものとして万葉集が重視されたのであった。
 つまり真淵においては、万葉集を生み出した時代こそ、日本のあるべき姿だとする姿勢が強まり、社会や国のあり方として古代の日本を理想とする傾向が強まったのである。
 これは真淵の活動期が18世紀中期であり、世界経済の一翼として商工業が発展し社会が変容して封建制度に次第に合わなくなって様々な矛盾が噴出しつつあった時代に真淵が生まれおおせたからだといえる。
 だが真淵においては、古代の日本を描写した古典である古事記・日本書記の研究には着手されず、これは宣長において初めてなされたことなのであった。
 では宣長が生を受け成長した時代とはどのようなものであったのか。
 本居宣長(1730‐1801)が生まれたのは、1730(享和15)年5月7日。伊勢松阪の木綿商人小津家の跡取り息子としてであった。
 しかし彼が11歳になった1740(元文5)年7月に父親は病死し、家督宣長の義理の兄が継いだ。このため彼は、母や妹や弟とともに小津家の隠居家に移り、父が蓄えてあった資金 を隠居が持っていた店に預けて利子をとり、それで細々と暮らした。

注:宣長の父は小津家に婿養子に入り、妻が前の夫との間に儲けた息子を跡取りにしていたからである。宣長はこの妻が病死したあとにもらった後添えの妻との間の長子。

 彼が元服したのは15歳のとき、1744(延享元)年12月。
 家と江戸や松阪の店は義兄がすでに継いでいたので彼は翌年、江戸の叔父の店にいって商人修行をし、その後19歳のおりの1748(寛延元)年11月に伊勢山田の紙商人今井田家に養子に入り、紙商人となり独立した。
 しかし彼は商売人に向いていなかったようで、21歳の時、1750(寛延3)年12月に自ら申し出て今井田家を離縁され実家に戻り、翌1751(宝暦元)年2月、義兄の死によって家督を継いだが、商売に向いていないことを心配した母の勧めにより、翌1752(宝暦2)年、23歳のとき、医者になることを志して京都に上り、儒学・医学修行に入ったのである。
 そして宣長が一応儒学と医学を修めて松阪に戻ったのは、28歳のとき、1757(宝暦7)年10月のことであった。
 この京都遊学中に彼は、儒学者で師匠である堀景山より多くの儒学の古典を学ぶとともに、契沖の歌学にも触れ、契沖の古代語復元の方法を古事記日本書紀解読に応用してみると、当時の儒者神道家たちのいう古代日本とは異なった姿が見出されることに感銘を受け、京都時代に古事記日本書紀万葉集を研究し、松阪に戻った時にはすでに一角の国学者となっていたのだ。
 宣長は松阪に戻った翌年1758(宝暦8)年、29歳の時から源氏物語の講義を始め、さらに1762(宝暦11)年には万葉集の講義を始めている。そしてこの間に賀茂真淵の書に出会いその学識と学問に傾倒し、1763(宝暦12)年34歳の時に賀茂真淵に入門して古事記研究に着手し、早くも翌1764(宝暦13)年には、古事記神代篇の講義を始め 、主著「古事記伝」の稿を起こしている。
 さらに彼の古事記研究が実を結び、彼なりの日本神国論の骨格が完成したのは、42歳になった1771(明和8)年10月に「直毘霊」を書き上げた時であった。
 彼が生を受け、一角の国学者として名を成していった時期は、18世紀の中頃から後半期。これまでの諸章で見てきたように、まさに封建的支配を強化しようとする幕府・藩と商業的農業の展開によって得た利益を守ろうとする百姓とが激突して諸国で激しい一揆が勃発していた時代であり、ロシアを先頭とする欧米諸国による開国要求が高まった時代、内外に渡る危機の時代の真っ只中であった。
 そしてだからこそ日本の社会や国のあり方が様々に模索されている時期であり、彼が京都遊学を終えた直後の1757(宝暦7)年には、京都で公家や天皇日本書紀を講義し天皇中心の日本に戻れと主張した学者竹内式部の行動が幕府に問題視され、翌年彼は京都を追放されるに至っている。
 さらに宣長が生きた時代の後半には、1779(安永9)年に天皇家傍系の宮家から即位した光格天皇によって朝権の回復拡張を図る動きが起きており、このような動きがお上から起きていることは、宣長の日本神国論を喧伝し、世の中を理想とする古代により近づけようとうする動きに勇気を与えたことであろう(この動きについては、本巻の【31】で詳述した)。
 このような時代に国学を深めた宣長はやがて、彼の神国論に基づいて現実を変えていこうとしたのである。
 では次に彼の思想の特徴を見ておこう。

天地創造の神の子孫が統治する神国日本-宣長の「信仰」としての神国思想

 宣長の思想の特徴は、主著古事記伝の中核的思想を示した「直毘霊」によく示されており、これを実際政治に生かそうとして大名に献上した「玉くしげ」には、彼の思想を実践し日本を変えようとする彼の方法論が示されている。さらに彼の思想を批判した同時代の国学者である上田秋成との論争書である「呵刈葭(かかいか)」には、彼が提唱する神国論は、科学的論証ではなく彼の信仰であることがよく示されている。
 ではこれらの書を概観することを通じて、本居宣長の思想を見ていこう。

(a)特徴的な神のとらえかた-天地創造の二神とその子孫の太陽神による統治
 宣長は、1787(天明7)年に紀州藩主徳川治貞に、その諮問に答えて政治のあり方を説いた書「玉くしげ」を献上した(これは出版されず、ずいぶん後になって出版されたので「秘本玉くしげ」と呼ばれてきた)。その際「玉くしげ」では宣長は、君主が古の日本の「道」に沿って政治を行うべきだとしてそのあり方を具体的に提言したのだが、その「道」そのものについて詳しく記した別本をともに献上した。これは、それ以前に、おそらく尾張藩士に藩主献上の書として道のあり方を示した書が欲しいといわれて書かれたものであろうが、こちらの方も「玉くしげ」と題されていた。
 この別本の冒頭で宣長は、天地の成り立ちについて、以下のように述べている。

 まず第一に、この世の中全体の道理をよく理解しておかなければならない。
 その道理とは、この天地も神々も万物も、皆ことごとくその起源は、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かむむすびのかみ)と申す二神の「産霊の御霊(むすびのみたま)」と申す物によって生まれ出たものであって、長い年月をかけて人類が生まれ、万事万物が生まれ出たことも、皆この御霊によらないものはないということである。だから神代の初めに、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の二柱の大御神が、国土・万物・多くの神達を生成なさったのもその本は皆、かの産霊の御霊によるものである。(現代語訳は、山口志義夫訳「玉くしげ-美しい国のための提言」による)
 この天地万物を生み出した神を二柱の神に求める宣長の見解は、当時の神道家の間でも特異な物である。
 なぜならば、宣長が依拠した古典である古事記神代篇には、高天原に生まれた最初の神としては、天之御中主神 (あめのみなかぬしのかみ)が記されているのであり、宣長があげた二神は、その次に生まれた神として挙げられており、この三神はみな「独神(ひとりがみ)」であったとされて、ある意味で並列に置かれた神であった。
 そして中世以後神道が、仏教などの影響を受けて、次第に一神教としての性格を強めたとき、諸神の上に立つ最高神として多くの神道家が崇めたのは、天之御中主神天照大神であった。
 しかし宣長はこのような見解を排して、なぜか冒頭に書かれた神を除外して、その次の二神を対のような神として取り上げ、この二神がこの世の全てを生み出した神だとしたのである。
 この理由を宣長は説明していない。
 あるいはこれは、彼が古事記伝の各所で、この二神は同時に古事記のなかで現れることなく別々に出てくることから、「其の御名は異(かは)れども、唯同じ神のごと聞こえ」ると記していることから、二神で一つと考えており、その神の名に「産霊」とあることから、この神こそが天地創造の神であると考えたのかもしれない。
 こう理解すると宣長の神観念もまた、一神教の傾向を色濃く持っているといえよう。
 ここに宣長の、当時支配的であった神道が、儒学や仏教の影響を受けて歪められたものだとする立場がよく示されている。
 そして宣長が次に重視するのは、最初の三神に続く七代の神に続いて現われ、日本の国土を創生した神として記されている、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の二柱の大御神であり、伊邪那岐(いざなぎ)が妻の伊邪那美(いざなみ)が死後行った世界である黄泉の国を訪れたあと、その穢れを禊で祓う中で生まれた太陽神・天照大 御神であった。
 そしてこの天照大御神は神々の世界である高天原の統治を、伊邪那岐大神から委任された諸神を越えた神であり、この天照大御神が其の孫に、地上の国である「葦原中国を統治せよ」と地上の世界の統治を任せたのがこの日本国の始まりであり、その神の子孫が今も続く天皇であると宣長は説いた。
 ここは多くの神道家の認識と変わらない。
 では、宣長の認識が同時代の神道家の認識と大きく異なった所は何か。
 それは、古事記神代篇に記された天地創造の神々を、文字通り全世界、この当時においては西洋の学術の流入によって世界は、従来の唐・天竺・日本という限られた認識から、地球儀・万国図に記された多くの国々からなる世界と認識されていたわけだが、この全世界を生み出した神であり、その神の直系の子孫である天皇が今もって統治を続ける日本国こそが、万国に優越した国であるという、日本神国論・日本至上主義を高く掲げたところにあった。
 宣長は、「玉くしげ」別本において、次のように明言する。

 さて皇国(みくに)は格別の子細があると申すのは、まず四海万国をお照らしになる天照大御神がお生まれになった御本国であるから、万国の元本太宗である国であって、多くの事柄が異国より優れて立派である。(中略)
 さてこのように本朝は天照大御神の御本国であり、その皇統の統治なさる御国であって、万国の元本太宗である御国なのだから、万国共にその御国を尊び仰いで信服し、四海の内が皆、このまことの道に依り従わないわけには行かない道理である。
 宣長は日本が万国に優れていることとして、稲を持っていることと天照大御神以来続く皇統が今もって不動であることを挙げている。そして後者の点については、日本は、その神国の由来を伝える古伝説が正しく継承され皇統による統治が続いていることにその優れたところが示されているが、他の国は、この正しいまことの道を見失ったために、それぞれの国の王統が続かず度々交代して無秩序になっているところに、これらの国が日本より劣っている証拠があると断じたのだ。
 そして宣長は古来以来の日本の社会は国のありかたはみな、この太陽神天照大御神の計らいによって成り立ったものであり、その神のみわざに従って国を治めていくのが日本古来の神ながらの道であると説いたのだ。
 宣長は、「直毘霊」において次のように言っている。

 千万(ちよろず)の御代の御末の御代まで、天皇(すめらみこと)は大御神の御子孫として、天上の神の御心を大御心とし、神代も今も変わることなく、「神の御心にままに安らかに治まった国」と言われる通り、穏やかに統治なさってきた大御国であったから、古の御代には「道」という言挙げもなかった。(現代語訳は、山口志義夫訳「玉くしげ-美しい国のための提言」による)
 そして宣長はこの本文を解説して以下のように言う。
 すなわち、「天皇ですら、何事についても、御自身の御心で利口ぶった御判断をなさることはなく、ただ神代の故事の通りに取り行われ、国を統治なさる。疑問に思われる事がある時は、御占いによって天上の神の御心をお問い合わせになって政治を行われる。・・・「神の道に随う」とは、天下を統治なさる御所為は、ひたすら神代よりそうであった通りに行われ、少しも利口ぶったお考えをお加えにならないことを言う。さてそのように神代のままに大らかに統治なさると、おのずから神の道が働いて、他に求める必要がないことを言ったのであった。」と説明し、天皇が行う政治それ自身が神の政治であり、万民はそれに随うべきものであると強調する。
 しかしこの正しい道理が異国の教えである儒仏の教えが入ってきて以来忘れられ、中には朝廷に敵対し天皇を悩ませた、北条や足利などの悪臣も現れたり、日本は中国などに臣下として臣従するなど、間違った態度をとって来たと宣長は、儒学や仏教教学による世界認識を非難し、いかに儒仏が入ってきてからの日本の外交が間違っていたかを詳しく論述したのが、先に示した1778(安永7)年に著した「馭戎慨言」 (ぎょじゅうがいげん)であった。
 そこでは、全世界を遍く照らす太陽神である天照大御神の子孫が統治する日本国を全世界が敬うのは当然であるとし、これを無視して世界の中心のように振舞う中国を征伐しようとした豊臣秀吉こそ、まことの道に適った統治を行おうとした人物であったとして、神国を汚す野蛮人である夷人を打払うことは当然であるとする攘夷思想をも鼓舞していたのであった。

(b)蘭学の知識による中国の権威の相対化
 では宣長はなぜ中国の権威を否定し、中国伝来の儒学や仏教教学を持って日本の古代を解釈したりかの国の道に従って政治を行うことを否定したのか。
 これは先にも見たように、彼が活動した時代が、商工業の発展に伴って封建的社会政治体制とそれが衝突を始め、諸身分の利害が対立して各地で様々な軋轢が生じ、全国的に一揆や打ちこわしが頻発したことに見られるように、古い体制が音を立てて崩れ始め、新たな社会政治体制が求められていた時代であったことに起因している。
 これらの社会現象は皆、神国論を選択し神ながらの道に随えば世は静に収まると考えていた宣長にとっては、自身の神国論の正しさを立証する事象であると捉えられたことであろう。
 そしてもう一つ重要なことは、この時代に蘭学の知識が広がり、儒学に示された中国の認識が蘭学の知識によって相対化されたからである。
 宣長も処々において、西洋の科学を基準にして中国の認識を見ると、それがいかに時代遅れであるかを示し、かの国を「中華」として世界の中心として崇める儒学者の傾向を批判していた。
 例えば、「馭戎慨言」 (ぎょじゅうがいげん)においてすでに次のように述べていた。

 「世に天竺、もろこし、日本と並べて三国というようだから、もろこしは中である」と理解している人もいるだろうが、それはとりわけ愚かである。(中略)天竺の西にも国はまだたくさんあって非常に広いのだから、三つに限って言うべきではない。ましてやもろこしを「中」とはどうして決めることができようか。
 これはかの国が中華と自称していることを批判したものであるが、彼がここで依拠しているのは、蘭学によってもたらされた西洋の地理学の知識に基づいた、地球儀・万国図に基づいた世界認識である。宣長が中国を優れた国とする従来の理解を否定する際に使用する知識は、蘭学の地理学・天文学・医学の知識であった。
 彼は蘭学そのものは学んだことはないが、蘭学に基づいて書かれた書を読んでいたし、弟子の中で長崎に行く機会を持ったものたちを利用して、積極的に西洋知識を得ようとしている。
 こういう時代だからこそ、彼は漢学の中国中心の世界観や知識を否定することが可能だったのだ。
 これが宣長の神国思想の特徴である。

(c)神ながらの道に随う統治を!ー「革命」を排して君侯に対する助言者に徹した宣長
 では宣長は、現代人がこの世に神ながらの道に随った政治を実現するにはどうしたら良いとしたのか。
 同時代の勤皇家である本巻の【31】で見た竹内式部や山縣大弐などは、朝廷を軽んじる幕府を放伐するといった革命論を提示していたが、宣長は、このような流れには組しない。
 そもそも彼は、徳川将軍家による統治を、天皇の委任を受けたものとして、神ながらの道に適うものとして肯定していたからだ。
 「玉くしげ」において宣長は、現代の政治を評して以下のように述べている。

 さて今の御代と申すのは、まず天照大御神の御計らいと朝廷の御委任によって、東照神御祖命(あずまてるかむみおやのみこと・徳川家康のこと)を始めとする御代々の大将軍家が、天下の御政治を広く行われている御代である。そしてその御政治をまた一国一郡と分けて、御大名達がそれぞれこれを預かって行われる。・・・だから民も国もまた天照大御神がお預けになっているものである。だから、かの神御祖命の御定め、御代々の将軍家のお定めは、取りも直さず天照御大神の御定め・御掟なのだから、特別に大切にお思いになり、この御定め・御掟に背くまい、廃れさせまいとよくお守りになるべきである。
 ここで宣長が述べている論理は、時の老中松平定信が将軍に述べた大政委任論とほとんど変わらない。
 だから宣長は、この世の事は良いことも悪いことも全て神のみわざなのだから、賢しらにそれを改めようとせず、今の掟に随いそれを守り、何事も先例に従って行う事が、それがそのまま神の御心にかなうことだと述べて、あくまでも天皇が委任した徳川や諸大名の統治に従うことが、臣下や万民の道であると説いたのだ。
 そして彼自身は、古典の研究から取り出したこうした神ながらの道を、君侯に説くことに徹し、彼らが天皇の委任にしたがって正しい政治をするようにとただ説くことだけに徹したのであった。
 しかし彼が具体的に「玉くしげ」で提言した政策は、同時代の儒学者などのそれと大きくことなっていたわけではない。
 彼の提言を箇条書きにしてみると以下の通りである。
 「大名や武士の生活が重々しくなり、極めて華美となっているので、身分相応の格式は大切だが、できるだけ質素にすること」
 「現在役目がない家中衆は、大小上下共になるべく多く農作をさせ、家内の婦人は手仕事に精を出す」
 「百姓への税が重いので、彼らに対するいたわりが大事」
 「百姓の生活も贅沢になっているので、なるべく質素にすること」
 「一揆の原因の多くは上に非があるから。非道の取り扱いをやめ、人民をいたわれ」
 「金銀財宝はとかく平等にはいきわたりがたいので貧しいものはますます貧しく、富めるものはますます富んでいる。富めるものが貧しいものを救うことをお上で褒めて励行せよ」
 「金銀の取引はなるべく減らし、現物で取引することが適当なものはなるべく現物で取引せよ」
 「大名の財政困窮にあたっては、家中の俸禄を年限を決めて減らすより策はない」
 「身分の低い者の意見にも耳を傾けよ」
 「一国の施政は、家老から下々の役人に至るまで皆一致するようでなければならない」
 「賄賂が国政を蝕んでいる。賄賂を受け取ることを禁止するだけではなく、賄賂を贈ることも厳重に処罰せよ」
 「訴訟はなるべく迅速に」
 「財政逼迫の根本原因は、無益の輩に俸禄や領地を与えすぎていること。無益な代々の召抱えの見直しを」
 「武士は日頃から武術をたしなみ軍談の書を読むこと」
 「朝廷を深く尊崇し、諸国の神社を盛大にまつるべし」。
 どれもすでに幕府や諸藩で実践されていることばかりである。最後の朝廷の尊崇と神社を盛大に祭れというところに、彼の日本神国論が表現されているだけである。
 このように宣長の治世論は、その大政委任論とともに、現状を追認した、多くの者にも首肯される穏やかなものであった。
 この点は、彼の同時代人で、幕府の放伐を主張した勤皇家の竹内式部(1712‐67)や山縣大弐(1725‐67)と好対照をなしている。
 すでに先の【31】の章で見たように、幕府の放伐を主張した彼らは、幕府から謀反の嫌疑を受け、山縣大弐は死罪、竹内式部は遠島(実施される前に病死)に処せられている。 そして宣長が漢意 (からごころ)を排除していることから、彼は放伐とか革命とかいうことは、正しい道が伝えられていない外国の習いにすぎず、古代以来神の子孫が統治を続けてきた日本には適わないあり方であると主張しているのだから、宣長が現状を追認する穏やかな主張を繰り返していたことは、論理的には首尾一貫していると言えよう。
 ここに宣長の現実に対するし方の特徴がある。

(d)現実社会を変えようと動いた宣長
 しかし彼は単なる学者として、古典に基づいて「復元」した古代の日本のあり方を理想として弟子達に示していただけではなかった。
 彼は積極的に、大名や老中や公家・朝廷にも彼の論を広めようとしており、彼らが神ながらの道に随えば、自ずから世の中は良くなると考えていたようだ。この点で彼は単なる学者ではなく、社会思想家・政治思想家として現実社会を変えようと動いた人でもあった。
 宣長の弟子は、諸国におよそ500人を数え、その中には彼が奥医師として仕えた紀州侯だけではなく、浜田藩主の松平康定や公家の芝山持豊などの有力公家も含まれていた。
 彼が積極的に諸国の武士や大名に自身の論を広めようと動いたのは、天明年間から寛政年間(1781~1800年)のこと。彼が主著古事記伝を書き上げた50歳過ぎのことであった。
 おそらくその背景には、天明年間(1781~88)の大飢饉と、それに対して無策な諸大名や幕府の対応であったろう。
 彼の日記は大部分は日々の自身のなしたことや身辺のことしか記さないのであるが、天明年間の大飢饉や災害の様は詳しく記録し悲憤慷慨すらしている。
 そしてもう一つ彼が積極的に大名などに関ろうとしたきっかけは、すでに門人となっていた尾張藩重役の横井千秋(彼は古事記伝の出版を後援しその資金を出すとともに段取りをつけて、宣長の主著が広く世間に認められるよう計らった有力な門人であった)が、1785(天明5)年に国学による藩政改革を志し、尾張藩主に建白するために宣長国学に基づく治世論の執筆を依頼したことであったろう。宣長は此れに応えて、この年の冬に「臣道」という治世論の書と、その背景となる国学的世界観を述べた「玉くしげ」(此れが後に紀州藩主に別本として献上されたもの)を書き上げた。
 そしてこの時期以後、これまでの伊勢の国の有力商人や神官に留まっていた彼の弟子は空間的にも身分的にも広がり、尾張・石見・遠江紀伊筑前・京などの諸国に門人が広がり、その多くが諸藩の藩士であった。
 天明の大飢饉一揆・打ちこわしの頻発に見られるような時代の社会崩壊の現象が、諸藩士の中に宣長の神国論をして、もう一つの日本の姿を示すものとして認識させていったのである。
 さらにこれらの動きは、同時代の天皇・光格によって、朝権の回復と拡大の動きが行われていたことにも連動していよう。
 この中で宣長は、積極的に諸国に自身の教説を広めようと動いた。
 1787(天明7)年には、紀州藩主に治世論を説いた「玉くしげ」を献上した。
 そしてこの時期以後、先の横井千秋は尾張藩主に宣長の治世論を献上して藩政改革をするには、幕府に対して宣長の論を認めさせることが先決と考え、宣長と同じく大政委任論に 立っていて幕政改革を積極的に行っている老中松平定信宣長の書を献上しようと画策し、宣長もこの策に興味をもってその方法を千秋と協議している(このことは、定信が国学に冷淡であることをもって無理と判断されたが)。
 また1789(寛政元)年には、宣長尾張に出張講義を行い、尾張藩士等多くの門人を得、以後二度にわたって名古屋出講を行って、総計で88人の門人を得ている。
 さらに宣長は、1790(寛政2)年に古事記巻1~5が刊行されると、これをつてを得て妙法院の宮を通じて光格天皇に献上し、ちょうど京では天明の大火で焼失した皇居の再建がなって天皇新皇居への遷幸が行われるのを期に、それの拝観をかねて上京し、京都で公家などに講義を行った。
 そしてこの京都出講は、以後、1793(寛政5)年と翌1794(寛政6)年、さらには彼の死の前年である1800(寛政12)年末から1801(享和元)年初にかけてと、都合3度行われ、京都にも20人の門人を獲得した。
 宣長もまた、光格天皇を中心とする朝権の回復拡大運動に結びつき、この動きに理論的な背骨を与えようとしていたのだろう。
 またこの間の1792(寛政4)年には、加賀藩が宣長を召抱える動きを示したことに対抗して紀州藩宣長御典医師(鍼灸)格5人扶持として迎え入れ、宣長は、1794(寛政6)年と1799(寛政11)年、そして1800(寛政12年)と都合三度の和歌山出講を行い、藩主に講義するとともに、総勢17人の門人を得た。
 さらにこの時期宣長は、かねてから宣長の門人となっていた家臣を通じて宣長に教えを請うていた石見浜田藩主の松平康定の参勤交代の途中、1795(寛政7)年と1796(寛政8)年の2度松阪で会い、親しく彼に講義を行った。こうした活動を通じて石見にも門人は19人を数えた。
 このように天明年間以後の宣長は死の前年まで積極的に、大名や公家にも自身の教説を広めようと活動していたのだ。
 これは彼が表面的には、現実社会のことはすべて神のみわざなのだから、賢しら心をもって変えようとするのではなく、現状を追認しつつも自身は神の教えに従って生きるべきだと述べていたことに反して、現実の国を動かしている君侯である大名や公家、そして老中までにも彼の教説を広め、統治者である彼らが、神ながらの道に従って皇室を重んじ、古代以来の日本の伝統に従って統治を行うように変えようと動いていたことを意味している。
 この意味で革命を否定した宣長は、被治者である百姓や町人による現実変革につながる一揆や打ちこわしを否定し、統治者である君侯、そしてその士大夫である武士による現実変革を志した儒学者や老中松平定信らと同じ社会観・国家観を持っていたと言えよう。
 実際紀州藩によって御典医師となった彼は、武士身分になったのであり、この意味で君侯の智恵袋手足としての士大夫である武士として、彼は積極的に国政に関与しようとした のである。
 このように見てくるとき、宣長の一見穏やかな治世論は、急激な革命を排して、漸進的な国学によろ改革を志したものと言えようか。そして彼の神国論・日本至上主義が社会に広く根を張ったとき、社会は自ずから変化する可能性を持っていた。
 なぜならば松平定信宣長の大政委任論は、表面的には天皇家の権威で持って将軍家や大名の統治に権威を付与する役目を果たしているが、もしその将軍家や大名家の統治が、人々の意に適わぬ問題の多いものと多くの人に認定されれば、それを飾ったはずの天皇の権威によって、その統治そのものが指弾され、果ては 大政委任論に基づいて、彼らに対して朝廷に大政を奉還せよと迫る論理を内包しているからである。
 だから宣長の表面は穏やかな学者としての言動の裏側には、彼の神国論に基づく大政委任論を、諸大名や武士、そして朝廷の公家や町人・百姓たちに遍く広めることで、こうした現状への批判を支える大義名分を与える思想活動として、諸国の多くの門人に教えを垂れたり、彼に批判的な学者や思想家と激しい論争を行ったり、さらには求めに応じて、諸大名や公家などに、彼の説を講義したのであろう。そして彼は寛政の改革を実行し名君と詠われた松平定信にも建白書を提出しようと画策したのであり、さらには公家を通じて彼の著書を皇族や天皇に献上したりして、彼の教説を精力的に広めていたのであった。  

(e)信仰としての神国論
 しかし宣長の神国論は、学者として古典をじっくり研究し、そこから復元された歴史的事実としての神国論ではない。
 彼は明治以後、古文辞学者として、近代的な文献学者として高く評価されてきた一面があるが、彼は、いや近世の学そのものを、近代の学のような、客観的な科学的な学問と同列において論じることは間違っている。
 近世の学は、思想・信仰と学問が一体となっており、このことは宣長の学においても同様である。
 宣長の学が、かなり彼の思想・信仰によって裏付けられていることは、同時代の宣長批判者で、宣長と同じく賀茂真淵国学を学んだ国学者上田秋成(1734‐1809)との論争のなかに明確に見て取れる。
 二人の論争は、1786(天明6)年から翌1787(天明7)年に行われた。
 この論争は前後二つの内容に分かれており、前半は古代語における音韻の問題、主として「ん」の音が古代においてあったかなかったかの論争で、これは古代文献に基づいた極めて学問的論争である。後半は、京都の考古学者藤井貞幹が1881(天明元)年に著した「衝口発」という論文(これは日本古代の文物、制度の全てが中国朝鮮に由来することを論じた書)を読んだ宣長の門人で豊前の国中津の神官・渡辺重名が憤激し、師の宣長にこの本を送って反論を依頼し、宣長がこれに応えて書いた「鉗狂人」を秋成が批判したことから始まった論争である。
 この後半の論争はとても興味深い。
 中でも宣長が日本が万国に優れた国であると論じた論拠そのものを、秋成が批判したからである。
 論争の中心どころは、宣長が論争をまとめた「呵刈葭(かかいか)」によれば以下のようだ。

秋成
 宣長大人は、日の神が四海万国をお照らしになるといわれますが、それは如何なものでしょうか。日の神についての伝説は「神代紀」に「此の子(みこ)、光華明彩(ひかりうるは)しくして、六合(くに)の内に照り徹(とほ)る」とも、また「古事記」に「天の岩屋戸を閉ぢてさしこもりましき。ここに高天(たかま)の原皆暗く、葦原中国(あしはらなかつくに)悉(ことごと)に闇(くら)し。此に因りて常夜往きき」とも記されています。これらの記事から考えると、「六合」はもともと天地四方という意味ではありますが、ここでは日本国内のことに借りているのであって四海万国という意味ではないように思われます。(中略)あるいは、右にあげた例のほかに、日の神がわが国のみならず世界じゅうの異邦をもすべてお照らしになると記した伝説が、何かの書物にあるのでしょうか。
 (中略・ここで秋成は世界地図を取り出し、我が国はその中のちっぽけな小島であるという知識を持ち出す)
 そんなわけですから、いまもし外国人をつかまえて、この小島こそ万国に先立って開闢し、大世界に照臨される日と月とがまずここに現れた本の国である、だから世界中の国々はことごとくわが国の恩恵をこうむっている、だから貢物をもって臣下としてやってこいと教えたところで、一国としてその言葉に服するものはありますまい。そればかりでなく、何を根拠にそんなことをいうのかと反問されたとき、わが国の太古の伝説をもって答えようとしても、相手がそのような伝説は自分の国にもあり、あの日月は自国の太古に現れたままのものだと言い出して論争になったら、いったいだれが裁断を下して結論を出すことができるでしょうか。(後略)
宣長
 日の神のことを論じ申し上げるあなたの議論は、例によって漢意から出ているので、いまさら弁じたてるのも面倒なのですが、まあいささかは申し述べておきましょう。この天照大御神が、世界じゅうの国々をことごとくお照らしになるという伝説がどの書物にあるかというおたずねは、まったくの愚問であります。まず「日本書紀」に「六合に照り徹る」とある文章を、しばらくわが国のことに借りて用いているとあなたが曲解したのは許すにしても、「日の神」という御名はどうなのですか。これもやはりそう名づけたのだと曲解するのですか。「日本書紀」の一書に「天地に照らし臨ましむ」とあるのをあなたはどう解釈するのですか。シナやインドの天地は皇国の天地とは別なのでしょうか。(中略)あなたはインドの日月は皇国の日月とはちがうというつもりなのでしょうか。
 (中略・ここで宣長は世界地図は珍しくなく自分も見たといい、皇国が大きくないことぐらい誰でも知っている。しかし国の尊卑は大きさで決まるのかと反論)
 太古の伝説はたしかに各国にあるにはちがいないでしょう。しかし、外国の伝説は正しくありません。(中略)しかしわが皇国の古伝説は、もろもろの外国のそれとは類を異にする真実の伝説であり、今日の世界と人間のありさまは一つ一つが神代の趣に符合していて、その霊妙なことは言葉ではいえぬほどであります。
 しかし、上田氏はそれを外国の雑な伝説といっしょくたにしてしまい、その妙趣を悟ることができないようです。それはあの漢意という一点の黒雲がまだ晴れていないからです。それが晴れないうちは、どれだけ説明したところで、馬の耳に念仏でありましょう。
(日本語訳は、石川淳編集「本居宣長」による)

 日本書紀古事記にある日の神に関する古伝説をどう理解するかという問題であるが、両者の理解は対極にあって水と油である。
 上田秋成は、この古伝説で日の神が照らす世界は、「六合」という天地四方を指すことばを使用していても、他ではそれは葦原中国という日本を指す範囲に限定されているのだから、日本国に限定して使っていると解釈すべきだと理解する。そしてこうした古伝説は世界どこにでもあるのであり、自国の古伝説の存在をもってわが国が世界万国に優れた国だとする宣長の理解こそが、賢しら心によって、古伝説を曲解したものだと、 宣長を非難した。
 秋成の論は、蘭学に基づく最新の地理知識や、今日で言えば比較文化人類学的な多元的価値観・文化相対主義をもって宣長を批判するものだ。
 対する宣長は、古事記日本書紀に書かれた言葉を、言葉そのものとして受け取り、全世界を照らす日の神はわが国に最初に生まれたと理解する。その上で、日月に異国とわが国とで違いがあるか、天地に異国とわが国とで違いはあるかと、これまた最新の蘭学による地理知識でもって秋成の論を論難し、古伝説をそれとして真実として受け止められない秋成の態度そのものが漢意なのだと断じている。
 宣長の価値観は秋成の多元的価値観とは相違して、日本国は天地をつくった神とその子孫が君臨統治する神国であるが故に、万国に優越するという古事記日本書紀に書かれた世界観そのものを真実だと受け取る、日本至上主義に確固として立っているのである。
 このため二人の論争は平行線をたどる。
 宣長の言を借りれば、宣長が日本至上主義という賢しら意を捨てない限り、秋成がいくら説明しても宣長は受け入れないのだ。
 このように宣長は、古伝説そのものを真実だと、とりわけ天武天皇が撰述させた古事記は神の言葉だと信じて、彼の説を立てているのであり、この意味で彼の神国論・日本至上主義は、彼の信仰にも近い信念であると言っても過言ではない。
 宣長の神国論が、彼の信仰にも等しいものであることは、彼が死の前年に書いた遺言書に記された、彼の墓所と葬儀の形態に見事に示されている。
 宣長は、1800(寛政12)年9月に、彼の墓所と葬儀などについて記した遺言書を書き、11月には彼の墓所を造営した。
 その遺言書には、彼の葬儀は表向きには菩提寺において浄土宗の形で行い、菩提寺の代々の墓所に彼の墓を建てることが示されていた。しかし彼の遺言では、菩提寺への紀州藩奥医師、すなわち武士の格式をもって行われる葬送の行列の彼の棺は空で送ることとされ、その前夜のうちに彼の遺骸は菩提寺ではなく、彼が墓所と定めた山室山の彼の墳墓に運び、そこで神式の葬儀を行って埋葬することが定められていたのだ。
 菩提寺における葬儀と菩提寺の彼の墓は、彼の真の思想をカモフラージュするものと宣長は定めたのだ。
 そして彼が生前造営した山室山の墓所は、伊勢湾と遠くに富士山を眺める絶景の山頂に築かれた古墳状のもので、大きさは神武天皇稜とされた墳墓と同じ大きさの高さ4尺ばかりの円墳状のもので、その塚の下に切り石で墓室をつくり、そこに遺骸を埋葬する形になっていた。さらにその墳丘の上には、彼の好きな桜の木を植えることが指示され、墳丘の前には墓標としての石碑を建て、そこには仏式の仏の名号や家の名、或いは戒名を記すものではなく、単に「本居宣長之奥墓」と記すことが指示されたが、その前に花台や焼香台など仏式の施設を作ってはならないと遺言されていた。
 宣長は、死の年(1801・享和元年)の春に最後に京都を訪れた際に、泉涌寺にある近世の天皇陵を訪れたとき、次のような歌を詠んでいる。
 それは、「神にます君が御はかを来て見れば 今はほとけにますぞかなしき」というものであった。
 つまり宣長は、天皇家すらが、自身の墓を仏式で建立装飾していることを、時の流れ・理由あることと認めつつも、内心では現状を嘆き、これを変えようとしていたわけだが、彼自身の真実の墳墓は、まさしく仏式ではなく、神武天皇のような古来の神式の墳墓にもどせと弟子達に指示していたのである。
 これはまるで、宣長自身を「ハツクニシラススメラミコト=初めてこの地を統治した天皇」と呼ばれた神武天皇になぞらえ、古代以来衰微した天皇親政国家を復活せんとした先達として、自身を神として葬れと弟子達に指示したに等しいものであった。
 ここに本居宣長の神国論が、彼自身の信仰とでもいうべきものであったことがよく示されている。

注:宣長が1801(享和元)年9月26日に71歳で死去したのち、葬儀の形態は、紀州藩の松阪奉行所の介入によって、次のように改められた。すなわち山室山の墓所に遺骸を埋葬することは許されたが、山上の墓に遺骸を送るのは、菩提寺での仏式の葬儀が終ったあとにおこなったのである。遺骸のない空の棺をもって葬送と葬儀を行うことが、あまりに不穏当と思われたのだろうか。しかしこの変更があっても、宣長には二つ墓があり、菩提寺の仏式の墓には彼の遺骸は納められず、彼の遺骸が納められた真実の墓は、山室山上の墳墓であるという、彼の遺言はちゃんと守られたのであった。

④自己確立の基盤として選択された神国論-宣長思想の形成過程

 では古典によって古代語を実証主義的に復元し、それでもって古代人の心をありのままに示そうとしてきた実証主義的な古文辞学的な学者である宣長が、いかにして信仰としての日本神国論・日本至上主義を獲得するに至ったのであろうか。
 この点についてはいまだ学会においても定説はないようであるが、著者がさまざまな研究書や宣長自身の書いた物を調べて得た仮説を、ここに提示しておきたい。


(a)宣長はいつから神国思想を抱いていたのか
 まずこの点を確認しておこう。
 これまでの学者による研究で確認されたものでは、それは京都遊学中であった。
 すなわち1752(宝暦2)年3月、23歳の時から、1757(宝暦7)年10月松阪に戻った28歳のとき、この時期に宣長はすでに日本は神国であるという思想を抱いていたことが確認されている。
 それは一つは、この時期に書かれた友人宛ての手紙に、「上古の時、君と民と皆、その自然の神道を奉じて、これによって身を修めずして身を修め、天下を修めずしてこれを修める。礼儀自ずから有ると存ずる」と 、後の神ながらの道と同じことを記していたことに見られる。
 またもう一つは、宣長はこの京都遊学中に皇居を参拝する機会を得、そのときの感激を彼の在京日記に記していることだ。
 すなわち1756(宝暦6)年正月13日の条である。
 「禁裏へまいって御修法の壇場を拝み奉った。たいそう尊き紫宸殿に上り奉って、拝み奉ること、たいそう恐れ多いことと思った。(以下内裏の中の様子を詳しく記したあと)公家門の前にてしばし休んでいた折に、公卿殿上人、あまた御所に上りたもうありさまを見たが、常には見慣れぬ風情で、とても尊く、昔の盛んなりし御世の内裏のさまが思いやられて、立つことも忘れてしばらく休んでいた。雲の上人のありさまは、とても優雅で尊く見え奉る」(現代語訳は筆者)。
 これは宣長が京に上って5年目のこと。儒学や医学を学ぶと共に、契沖の歌学に触れて、その方法論をもって古事記日本書紀を読み始め、彼が彼自身の神国論を確固としたものにしていたちょうどその時期。
 すでに27歳の宣長はひとかどの尊王論者・国学者となり、皇室を尊崇する心はさらに深いものとなっていたことを示す逸話である。
 では宣長がすでに京都遊学中には神国思想を抱いていたことは確実であるが、それ以前においてはどうであったのか?
 彼の日記は、1748(寛延元)年19歳の年に、宇治山田の今井田家に養子に行った頃から後のものしかのこっていないが、これから先の内裏参拝までの日記の中には、皇室を尊崇する神国思想を吐露した個所は見られない。
 しかし彼が詠んだ歌を記した記録(石上稿)には、彼が歌を学ぶことを志した1748(寛延元)年からすでに、宣長が皇室を尊崇し、日本を神国として崇める思想をもっていたことを示す歌が、彼の死の年まで毎年のように記録されている。筆者が数え上げた限りではそのような歌は、総数で168首。宣長が生涯で詠んだ歌は1万首にも上るといわれているが、けして少ない数ではない。多い 年には年に10首ほども詠んでいる。
 その最初の歌は、1748(寛延元)年4月から、彼が始めて京都へ上った折、7月に天満宮に奉った、19歳の時の歌である。それは、
 「君が代をまもる心を筑紫より 移り北野に瑞の玉かき」 である。
 宣長が正式に歌を学び始めたのは、この年の11月に宇治山田の今井田家に養子に行った翌年、1749(寛延2)年のことだから、この歌は、彼がみようみまねで詠んだ歌であり、初めて京都に上って感激した彼の偽らない心情が吐露されているものと思われる。
 そして宣長が伊勢山田の今井田家に養子に行った後の歌にもまた、素朴な皇室尊崇・神国崇拝を詠ったものがある。
 1749(寛延2)年の夏頃、「葵」の題を受けて詠んだ、20歳の折の歌は、
 「神山のあふいのかつら千世かけて 治る御代を猶祈也」
 そして翌年1750(寛延3)年の夏頃、「神祇」の題を受けて詠んだ、21歳の折の歌は、
 「神路山さかゆく御代も明けらけく 天照神のあらん限は」 
であった。
 これらもまた、伊勢神宮の鎮座の地である伊勢山田で詠まれたに相応しい、素朴な皇室崇拝・神国崇拝の心を素直に詠ったものと言えよう。
 そしてこの傾向は、翌々年1752(宝暦2)年春に京に遊学してからも続く。
 内裏を参拝して感激した年である宝暦6年にはなぜかこの類の歌が詠まれていないので、その前年の1755(宝暦5)年の、26歳の折の歌を二首あげておこう。
 「神祇」の題を受けて詠んだ歌は、
 「萬世にたえすそあふく岩戸出し むかしも遠き天津日つきを」
 そして「祝」の題を受けて詠んだ歌は、
 「にきわしきかまとの数も君か世も かきりしられぬ秋津国民」
である。
 これら宣長の若き日の歌は、彼がその後契沖の歌学の方法を古事記日本書紀などの古典の解読に応用して取り出した古代日本の神ながらの道の姿に彼自身が確信を深め、 ひとかどの国学者として世に出で、多くの人士に彼の神国論・日本至上主義を授けて受け入れられた時期に詠った歌と比べれば、きわめておとなしい素朴な心情を詠ったものであることがわかる。
 1793(寛政5)年。すでに紀州藩奥医師として藩主に国学を講義する身分となり、さらに京の公家や宮家にも講義した、65歳の宣長が詠んだ歌は、
 「よもやまに国は多けと敷しまの 倭しま根そ八十のおや国」 
 「国ごとに君はあれとも高ひかる 吾日の御子そやもの大きみ」
 「国々に道はしあれと天照す 神の授けし道そまさ道」
であった。
 まさに、宣長の神国思想・日本至上主義を素直に表現した歌といえよう。
 こうしてこれらの歌を根拠とすれば、宣長はすでに19歳の折には、皇室を尊崇し日本を神国と崇める思想を持っていた 。そして京都での儒学学習と契沖・賀茂真淵との出会いを経て国学者となり、古典に基づいて古代の神ながらの道を彼なりに明らかにしていく過程で、その素朴な心情が、より確固とした思想へと進化していったことが、彼の歌にも反映しているといえよう。
 そして宣長が生涯の最後に詠んだ皇室を尊崇し日本を神国として崇める歌は、先に見た
 「神にます君が御はかを来て見れば 今はほとけにますぞかなしき」 
であった。

  では何故彼は、このような思想を若き日に選択したのであろうか?
 この背景には、一つは彼の幼少期の環境が極めて神仏に対する尊崇の念に満ちた環境であったことと、二つ目には、彼自身が神の申し子であると自認していたと言う彼自身の「出生の秘密」、そして三つ目に、商家の跡取りに生まれた彼が商人には向かず彼自身の存在の意味をもとめて、「皇室の守り」としての歴史を持つ本居家の跡取りを選択したこと、この三点の、彼の個人史にまつわる特色に、宣長神国思想の基盤はあったように思う。
 以下この三点について、少し詳しく述べておこう。

(b)神や仏、そして天皇功徳の世界に耽溺した幼少期-神国思想を育む文化環境の中で育った宣長
  まず最初に、彼の生家である伊勢松阪の木綿商人・小津家が、とても神仏に対する尊崇の篤い家であったということがある。この点については、宗教学者で自身も熱心な宗教者である松本滋が詳しく論じているので、彼の著書によって見ておこう。
 彼の家は代々熱心な浄土宗の信者で、父定利も誠実な浄土宗信者であり、母のお勝も、同じく熱心な浄土宗の信者である村田家から嫁いだ人で、母の長兄は幼時に出家し浄土宗の僧侶となっていたし、彼女の妹たちもまたそれぞれ晩年には剃髪している。そしてお勝自身も、1763(宝暦)12年に息子宣長が結婚した年 に信州の善光寺に詣でて剃髪している。
 このため宣長も幼少の頃より仏に帰依し、熱心に信仰していた。
 そして1739(元文4)年10歳のときに浄土宗の血脈を受けて「英笑」の法名を受け、さらに1743(寛保3)年14歳の秋には法然の伝記を筆写し、翌1744(寛保4・延享元)年には、「融通念仏百反之日課」および「十万人講ノ日課百反」を修し、念仏を熱心に行っている。そして1748(寛延元)年19歳のときには、浄土宗の重要な伝法の儀式である五重相伝に同行衆16・7人と共に列し、「伝誉英笑居士」の法名を定められているのだ。
 このように宣長自身が、熱心な浄土宗の信者であった。
 そしてこの浄土宗は多くの民間宗教を取り入れる傾向が顕著であり、行においては様々な神仏を礼拝の対象としている。
 宣長が伊勢山田の今井田家に養子に入っていた時代(1748~1750年)に記した「日々作勒記」によると、毎朝天照皇太神宮・豊由気皇太神宮を始めとして八幡大菩薩などの諸々の日本国中の八百万の神の報恩を感謝して礼拝し、そのあと、阿弥陀仏・釈迦仏を礼拝し、南無阿弥陀仏を10回唱えたり、命日の仏菩薩や当家代々の先祖などに対して10度念仏を唱え、父母兄弟ならびに故郷の母や兄弟親類などの安楽と往生極楽を祈念するとされている。
 このように、宣長の幼少期からの家の環境は、極めて神仏に対する尊崇の念に満ちた宗教的環境だったのだ。
 これに加えて宣長は8歳のとき、1738(元文3)年から手習いを始め、12歳の時、1741(寛保元)年からは本格的に、様々な手習いの教科書だけではなく、「小学」「大学」「中庸」「論語」「孟子」などの漢籍も習い始めているが、注目すべきは、この12歳の時から謡曲を習っていることだ。
 従来はこのことは、宣長のような上層町人の家ではごく普通のことであり、上層町人の商家の主として世間を渡っていく時に必要な教養を身につける過程として理解されたり、せいぜい、これが後年の「王朝文化」への憧憬の基盤になったのではないかと注目された程度ある。
 しかし謡曲の多くが伊勢物語や源氏その他の古物語に依拠して作られていることを、とりわけ平家物語に多く依拠して作られていること 、さらには神仏の霊験の深さを称えるものであることを、宣長の神国思想形成との関連で、もっと重視すべきであると思う。
 なぜなら平家物語は、通常の軍記物という文学の範疇から連想される、武家の文化を描いたものという観念で捉えられるものではなく、中世編の【11】で見たように、この物語自身がその標題に反して王家の物語であり、日本は神国であり、古来神の子孫である皇室が治めて来た国であり、日本には皇室は不可欠の存在であり、武家はその皇室の権威や権力を犯そうとするものの武力からそれを守るためのもの、すなわち皇室の守りとして生まれたものであるという考え方を、平家の興亡の物語を通じて、物語を読み・聞きする人々の脳裏に焼き付けようとして作られたものであった。
 平家物語そのものが、神国思想で成り立っているのである。
 まして後に詳述するように、自身の存在価値をもとめて、平家末流である本居の姓を名乗った宣長である。平家由来の謡曲に浸った幼時は、彼の思想形成に大きな影響を与えたに違いない。
 では実際に宣長が幼少期に習った謡曲が、どのような内容のものであるか確認してみよう。
 1741(寛保元)年、宣長が12歳の年の7月から11月まで習った曲は、「猩猩」「三輪」「楊貴妃」「東北」の四曲。そして翌年1742(寛保2)年、宣長が13歳の年の1月から8月の間に習った曲は、「江口」「采女」「弓八幡」「竹生島」「羽衣」「竜田」の6曲、後半の9月から12月までに習った曲は、「源氏供養」「野宮」「井筒」「蟻通」「国栖」「田村」の6曲であった。さらに、1743(寛保3)年、宣長が14歳の年の春から12月までに習った曲は、「兼平」「頼政」「高砂」「養老」「柏崎」「桜川」「三井寺」「百万」「班女」「東北」(再習)「八島」「小塩」「海士」「「忠度」「白楽天」「松風」「千手」の17曲。最後に宣長謡曲を習ったのは、1744(延享元)年、彼が15歳の年の1月から12月まで。この年に習った曲は、「杜若」「誓願寺」「葛城」「西行桜」「羽衣」(再習)「朝長」「二人静」「「白鬚」「老松」「「賀茂」「呉服」「小鍛冶」「通盛」「清経」「敦盛」「実盛」「融」の17曲であった。
 全部で習った曲は51曲。実数は49曲である。
 内容を見てみると、平家物語に題材をとったものは、主君義仲の霊を祭ろうと現れた家臣今井四郎兼平の亡霊を描いた「兼平」、平等院源頼政が自害した場所に現れて自分の霊を祭って欲しいと頼んだ源頼政の亡霊を描いた「頼政」、八島の浦に現れた源平の合戦の様を語った義経の亡霊を描いた「八島」、須磨の浦にて藤原俊成の家人であった僧の前に現れた平忠度の亡霊を描いた「忠度」、囚われて鎌倉に護送された平重衡を慰めた千手の前の心を描いた「千手」、吉野の明神の前に霊となって現れた静御前の亡霊を描いた「二人静」、鳴門の 浦に現れた平通盛と小宰相の亡霊を描いた「通盛」、都に残った妻の前に現れ、自分の無念の最期を語った平清経の霊を描いた「清経」、一の谷に現れて自分が討った敦盛の霊を慰めようとした熊谷直実の前に現れた平敦盛の亡霊を描いた「敦盛」、加賀の国の篠原で説法していた僧の前に現れた自分の回向を頼んだ齋藤実盛の霊を描いた「実盛」 の10曲。
 以上の10曲が、宣長が習った謡曲の中で平家物語に直接取材した謡曲である。
 この10曲の謡曲は数としては宣長が習った曲の5分の1に過ぎないが、その内容の多くが、二つに分かれて覇を競った王家のために戦って死んだ源平の兵とその妻たちの、満たされぬ悔しい思いを詠った内容であることに注目すべきであろう。即ち彼らは、王家の守りとして命を懸けて戦ったにも関らず、その死後は懇ろに供養されることもなく放置されていること の悔しさを、亡霊となって後の世の人に訴えたというものだ。
 これこそまさに日本は神国で、神の子孫が治める国であり、武家とは王家の守りであるという、神国思想を物語ったものなのだ。
 そして平家物語ではないが、平治物語に題材をとり、平治の合戦の後に討ち死にした源朝長の亡霊を描いた「朝長」も、先の10曲と同様の内容である。
  またこの11曲の平治物語平家物語に取材した謡曲を習ったのが、宣長が彼の存在の価値について深く悩んでいたと思われる14歳から15歳の時であったことは重要である。
 さらに残りの38曲の多くも、神の恵みや、王朝人の亡霊を慰める曲であることも、これを学んだ宣長の心に深く刻まれたものであろう。
 すなわち、神の恵みを描いたものは13曲あり、三輪明神の霊験を詠った「三輪」、八幡神すなわち高良の神の霊験を詠った「弓八幡」、竹生島明神の霊験を詠った「竹生島」、竜田明神の霊験を詠った「竜田」、蟻通明神の霊験を詠った「蟻通」、天皇を守護する蔵王権現の霊験を詠った「国栖」、住吉明神の霊験を詠った「高砂」、養老の山神の霊験を詠った「養老」、 下賀茂社の霊験を詠った「班女」、住吉神の霊験を詠った「白楽天」、近江の白鬚明神の由来・霊験を詠った「白鬚」、室明神と加茂明神の由来を詠った「加茂」、稲荷明神の神通力を詠った「小鍛冶」である。
 そして残り25曲のうちの13曲は仏の功徳を詠ったものである。
 それはすなわち、江口の遊女を成仏させた普賢菩薩功徳を詠った「江口」、芭蕉の精の成仏を詠った「芭蕉」、采女の亡霊を成仏させた「采女」、紫式部は石山観音の化身であったと観音の功徳を詠った「源氏供養」、清水観音の霊験の由来を詠った「田村」、離れ離れとなった母と子を会わせた阿弥陀如来功徳を詠った「柏崎」、同じく離れ離れの母娘を会わせた仏の功徳を詠った「桜川」と離れ離れの母と息子を会わせた清水観音の功徳を詠った「三井寺」、清涼寺釈迦堂の釈迦の功徳を詠った「百万」、法華経功徳を詠った「海士」、在原業平が愛した杜若(かきつばた)の精の成仏を詠った「杜若」、和泉式部の霊を成仏させた仏の功徳を詠った「誓願寺」、葛城の神を不動明王の呪縛から解いた呪法の法力を詠った「葛城」である。
 さらに残り12曲の中では、和泉式部の霊が登場する「東北」、源氏物語六条御息所の霊が登場する「野宮」、在原業平の「妻」の紀有常の娘の霊が登場する「井筒」、在原業平の霊が登場する「小塩」、さらに業平が愛した松風の霊が登場する「松風」、源融の霊が登場する「融」など6曲は、歌物語の主人公などの霊が多く登場し、「西行桜」では西行の愛した桜の精が登場したり、「老松」では、菅原道真の愛した老松の精が登場するなど、残り12曲の大半も不思議な話で成り立っている。
 最後の4曲は、中国や日本の古伝説を詠った「猩猩」「楊貴妃」「羽衣」「呉服」であり、このうちの「楊貴妃」は殺された楊貴妃の霊魂のありかを玄宗皇帝が探すものがたりであり、これも霊魂を描いた作品である。
 このように宣長が幼少時に学んだ謡曲を詳しく検討してみると、多くは神や仏の霊験功徳を描いた作品であり、平家物語平治物語、さらには源氏物語伊勢物語などに取材した作品も、物語の登場人物の霊を登場させて、物語では充分に語られなかったこれらの人々の思いを、霊魂に語らせる形をとっており、これも先の神や仏の霊験功徳を描いた作品の変形と言えよう。
 能の謡曲はこういう性格を持ったものであるが、 これは中世編の【22】で見たように、新古今派に代表される摂関期・院政期の貴族の生活を理想として(=雅)、その風情を強調することなくそこはかとなくかもし出す(=幽玄・優艶)傾向を是とする時代の傾向が、南北朝期のバサラ、何物にも囚われず思いのままに行動することを是とする傾向が交じり合って出来た「風雅」の文化を背景として、世阿弥とその娘婿金春禅竹の時代に出来たものである。
 この謡曲の性格が、もともと神仏に対する尊崇の念の篤い家に育ち、しかも自身の存在価値について悩んでいた宣長の精神形成に大きな影響を与え、日本を神国であり万国に優れたものであるという後世の宣長の神国思想・日本至上主義思想形成の基盤をなしたものと言えよう。


(c)神の申し子を自認していた宣長
 だが従来は、宣長が愛した謡曲平家物語が、彼の思想形成に与えた影響はほとんど無視されてきた。
 それは謡曲平家物語を受容する現代人の心性をそのまま投影させたものであったと思う。なぜならば神や仏の功徳を真剣には信じない現代人にとっては、これらの作品が受容した人の思想形成に大きな力を発揮するとは思えないからである。そしてここから、商工業の発展により、神仏より貨幣の力が大きな影響を発揮している江戸時代においては、すでに神仏の力は低下している現実を見るとき、謡曲平家物語を学んだ者がすなわちその影響を受けて、神や仏の功徳を信じ、日本を神国であると信じるとは思えなかったからである。
 これはおおむね江戸時代の人々には当てはまる傾向である。
 謡曲平家物語、そしてそれを琵琶を詠った平曲は、上層町人や武家の教養に過ぎず、彼らの遊芸であったからである。
 しかし本居宣長は、次に述べる二つの意味で、通常の近世人ではなかった。従来はこのことが看過されていたと思われる。
 では宣長が普通の近世人とは異なっていた面とはいかなることなのか。
 一つは彼自身が、彼を「神の申し子」として深く信じていたという事実である。
 この点は、岩田隆が的確にまとめているので、これによって記述しよう。
 宣長の父の小津三四右衛門定利と母お勝との間には長く子ができなかった。夫婦の間には養嗣子として、定利の先妻が先夫との間になした一人息子・宗五郎定治がいたが、やはり実子が欲しかった。そこで当時子宝に恵まれるといって評判の高かった、吉野の水分(みくまり)神社に願を祈願し、その結果生まれたのが、富之助(幼名、後に弥四郎・栄貞と改める・後の宣長)であった。このとき父は36歳、母は26歳であった。
 つまり宣長は、子宝を恵む水分明神に祈願して授かった「神の申し子」であったのだ。
 このことを後に知った宣長はこれを深く心に刻んだのであろう。19歳になって、13歳以来の事を書き記した日記の見返しに、この祈願と誕生の由来を書き付けている。
 これによれば、父定利は「子無きことを嘆きて、嗣を和州吉野山子守明神に祈り、『若し男子を生みて、その子13歳に至らば、即ち自ら供ないて、其の子をして参詣せしめん』と、願望虚しからず、室家妊めることありて男児を産む、然れども誓う所を遂げずして、父早く逝きぬ、児13歳に至りて、亡父の宿誓に随いて、彼の神祠に参詣し賽謝しぬ」という。
 おそらく母お勝は息子に父のこの誓願のことを繰りかえし話し、そして息子が13歳になったとき、神の恵みへお礼をするために、息子をはるばる吉野水分明神(子守明神)に旅立たせたのであろう。宣長は1742(寛保2)年7月に下僕二人を伴って吉野にまいり、水分神社に参詣して、その後大峰山高野山長谷寺に参詣して松阪に戻った。
 この旅は宣長にとって始めての遠出であり、初めての霊山・霊寺への参詣の旅であり、己の「誕生の秘密」を確認する旅であった。
 そして宣長は、吉野水分神社にはこの後二度参っている。
 二度目は1772(明和9)年43歳の時の3月。
 この時の旅を記した「菅笠日記」には、宣長が、自分の誕生についての昔の物語を聞いて、神の恵みのありがたさを思い、毎朝水分神社に向かって遥拝を繰り返していたさまが記述されている。
 そして三度目は、最晩年の1799(寛政11)年70歳の時。和歌山藩まで講義に行った帰り、2月のことである。
 またこの時の感激を彼は和歌にして残している。その幾つかを挙げれば、
 「みくまりのかみのちはひのなかりせば これのあが身はうまれこめやも」
 「ちちははのむかし思えば袖ぬれぬ みくまり山に雨はふらねど」
 「命ありて三たびまゐきておろがむも 此水分の神のみたまぞ」
 宣長は、自身が神への誓願によって生まれた「神の申し子」であることを深く自覚し、そのことに感謝していたのである。
 また国学者である宣長は、水分明神と言われるように、「神名帳」にも見える古い水の分配に関る神を祭るこの神社が、なぜ子宝を授ける神社となったかを古文献を渉猟して探求している。そしてその結論は、古来の「みくまり」の呼称が「みこまり」「みこもり」と訛って、「御子守」すなわち「子守大明神」となって諸人の崇敬を集めるに至ったというものであった。
 宣長は自分が「神の申し子」であることを自認し、それに深く感謝し神の恩寵に日々感謝していたのである。

(d)自分は何をなすべき人間として生まれたのか?-葛藤の中で選択された皇室の守りとしての神国思想
 しかし神への誓願で生まれたと信じる人物は、現代ならいざしらず、江戸時代ならかなりの数いたことであろう。まだまだ神仏への信仰の篤い時代であったのだから。
 だがそうした神への誓願で生まれたと信じた人物がみな、日本は神国であり万国に優れた国で、外国はみな我が国を尊崇し従うべきだという過激な神国論を抱き、それを鼓舞したわけではない。
 宣長がこの過激な神国論者となった背景には、もう一つ決定的な深刻な問題があったのであり、この点で宣長は他の近世人とは異なっていた。
 この点を初めて明らかにし、詳しく論じたのが先にも見た松本滋であったので、彼の論に従って以下に論じておこう。
 本居宣長は、1752(宝暦2)年3月23歳の時に、医学を学ぶために京都に上るや、その姓を小津から本居に変え、さらに在京中の1755(宝暦5)年に、名を栄貞から宣長と改めている。これが「本居宣長」の誕生である。
 実はこの本居という姓は、彼の家の先祖の姓であって、彼自身は本居の血筋は引いていない。
 彼の家は、伊勢国北畠家の家臣であった桓武平氏の流を汲む本居武秀が主家滅亡のあと浪人し、新しい国主の蒲生氏郷に仕えて新任地の会津に赴き、その地での奥州九戸の乱鎮圧の戦で戦死したあと、後家となった身ごもれる妻が元の伊勢に戻ったものの、本居本家には戻れず、松阪の近くの小津村に住む商人・小津源右衛門の家に厄介になり、そこで男児を産んだ。その後松阪に出て木綿業を営んだ源右衛門とともに母子は松阪に移り、その一子が長じた後、源右衛門の長女と夫婦となって分家し、商売を継いで出来た家である。
 その先祖の名は、小津七右衛門。
 しかし彼は自分が武士の子であり、主家蒲生家はお腹の子が男子であれば、家臣として召抱え家が成り立つようにしようと約束したにも関らず、腹に胎児を宿した若い後家が動揺して故郷に戻ってしまい、商人の妻となって息子を商家の跡取りとしたことを知らずに育ち、長生して ひとかどの木綿商人となった。だが晩年母の死後、久しく胸に抱えていた自身の出生についての疑問を、年来の下僕であり本居武秀の家臣であった老僕を問いただして、自身の「出生の秘密」を知ってしまった。
 しかもそこで知ったこととして、彼の父・本居武秀は戦いに出陣するおりに、お腹の大きい妻のことを家に残した二人の従者に「もし我等が討死したら、おまえたちは奥を介抱し、安産の上、もし男子出生のときは、我等が家名を相続せしめよ」と遺言して行ったということであった。
 なんと父の遺言は実行されなかった。
 だが小津七右衛門はすでに50歳にもなっており、父の遺言を実行することはできず、この知りえた家の由来を文書にして子孫に残したのである。
 この本居武秀の息子小津七右衛門に始まる小津家は、三代後になって跡とりを失い、本家小津に嫁に行っていて一子をなしたが後家となっていた娘を呼び戻し、そこに小津本家の次男を娶わせて家を継がせた。これが宣長の父の三四右衛門定利である。しかし定利の妻・きよは早世し、定利は親族村田家から嫁をもらい、先妻の子宗五郎定治を跡継ぎと定めた。
 つまり宣長の義兄にあたる定治こそが本居の血筋を引いた最後の人物であり、1751(宝暦元)年に彼が40歳で死んだことで、本来の本居武秀の血筋は絶えたのである。
 このように本来は血がつながっていない本居の名を宣長が継いだことに隠された意味があったと、松本滋は論じている。
 それはこうだ。
 宣長は本来、木綿商人小津家を継ぐことを期待されて生まれた人物であった。しかも彼の父定利は、1740(元文5)年7月に江戸店で死去する前の5月に、松阪の妻勝に宛てた手紙の中で「私が死去した後には、健康に気をつけて子どもを育て、御先祖跡相続できるようくれぐれも致されたい」との遺言を残していた。
 小津家の跡取りとされていた宗五郎定治は義理の弟富之助(後の宣長)が生まれた後家を出て小津家の相続人を辞退する意思を示し、すでに江戸で自分の店も構えており、定利はこのことを承認していた。したがって小津定利は、富之助改め弥四郎(後の宣長)が成人した後に、彼の店を弥四郎が継ぐことを期待してこのような遺言を残したのである。
 小津家の跡取りと期待されて神への誓願によって生を受けた宣長は、いまだ11歳の時に父が病死し、その父が将来宣長に店を継がせよとの遺言を残したことで、亡き父と先祖からの期待、そして養育してくれている母からの期待と、何重もの重い期待を背負わされたのであった。
 しかしどうやら宣長は、商人になるよりは、学問をしたいという欲求が幼少時より強かったようだ。
 というのは、宣長は、1744(延享元)年12月に15歳で元服した後、翌年1745(延享2)年の4月からその翌年の1746(延享3)年の4月まで、江戸にある叔父の源四郎の店で商人修行をしているのだが、この一年間のことについては、後年 の1798(寛政10)年彼が69歳のとき、主著「古事記伝}を完成した1ヵ月ほどあとに書いた、自分および小津家・本居家の来歴を述べた「家のむかし物語」の中では一言も触れていない。さらに彼は1748(寛延元)年11月19歳のときには、伊勢山田の紙商人今井田家に養子に入り、独立して紙商売を営んだのだが、その2年後の1750(寛延3)年の12月には、自ら今井田家と離縁して、故郷松阪に戻ってしまっている。そしてこのことについては、「家のむかし物語」の中では、「寛延元年には、ある人の子になりて、山田にゆきて、二年あまり有りしが、ねがう心にかなわぬ事有りしによりて、同三年、離縁してかえりぬ」と、その離縁の理由を彼自身の心に「ねがう心にかなわぬ事」が有った故に、彼自ら離縁を申し出たと説明している。
 これ以上詳しい説明は宣長はしていないのだが、松本滋は、宣長はすでに15歳の頃より学問の道に入りたいと願っていたのだが、母の願いに押されて江戸に商人修行に行ったものの一年で戻り、さらに伊勢山田の今井田家に養子に入って紙商売を始めたものの、やはり学問の道に入りたいとの強い願いがあって、商人に徹しきれずに家に戻ったものだと推測した。
 この推測には傍証がある。
 というのは宣長は、江戸に修行に行く1745(延享2)年の少し前、1743(寛保3)年14歳の時から様々な書物を書写しはじめ、翌年1744(延享元)年には、様々な系図を書写したり、「神器伝授図」「中華歴代帝王国統相承図」という、中国歴代帝王の継承図などを書き著し、次の年の1745(延享2)年、すなわち江戸店に商人修行に行く直前の2・3月から、「経籍」という「神道書」「儒書」「仏典」など様々な書物の名前を書き上げたものを作り、膨大な書物を書写して学問するという決意を示していた。そしてこの作業と平行して、天皇家や将軍家系図や「松阪勝覧」という松阪の地誌などを書写するなど、学問に余念が無かったのである。
 さらに江戸店での修行から戻った1746(延享3)年4月の翌月には、日本国六十余州の詳細な地図の作成に取り掛かり、この作業はおよそ4年かかった1751(宝暦元)年12月に、ようやく完成するに至っている。つまりこの詳細な日本全図は、江戸店から戻ってから、伊勢山田の今井田家に養子に行って紙商人となった時期もずっと続けられ、完成したのは、今井田家を離縁して家に戻った翌年、京都遊学に行く直前であったのだ。
 またこの一方で宣長は、江戸店から戻った年1746(延享3)年の7月には、「都考抜書」という、京都の詳しい地誌・歴史を記した書物を作り始めている。
 これは、「古今集」「伊勢物語」「宇治拾遺物語」「平家物語」「徒然草」などの古典から該当の個所を抜書きして成したものだが、引用された書物としては圧倒的に平家物語が多い。そしてこの書物は、翌年1747(延享4)年の11月に三冊目が出来上がって終っている。
 宣長は14歳の頃から、猛烈に独力で学問の道に自ら入り込んでいたのであり、このことから、宣長自身は、商人ではなく学問の道に入りたいと強く願っていたことがわかるのだ。
 しかしこうなると、宣長は、父の遺言にも母の願いにも背くことになる。
 しかも宣長自身は、父母が商家小津家を継ぐ跡取りとして神に願って生まれた子であるのだから、神が許した商家の跡取りという道にも背くことになるのだ。
 松本滋は、こうして宣長は14歳のころから、学問をしたいという自身の願いと、商家を継がせたいという亡父と母との願いの板ばさみになり、自分は何のためにこの世に生まれ、何を成すべき人間として生を受けたのかという、深い自問に囚われるようになったのではと推測している。
 そしてこの深い悩みに光明を照らし、自分の進むべき道を指し示してくれたのが、宣長が小津家のどこからか見つけ出した、家祖小津七右衛門が自分の「出生の秘密」と家の来歴を記した書類であり、そこには先に見たように、小津七右衛門自身が本居武秀という武士の子として生まれ、彼は本居家の家督を継ぐべきものとして父の遺言を受けて生まれてきたという事実が書き記されていた。
 さらにこの書の重要なところは、小津七右衛門自身がこの事実を知ったのが50歳にもなったときで、すでに木綿商人として世に出ており、家族や使用人を抱えた身であったため、父の遺言を実現できないという事実を記してあったことである。
 宣長はこの家祖の書類に出会い、本居の姓を継ぎ、家祖が果たせなかった武士としての本居家を再興することに自分が邁進することで、商人となって亡父や母の願いを実現することに代わる、新たな自分自身の存在の意味を獲得したのではないか。
 これが松本滋の仮説である。
 では、宣長がこの家祖の書を見たのは何時であったか。
 残念ながら宣長自身はその時期について何も語っていない。しかし傍証はある。
 それは、先に見た「都考抜書」の中の2巻に「洛外」の項目に対応した地図があるのだが、この地図には、「延享3年丙寅十月廿七日 本居真良栄貞」との署名が付されていることである。
 これはすなわち、1746(延享3)年11月、宣長が17歳の時すでに、彼自身が「本居」姓を自称していたことを示し、これが本居姓を宣長が使用した初見であることから、おそくとも17歳の 秋には宣長は、家祖の書を読み、本居姓に復したいとの強い思いを抱いていたことを示している。
 そしてこれ以後も宣長はしばしば、彼の読んだ歌を記した「石上稿」などの書類に、「本居栄貞」の署名を自書している。
 こうして14歳の頃から自分が何を成すべきか悩んでいた宣長は、商人として修行を行う傍ら、家祖の書を見て、武士としての本居家再興を自分の生きる道として密かに願っていた。そしてこの願いは、1751(宝暦2)年に義兄定治が死去したために彼が小津家の家督を継ぎ、翌年1752(宝暦3)年に、息子が商人には向かず学問をすることを願っていることに気付いた母の後押しで京都に医者になるために遊学したとき、その第一歩を記したのである。
 だから彼は京都遊学にあたって小津から本居へと姓を変更し、さらに京都遊学の末年、契沖の学を知ってそれを古典を解読する方法に使用したとき、従来の神道家や儒学者が言っている古代の日本とは異なった姿が見えてきて、神国日本への確固たる信念が裏付けられ始めたとき、彼は名前を宣長という、王朝貴族風の名前に変更して、学者としての道に入って行ったのだ。
 さらにもう一つ、これは松本滋も指摘していないことなのだが、宣長が本居姓を選択するとき、この家が桓武平氏の流を汲んでいたということも重要である。
 本居家は桓武平氏の流を汲む本居県判官平建郷を祖とし、その四代目の左馬助直武から8代にわたって、伊勢国司北畠氏に仕えた武士であった。
 ということは、本居氏は桓武天皇の血をひく武家であるとともに、伊勢国司北畠氏という、南北朝の騒乱に当って、南朝天皇家を支えるために自ら伊勢に下ってその地の豪族を集め、北朝室町幕府に対抗する勢力として長く伊勢に覇を張った尊王の家に仕えた武家であった。
 要するに本居家は、天皇家の御守りなのである。
 この事実は、幼少時から神仏に対する尊崇と皇室に対する尊崇の環境の中で育ってきた宣長には、神の啓示と思えたのではないだろうか。
 「神の申し子」として商家小津家を継ぐために生を受けた宣長。しかしこれを願っていた亡父と母の願いに背いて学問の道に入ろうと悩んでいた宣長にとって、この道を選択することは、父母の期待に背くだけではなく、自分をこの世に送り出してくれた神の恩にも背くものと意識されていたであろう。この宣長の前に、天皇家の血筋を受け、天皇家の御守りとして戦ってきた武士・本居家の当主となるべく生を受けながら、それを果たせずに商人となった家祖・小津七右衛門の遺言とも言える家の伝えを記した書が現れ、宣長に対して、「本居家を継げ」と呼びかけている。
 なんと彼は、幼少時から謡曲を通じて親しんできた平家の血筋を受けた家の跡取りとして生まれたのだ。
 宣長が、「延享3年丙寅十月廿七日 本居真良栄貞」と、主として平家物語に拠って作った京都の地歴書である「都考抜書」の中の地図に署名したとき、彼の脳裏には、天皇家天皇家を中心として栄えた古の日本、とりわけ王朝時代への強い憧れとともに、彼自身がその天皇家の御守りである平家の血筋を受け継ぐものとして世に出られる可能性に、胸打ち震えていたのではなかろうか。
 ただし武家としてではなく、古典から抜書きしたことで明らかになってきたように、近年衰微している天皇家を中心とした世の中のあり方を、学問を通じて明らかにすることによって、天皇家を守り、神国日本を守る可能性に。
 そして後年功なり遂げて宣長が、紀州藩奥医師と成り武家身分となって、藩主に治世論を講義することになったとき、宣長のこの青年の日の夢である皇室の御守りである本居家の再興は、まさに実現したのであった。

注:宣長は、1792(寛政4)年に紀州藩奥医師格となったときは5人扶持、1794(寛政6)年の初めての御前講義を終えた後に加増され、10人扶持となった。微禄とはいえ、武士身分になったわけである。

 この事実もまた宣長にとっては、神徳の成せる技と思われたことであろう。
 このように見てくるとき、宣長にとって、日本は神の子孫である天皇家が今も統治する神国であり、それゆえ日本は万国に優越するという神国思想・日本至上主義思想の選択は、彼自身の存在の意味と不可分のものである信仰にも似たものであったと言えよう。
 この意味で彼が幼少時に平家物語に多く題材をとった謡曲を学び、さらに平家物語などの古典によって京都の地誌をまとめようと作業するかたわら、同じころから和歌を学び、その中で神の恩寵に感謝する歌を作ったり、さらにはよく知られているように、京都遊学中に宣長が、儒学の師である堀景山を通じて平家琵琶を習っていたということは、彼の神国思想の形成とその深化に関ることであったことがわかる。


宣長以後の国学の展開

 では最後に、本居宣長の死後、彼が草創した皇朝の学としての国学はどうなったのか。このことについて簡単に見ておこう。
 本居宣長の日本神国論は、その治世論としての表面的な穏やかさの裏側に、徳川将軍体制を根源的に批判する思想的機軸が隠されていることを、同時代の人々も鋭く嗅ぎ取っていた。
 このことは、尾張徳川家の用人・人見弥右衛門が、同僚である宣長の門人(おそらく横井千秋)が「古事記伝」を主君に献上しようと画策したときこの企てに反対し、結局はこれに賛成するにあたって、この書の冒頭に次のような一節を書き加えることを条件にしたことによく示されている。
 それは、「此書古訓の吟味は明細に御座候へ共、此主意を御厚信御座候而は、大に御政事の害になり申候間、其思召に而御覧可被遊」という、宣長国学の危険性を指摘する文章であった。
 そして宣長が死去したことを聞いた、時の幕府大学頭林齋も、「近頃、和学者の蕣庵(春庵・宣長の通称)…などもよき時分に死し申候。さもなければ大事に成可申候。」と述べたと、平戸藩松浦静山の「甲子夜話」に記録されている。
 大政委任論に仮託されて世に流布された宣長国学が解く神国論の反近代の思想は、確実に徳川将軍家体制を根源的に批判する爆薬・毒薬ともなることが理解されていたのだ。またそうだからこそ、現実の体制に批判的な人士に、「もう一つの日本」として、宣長が描く神ながらの道に沿った神国日本のありかたが、多くの人に受け入れられたのであった。
 では宣長死後、国学はどのように展開したのであろうか?

(a)広く民衆にまで自身の生き方の問題として神国観を広めた平田国学
 本居宣長国学は、直弟子で約500人。多くは伊勢周辺の有力町人と各地の武士・大名であった。
 しかし彼らの多くは、歌学派として古代風の歌を詠むために古典に依拠して古語を明らかにするという、宣長の古文辞学者としての側面を継承し、彼の思想家としての側面を受け継いだものはほとんどいなかった。
 この宣長の社会思想家・政治思想家としての側面を受け継ぎ、国学を広く普及させたのは、宣長死後の門人の一人である平田篤胤(1776‐1843)であった。
 秋田藩士の子に生まれたが幼少期以来貧しい苦しい生活をした篤胤は、20歳の時江戸に出奔し、様々な肉体労働に従事しながら、独学で国学儒学蘭学まで学び、独自の境地を開いた。そしてその熱心な学究的姿勢に感心した松山藩士で軍学者の平田藤兵衛篤穏の養子となり家を継いだ。
 そして彼の国学宣長よりもっと多くの人に受け入れられ、広く日本社会に広がった。
 しかし篤胤自身は生涯不遇であり、尾張藩に一時三人扶持で迎え入れられたが、幕府に彼の学説が疑惑を持たれたことで、その扶持も剥奪され、さらに水戸藩にも仕官を求めたが断られ、生涯貧窮に喘いだ。そして晩年の1841(天保12)年。篤胤66歳のとき、幕府の命によって秋田藩から、以後の著述の禁止と江戸を退去して秋田に戻ることを命令され、そのまま1843(天保14)年秋田で68歳で病に倒れ死去した。
 だがその門人は、篤胤の生前にもすでに553名を数え、死後の門人は、1876(明治9)年までに3700人を越す大勢に上っていった。
 この彼の多数の門人の多くが、名主や村役人として村政を握っていた村に住む豪農・在村商人であり、彼らをして政治的主体として幕末に行動せしめたところに、平田篤胤国学の特徴はある。
 この点で「つくる会」教科書が、篤胤の門人が「町人や農民の有力者の間に広められ、尊王思想(皇室を尊ぶ思想)をつちかった」と記述したのは正しい。
 この在村の村役人であり、手作り地主かつ手工業者・商人として村の指導者であった豪農は、村一番の知識人でもあり、彼ら自身の手で村に郷塾を構えて村人達を平田国学によって教育するだけではなく、中には幕末期において、尊皇攘夷をかかげて行動する草莽の志士となり、倒幕運動に寄与したものもいたのだ。
 この先駆けとして、本巻の【32】で見た、大塩平八郎の乱に呼応して、1838(天保9)年5月に、越後柏崎(新潟県柏崎市)の桑名藩陣屋を襲った、生田万(1801‐37)がいる。彼は豪農ではなく武士ではあるが、国学に基づく藩政改革を志しそれが頓挫するや浪人し、私塾で町人や豪農に国学を教えていた人物であった。
 ではなぜ篤胤の国学は、宣長のそれと違って、豪農層に広がり、彼らをして、自ら世の中のあり方を変える行動へと誘ったのか。
 それは篤胤の国学は、宣長のそれとは異なって、一人一人の生き方の問題として、その行動の指針としてその教説を展開したからであった。
 これに反して師匠の宣長は、国学を学びそれを信奉する一人一人は、直接世の中を変える行動にでるのではなく、一人一人が古代の日本人の心に沿って静かに生きることを説き、多くの人が彼の教説に従えば、神の子孫である天皇が治める神国日本は、自ずから神が定めた方向に向くと説いていた。
 では篤胤は自身の教説を如何に説いたのか。
 彼の国学は、宣長古事記に依拠した日本神国論・日本至上主義に立っており、この点では篤胤は、師の説を継承していた。
 しかし彼の教説は、師の説をさらに押し進め押し広げたものになっていた。以下、彼の著書「古学大意」などによってみることとしよう。
 篤胤は、日本人は皆、神の子であるとする。
 それは天地万物を作った産霊(むすび)の神の子はたくさんあって、すべての神はその子孫と言っても良く、天照大御神の孫をして地上の国を治めさせた時に添えて降ろした神もみな、この産霊の神の子なのだと。そしてこの多くの神の子孫が橘だとか藤原だとかその他諸々の姓を賜って土着し、さらに天皇の子孫も、源氏だとか平氏だとかの姓を賜って土着し、こうした神々の子孫がみな我々なのだからであると。我々の姓を見れば、その祖先の神が誰であるかはわかると。
 こうして篤胤は、神国においては、それを統治する天皇だけが神の子孫なのではなく、民もまたその天孫に仕える神の子孫なのであると、極めて注目すべき論を展開する。
 だから篤胤は、神国の民は、生まれながらにして産霊の神が定めた神ながらの道を体に備えており、神の意思に従って生きる道を知っているから、外国のように、なになにの学とか何々の教えとかいった形で、人の生き方を説く道が存在しないのだと言う。
 それゆえ神国の民はみな、その存在そのものとして、産霊の神の教えに従って、正しく生き、天孫の政を助けることができるのだと。
 つまりこれは、百姓なら農作物を作ることをもって、職人なら有用な物を工作することをもって、そして商人なら様々な有用な物資を流通させることをもって、その家業そのもので天皇を補佐することができると言ったに等しい。これは儒学において、君子を助けて国を治める道は武士だけではなく、百姓や町人もその家業をもって、君子を補佐する任務(=分)が天によって定められているという教説を、篤胤が取り入れたものである。
 そしてさらに篤胤は、神国の民は正しい神の教えに従った生き方をしているから、死後霊魂となっても黄泉の国に行くことはなく神となり、眼に見えないが現世の側に存在する幽冥界に行って、子孫の無事と繁栄を祈念し、子孫を見守っているのだと、篤胤は説いたのだ。
 この点については宣長は、人は神ながらの道にそって良い行いをしても、それが現世においてよい評価を受けるとは限らず悲惨な生涯を送ることもあり、また死後はみな、汚い汚濁に満ちた死後の世界である黄泉の国に行くしかないと説いており、これも皆神の計らいなのだから従うしかないと言って、人の心の救済には心を払わなかったことと、大きく異なる点である。
 しかし篤胤の先にみたような教説の展開は、これと全く異なり、民の心の救済に意を注いでいる。
 人は皆神の子孫であり、生まれながらにして神ながらの道に沿って正しく生きる術を心得ている。それは産霊の神がおつくりになり定めた、人々が生きるための様々な産業に熱心に従うことであり、それがそのまま天孫の政を補佐するものなのだ。そしてそうして正しい生き方をした民は、死後は神となって、子孫の傍らに居て、子孫の無事と繁栄を祈りそれを助けている。
 これが篤胤が提示した、神国の民の生き方であった。
 こう考えてくれば、この神国の民には、百姓も町人も武士も大名も区別はなく、みんな神の子として、天の神の子孫として政を行う天皇を補佐して、この世を動かしていくことができるのだ。
 篤胤の教説は、なんと西洋の天賦人権論と似ていることか。
 ここにおいては、天皇以外は全て平等となる。
 そして産霊の神のイメージは、民が日々祭って祈ってきた、村や町に鎮座する彼らの祖霊や地域に鎮座する産土(うぶすな)の神のイメージと重なり、古来民の間にある、祖先の霊はいつも自身の側にいて守ってくれるという信仰にも似ており、民の生活そのものが、神の意思にかなったものとして、彼らに生きる自信を与えたのだ。
 また篤胤は、大和心・大和魂とは、神国の民が生まれながらに持っている神ながらの道に沿って生きるこころと解釈した。そして、本来は「自分は山桜が好きだ。自分は山桜そのものだ」という意味にしか過ぎない宣長の有名な歌「しきしまの大和こころを人問わば、朝日に匂う山桜花」を、「大和心とはどんなものかと問われたならば、春の山桜がたんと美しく咲いているところに朝日がさしのぼり、きらきらと輝いているようなもので、私の心もそのとりですと答える」と解釈し、神ながらの道に生きることを、宣長の歌で美化し、皇室を尊崇して生きることを人々に鼓舞した。
 この篤胤の解釈は、桜のようにぱっと咲いて散るのが大和魂だとする、後年の大東亜戦争に突入する時期の大和魂解釈に道を開いた。
 これが篤胤の国学が、広く民衆の間に、とりわけその指導者の間に広まった理由であると考えられる。
 この点で篤胤の神国思想は、天賦人権論に基づいて国会を開設し、議会制民主主義を進める方向を内包していると同時に、天皇を民の親として、天皇親政国家日本に包摂する臣民の道に進める方向をも内包している。そしてこれは共に明治維新後において、神である天皇が臣民に与えた権利を元にした立憲君主制の日本国家のありかたと、他方で天皇を臣民の親としてあがめ臣民は親に奉仕することを説く教育勅語体制と憲法が定めた神聖な天皇がもつ国権としての天皇大権によって国民の参政権に依拠した立憲君主体制を制限解体する動きとして、相互に矛盾しあう二つの体制として結実することになる。
 さらに篤胤は、日本が神国である理由を、宣長のように日本の古伝説だけに止めない。外国の古伝説すら神国論を補完するものとして利用した。
 彼は外国の古伝説も、神国の古伝説が誤って形を変えて伝わったものだとし、中国では日本の天つ神は「天」と呼ぶし、インドでは「梵天」と呼ばれて、人々を長く治めてきた。従って儒教の説く教えの中にも、日本の神ながらの道が反映されているとして、先の分に基づいた儒教道徳を肯定する。しかし釈迦の教説は、この梵天を家来としてしまうほどの力のある仏という神がその上位を占めるように改編されたものであり、日本の神ながらの道にはあわないと否定する。
 また篤胤は、蘭学の知識も応用し、オランダ人の言説までも、日本が神国である証拠だとして援用する。
 たとえば、江戸時代初期の元禄の頃(1690・元禄3年来日。以後二年間滞在)にオランダ商館医師として長崎に居たケンペル(1651-1716)が著した「日本誌」の末尾の一節をオランダ通詞の志筑忠雄(1760‐1806)が、1801(享和元)年に翻訳して「鎖国論」と題して出版した書を援用し、日本が外国との交わりを絶って鎖国をできたのは、ちょうど地球の最も温暖な緯度のところに日本があり、外国に頼らなくても生活に必要なものは全て産出できることや、絶海の孤島であるが故に、大国の侵略に会わなかったからだなどという教説を引用して、これこそ神のはからいが働いた国であることをオランダ人すら認めていると説いて、日本は外国に優越した国であると説いたのだ。
 こうして平田篤胤国学は、封建制度と発展した諸産業に依拠した百姓町人の力が衝突して社会が不安になっていた時代、それと同時に、西洋列強による開国要求に揺さぶられ、政治体制が極めて不安定となっていた時代に生きた人々に、一人一人がどう生きるべきか、そして日本国はどうあるべきかの道筋を、確固として示しえたのだ。
 だから、本居宣長が創始した神国としての日本の国の在り方を探求した国学は、平田篤胤によって、神国の民の生き方のありかたまで明らかにした、もう一つの日本を示す有力な教説となり、広く人々の間に受け入れられていった。
 この平田国学の門人たちが、幕末から明治維新期において草莽の志士として活動し、明治維新を下から支え明治国家を作っていった様は、島崎藤村の「夜明け前」などによく描かれている。

注:05年8月刊の新版の国学についての記述は、おおむね旧版と同じである。ただし国学が「町人や農民の有力者」に広がったのが平田篤胤によるものである事実は削除され、「やがて・・・広がった」という形の記述になってしまった。これによって、本居宣長国学平田篤胤国学との違いを契機として、国学運動とその思想に、様々な方向につながる異なった傾向が孕まれていたことを掴み取る契機は失われた。これは国学とは単なる国粋主義だとする、従来の狭い捉え方に戻ったものと言えよう。


江戸時代の識字率に関する議論?斎藤論文の推計を中心に

あの?、常識的に考えて、明治初期って江戸時代より識字率低くなっている可能性ありません?なんといったって内戦で国内が荒れ果てていたのですから。

可能性はありますが、そういうデータはみたことがありません。江戸時代の識字率を90%とするソースはなく、逆に男子40?50%、女子15%と推計されているようなので、90%は根拠なしということになると思います。

読ませていただきました。参考にしていらっしゃるデータは自署率ですね。
これはリンクを貼ってある論文にもあるように、データとして使うのには問題がありすぎませんか?むしろ、これよりは低くないと見るのが妥当なのでは?

もう一点、自署率≠識字率か、という問題があります。ひらがなが読めるだけ、文字が読めるだけ、というのは普通は識字率と呼びません。例えば文字が読めるだけならば1800年代のスウェーデン識字率はほぼ100%ですが、それを当時の識字率だとする人はいないと思います。

滋賀県男子が90%女子50%が全国最高という数字もがありましたが、これはソースがなく、また、識字率自体は調べられることは滅多にないという記述から、子供の自署率が元のこの数字よりは多分何割か多め、というのが妥当な線かな、と個人的にはよませていただきました。

ええ、結局はデータの不足ということになると思います。そういう状況で90%という数字を持ち出して「他国よりもすごいんだ」とすることに、私は疑問を感じたのですね。さらに現在日本が識字率世界一というのははっきりと間違いなわけですし。

ただ、自署率にかんしては、明治にやっと姓を名乗れるようになった、とか、サインをする習慣がない、などの事情で、実際の読み書き能力より低いのでは、という疑問を持ったのが私の引っ掛かりの理由でした。

江戸時代の推計部分は「寺子屋への就学率=識字率」です。その結論が男子40?50%、女子15%であり、それでも「就学率=識字率は高く見積もり過ぎだ」という議論があるわけです。かなとアルファベットの違いで日本側を高く補正する必要はないと思います。

もちろん研究者にバイアスがかかっている可能性はあります。ヨーロッパ諸国以外はそこまで発達していないだろう、と。ただそれは日本側にも言えることで、日本の識字率は他の先進諸国より高かったのだ、という統計はありません。その状態で私はどちらかに肩入れはできないです。

そういう要素まで入れるならば、「日本の識字率が高いのは単に言語が簡単だからだ」という議論もできそうですね。私は識字率の高さはその国の発達度とそこまで関連しないと考えているので(英独仏の関係などからみても)、補強的な証拠になるかもしれません。

私にはそれはあまりよく分かりません。DeFrancisは日本語の文字体系を人類史上「最低のもののひとつ」と評価しています。そのあたりは言語学者でも意見が分かれるのではないでしょうか。


また江戸時代を称賛する向きとして「江戸時代の日本人は世界有数の識字率を誇った」ともいいます。これは確かにその通りで、幕末に来た欧米人が「日本人は貧しそうな人でも字を読んでいる」と感嘆していますし、年貢の計算や土地改良のための設計図作成などで数学の知識が必要なため江戸時代の農民は多分同時代の欧州の農民よりもはるかにそういった能力が高かったと言います。この時代の日本には儒教を教える昌平講を頂点に藩校などが充実し、下手をすると本家本元の中国や儒教国家だと今でも威張っている韓国よりも儒学研究は発展してたことでしょう。さらにこれに西洋の学問である蘭学がありましたから、多分このころの日本は〝高度知識社会〟だと言っても過言ではないでしょう。

 ただし、これも最近の研究では識字率には地域差があり、地域によってはその通りのところもありますが識字率が低いところも存在したようです。また、庶民が読めたのはせいぜい漢字の少ない平仮名文が主流で、そんな漢字だらけの固い本は読めなかったと言います。(しかし、この当時の日本人の読書力は凄かった事は認めましょう。江戸時代の日本はそういった出版物が非常に発達し、貸本屋が繁盛するくらいでした。)

このように少ない例ですが、時代劇での江戸時代と実際の江戸時代はぜんぜん別物だという事がお分かりいただけたと思います。

今年は秩父困民党蜂起から120年

けっこう「お上」に強かった日本の民衆 百姓一揆は組織された異議申し立てだった (大塩八平)

 神山征二郎監督の映画「草の乱」が話題をよんでいる。1884年11月1日秩父郡吉田村椋神社に、刀・槍・猟銃で武装した農民3000人が集まった。明治政府にもの申す世に言う秩父困民党の蜂起だ。今年は蜂起から120周年にあたる。

百姓一揆は自然発生的だったのか?

 「草の乱」の神山監督は秩父困民党は明治政府の打倒を目指していたから、単なる一揆ではないと強調している。一揆は自然発生的、革命は目的意識的と考えているようだ。

 学校の歴史教科書にも、江戸時代に「百姓一揆」という農民反乱や「打ちこわし」という都市暴動がしばしばおこったことが記録されている。それは飢饉や貧困で、それほどまでに庶民が困窮していた例として紹介される。

 しかし最近の近世民衆史研究によると、百姓一揆や打ちこわしは、困窮し絶望した庶民の暴走による破壊的な暴動などではなかったのだ。明確な目的・要求をかかげ、作法(戦略と戦術)を守る組織的な政治行動であり、その目的・要求は何らかのかたちで達成されるのが一般的だった。

 幕末期に日本を訪れた英国公使オールコックは、上級者の下級者に対する言動が丁寧なことを日本人の特徴として特筆している。戦国時代に日本に滞在していたキリスト教伝道師たちも、下級者の面目を潰した上級者は必ず復讐されるので、地位が高くても他人を侮辱しないよう常に注意を払っているのが日本人だと書き残している。そこから次のようなことが言えるのだ。

一揆は組織だった反乱だった

 260年間の江戸時代を通して、記録に残っている百姓一揆は3212件、打ちこわしは488件。ここで言う「百姓一揆」とか「打ちこわし」というのはどういうものか。

 百姓というのは、もともと農民というだけの意味ではなく、漁民や山地狩猟民、さらに商人なども含めて「百姓」と呼ばれていた。また「一揆」も、元来は結社とか連合組織とかを意味する言葉で、反乱や蜂起の意味はなかった。

 しかし江戸時代には日常の生産関係と無関係な結社をつくること(徒党を組むこと)一般が幕府によって禁止されていたので、徒党を組むこと自体が「反乱」だった。つまり「百姓一揆」とは、江戸時代の農民主導の組織的反乱ということになる。

 「打ちこわし」は、一言でいえば都市暴動だが、偶発的な暴力沙汰とは全く違い、こちらも組織的行動原則にのっとって行われるのが常だった。庶民生活を圧迫していると見られた豪商や高利貸しの店などを集団で襲撃し建物を破壊するのが具体的な行動内容で、①人身の殺傷はしない、②便乗しての略奪行為もしない、③火災を引き起こさないよう注意する、この3原則が基本的には厳格に守られた。

 百姓一揆の一環として、農民が敵対する有力者の邸を打ち壊した実例もある。つまり打ちこわしと百姓一揆とで、本質的な性格の違いがあったわけではない。行動主体の中心が農漁村部の百姓か都市住民かの違いにすぎず、いずれもきわめて組織だった反乱だったのだ。

百姓一揆は大体勝利した

 江戸時代の日本は、一般庶民の識字率が近代以前の社会としては世界に例を見ないほど高く、一揆に参加した民衆の側が残した記録も膨大に残されている。これと権力側が作った記録とを照らし合わせると、今からでも相当に客観的な「百姓一揆の実像」に迫ることができる。保坂智著『百姓一揆とその作法』(吉川弘文館「歴史文化ライブラリー」)や青木美智男著『百姓一揆の時代』(校倉書房)等によると、百姓一揆の実態は以下のようなものだった。

 一揆は年貢の減免、米価の引き下げ、深刻な飢饉の際には公的責任で食糧を確保して住民に配給するよう迫る、あるいは特定の政策担当者の罷免など、具体的な要求項目を明示して行動する民衆運動だった。

 要求が具体的だったから一揆での民衆の要求が完全に無視された例は数えるほどしかなく、大半が要求項目を相当程度まで実現した。例えば、凶作の年に年貢の支払い免除を求めた一揆が「支払いの10万日繰り延べ」の回答を引き出した例がある。10万日は273年。要するに権力側の顔を立てた上で、事実上の年貢支払い免除を勝ち取ったのだ。要求がほとんど通るのなら、民衆は常時一揆を起こしていればよさそうなものだが、もちろん現実はそんなに甘くない。徒党を組むこと自体が非合法とされていたから、一揆の要求が受け入れられても、多くのばあい指導者は獄中死させられたり処刑されたりした。

 一揆や打ちこわしで多くの人々が結集しているときには、これを現場で鎮圧することは幕府や藩主にとっても容易ではなかった。無理に武力鎮圧しようとして現場で死傷者を出したりすれば、更に激しい一揆を引き起こしかねない。民衆の行動が人身殺傷にまで至らないかぎり権力側も現場での実力行使には慎重だった。かわりに、参加者が解散し日常生活に戻ったあとで、権力は行動の指導者を摘発して逮捕、処罰を行った。

 こうした権力の弾圧に対して民衆は、できるだけ犠牲者を出さないように努力した。権力側と145日間にもわたる交渉を続けた結果、所期目的を達成した上に、一人の処罰者も出さないですませた1853年の「南部三閉伊(さんへいい)一揆」など、犠牲者皆無で大勝利した一揆複数例ある。

村ぐるみ一揆から連立一揆

 百姓一揆の場合、17世紀半ばまでは、一揆は村単位または最大でも数ヵ村のまとまりで決起した。この段階では、日常の生産単位である村がそのまま一揆の主体であり、日常会話の中で権力への不満が言い交わされることから村ぐるみの蜂起へと発展していった。

 当時は、徒党を組むこと一般についての禁令は存在していても、民衆が権力機関に集団で押しかけて政策要求することを直接とりしまる法令が存在しておらず、一揆指導者を死刑にするとの原則も確立されていなかった。だからこの時期、要求実現・処罰皆無という一揆側完勝の事例が存在する一方、地域権力者の独自判断によって参加者が何十人も処刑された事例もある。

 江戸時代も中頃、17世紀末になると、一つの藩の中のほとんどの村が百姓一揆に参加する「全藩一揆」が多発するようになる。いわばゼネストだ。全藩一揆は、村々の間を廻状が回覧されて一揆が呼びかけられるところから始まる。参加を決めた村の代表者が廻状に署名を連ね、合意が明文化されていく。多数の村の合意が確認されるのと並行して、村ごとに蜂起の準備が整えられ、いよいよ大音量の合図(ほら貝や鐘、猟銃の発砲音など)で一斉に蜂起する。非合法の行動を呼びかける廻状にはリスクが伴う。廻状には神々への誓いを述べた起請文が付けられ、遊び半分の誘いでも「おとり捜査」の罠でもないことを保障する形になっていた。

 全藩一揆が急増するのは、この時期に全国的な経済流通システムができあがり、各藩とも藩内一律の経済政策を立案するようになったことに対応してのことだ。

 こうした一揆の大規模化に対応して幕府は、18世紀前半になると全国一律の百姓一揆禁令を発する。禁令では、蜂起の指導者(頭取)1人を死刑にすることが定められた。逆に言えば、最高指導者と見なされた1人以外の参加者は処罰されない原則が確立されたのだ。幕府はこれによって、指導者と一般参加者との間に亀裂を入れることを狙った。

 これに対し、一揆の側の合意文書(一揆契状、連判状)の内容は、一揆で処刑された者が出た場合にその遺族の生活を参加者が共同で保障することなど、具体的な契約内容を明文化するものになっていく。その他、一揆費用の分担方法なども連判状に明記されることが一般化し、民衆の側は一揆が指導者個人の煽動によるものでなく共同責任によるものであることを意識的に明示するようになっていった。

 1780年代を境に、人通りの多い場所に一揆の呼びかけ文を掲示する張札が、廻状にとってかわる。もともと都市部での「打ちこわし」ではこの動員方法が採られていた。百姓一揆もこの方法を採るようになったのは、商品経済の進展によって農村内部でも富農と貧農との格差が拡大、同じ村の農民どうしでも利害が対立するようになったからだ。村単位の回覧・村ぐるみの一揆参加を前提とする廻状では動員ができなくなったのだ。つまり、この1780年代以降は一揆は個々人の自主的結合によって実現されるようになったのである。

 多くの百姓が参加した一揆に同郷の富農が敵対したような場合、一揆がこの富農の邸を打ち壊しの対象とすることもあった。また、利害関係において共通するはずの者同士でも、一揆参加者(「立ち者」)と一揆参加を尻込みし見送ってしまう者(「寝者」)との分離が生まれた。あくまで個人の自主参加による闘争であることがハッキリしたわけだ。

 なお、一揆の合意文書への参加者の署名は、一般に名前を放射状に書き込んで円形に配置する形になっていた。これを「車連判」または「傘状連判」という。この形の連判がなされた理由は、一揆の筆頭者を不分明にして指導者処刑を避けようとしたためと言われてきた。が、連判状で筆頭者が判断できなくても、権力側は適当な判断で参加者の一人を首謀者扱いするだけのことで、一人の犠牲者も出さないようにするには傘状連判は役立たない。最近はむしろ、一揆参加者が日常の上下関係とは無関係にここでは対等である、との理念を表現したものと理解するのが通説になっている。ちなみに同様の車状の連署方法は、東南アジア全域から朝鮮半島、さらにイギリスにまで存在する。

一揆で鉄砲は楽器だった

 このような一揆は、一体どれほどのレベルで「武装」していたのだろうか。豊臣秀吉の「刀狩り」で、日本の農民は完全に武装解除され、権力への抵抗の手立てを奪われたと考えられてきた。ところが実は、秀吉の刀狩りでは鉄砲類は全く「狩られる」ことがなく、農民も猟銃を普通に所持しつづけていたのだ。

 鉄砲は百姓一揆でも当然のように持ち出された。ときには鎮圧部隊の何倍もの銃を一揆側が所持していた例もあった。にもかかわらず、百姓一揆で民衆側が発砲して人員殺傷をした事例は1件も記録されていない(鉄砲以外の持ち物で相手を殺害した例は、幕末に近づくにつれ散見されるようになる)。

 百姓達は鉄砲を鳴り物として、つまり発射音でアピールをするための道具として使ったのだ。武器を少なからず所持しながら、それを人身攻撃にではなく専ら意思表示に使う。百姓一揆は高度な目的意識性に支えられて行われていたのである。

 都市部での「うちこわし」でも同様の目的意識性が発揮された。経済的弱者が金目のものの集中する大商家などを襲撃するのだから、どのような理念を立てようと現場では略奪行為が起きる。だが、これが見つかれば必ず当人は仲間たちから殴りつけられ、盗んだものはその場に捨て去ることを強要された。自分たちは権力の政策変更を迫るための抗議行動をしているのだから、盗みの要素を間違っても混入させてはならない、というのが相当強固な共通認識になっていたのだ。

 映画「ラスト・サムライ」では侍たちは全く鉄砲を持たず、あたかも高潔なネイティブ・アメリカン同様の文化の保持者であるかのように描かれていた。実際には、日本は戦国時代末期には自前で銃の製造を行い、ヨーロッパのどの国よりも大量の銃が日本中にあふれていた。江戸時代にも銃は、物としては決して廃棄されたわけではなく、鳥獣狩りのために実用されつづけてもいた。

 にもかかわらず幕末の日本は、兵器に関しては全くの小国になっていた。それほどまでに江戸時代は兵器の使われることが少ない社会だったのである。それは、実力闘争は行っても武器の力にモノを言わせる闘い方は選択しなかった一揆参加者たちの冷静さが、結果的に生み出した果実だったのだ。

権力とは闘い続けるのが民衆だ

 江戸時代の中頃以降、財政難に苦しむ幕府はたびたび行政改革を行って権力基盤強化を試みた。経済的余裕の増大した農村に新たな税負担を求めたり、大資本に特権を与えて金融の活性化を図ろうとした。しかし、庶民に新たな負担を負わせようとする政策への抵抗は強く、民衆は一揆を繰り返し、「享保の改革」「天保の改革」といった幕府の中央集権政策を見事に挫折させた。江戸時代の一揆には、国政そのものを動かす力があったのだ。

 要求貫徹力が高く、闘争犠牲者も最少限に抑える、そんな一揆の方法が確立されていったのは、民衆の側が一揆の記録を意識的に後進に書き残し続けたことの成果だった。記録の内容が「次はこう闘えばいい」という教訓として広く共有され、それが全国的レベルにまで広がっていたことも、近年あきらかになっている。

 江戸時代の民衆反乱=一揆は、権力一般の廃絶も最高権力者の交代も、それ自体として目指したものではなかった(初期の島原の乱と幕末の一部の闘争を除く)。しかし、誰が権力者であろうと関係なく、現実に必要な政策を実現させるためには「お上」に逆らってでも行動し、一定のリスクを自覚的に引き受けながら、同時にそのリスクを最小化させることにも知恵を絞った。権力と闘うことが全く必要なくなる理想郷が実現するなどとは考えず、制度も為政者も不完全であることを前提としながら、具体的で切実な要求は着実にクリアしていくことが目指されたのだ。

 以上から「草の乱」に戻ると、一揆と蜂起は違うとか、一揆は自然発生的、革命は目的意識的なんて考えはすべて無意味なことが分かるだろう。秩父困民党もまた一揆だったのであり、それでよいのだ。ロシア革命にしてからがボリシェヴィキのスローガンは「平和・土地・パン」だったのだから。政府打倒のスローガンなどというのは、たまたまあったり、蜂起の後からかかげられるものということだ。権力とは闘い続けるのが民衆なのである。


報ステが驚異の大スクープ!】憲法9条戦争放棄)は幣原喜重郎首相の提案であった事が判明!木村草太氏「押しつけ憲法論こそ思考停止」

総理と祖父“改憲の原点” 岸時代の調査会肉声発見

国会前で「憲法は米国に押しつけられたのではなく、日本側が戦争放棄を提案したのです」と訴えるチラシをもらったが、配っていたのは『ドイツ人学者から見た日本国憲法』の著者シルヒトマン氏本人だった

小学館『少年少女日本の歴史』
「幣原首相が、憲法戦争放棄を盛り込むよう提案」1989年版
→「マッカーサーが、戦争放棄を提案」1994年版
と歴史的事実を正反対に改訂。『ドイツ人学者から見た日本国憲法』はこれを厳しく批判しています。

押し付け憲法論もデマですけどね。1946年5月27日の毎日新聞の世論調査で、新憲法草案を支持する回答が85%で、反対が13%、戦争放棄条項を必要が70%、必要なしが28%でした

憲法調査会の会長高柳氏は「第9条はユートピアであると見えるかもしれないが、戦争放棄を普遍ならしめるということでなければ人類が滅亡してしまうというビジョンが含まれている。第9条は一つの政治的宣言であると解釈すべきである。」と述べていた。

これは知らんかった。
→ 「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」(憲法調査会事務局)
Q 第九条の意味がよく分からない。独立したら憲法改正するのか?
A 一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論。

報ステ】新たに発見された「岸時代の憲法調査会」の記録!(◎_◎;)AB政権やウヨ連は「現・日本国憲法GHQマッカーサーの押し付け」と噴き上がるが、9条なんか当時の幣原首相からの提案だって、2人とも証言してるじゃん


「押しつけ憲法」などと言っているのは、当時の国会議員やその国会議員を選んだ人々への侮辱


木村草太氏はVTRの中でこうも言っています。安倍総理日本会議ネトウヨが後悔の涙を流さずにはいられない言葉ですね。


建設的な憲法改正論・必要なうえでの憲法改正論なら話し合う価値はありますが、「日本人が作ったモノじゃないから」という感情から憲法を変えると言うのは、決して良い方向へは行きません。


そして、こうして事実(押しつけ憲法ではない)が明らかになったわけですから、「押しつけ憲法」という土台から憲法を考えてきた人たち(安倍総理日本会議ネトウヨなど)はもう考えを改めるべき時でしょう。考えを変えることは全然恥ずかしいことではありません。


小学館『少年少女日本の歴史』
「幣原首相が、憲法戦争放棄を盛り込むよう提案」1989年版
→「マッカーサーが、戦争放棄を提案」1994年版
おお怖いねー 変えた編集部に対して何かの力が働いたて事だね。

どーしても押し付けとしたい勢力がいるんだ。

憲法第九条戦争放棄)は日本人の発案」(相曾誠治『サニワと大祓詞の神髄』山雅房 平成21年)

《 白鳥敏夫(一八八七~一九四九年)も同じA級戦犯になりました。東大出の秀才で、イタリア駐在の大使を務めた後、翼賛会から代議士に転じています。その白鳥がある日、何を間違えたのか突然、わたしに面会を申し込んできました。
 「外務省の役人から君の著した『天孫降臨の大義』という本を見せてもらったが、君はほんとうに神様を信じているのか?」
 「白鳥先生、わたしたちは神様の子どもです。外見こそ人間の姿をしていますが、間違いなく神の末裔です。そうおっしやる先生御自身も同様です」
 「いや、そんなこと言う人に初めて出会った。もう一度聞くが、確信あるのか?」
 「もちろんです」
 「それではちょっとつきあってくれんか」
 「どこへですか?」
 「ある街に大変な霊能者がいるそうだ。そこで日本の将来を占ってもらおうと思うのだが」
 独りでは心もとないという白鳥にわたしは同行しました。霊能者はおばあさんで、信奉者が引きもきらずに訪れるにぎわいです。ところがそのときはおばあさんが神霊に伺ってもなんら回答がありません。日が悪いから帰ろうということになり、二人ですごすご引き返してきたことがあります。
 よしあしは別として、実はそのころから白鳥は神(霊)がかりを始めるようになっていました。応接間でわたしと話している最中、ひょいと立ち上がっては窓から外に飛び出したりします。窓の高さは簡単にまたげるほど低くありません。加えて、白鳥は相当な肥満体です。身軽な身のこなしを見て白鳥に霊が作用していることを悟りました。
 「相曾君、困ったな。日本は負けるかもしれないぞ」
 「わかりますか」
 「うん、わかる」
 「白鳥先生、今、そんなことを口外すると危ないですよ」
 「うん、わかっている」
 白鳥がA級戦犯に指定されてからのことです。
 「”争うな、戦うな”が皇祖皇宗の教えというのは真理か?」
 「もちろんです。戦ってはいけません。戦ったから負けたのではないですか」
 「確かにそうだな。初めてわかった。処刑される前に最後の御奉公をしたいのだが……」
 「先生、いったい何を考えておられるのですか?」
 「ほかでもない。新憲法戦争放棄をうたうようマッカーサーに英文で手紙を書いたのだ」
 「先生が直接渡すのですか?」
 「いや、じかでは先方も受け取らないだろう。大先輩の幣原の所へ持っていく」
 こうして幣原喜重郎(一八七ニ~一九五一年)首相の所に戦争放棄の原案が持ち込まれたわけです。幣原は外務次官や外務大臣などの外交官畑を歩いてきた政治家です。終戦後の一九四五年十月、首相に就任し、占領軍の政策に従って憲法の改正に着手しました。
 幣原は白鳥の発案であることを極秘にし、戦争放棄の案をGHQに提出します。この秘話を知っているのはほんの数人だけです。戦争放棄進駐軍から押し付けられたと世間一般では考えられていますが、実は白鳥敏夫の発案だったのです。
 幣原の子息はかつて独協大学の教授をしていましたが、このいきさつについては全く知りませんでした。
 「父は戦争放棄の原案には全く関与していません。日記や書き残したメモにも全くそのような経緯は見当たりません。何かの間違いではないでしょうか」
 幣原はそこまで慎重に事を運んだのでしょう。
 ただ、白鳥の後輩に当たる外交官がわたしの話に近い内容を週刊誌で発表したことがあります。幣原やわたし以外にも白鳥から胸中を打ち明けられた人がわずかにいたのでしょう。
 現行憲法第九条戦争放棄は神界のおぼしめしです。》

>『まさに日本が占領下にあって、この憲法が作られたのは事実であろうと」
■安倍はもともと9条が日本人の発案であることを知っている。
 だからこういう当たり前だが絶対に否定されない言い方をしている。