バトシーラー日記

あまり知られていない様々な真実の知識をお届けします


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近現代日本という暗黒社会Part5


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1961年(昭和36年):国民健康保険法改正
       ■国民皆保険を達成
   ◎「全ての国民に良質の医療を」
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        ●1961年1月アメリカ、民主党ケネディ政権誕生
        ●エドウィン・O・ライシャワー駐日大使着任(1961年4月)
        ・ガガーリン飛行士の地球周回(1961年4月)
        ●「金プール」組織(1961年--->1968.3.17解散)
           インフレヘッジとしての金にたいする投機牽制のため、アメ
          リカ・イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・スイス・ベル
          ギーが共同出資して金をプールし、金が1ドル=35セントを少し
          でも越えそうな兆候が出たら金を売り浴びせて金の価格を維持
          する。(--->1967年、フランス(=ド・ゴール)は脱退)
              --------------------
        ・辻政信東南アジア視察中にラオスにて消息を絶つ。ラオスでは
         スパイ容疑で銃殺されたという。存在事態が怪奇に満ちていた辻
         らしい結末だったろう。(ヒトは生きてきたようにしか死なない)
         (辻の最後は明らかではなく畠山清行『何も知らなかった日本
          人』pp.295-296)ではハノイから中国に密入国し軍事監獄幽閉
          され、昭和40年も初夏、そこで病死したことになっている)。
        ・韓国軍事クー・デタ:朴正煕政権成立(昭和36年5月16日)
                   KCIA創設(初代部長:金鐘泌)
        ・北朝鮮ソ連の間に友好協力相互援助条約の締結(1961.7.6)
        ●ケネディ大統領が沖縄復帰問題について重要な先鞭をつける。
          ジョージ・ボール、エドウィン・ライシャワーの啓蒙・努力が
         実り、琉球列島問題に関する特別委員会の長にカール・カイセ
         (当時国家安全保障会議事務局員)を任命。
                <ライシャワーの進言>
            沖縄人はアメリカの軍事的支配を歓迎しており、自立など
           ということには全然関心がない、という主張は明らかに間違
           っている。ライシャワーによれば、沖縄人には一定の文化的、
           言語的特徴があるが、彼らは自分たちを日本人と考えていて、
           ほとんどが本土復帰に賛成しており、この感情は日本の激し
           い政治問題となるだろう、というのである。ライシャワー
           ケネディに、沖縄に大幅な自治を許し、日本政府と協力して
           生活水準を改善するよう勧告した。
           (マイケル・シャラー『「日米関係」とは何だったのか』
                         市川洋一訳、草思社、p.303)
        ・X線星の発見(1962年)
        ●キューバ危機(1962年10月16日~28日)
          アメリカがキューバに敷設したソ連のミサイル基地撤去を要求。
         ケネディとフルシチョフの間で無意味な戦争が回避された。
        ・対韓賠償5億ドル決定(1962年、昭和37年12月)
          「金鐘泌・大平メモ」の存在
          韓国賠償ビジネス:瀬島龍三と金鐘泌の出会い。
                   政財界のパイプ役を児玉誉士夫がつとめた。
        ・昭和37年には東京都の人口が1000万人を越えた。
        ・中国共産党のフルシチョフ批判
           「修正主義化し資本主義の復活を図る反革命集団だ」
        ・ケネディ大統領暗殺(1963年、昭和38年11月22日(日本時間23日))
        ・日本のヤクザが5107団体、18万4091人にまで膨脹。当時の自衛隊
         勢力を上回る。(宮崎学氏著『近代ヤクザ肯定論拠』筑摩書房、
          p.316より)
        ・世界初の女性宇宙飛行士(テレシコワ)誕生(1963年)
        ・クェーサーの発見(1963年)
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       ■「公共用地の取得に関する特別措置法」試行(-->土地開発公社林立)
          この法律は後に地方自治体が借金まみれになる原因を作った
         最悪の法律だった。
       ■「原子力の日」(1963年、昭和38年10月26日)
          日本原子力研究所東海研究所で日本で初めて原子力発電を行っ
         た。
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  ★「黄色い血の恐怖」(昭和37年頃日本の輸血用血液供給はほぼ100%売血だった)
     売血制度が生み出した弊害ーー「黄色い血の恐怖」に、まだ社会一般の関心
    は高まっていない現状だが、この制度はいま完全に行き詰まった結果、医療関
    係者だけでなく、社会全体の問題として注目されなければならない段階にきた。
     諸外国に例をみない日本独特の売血制度。それはおびただしい売血常習者の
    群れを生み、いちじるしい輸血保存血液の質の低下を招いている。「黄色い血
    の恐怖」とは、月に一度しか許されない採血を、ときには月50回も繰り返し、
    その結果、鮮紅色の血液はついに黄色になって、売血者の生命力が朽ちていく
    ことであり、また、こうして集めた血液の輸血を受けたものが、20%以上の確率
    で悪性の血清肝炎にかかるということである。
         (本田靖春『我、拗ね者として生涯を閉ず』講談社、pp.347-348)
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  ★「老人福祉法」制定(1963年、昭和38年)
     国や地方自治体が、高齢者の福祉(暮らしぶりの良さ)を増進する責務を
    有することを明記
  ★「集団就職
    この言葉が時代を象徴していた。1961年の中学卒業者のうち38%が出身県外の
   府県で就職していて、その93%が東京、大阪、愛知の三大都市圏に吸収されてい
   た。(田原総一朗氏著『日本の戦後』講談社
  ★「高度成長」
    高度経済成長の進展は急速だった。1955年から60年の実質平均成長率は8.7%
   だったが、1960年から65年は9.7%、1965年から70年は11.6%にまで伸長した。こ
   の状態は石油ショックが起きた1973年まで継続する。
             (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.574)
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        ・東京は1962年に世界ではじめて人口1000万人の都市となった。
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              <アメリカの対日貿易額>
                輸出      輸入    バランス
         1961年   1837万ドル   1055万ドル  782
         1962    1574      1358     216
         1963    1844      1498     346
         1964    2009      1768     241
         1965    2080      2414    -334
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    (Statistical History of the United States,From Colonial Times to 1970)

  ★大学生の急激な大衆化
    戦後の学制改革と高度成長は、大学生の急激な大衆化をもたらした。1940年
   に47校だった大学は、1954年には227校にまで増加した。大学進学率も1960年の
   10.3%が、1965年に17.0%、1970年に23.6%、1975年には37.8%まで上昇する。
             (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.551)

  ★「三矢研究」(昭和38年度統合防衛図上研究実施計画)(1963.2)
     昭和38年2月、東京・市ヶ谷の統幕講堂で、陸海空自衛隊の征服幹部が極秘
    裡に集まって、朝鮮半島を中心とする戦争の図上練習を行うとともに、それに
    際しての国家の前面管理について話し合った。戦後日本での初めての本格的な
    有事研究だった。
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       演習は第一動から第七動までの想定に基づき、第一動では、韓国情
      勢が悪化、韓国軍が反乱を起こしたとする。第二動は、韓国反乱軍に
      対し北朝鮮軍の支援が行われ、米軍がこれに反撃。第三動は、北朝鮮
      軍が三八度線を突破して新たな朝鮮戦争に発展、自衛隊が出動を準備
      するとともに、日本国内の総動員体制が樹立される。第四動は、自衛
      隊と米軍の共同作戦。第五動では、西日本が攻撃を受け、朝鮮半島
      は戦術核兵器が使用される。第六動では、ソ連軍が介入。第七動では、
      日本全土にソ連軍の攻撃がなされ、全戦場で核兵器が使用される。し
      かし北朝鮮、中国に反攻作戦が展開され、核の報復攻撃も実施して最
      後的に米側が勝利する。
       白昼夢か妄想か倒錯か。だが、これは一部の単純な狂信者による戦
      争ごっこではない。統合幕僚会議事務局長であった田中義男陸将の主
      導で行われ、制服からは「集めうる最高のスタッフ」が参加し、防衛
      庁内局、在日米軍司令部からも少人数が出席した。「密室」周辺では
      ものものしい警備がなされ、出席者全員が腕章をつけ、部外者の立ち
      入りは一切禁止されたという。図上演習は戦闘のシミュレーションに
      とどまるものではなく、第三動にさいしては、八十七件にもおよぶ非
      常時(有事)立法を成立させて政治、経済、社会を全面管理する国家
      総動員体制を確立するという、憲法など歯牙にもかけない研究が本気
      でなされたのであった。この三矢研究の「国家総動員対策の確立」の
      なかでとくに鳥肌が立つのは、「人的動員」の項目で、「一般労務の
      徴用」「業務従事の強制」「防衛物資生産工場におけるストライキ
      制限」「官民の研究所・研究員を防衛目的に利用」「防衛徴集制度の
      確立(兵籍名簿の準備・機関の設置)」「国民世論の善導」などを、
      制服組が当然のごとくに論じていることだ。さらに、「国民生活の確
      保」の項目では、「国民生活衣食住の統制」「生活必需品自給体制の
      確立」「強制疎開」「非常時民・刑事特別法」「国家公安維持」など
      が語られている。まさに「軍政」そのものである。(辺見庸『記憶と
      沈黙』毎日新聞社、pp.173-175)

1964年(昭和39年):東海道新幹線開通と東京オリンピック(S39.10.24開幕)
    は日本復興の象徴。またOECD(経済協力開発機構)への加盟・IMFにおける八
    条国への移行も経済復興の象徴となった。
  ☆国民性・国民意識:官僚主導の高度成長は国民の自主性を奪い去り、徹底的な
            官僚統制経済のため民間活力の萌芽や独創性を封じ込めた。
        ・公明党結成
        ・自民党総裁選で池田勇人佐藤栄作が激突(S39.7.10)
           池田側:河野派、川島正次郎派、三木派、旧大野派
           佐藤側:福田派(岸派の後継主流派)、石井光次郎
            (岸派はすでに福田派、川島(「政界寝業師」)派、
             藤山愛一郎派に分裂していた)
         ※結果はかろうじて池田が勝利したが、すさまじいばかりの
          金が飛び交ったという。(池田:242票、佐藤:160、藤山:72)
         ※ただし、池田は既に末期の喉頭癌に侵されており、3か月後に
          は首相を辞任することになった。(-->佐藤政権誕生)
       ■吹原産業事件はこの自民党総裁選をめぐる詐欺的及び買収資金捻出
        事件と思われたが、結局政界とは無関係とされた。
                (黒田清氏・大谷昭宏氏著『権力犯罪』より)

    # 昭和三十九年は東京オリンピックの年だ。この年を目標にして、新幹線、
     首都高速道路が建設され、主要な国内航空路が整備され、そこをジェット
     機が飛ぶようになった。岩戸景気の後でも、依然として設備投資の水準が
     高かった上に、こうした大規模なインフラ投資が行われたために、輸入が
     拡大し、昭和38年初めから金融引き締めがはじまった。・・・(池田退陣
     の頃より)、金融引き締めの効果が現れ、景気が急ピッチに後退し、企業
     は、過剰設備と、労働力の不足激化にともなう賃金コストの上昇に悩まさ
     れた。山陽特殊鋼は戦後最大の負債を残して倒産した。株式市況は極めて
     不振に落ち込み、ついに山一証券は倒産寸前の状態に追い込まれ、株式の
     大恐慌が発生しそうだった。証券危機は日本銀行の特別融資によって救わ
     れた。(竹内宏氏著『父が子に語る昭和経済史』より)

    # 家電需要の伸びの急速な鈍化(--->過剰設備と過剰在庫)
     家電製品の普及率:白黒テレビ:88.7%
              電気洗濯機:66.4%
              電気冷蔵庫:39.1%

       ■九頭竜川ダム汚職事件(石川達三氏著『金環食』のモデルか?)
       ■「公明党」の結党。創価学会の本格的な政界進出の幕開けとなり、
        1967年(昭和42年)には衆議院にも進出、25議席を獲得。
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        ・トンキン湾事件:米駆逐艦マドックスに対する北ベトナム魚雷艇
                 攻撃(1964.8)
           この事件は米国の愛国心を燃え上がらせたが、当初から事件
          はアメリカの捏造が疑われており、アメリカという国はいつで
          も戦略完遂のためにはでっちあげを平気で行う国ということが
          改めて露呈した。
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        ・1964年、アメリカの軍事衛星SNAP-9Aがインド洋上空で炎上し、
         プルトニウムの仲間であるプルトニウム238約1キログラムが空か
         ら世界中にばらまかれた。プルトニウムは、「この世で最も毒性
         の強い物質のひとつ」といわれる猛毒の放射性物質である。1キロ
         グラムといっても、もしそれをそのまま人びとが吸い込んでいた
         ら、1兆人分もの許容量にあたる。この出来事は、プルトニウム
         がすでに私たちの生活環境にも深く入りこんできたことを示して
         いた。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火
          >』七つ森書館、pp.124~126)
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        ・サウジアラビアの宮廷クー・デタ(1964年)
           アブドゥルアジースの次男サウード(第二代国王)を廃して、
          異母弟のフェイサル皇太子が第三代国王になった。フェイサル
          は名君の誉れ高く、彼によってサウジアラビアは近代国家に向
          かって力強く発進した。
          (保阪修司氏著『サウジアラビア岩波新書、pp.12-13)
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        ・中国が核実験を成功させた(1964.10)。
          この後1966年10月にはミサイル実験も成功させている。
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  ★献血推進のスタートの年
    政府がやっと動きだし、献血推進への予算が僅かながらおりた。
   村上省三(日本赤十字社輸血研究所)、木村雅是(早稲田大学学生、早大献血
   学生連盟)、本田靖春読売新聞社社会部記者)の3氏の名前を忘れてはならな
   いだろう。

1965年(昭和40年):このころから学園紛争が激化した。
  ★勤労世帯の実収入は約65000円/月(<--1965年29000円)。
  ★学園紛争       
    1960年代後半には、各地の大学で紛争があいついだ。1965年4月、高崎経済大
   学において、地元優先の委託学生入学に反対がおこり、学生がハンストと授業
   放棄に突入した。1966年には、早稲田大学で授業料値上げ反対闘争がおき、学
   生たちが大学本館を占拠した。さらに1968年、日本大学で20億円の使途不明金
   が発覚し、それを契機にワンマン経営者による大学運営に学生の不満が爆発し
   た。おなじく1968年には、東京大学医学部学生自治会が、無賃労働に等しい登
   録医制度に反対して無期限ストに入った。
           (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.575)

    ------------<学園紛争の背景と当時の学生の回想など>-------------
    ・・・「学生数の圧倒的増大は、学生の社会的地位をも著しく変化せしめ、
   大学を卒業したからといって大企業に就職するとは決していえない」「それは
   、学生そのものが、社会のなかで、例外的存在であることから、マスのなかの
   一員としてしかみなされなくなってきていることと無関係ではない」「今日の
   学生運動は、すでにのべたような社会的地位の変化、エリート的意識と存在の
   決定的欠落、そしてマスプロ化していく学園のなかにあって、たえず人間とし
   ての真実をとりかえしたいという欲求が大衆的にひろがっていくことを基礎に
   おいて成り立っているのである」「このような背景のもとでの学生の不満と不
   安のうっ積は、どのような契機から学園闘争が爆発しても、同じような全学的
   闘争にと発展してしまうのである」。
    こうして1968年には、日本大学東京大学で学生による大学占拠がおこり、
   全学の学生を糾合した「全学共闘会議」が結成され、「全共闘」と略称された
   。1965年の日韓会談反対闘争いらい、学生運動は一時停滞していたが、1967年
   から68年以降は一気に盛りあがった。この「全共闘」による大学占拠は、やが
   て全国各地の大学に波及し、全共闘運動と総称された。
    この全共闘運動は多くの場合、「革命」や「疎外」といった、マルクス主義
   の言葉によって行なわれていた。しかしその背景にあったのは、学生のマス化
   と旧来型の大学組織のミスマッチであり、秋山(筆者注:中核派全学連委員長)
   らのいう「エリート的意識と存在の決定的欠落」であり、マス化してゆく大学
   と社会のなかで「人間としての真実をとりかえしたいという欲求」だった。こ
   うした背景なくしては、全共闘運動が一部の活動家の範囲をこえて、あれほど
   の広がりをもつことはなかっただろう。
    当時の学生の一人は、1996年にこう回想している。

     一つの時代が過ぎてから、多くの友人と話してみると、マルクスもレーニ
    ンも誰もがほとんど正確に理解していないことに驚かされたが…私たちを行
    動に駆り立てたのは決してそうしたイデオロギーでも思想でも理論でもなか
    った。理屈は後からついて来る、である。むしろ、戦後生まれの私たちの世
    代にとって、旧態依然の秩序や常識がぴったりこないいらだちのほうが重要
    だった。たとえば、一流大学に入ることで人生のプラスカードを得るとか、
    女は男ほどの学力は必要ない。勉強をろくにしなくても卒業できる大学と、
    それに比べてやたらと消耗な受験勉強とか、天皇と軍部だけが悪いと総括す
    る戦争観や、大人たちがもっているアジア人に対する差別意識とか社会のヒ
    エラルキーとかの考え方に対する違和感のほうが大きかった。そしてその違
    和感をそのまま受け入れてくれたのが全共闘だった。歴史は古い時代のカビ
    臭い価値観を終わらせて、新しい価値を求めている。そしてその改革の錠は
    自分たちの手の中にある、と熱い思いを抱いた。
     「さあ、これから新しい時代に向けての歴史的ビッグイベントが始まりま
    すよ」それは、先輩たちのオルグやマスコミの報道だったり、校門のところ
    で手渡されたビラだったりした。とまれ、歴史への参加・未来を切り拓く試
    みと認識しているわけだから、いくら深刻ぶっても心の中はワクワクしてい
    た。あらゆる権威や権力に対し傲慢に振る舞えもした。「東大解体」や東大
    の門柱に書かれた「造反有理」はますます私たちを元気にしてくれた。
          (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.576-577)
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        ●アメリカが北ヴェトナムを爆撃(1965年2月~1973年3月)
           「アメリカ+南ヴェトナム政府」 vs「ヴェトコン+北ヴェ
          トナム労働党秘密党員(=人民革命党)+南ヴェトナム中央局
         (COSVN=ヴェトナム労働党南部委員会)」
            ----------------------------------
             <アメリカ国民の多少の正義>
           1. ベトナムが冷戦の重大な戦場
           2. ベトナムが倒れれば広範な地域で悪影響が生じる
           3. ミュンヘン会談(1938年)の教訓:局地的後退は
             あとで取り返しがつかない結果につながる。
            ----------------------------------
        ・1965~66年にかけてサイゴンではヴェトコンのテロが荒れ狂った。
           アメリカ大使館爆破、水上レストラン「ミカン」爆破、アメ
          リカ軍宿舎ヴィクトリアホテル爆破、・・・

      --------<本田勝一朝日新聞記者)ルポ『戦場の村』など>------
       本多がそれと対照的な存在として描きだしたのが、南ベトナム解放
      戦線の兵士たちだった。本多が会見した解放戦線の青年将校は、彼の
      身を案じて写真撮影を遠慮する本多たちにむかって、「私は民族の独
      立に生命をささげた人間です。傀儡政府のもとで生きて行くことがな
      い以上、顔が外部にわかっても一向にかまいません」と返答した。米
      軍の空襲のもとで抗戦する解放区の幹部は、「われわれは軍事的に負
      けているでしょう。しかし負けません。負けても、負けないのです。
      本当の勝利とは何でしょうか」と述べた。
       アメリカの空襲に耐え、アメリカの物質的誘惑に抗しながら、「民
      族の独立」を掲げる解放戦線のありようは、日本の読者から多くの共
      感を集めた。圧倒的な物量と科学力で攻めよせる米軍にたいし、粗末
      な兵器と乏しい食料で善戦する彼らの姿も、戦争体験者の心に訴える
      ものがあった。本多のルポが連載された『朝日新聞』には、読者から
      の共感の投稿が殺到したという。
       しかしこうしたベトナムのあり方は、日本という国家を問いなおさ
      ずにはおかなった。本多は、日本製の軍用トラックや上陸用舟艇を米
      軍が使っていること、日本の業者の輸送した燃料で北爆が行なわれて
      いることを報道した。ベトナムに派遣されていた韓国軍の将校は、「
      この戦争で、日本はどれだけもうけているか知れないほどですなあ」
      とコメントした。本多は日本という国家を、「死の商人」と形容せざ
      るをえなかった。
       米軍の「ベトナム特需」は、輸出総額の一割から二割におよんでお
      り、輸出総額の六割を占めた朝鮮戦争特需にくらべれば小さかったも
      のの、日本の経済成長を支える要因になっていたことは事実だった。
      それには武器弾薬だけでなく、枯葉剤なども含まれた。横須賀や沖縄
      が米軍艦隊の基地となったばかりでなく、1967年に羽田空港を利用し
      た航空機総数のうち四割は米軍のチャーター機であり、ベトナムで負
      傷した米兵の75パーセントが日本に送られて治療をうけた。日本は米
      軍にとって、ベトナム戦争に不可欠な後方基地だった。
       こうした事情のため、前述した1965年8月24日の『朝日新聞』の世
      論調査では、戦争で「日本もまきぞえを食う心配がある」が54パーセ
      ント、「心配はない」が17パーセントという結果がでた。1966年6月
      1日、当時の椎名悦三郎外相衆議院外務委員会で、日本に報復攻撃
      が加えられないのは地理的条件のためだと言明した。自衛隊は有事即
      応態勢をとり、1966年9月には南ベトナムに軍事視察団を送った。日
      本からの軍需物資を輸送する米軍舟艇には、政府の斡旋で日本の要員
      が乗りくんでおり、1967年10月までに9人の戦死者を出していた。
       本多が会見した解放区の幹部は、日本からどんな支援をしたらよい
      かという問いに、こう返答した。「ありがたいことです。しかし私た
      ちは、大丈夫です。やりぬく自信があります。心配しないで下さい。
      それよりも、日本人が自分の問題で、自分のためにアメリカのひどい
      やり方と戦うこと、これこそ、結局は何よりもベトナムのためになる
      のです」。 
        (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.588-589)

      ------------------<ベトナム戦争の背景と概略>----------------
       それまでフランスを宗主国としていた南ベトナムに1954年、ゴ・ジ
      ン・ジエム政権が誕生した。東西冷戦の中、アメリカはこの政権を援
      助することでインドシナにおける反共の砦とすることを考えた。その
      理論的な根拠となったのは、ベトナムが赤化すれば周辺諸国もソ連
      影響を強く受けてドミノ倒しのように共産化してしまうという、いわ
      ゆる「ドミノ理論」である(後に判明することだが、ソ連ベトナム
      には中国が関与するものだと考えており、特に強い関心をもっていな
      かった)。
       ただ当時政権にあったアイゼンハワーは、ドミノ理論に対する強い
      信奉者ではなかったために、ベトナムへの介入は南ベトナムに米中央
      情報局(CIA)を派遣する程度にとどまったが、その後を継いで1961年
      に政権についたケネディは、南ベトナムへ軍事顧問団を派遣して直接
      介入を開始した。その数は62年5月には合計 6000人、63年末には 1万
      6000人に増大した。だがゴ政権は弱体で63年11月、クーデターによっ
      て倒される。CIAはそれを黙認するが、直後にケネディも暗殺され、
      アメリカのベトナム政策は後任のジョンソン政権に引き継がれる。そ
      してジョンソンはベトナム戦争に本格的に踏み込んでいく。
         ・・・・・・(中略)・・・・・
       そのようなジョンソン政権は、1964年8月2日にアメリカの駆逐艦
      ダックス号がトンキン湾の公海上で北ベトナムのPTボートに銃撃を受
      けたのに続いて、4日にはマダックス号とターナージョイ号が、北ベト
      ナム軍に猛烈な魚雷攻撃を受けたと発表。その報復として北ベトナム
      を爆撃する。この魚雷攻撃がその後事実でなかったことや、最初の銃
      撃が起きたのも公海上ではなく北ベトナムの領海内であり、攻撃を受
      けた北ベトナムの反撃だったことが判明している。だがこの事件をき
      っかけとして、議会で「あらゆる必要な手段を用いて」北ベトナム
      攻撃に対抗し侵略を阻止するという「トンキン湾決議」がなされ、ジ
      ョンソンは議会から戦争遂行の全面的な支持と承認を受けた。
       だがここで多少の注釈が必要である。この年は大統領選挙の年であ
      り、現職の民主党ジョンソン大統領に対抗したのは、タカ派で知られ
      た共和党のゴールドウォーターだった。そのためゴールドウォーター
      が政権をとれば、ベトナム戦争をエスカレートさせるとみられていた
      一方で、ジョンソンは事件当初は慎重な姿勢をみせていたという点で
      ある。だが11月の大統領選挙で地滑り的な大勝利を得たジョンソンは、
      結局1965年2月に北ベトナムへの大規模な爆撃(北爆)を開始、1965年
      3月には海兵隊のダナン上陸を断行し、本格的な軍事介入を行う。そ
      の数は1965年末までに19万人規模に達する。その規模はその後も膨れ
      上がり、最大54万人のアメリカ兵を派遣することになる。
       だが戦局はアメリカ軍に有利に展開していったわけではなかった。
      そんな中でその後の情勢を決定づけるものとなったのは、1968年1月末、
      アメリカに対抗する解放戦線が全土で攻勢に出たテト攻勢である。こ
      の時期は旧正月(テト)にあたっており、油断しているところを狙っ
      て解放戦線側の約7万人勢力が、約100の都市や町で一斉攻撃を行うと
      いう大規模な奇襲攻撃を行った。それに対してアメリカ軍は猛反撃に
      出たものの自らの被害は大きく、2月18日になってペンタゴンは、この
      テト攻勢で味方の死者543人、負傷者2547人と、1週間あたりの死傷者
      の数が過去最高になったと発表した。
       このテト攻勢ベトナム戦争の大きな転換点となる。2月23日にはジ
      ョンソン政権がベトナム戦争中2番目の規模となる4万8000人を徴兵す
      ることを発表。2月25日、政権側は兵士のさらなる増員が必要になるこ
      とを認める。これ以降、ベトナムでアメリカの作戦がうまく進行して
      いないことが明らかになっていき、国内には戦争の先行きに対する悲
      観論が広がる。
       こうしたベトナム戦争の状況の悪化を反映して、3月のニューハンプ
      シャー州の民主党予備選挙では、反戦を訴えたユージーン・マッカー
      シーが大勝利を収める。そしてジョンソン大統領はベトナムでの戦局
      の先行きが見えない中、3月31日、その年の秋の大統領選への不出馬を
      宣言することを余儀なくされる。その後11月の大統領選挙では共和党
      のニクソンが当選。翌1969年1月に政権につくと、ニクソンベトナム
      の戦線縮小と撤退への道筋を模索する。そして1973年1月に北ベトナム
      とのパリ和平協定を締結。だがこの協定は事実上失敗し、最終的には
      1975年4月にサイゴンが陥落して南ベトナムが崩壊する。アメリカにと
      ってはきわめて不名誉な形で敗北してベトナム戦争は終わるのである。
       アメリカはこの戦争に1500億ドルを投じ、第二次世界大戦で全世界
      に投下された爆弾より多くの爆弾をベトナムに投下してなお敗れ去っ
      た。敗北でアメリカは5万8000人の兵士を失い、その後もベトナム
      従軍した314万人のうち15%程度が心的外傷後ストレス傷害(PTSD)を
      もつに至ったとされる。またこの出費は国内のインフレを促進し財政
      赤字が拡大。アメリカが保有する金の流出をもたらし、1971年には金
      とドルの兌換停止、いわゆる「ドル・ショック」を宣言するまでに追
      い込まれる。一方、全人口7200万人のベトナムも、戦死者300万人、
      行方不明者30万人、負傷者600万人、ボートピープル100万人、精神障
      害者600万人という甚大な被害を受けた。
       アメリカ側からこの戦争をみた場合に重要なことは、戦争が国内の
      各方面に大きな影響をもたらしたことだ。時期をほぼ同じくして進行
      した公民権運動と連動した形で、国家への反抗や反戦運動学生運動
      が広まって、カウンター・カルチャーのうねりが大きくなった。1968
      年3月、女性も子供も虐殺したソンミ村事件でのアメリカ軍の行動には、
      激しい非難が集中した。「国家は信用できない」「われわれは誤った
      戦争をしている」という認識が広まり、ビートルズやボブ・デイラン、
      ジョーン・バエズなどが革命と反戦を歌い、1969年ニューヨーク州
      ッドストックの野原で開催されたロックフェスティバルには40万人が
      集まった。反戦のうねりは全世界的な広がりを見せた。
      (石澤靖治氏著『戦争とマスメディア』ミネルヴァ書房、pp.234-238)

  ☆「ベトナムに平和を! 市民連合」(ベ平連)誕生:日本の市民運動の原型
     小田実鶴見俊輔、高畠通敏が発起。それぞれの細君の協力がなかっ
    たら形にならなかった運動だという。
     ※「ベ平連」三原則(鶴見俊輔
       (1)やりたいものがやる。やりたくないものはやらない。
       (2)やりたいものは、やりたくないものを強制しない。
       (3)やりたくないものは、やりたいものの足を引っ張らない。
    (鶴見俊輔小熊英二上野千鶴子『戦争が遺したもの』新曜社、p.374)

     ※注意:「ベ平連」の二重構造:表面の市民グループとは別に、非公然の
         地下組織「反戦脱走兵援助日本技術委員会(JATEC)」があった。
        (ただし、この二重構造については鶴見俊輔氏は何も語ってない)
         ---------------------------------------------------
             <ベトナム戦争、映像のなかの惨劇>
           (松岡完氏著『ベトナム症候群』中公新書、p73)

           1. 「ジッポー・ジョブ」:ベトナム人の小屋への放火
           2. 狩猟まがいのヘリコプターからの機銃掃射
           3. 枯葉剤のおぞましい影響
               枯葉剤はすでに1961年8月から実験的に使用
              されていた。南ヴェトナム政府の最初の要請は
              米作地にそれを使用し、解放戦線への食料供給
              に打撃を与えることであった。1965年までに使
              用された枯葉剤の42%がこの目的に使用された。
              すでに1963年、アメリカの専門家たちは、枯葉
              剤の使用が人体に悪影響を及ぼし、癌や異常出
              産などの原因となることを明らかにしていた。
              しかしアメリカ軍は9年にわたって枯葉剤の使
              用をつづけた。その20%はジャングルに、36%は
              マングローブ林にたいして使われ、莫大な被害
              をヴェトナムの住民と大地と海洋に及ぼし、環
              境を破壊した。
               枯葉剤を含むハイテクノロジーの利用と、破
              壊力の大量、無差別的使用は、ヴェトナム戦争
              を環境破壊戦争とし、とくに農村社会の存立自
              体を危機におとしいれた。この新しい戦争の様
              相は、無人地帯をつくるための強制立ち退きな
              どとともに、多くの農民を農村から切り離し難
              民化させた。少なくとも農民の半数以上が難民
              化したものと見られている。
               流民化した農民が都市に殺到したために、都
              市人口は急増した。1960年には南ヴェトナムの
              人口の20%が都市に住んでいたが、1971年には
              43%が都市住民となった。
               人口わずか1800万(1970年現在)の南ヴェト
              ナムでこのように人口学的な激変が起こったの
              である。現代の戦争は環境を破壊するばかりで
              なく、一国の社会構造そのものにも影響したの
              であった。(荒井信一氏著『戦争責任論』、岩
              波書店、pp.272-273)
           4. 度重なる僧侶の焼身自殺
           5. ナパーム弾大火傷を負い泣き叫ぶ裸の少女
           6. 逃げまどい必死で川を渡るベトナム人一家
           7. 米国内の反戦デモで射殺された学生の遺体
           8. サイゴンの路上、白昼のゲリラの処刑・・・
           9. ソンミ村大虐殺(1968.3.16)
              「五時半に、ソンミ周辺で突然、砲撃が始まり、
             そのうち、ソンミのあちこちにヘリコプターが飛
             来、アメリカ軍兵士が降りて来て、やがて手当た
             り次第に虐殺が始まりました。四時間虐殺はつづ
             き、そのあいだに住民五百四人が殺されていまし
             た。五百四人のうち、女性は百八十二人。さらに
             そのうち妊婦が十七人。子供は百七十三人。その
             うち五十六人が生後五カ月未満の赤ん誓した。六
             十歳以上の老人が六十人、中年男子が八十九人。
             しめて総計五百四人。女性を、アメリカ軍兵士は
             ただ殺しただけではありませんでした。多くを強
             姦してから殺しました。十四歳の少女は、すでに
             殺された母親の死体のそばで、何人ものアメリカ
             軍兵士によって次から次に強姦されたあげくに、
             小さな赤ん坊といっしょに射たれ、小屋に放り入
             れられたあと、小屋は火をつけられました。少女
             は必死に小屋から這い出て来ようとしたのですが、
             兵士は押し戻し、母親と赤ん坊ともに、灰になる
             まで焼かれました。十二歳の少女もやられたし、
             六十歳の女性も、殺されるまで兵士二人に強姦さ
             れました」。(小田実氏著『終らない旅』新潮社
             pp.425-426)
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  ☆ ベトナム戦争による日本の平民(大衆)への教訓(簡単に徴兵できる「カモ」)
     第二次世界大戦では、徴兵対象年齢老の少なくとも7割が戦場に赴いた。
    しかしベトナムに行った男性は、戦争最盛期の10年間に徴兵年齢に達した者
    (統計により異同があるが、ほぼ260万~300万人)のうち8%、多く見積もっ
    ても10%程度にすぎない。戦闘に携わった者となると、6%たらずである。
     しかも1割と9割のどちらに入るかが、きわめて不公平なやり方で決められ
    た。全米の徴兵事務所にかなりの裁量権を認める選抜徴兵制が採用されたた
    めである。その結果、有為な人材はなるべく残し、社会の底辺に位置する黒
    人やヒスパニック、貧しい白人などをベトナムに送り込み、そこで社会人と
    しての訓練を与えようという作為が働いた。
     この「10万人計画(Project 100000)」の網に引っかかった者は35万人を
    超える。その4割は黒人だった。誰を徴兵するかを決める者のうち黒人は1.3%
    にすぎず、南部諸州では黒人が一人もいない徴兵事務所も珍しくなかった。
    入隊者が全員警察になにがしかの世話になった過去を持つ部隊、7割以上が黒
    人かヒスパニックという部隊もあった。
     いいようのない不公平感が触媒となり、アメリカに精神的荒廃をもたらし
    た。映画『プラトーン』(1986年)をノべライズした作品によれば、ベトナ
    ムに行った若者たちは「東南アジアでの労役から免れるような口実が何ひと
    つない、いたって簡単に徴兵できるカモ」にすぎなかった。また、こうした
    やり方で能力の低い兵士を量産したことが、敗因の一つだったともいう。
                (松岡完氏著『ベトナム症候群』中公新書、p69)
     ※ベトナム戦争で5万8132人の米兵が命を落とし、戦後その3倍にも及ぶ
      約15万人のベトナム帰還兵が自殺している。
        (星野道夫氏著『星野道夫著作集 4』新潮社、pp.165-166、2003)
     ※もし日本で徴兵があれば、きっと同じようなことになるだろう。
           -------------------------
        ・「山一証券」倒産寸前(昭和40年5月19日)
           大蔵大臣田中角栄による日銀特融
        ・日韓基本条約締結(昭和40年6月)
           植民地支配の償いとして日本から韓国に支払われた巨額の
          賠償金は日韓政財界の癒着の温床になった。怨念と利権と政
          治的思惑が複雑に絡みあった日韓条約交渉の舞台裏で、児玉
          誉士夫と渡邊恒雄が動いた。
              (魚住昭氏著『渡邊恒雄 メディアと権力』より)
        ・インドネシア政権交代(クー・デタ、昭和40年9月30日)
           スカルノ体制からスハルト体制へ
           -------------------------
        ・宇宙背景放射の測定(1965):ペンジャスとウイルソン
           -------------------------
  ★東海村で「東海原発一号機」の運転開始(1966.7.25)
    耐震など安全設計の面で技術的に未熟な英国「コールダーホール型発電用原子
   炉」が予定より3年も遅れて運転開始にこぎつけた。
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       ●1966年10月5日。アメリカの「フェルミ炉」(高速増殖炉)の事故。
        炉心の底に使っていた金属版のボルトが緩んで外れて、燃料二体に
        ついて流路を閉塞。ナトリウムの流れる道を閉塞してしまった。
        そのために、冷却状態が悪くなって温度が上り燃料の溶融に至った。
        幸い大惨事にはならなかった。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作
        集<プルートーンの火>』七つ森書館、p.351より)
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       ■昭和39年から続く「構造不況」に対して、政府は戦後初めて国債
        発行。不景気を短期間で乗り切ることに成功。(ケインズ経済理論)
         (大蔵省と日銀の勢力バランスは日銀に有利に変化した)
         ※ 政府支出を国債でまかなうことが可能になれば、政治家も
          大蔵省も、日銀の信用統制にちょっかいをださなくなるだろう。
          同時に、財政法のもとでは新規発行国債日本銀行引き受けは
          禁止されていた。したがって、日銀はそう簡単に国債引き受け
          による財政政策支援を要求されないですむ。

       ■1965年(昭和40年)は日米間貿易において、はじめて対米黒字
        を記録した。このあと1967年、1975年以外は全て対米貿易黒字
        となりそれは次第に拡大した。(--->「いざなぎ景気」)
           -------------------------
          1965年初頭、毛沢東は「大躍進」後の「大飢饉」に対し部分的
         ではあったが自らの非を認めたことや、劉少奇トウ小平の現実
         的な実務路線への国民の傾斜に対して、指導力低下に脅威を感じ
         ていた。自分もフルシチョフに非難されたスターリンのようにな
         るのではないかという被害妄想が昂じて”「中国のフルシチョフ
         である劉少奇トウ小平と彼らに同調する党内勢力を叩き潰さね
         ばならぬ”と思った。そしてこれを「文化大革命」という言葉で
         包み隠しながら実行に移した。毛沢東はこの過程で、これまで毛
         沢東崇拝をくりかえし教え込まれてきた若者を「(毛首席の)紅
         衛兵」(はじまりは清華大学附属中学の学生活動家が名乗ったも
         の)として利用した。林彪は「文化大革命」の指導者として「四
         旧を破る」ために突撃せよと紅衛兵を扇動した。多くの古い文化
         遺産や貴重な書物や文献がいともたやすく破壊された。四旧とは
         旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣のことだった。
         (ユン・チアン『ワイルド・スワン<下>』土屋京子訳、講談社
           pp.11-42)
        ●中国プロレタリア文化大革命(1966年5月16日~1971年)
         毛沢東プロレタリア文化大革命は、プロレタリア階級による
             資本主義階級に対する偉大な政治的革命である。それ
             はプロレタリア階級による資本主義階級に対する闘争
             の継続である。それはまた、共産党による国民党に対
             する闘争の継続である。(チェン・ニェン『上海の長
             い夜<下>』篠原成子・吉本晋一郎訳,朝日文庫, p.24)
               -----------------------------------
           毛沢東が発動したプロレタリア文化大革命は、既成の党機関
          や行政組織を造反派(革命派、急進派)の手に奪い返す奪権闘
          争を巻き起こした。造反派に抵抗するものは「資本主義の道を
          歩む実験派」や「修正主義者」などとされ、粛清の対象となっ
          た。この間に劉少奇林彪らが失脚した。毛沢東は1972年1月
          には体調を崩し寝込みがちになっており文化大革命収束時には、
          周恩来は実権の殆どを掌握していた。また1973年には毛沢東
          よりその実務能力の非凡さを買われていたトウ小平は失脚から
          復権(国務院副総理=副首相)した。
                    (『毛沢東秘録<下>』産経新聞社より)
           <「牛鬼蛇神」(悪をはたらくために人間になれる悪魔)>
             毛沢東が言い出したこの言葉は文化大革命のあいだに
            下記の九種類の敵に対して用いられた。
             ・1950~1952年の土地改革運動で非難された元地主の
              連中
             ・1955年の農業合作化のときに非難された富農
             ・1950年の反革命鎮圧運動と1955年の反革命粛清運動
              で非難された反革命分子
             ・共産党が統治するようになってから時に応じて逮捕
              された「悪質分子」
             ・1957年の反右派闘争で非難された右派分子
             ・叛徒(国民党によって投獄されていたときに国民党
              に共産党の機密をばらしたとの嫌疑をかけられた者)
             ・スパイ(外国とのつながりをもっていた男女)
             ・「走資派」(毛沢東の言う厳格な左派の政策に従わず、
              「資本主義の道」を歩む者)
             ・ブルジョワ階級出身の知識人
             この言い方はよく「牛」だけに短縮しても使われ、文化
            革命中にこれら政治的追放者を監禁した場所は一般に「牛
            棚(牛舎)」と言われた。(鄭念(チェン・ニェン)『上海
            の長い夜<上>』朝日文庫、pp.29-30)

                  【文化大革命時代の中国】
           先生は話を続けた。「この社会は既得権益を握る階層が統治
          集団、つまり新たな特権階級を構成しているんだ。僕ら一般市
          民は公衆便所の便槽を増やす望みぐらいしか持っていないのに、
          幹部連は職位の上下に関わらず、自分の家に個室の水洗便所や
          浴槽を持ち、電話付きで、お手伝いや乳母まで雇っている。大
          飢饉で幹部階層の誰かが餓死したなどという話を聞いたことが
          あるか。こういう連中にとって一番大切なことは、特権集団の
          共同の利益を死守することで、これは自分の子どもたちにちゃ
          んと譲り渡さなければならない。次に大事なことは、人を踏み
          つけにして、わき目もふらず這い上がることだ。共同の利益の
          死守と自分だけ這い上がることとの間にはかなり矛盾があるの
          で、ときおりここから一般民衆の政治的反乱が惹き起こされる
          んだよ」。
           先生はさらに続けた。「文化大革命は、実は二度にわたって
          行なわれたんだ。最初の文革は幹部同士の闘争で、自分に対す
          る攻撃の有無に関わらず必死で他を攻撃した。政治の世界で飯
          を食う以上、なりふりかまわず突き進まなけりゃならないし、
          いったん特権を手にしたからには、闘争の目標にされる危険ぐ
          らいは覚悟すべきなんだ。こんなことは当然であって、不平不
          満を言う理由などあるはずがない。自分たちが望んで掴みとっ
          た道じゃないか。文革時の当事者やらその子どもたちやらが、
          今になって文革中造反派にやられてひどい目にあったなどと書
          きまくっているが、笑止千万な話さ。もう一つの文革は一般民
          衆がやったんだ。彼らは毛沢東共産党内で劉少奇らに対する
          クーデターを起こした機会を利用し、共産党組織に造反という
          名の反逆の闘争を仕掛ける形で、これまでの復讐をしようとし
          たんだ。だけど、こういう造反派は1969年には粛清されてしま
          った。あれから11年経ったけれど、まだ幹部連中は造反の気骨
          を持った民衆を根絶やしにしようと躍起なんだよ」。  
            (虹影『飢餓の娘』関根謙訳、集英社、pp.243-244)

           「この文化大革命が何を狙っているのか、ぼくにはようやく
          わかってきた。これでは、ぼくの将来には何の希望もない」と、
          父が話しはじめた。文化大革命は、民主化とは何の関係もない。
          人民にもっと多く発言の機会を与えるための運動でもない。文
          化大革命は、毛沢東の個人的な権力を強化するための血なまぐ
          さい粛清だ。それがはっきり見えてきたーー父は、そう言った。
           父は慎重にことばを選びながら、ゆっくりと話した。・・・
           「たぶん、毛主席は中国の社会を根底からひっくり返してし
          まわなければ、自分の目的が達せられないと考えているんだろ
          う。これまでだっていつも、毛主席はやるときには徹底的にや
          った。犠牲者が出たって、いっこうに平気だったじゃないか」。
           (ユン・チアン『ワイルド・スワン<下>』土屋京子訳、
                               講談社、p.105)
          ------------------------------------
        ・ワインバーグ=サラム理論の登場(1967年頃)
        ・第三次中東戦争(6日戦争、1967年6月5日、昭和42年)
           イスラエルは電撃的に勝利、エルサレム旧市外を含む西岸と、
          ガザ地区を占領、ゴラン高原とエジプト領シナイ半島も支配下
          においた。(<大イスラエル主義>=”リクード”)
        ●ボリビアにてゲリラ戦争中のエルネスト・チェ・ゲバラがボリビ
         ア政府軍に捕らえられ戦死する(1967年10月9日、39歳)。
         チェ・ゲバラを斃したのは事実上CIAだった。(三好徹氏著『チェ
         ・ゲバラ伝』原書房、pp.317-321
          ----------------<現代における最初の水戦争>-------------
           この戦争は領土と安全保障をめぐつて戦われたという見方が
          大勢を占めており、水の重要性についてはしばしば無視されて
          いる。だが、単純明快な事実はつぎのとおりだ。戦前には、イ
          スラエル領内にあったのはヨルダン川流域面積のわずか10分の
           1以下だったが、最終的には、ヨルダン川はほぼ完全にイスラ
          エルの支配下に置かれるにいたった。イスラエルはヨルダンか
          ら、かつての東側国境とヨルダン川に挟まれたすべてを奪った。 
          そして、シリアからは、ガリレヤ湖の北東の山岳地帯、ヨルダ
          ン川の源流が流れでるゴラン高原を奪ったのだ。
           六日開戦争のときの指令官であり、後にイスラエル首相とな
          ったアリエル・シヤロンは、その戦争でのイスラエルの水文学
          的な動機については平然と認め、イスラエル側の言い分を説明
          した。1960年代はじめ、シリアは水路を建設してゴラン高原
          らヨルダン川の水源の流れを変えてイスラエルから水を奪おう
          という敵対的行為に出たと、シヤロンは自伝に書いた。
           「六日開戦争が本当にはじまったのは、イスラエルがヨルダ
          ン川の流路変更を実力で阻止すると決定した日である。国境紛
          争は大きな意味を持っていたものの、流路変更は生死をかけた
          重大問題だった」(フレッド・ピアス『水の未来』古草秀子訳
           、日経BP社、p.262)
          ----------------------------------------------------------
        ・吉田茂逝去(S42.10.20)
        ・ヴェトコンのテト攻勢(1968年、昭和43年1月)
          アメリカ人約4万人が死亡
        ・国際反戦デー(1968年、昭和43年)
        ・昭和43年には日本のGNPは西ドイツを抜いて世界第二位になった。
          (1965~1972年に日本がヴェトナム戦争で稼いだ金は少なくと
          も70億ドル)
        ・インフルエンザ(香港風邪、H3N2)の猛威(1968年)
          世界中で約100万人が死亡
        ・空母エンタープライズ寄港阻止闘争(同上)
          ------------------------------------
  ★1967年4月22日。日本の原子力委員会の「原子力開発利用長期計画」がこの日に
   決定された。それによって、日本でもプルトニウムを生産し、燃料として燃やす
   長期計画が本決まりになったのである。この計画は国家のエネルギー開発の柱と
   なる「国家プロジェクト」の中心に、プルトニウムを燃やし、生産する高速増殖
   炉と新型転換炉という二つのタイプの原子炉を据えたものだった。その計画に、
   10年間で1500億円という、当時としては破格の研究・開発費が見積られた。これ
   は、同時に国家に強力に支えられた巨大科学プロジェクトの時代の日本における
   幕明けを意味していた。(高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの
   火>』七つ森書館、pp.124~126)

  ★「第一次資本自由化」(1967.7.1)
     1964年IMF八条国に移行(為替に関する制限の撤廃)にOECDに加盟。
            (菊地信輝氏著『財界とは何か』平凡社、p.166)
  ★東京に霞が関ビル完成(1968年、昭和43年)
    この頃より東京は大きな変貌を遂げてゆく。
    車では日産サニー、トヨタカローラが発売され、サラリーマンでもマイカーが
   持てるような時代がやってきた(日産の生産台数:34.5万台(1965年)--->203万台
   (1973年))。(生方幸夫氏『日本人が築いてきたもの壊してきたもの』新潮OH文
   庫より)

    ---------------<余談:失敗の教訓は生かされなかった>---------------
    しかし1968年に20歳前後だった学生たちは、1955年以前の社会運動を、具体
   的には知らなかった。彼らが知っていたのは、1955年以後の穏健化した共産党
   や、なかば惰性化した護憲平和の「国民運動」、あるいは教室で「平和と民主
   主義」を説いていた「猿のような」教師でしかなかったのである。
    また年長世代の知識人の側も、自分たちが1950年代に行なっていた運動の失
   敗の歴史を、若者たちに語りたがらなかった。失敗の教訓は、若い世代に受け
   つがれないまま、当事者たちが胸に秘めているだけだった。国民的歴史学運動
   で挫折を経験していた歴史学者の鈴木正は、60年安保闘争の直後に、「ぼくら
   は10年前に『壁』をやぶろうとして傷ついた。ぽくの教え子たちが、いままた
   『壁』をつきやぶろうとしている。ぼくの先生に当る先輩もぼくらも若い世代
   に手をかさず個々別々に『青春残酷物語』をくりかえす悲しみと愚かさを断つ
   ために口を開かねばならない」と述べていた。しかしそうした状況は、1968年
   になっても変わっていなかったのである。
    ただし1950年代前半の運動と、1960年代後半の運動のあいだには、明確に異
   なっていた点があった。それは新左翼全共闘運動が、日本をすでに近代化し
   た先進帝国主義国家の一員とみなし、「民族主義」への反発を抱いていたこと
   だった。そしてそれは、高度成長によって地方や階級の差異が縮小し、「民族
   」という言葉で格差の解消を求めた1950年代の心情が理解されなくなった時
   代状況を反映していた。
            (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.582)
    --------------------------------------------------------------------
             【アメリカの食糧輸出戦略】
    アメリカの市場開拓において”平和のための食糧”が果たしている役割は
   きわめて重要であり、そう簡単に片付けるわけにはいかない。そこで、この
   役割をもう少し詳細にみたうえで、他の役割(軍事的な側面など)にも触れ
   てゆくことにする。ここでの引用や数字は、とくに注を付さない限り、すべ
   て1966年から74年の間に大統領から議会に提出された公法480号(筆者注:
   農産物貿易促進法、「平和のための食糧法」とも呼ばれた)年次報告による
   ものである。
    1966年の段階ですでに「公法480号の運用によって、アメリカが国際収支
   の面で利益を得てきた」ことは明らかになっていた。「アメリカ農産物輸出
   の大幅な伸びが、計画開始以来、国際収支の上に年平均15億ドルのプラスを
   もたらした。この輸出増大には、それ以前の、被援助国に有利な条件での食
   糧売却や無償供与によって、外国でアメリカの農産物が身近なものになった
   ことが大いに役立っている。・・・食糧援助計画に組み込まれた経済開発は、
   そのままアメリカの輸出を増大させる機会をつくった。㌔
    その恩恵はアメリカにはね返ってきている。食糧援助を受けている国で一
   人当たり国民所得が10パーセント増えれば、その国のアメリカからの農産物
   輸入は21パーセント伸びると推定されている。「こうして多くの国々が”援
   助”から”貿易”へと移っていった。日本、イタリア、スペインはその典型
   的な例である」。なかでも日本は、単なる典型というだけにとどまらず、”
   平和のための食糧”という名の投資のまったく見事な成功例である。1954年
   にこの法律に基づく援助が姶まってから日本が受け取った食糧は四億ドル足
   らず、一方、1974年までに日本が買い付けた食糧は175億ドルを上回る。そし
   て現在でも毎年20億ドル以上の食糧をアメリカから輸入しているのである。
    それでは、販売市場は、実際にはどのようにして開拓されるのだろうか。
   成功の確率が高い方法としては、給食制度のなかに子どもたちを組み込むこ
   とがある。1964年にマクガバン上院議員は「アメリカがスポンサーになった
   日本の学校給食でアメリカのミルクやパンを好きになった子どもたちが、後
   日、日本をアメリカ農産物の最大の買い手にした」と述べている。しかも、
   マクガバンによれば、この事が成功する時代はまだ終わっていないという。
   「”平和のための食糧”を通して、厖大な数の人びとがアメリカの農産物に
   なじんだ地域こそ、将来の大食糧市場である。今日われわれが援助する人び
   とは、明日はわれわれの上得意になるだろう。・・・もしイソドがカナダ(
   アメリカのよき得意先)の半分の生産性を達成できれば、あらゆるアメリカ
   製品の巨大な市場が出現するに違いない」。
    1966年の報告もマクガバンと同じ見方をしている。
   「この食粗援助は世界中で4000万人以上の小学生の食事を改善し・・・アメ
   リカ農産物の大きな市場を築きあげた。・・・過去20年間、増えつづけた農
   産物輸出によって、アメリカの農民も実業家も着実な利益を得てきた」。
 (スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』、朝日選書、pp.246-247)
         ************  ************  ************
    公法480号からもっとも大きな恩恵を受けたのは、何といっても大手の飼料
   輸出業着である。1966年、すでに飼料はアメリカにおけるドルの稼ぎ頭とな
   っていた。「飼料穀物協会は、主要な国々のいたるところで、貿易、農業関
   係者に普及宣伝活動をつづけて市場の拡大を助長した。つまり”適正”な家
   畜の飼育法ーーアメリカ産のトウモロコシ、大麦、裸麦、アルファルファ
   どを家畜飼料に使うことを教えたのである」。
    「アメリカ大豆協議会とアメリカ大豆協会は輸出拡大に力を入れ、その結
   果、数億ドルにのぼる大豆とその製品市場をつくりあげた。大豆飼料、大豆
   油脂のスペイン向け輸出は、売り込み政勢によって倍以上に増えた」。
    公法480号のおかげで、アメリカの大豆輸出は1970年にそれまでの最高を記
   録した。
    「国内で飼料産業を育成しようと努カしている国々に対しても、大豆や粉
   末大豆の輸出が大幅に伸び、その輸出額は前年を3億5900万ドルも上回った。
   1969~70年には大豆の価格が安かったこと、そのためにアメリカ大豆とその
   製品に対する需要が世界的に非常に大きくなったことがその原因である」。
    そして三年後、多くの国々は、・・・アメリカの大豆にしばりつけられる
   ことになった。これらの国々は、たとえ値段が6倍になってもーーアメリカは
   もはや価格面での競争を心配する必要はなくなった-ーなおアメリカ大豆を
   買いつづけるほか方法はなかったのである。飼料が荒稼ぎのタネになり、大
   豆加工がアメリカによって独占されているとすれば、公法480号を運用する
   側としては、良質の蛋白質物資を国外へ売り込むに当たって、人間よりも動
   物用に向けたくなるのは当然である。
 (スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』、朝日選書、pp.248-249)

  ★昭和40年代は日本が公害にまみれた時代でもあった。
    ●昭和42年6月12日:新潟水俣病昭和電工
    ●昭和42年9月1日:四日市ぜんそく(昭和四日市石油、三菱油化、三菱
      モンサント化成、三菱化成工業、中部電力石原産業
    ●昭和43年3月9日:富山イタイイタイ病三井金属工業)
    ●昭和44年6月14日:水俣病チッソ
          (山根一眞氏『環業革命』、講談社、p.196)

1969年~1971年(昭和44年~昭和46年)
  ★沖縄の1972年返還を決めた日米共同声明発表(1969.11.21)
        <核密約ニクソン-佐藤合議議事録>
     米合衆国大統領
     われわれの共同声明に述べてあるごとく、沖縄の施政権
    が実際に日本国に返還されるときまでに、沖縄からすべて
    の横兵器を撤去することが米国政府の意図である。そして、
    それ以後においては、この共同声明に述べてあるごとく、
    米日間の相互協力及び安全保障条約、並びにこれに関連す
    る諸取り決めが、沖縄に適用されることになる。
     しかしながら、日本を含む極東諸国の防衛のため米国が
    負っている国際的義務を効果的に遂行するために、重大な
    緊急事態が生じた際には、米国政府は、日本国政府と事前
    協議を行なった上で、横兵器を沖縄に再び持ち込むこと、
    及び沖縄を通過する権利が認められることを必要とするで
    あろう。かかる事前協議においては、米国政府は好意的回
    答を期待するものである。さらに、米国政府は、沖縄に現
    存する核兵器の貯蔵地、すなわち、嘉手納、那覇辺野古
    並びにナイキハーキュリーズ基地を、何時でも使用でき
    る状態に維持しておき、重大な緊急事態が生じた時には活
    用できることを必要とする。

     日本国総理大臣
     日本国政府は、大統領が述べた前記の重大な緊急事態が
    生じた際における米国政府の必要を理解して、かかる事前
    協議が行なわれた場合には、遅滞なくそれらの必要をみた
    すであろう。

     大統領と総理大臣は、この合意議事録を二通作成し、一
    通ずつ大統領官邸と総理大臣官邸にのみ保管し、かつ、米
    合衆国大統領と日本国総理大臣との間でのみ最大の注意を
    もって、極秘裏に取り扱うべきものとする、ということに
    合意した。
              1969年11月21日
              ワシントンDCにて
                   R.N.
                   E.S.
       (西山太吉氏著『沖縄密約』岩波新書、pp.49-50)

  ★軍人恩給受給者:282万5000人(昭和44年)、合計2406億7300万円。
  ★新左翼運動の激化(学園紛争、第二次安保闘争):反戦・反体制運動
       ■「官僚制度打倒」を目指した学生運動の盛り上がり。
            (現民主党:今井澄氏、仙谷由人氏ら)
       ■騒乱罪適用。学園紛争は、結局国民の顰蹙を買って頓挫。
        これを契機に「官僚機構」は益々強固になってしまった。
        ・"安田砦(東京大学安田講堂)"の落城(昭和44年1月18日)
           ------------------------------------------
        ・アポロ11号が月面着陸(1969年7月16日、昭和44年)
          米国はアポロ計画に750億ドルの資金を次ぎ込んだ。
        ・無人探査機ルナ15号(ソ連)が月面に着陸(1969年7月17日)
        ・アメリカはベトナム戦争で疲弊、消耗していた(約56000人戦死)
           リチャード・M・ニクソン大統領就任(昭和44年1月)
           ヴェトナム民主共和国首席ホー・チ・ミン死亡
                             (昭和44年9月3日)
          # ホー・チ・ミンインドシナ共産主義者の象徴であり、
           ヴェトミン以来の独立運動の英雄として南の民族主義者から
           も崇敬されていた。また中国、ソ連の対立(干渉)のなかで
           もヴェトナムの共産主義者を分裂させず統一・団結の立場を
           貫いてきた。ホー・チ・ミンの死亡はヴェトナム戦争を巡る
           バランスがさまざまな面で崩れるきっかけとなった。
            ヴェトナム労働党、南の共産主義者内部の中国派・ソ連
           の対立、あるいは解放戦線内部および周辺での共産主義者と
           民族主義者の対立がバランスを失った。

           -------------------------
        ・国有地(現読売新聞社所在地)払い下げ問題の解決
           1850坪(約38億6500万円)で決着。
           (魚住昭氏著『渡邊恒雄 メディアと権力』に詳しく掲載)
        ・言論出版妨害問題(1969年、昭和44年)
           創価学会批判本(評論家・明治大学教授、藤原弘達氏著
          『創価学会を斬る』)の出版阻止騒動。
           当時の自民党幹事長田中角栄と、公明党委員長竹入義勝の裏
          取り引き。(島田裕巳氏著『創価学会新潮新書、pp.95-99に
          自公の関係についてもやや詳しく書いてあり、参照を勧める)。
                    <余談>
          「1970年代、田中角栄首相のときの記者クラブでは、一人
          5000ドルが封筒に包んで各記者に渡されていた。これはよ
          く知られていたことです。もしそれを拒否すれば、記者ク
          ラブに居られなくなった」と共同通信のある記者はいう。
          (B.フルフォード『日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日』
                               光文社、p.75)
           -------------------------
        ・昭和45年には日本の総人口は1億466万5000人
        ・世界の人口は36億人を越えた
           -------------------------
        ● 1970年アメリカ合衆国は確実に景気後退期に入った。
          ・インフレ圧力:物価上昇率3.4%(1968)-->5.7%(1969年)
          ・貿易黒字の縮小:68億ドル(1964年)-->6億ドル(1969年)
          ・ベトナム戦争で疲弊、消耗:国防費が60%も急増
          ・財政赤字増大:80億ドル以上(1967年)
                           --->260億ドル(1968年)
          ・アメリカの金保有高の減少:190億ドル(1958年)
                           --->100億ドル(1971年)
          ・アメリカの外国への流動負債の増加:330億ドル(1967.10)
                           --->600億ドル(1971年)
       (P・バーンスタイン『ゴールド』鈴木主税訳、日本経済新聞社より)
           -------------------------
        ●原油価格は1970年には1バレル3ドルだった。

  ★万国博覧会(1970年、昭和45年):高度経済成長の集大成。

  ★教養の時代の終わり
     教養の時代の終わりは、少なくとも日本においては、明確な日付を持って
    いる。1970年10月20日である。ミシェル・フーコーの『知の考古学』の邦訳
    が刊行された日だ。(三浦雅士氏『青春の終焉』中村雄二郎訳、河出書房新社

  ★高度成長時代:日本は高度に政治的な経済だった。
    ※高度成長時代においては、どの産業が存在するか、その中にどの企業がいる
     べきか、設備投資の水準、そして価格水準にいたるまで、重要な決定は交渉
     や陳情に影響されて決まっていたのである。市場でも官僚の命令でも、どち
     らでもなかったのだ。・・・「発展途上段階の国」が、その急速な発展に伴
     う主要な政治的問題、すなわち発展が勝者と敗者を産みだすという問題を解
     決するには、交渉と陳述以外の方法はない。
    ※高度成長時代を通して、政府の政策は、勝者の成長を助成するか、敗者の償
     いをするかというトレードオフ、言い換えれば、成長を促進する「戦略的な」
     政策と、成長の果実を広くばらまくという、「償い的な」政策との間のトレ
     ードオフに絶えず直面していた。(筆者注記:自民党の金権体質の根源)
    (以上、リチャード・カッツ氏著『腐りゆく日本というシステム』より引用)

        -------------------------------------------
  ★アメリカ製原子炉の導入と運転(目立った反対運動はなかった)
    1. 東京電力福島原発一号機:ジェネラルエレクトリック「沸騰水型原子炉」
      周辺海域に温排水とともに放出される放射性ヨウ素などによる魚介類
     汚染が問題となった。
    2. 関西電力美浜原発一号機:ウエスチングハウス社「加圧水型原子炉
      蒸気発生器の内部設置の電熱管破損のよる放射能漏洩事故発生(1972.6)
    3. 日本原子力発電株式会社敦賀原発一号機:GE「沸騰水型原子炉」
     (久米三四郎他『希望の未来へー市民科学者・高木仁三郎の生き方ー』、
                             七つ森書館、p.14)
        -------------------------------------------

        ・日本赤軍よど号乗っ取り事件(昭和45年)
        ・三島由紀夫割腹自殺:国家のidentificationを強力に求めた。
          ※「日本はなくなって、その代はりに、無機的な、からっぽな
ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る
            経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいい
            と思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっ
            てゐるのである」
        ・フォート・ノックス襲撃(昭和46年)
           フランスがアメリカの経済攻勢に対して行った奇襲。アメリ
          カはフランスの要求通りの金準備ができていなかった。
        ・アメリカ、金・ドル交換停止(昭和46年)
           固定為替レート・システム崩壊。アメリカ・ドルは世界各地
          で急落。(1971年12月、スミソニアン会議:1ドル=308円、
                              金1オンス=38ドル)
        ・通貨問題・通貨危機スミソニアン合意(昭和46年12月17~18日)
           日本はこのとき戦後最大の不況ではあったが、国際的に
          みれば失業率1%、実質経済成長率4%で、諸外国からみれば
          羨望と嫉妬の的であった。結局1ドル360円から308円へと円
          が切り上げられることで10か国(カナダを加えて11か国)
          蔵相会議は合意に至った。(佐藤栄作内閣)

1972年(昭和47年):米中関係改善と日中国交回復の年
  ★沖縄返還(1972年、昭和47年5月15日)
    沖縄県施政権がアメリカから日本に返還された。

  ★全共闘運動(学生運動)の衰退(-->連合赤軍による浅間山荘事件)
    運動の衰退期に現われたのは、これも1950年代前半と類似した、新左翼諸党
   派どうしの抗争や査問、そしてリンチなどだった。当時の活動家の一人は、「
   運動の高揚期には仲間同士の価値観の一致を求めず、10のうち一つ同意できれ
   ば仲間として、優しい連帯で結ばれていたのとは逆に、わずかばかりの違いを
   探し、自分たちの正統性を主張し他を排斥し始めた」と回想している。
    そして1972年2月、連合赤軍による浅間山荘事件が発生した。新左翼党派の
   一部が、武装闘争を主張して「連合赤軍」を名のり、仲間の「プチブル的生活
   態度」を批判してリンチ殺人を行なったあと、最後には警官隊と銃撃戦におよ
   んだこの事件は、警察側のマスコミ操作ともあいまって新左翼のイメージを一
   気に悪化させた。あいつぐ党派間抗争がこれに重なり、これ以後の新左翼運動
   は、一部の活動家以外に広がることが困難な状態に陥っていった。
    こうして全共闘運動は、大規模な運動としては、数年で消えさった。そして
   運動が残した影響の一つは、従来の「進歩的知識人」や教養の影響力を、大幅
   に低下させたことだった。1980年代に東京大学出版会の専務理事だった石井和
   夫によれば、「それまでは、学生にとってこれだけは必ず読むという”定本”
   があ」ったが、全共闘運動後には「”定本”の重版が出なくなってしまった」
   という。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.585)

  ★既存の権力階級(官僚独裁体制)に挑戦し、その打倒を目指した全共闘運動(
   学生運動)は、それにたいする弾圧の過程で、むしろ官僚組織を強化してしま
   うという皮肉な結果をもたらした。これ以後大学生は知識や意識の面でも大衆
   化し、名実共にエリートでなくなった。みんなガキっぽくなってしまったので
   ある。日本社会の堕落と絶望の始まりだったろうと筆者は思う。

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       ■米中関係改善:「ニクソン・ショック
                  (1972年、昭和47年2月21日午前11時27分)
         米大統領ニクソンを乗せた専用機「エアフォースワン」が北京
        首都空港に着陸した。滑走路では周恩来らが出迎えた。・・・
         ニクソンがタラップを降りるまでキッシンジャーら随行団は機内
        にとどまった。寒風の中で帽子もかぶらずタラップの下に立ってい
        た周恩来も、降り立ったニクソンにひとり歩み寄ると、二人だけで
        固く握手が交わされた。
         1954年ジュネーブ会議(朝鮮戦争終結)において米国務長官ダレ
        スは周恩来との握手を拒んだが、それ以来続いた中国と米国の仇敵
        関係がようやく雪解けを迎えた。
         しかしこれは日本の頭越しに電撃的に行われた米中関係の改善で
        日本では「ニクソン・ショック」と言われるほど衝撃だった。
                    (『毛沢東秘録<下>』産経新聞社より)
        (米国が設定する「敵」は、これまでしばしば変化してきた。
         例えば1960年代に入ると、それまでの旧ソ連に代わって中国が
        「主要敵」とされ、「中国封じ込め政策」が米国のアジア政策の
        根幹にすえられた。日本国内では批判も強かったが、自民党政権
        はひたすら忠実に米国の「中国封じ込め」に「貢献」した。とこ
        ろが、ある朝眠が覚めてみると、日米の「共通敵」であったはず
        の中国と米国が、突如として和解したことを知らされることとな
        った。豊下楢彦氏著『集団的自衛権とは何か』岩波新書、p.iii)。

       ■日中国交回復(田中角栄内閣)
         共同声明では「中華人民共和国が中国の唯一の合法政府」であ
        ることを認め、「台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部で
        あるとの中華人民共和国の立場を十分理解し、尊重する」と明記。
         これにより日本は台湾と断交することになってしまった。なお
        日華平和条約(昭和27年(1952年)4月に戦争終結を宣言し締結)
        については共同声明では触れず、日本側が記者会見で「存在の意
        義を失い、終了したと認められる」と表明。
                  (『毛沢東秘録<下>』産経新聞社より)

        ※周恩来(当時首相)による日中戦争の総括(賠償請求の放棄)
           (--->★平成13年今なお続く国家元首靖国神社参拝問題)
           「あの戦争の責任は日本の一握りの軍国主義者にあり、
          一般の善良なる日本人民は、中国人民と同様、一握りの軍国
          主義者の策謀した戦争に駆り出された犠牲者であるのだから、
          その日本人民に対してさらに莫大な賠償金支払いの負担を強
          いるようなことはすべきでない。すべからく日中両国人民は、
          共に軍国主義の犠牲にされた過去を忘れず、それを今後の教
          訓とすべきである」
          (元中国大使中江要介:「だから中国政府としては、東京
           裁判のA級戦犯を合祀する靖国神社に日本の首相が参拝する
           ことによって、A級戦犯の戦争責任が曖昧になったり、その
           名誉が回復されたりすると、自国民(中国人民)を納得さ
           せられない」)
         (古山高麗雄氏『万年一等兵靖国神社』、文藝春秋2001年9月
          号138~139ページより)

        ※日中国交回復からみる創価学会=公明党田中角栄の関係
           創価学会公明党と、田中、ないしは田中派とは密接な関
          係があった。それを象徴する出来事となるのが1972年の日中
          国交回復だった。公明党の委員長だった竹入義勝は田中の密
          命を帯びて訪中し、周恩来首相と会見した。これをきっかけ
          に、田中の電撃的な訪中が行われ、日中国交回復が実現する。
           その後も、消費税導入の際には、田中の跡を継いだ竹下登
          首相と公明党矢野絢也委員長のラインが形成されていて、
          公明党自民党に助け船を出した。こうしたことが、今日の
          自民党公明党との連立へと結びついていく。(島田裕巳
          著『創価学会新潮新書、pp.95-97)

1973年(昭和48年):老人医療無料化。年金給付の大幅増加。
       ■「福祉元年」(田中角栄内閣)
   ※高度成長を背景に、調子に乗りすぎた感を否めない。
          <田中内閣黒字対策五項目>
             1.輸入の拡大
             2.輸出の適正化
             3.資本の自由化
             4.経済協力の拡充
             5.福祉対策の充実

   ※福祉制度は確たる理念からではなく、政治的な思惑やさまざまな利害関係者
    の妥協の産物として作られた。納税者の意志も将来を見越した一貫した政策
    も無視された。(ここで税・保険料収入と、年金給付のバランスが狂った)。           
   ※田中内閣「日本列島改造計画」の政策的インセンティブによる土地投機は、
    円高に対する日銀の金融刺激策とあいまって、土地価格は1972年から73年に
    かけて急騰した。(株価も急騰:3000円(1972年3月)-->5000円(1972年末))
   ※田中首相の金権政治
     利益をうけるグループがお金と票を提供しようとする限り、田中派はきわめ
    て前向きにそれに報いようとした。田中派は、補助金、政策融資、カルテル、
    輸入制限、その他利益グループの支持をえられることであれば何でも提供し、
    同時に自分たちもその分け前にあずかった。(リチャード・カッツ氏著
                   『腐りゆく日本というシステム』より引用)

  ★1973年3月頃。関西電力美浜一号炉で大規模な燃料棒破損事故があった。
    関電と三菱重工はそれを全く秘密裡に処理していた(田原総一朗原子力
   争』筑摩書房)。この事故は徹底的な事故隠しの後、石野久男代議士(当時、
   社会党)の追求などで、1976年にやっと公表されたが、事故後3年経過しており
   時効で何の咎めもなかった。
          <腐れ企業と欺瞞行政当局の隠蔽体質>
     ほぼ最初から最後まで、この事件の顛末に付き合ったことで、私は多く
    を学んだ。その多くは驚きの連続で、思えば私が会社にいた頃は、隠蔽の
    体質はあったものの、商業原発など始まっておらず、呑気なものだった。
    関西電力三菱重工が一体となったきわめて組織的な事故隠しと、それを
    知りながらシラを切り通そうとする通産省、そして時効という狡猾な逃げ
    道。それらは、私の想像をはるかに越えた、悪らつな国民無視と安全感覚
    の欠如を浮き彫りにした。ほとんどの場合、私は怒りの感情で動くことは
    なかったが、この時は心から憤りの気持をもった。
    (高木仁三郎氏著『市民科学者として生きる』岩波新書、pp.151-152)

              <被爆の顕在化>
     1976~1977頃、1950年代の被爆の顕在化と情報公開を通して放射能の恐
    ろしさの情景がやっと人類に見えはじめた。1950年代にネバダ州で20~30
    万の兵士(アトミック・ソルジャー)の間近で核爆発実験が行われ、彼ら
    は約20年後の1970年代後半になって、次々とガンや白血病となって亡くな
    った。またネバダの風下に住む20~30万の住民にも放射能の被害が及んだ。
    (高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館
    pp.530-531より)

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        ●「青嵐会」発足(1973年、昭和48年7月17日)
          藤尾正行中川一郎渡辺美智雄、湊徹郎、玉置和郎を代表
         世話人として、石原慎太郎幹事長を筆頭に31人の議員で発足。
          -------------------------------------------------

        ・金大中拉致事件発生(昭和48年8月8日)
   ※日本はスパイ天国である。外国のスパイに対応する機関も法律も皆無に等
    しく、主権を侵害され拉致されたヒトを取り戻す知恵も力もない。
    首謀者がKCIA(韓国中央情報部)部長、李厚洛であったことは米下院
    フレーザー委員会の五年後(1978年)の報告を待たねばならなかった。
    この中で朴正煕政権を支えた巨額の政治資金調達システム(李厚洛が窓口
    になっていた)に日本企業が深くかかわっていたことも明らかにされた。
          (米国に亡命した第四代KCIA部長金炯旭の証言による)。
             -----------------------------------
   ※チリにおいてアウグスト・ピノチェトの率いる軍が、大統領官邸を襲撃。
    民主的に選挙で選ばれたサルバドール・アジェンデ大統領は自殺した。これ
    はアメリカが長年に渡ってチリの民主主義を破壊した結末だった(1973年、
    昭和48年9月11日)。(ノーム・チョムスキー『破綻するアメリカ 壊れゆく
    世界』鈴木主税・浅岡政子訳、集英社、p.148)。これを画策したのがCIAで
    3000人を越す市民を殺害した。(伊藤千尋氏著『反米大陸』集英社新書
    p.116)
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        ・第四次中東戦争(ヨム・キープル戦争、1973年、昭和48年10月6日)
          イスラエルシナイ半島より撤退(キャンプ・デヴィッド合意)
           (アンワル・サダト=カーター=メナヘム・ベギン)
   ※エジプト軍とシリア軍は、それぞれスエズ運河ゴラン高原で、イスラエル
    と戦端を開いた(ヨム・キープルはユダヤ教の祭日)。この戦いは1~3次ま
    でと違ってアラブ側に有利に展開(イスラエルのアマンとモサドの情報収集
    ・解析の甘さとマインドセット(固定観念による重要情報の軽視)が不利を
    もたらした)。
     アラブ側は「石油を武器に」という石油外交で、アラブに有利な和平条件
    を国際世論に働きかけた。そのリーダーは従来の穏健派のサウジアラビア
    った。
     10月16日クウェートに集まったOPECの代表は石油価格を7割あげて1バレル、
     3.01ドルから5.12ドルにすることを、一方的に(石油会社の承諾を得ず)
     決めた。また12月からは11.65ドルに引き上げた。わずか2か月で約4倍とな
     った
     これは以下の日本の「油乞い外交」に続いてゆく。
   ※航空戦略2つの教訓
     1. ミサイルの発達により戦車と航空機が従来ほどには戦場で君臨できな
      くなった。
     2. 兵器システムの進歩により発見されたら撃破されることが確実になった。
      短時日のうちに双方に大きな損害がでて、一旦防衛線を突破されると速
      いテンポで侵略されてしまう。(特に戦車の脆さが際立って証明された)
   ※ステルス機開発
      レーダーと赤外線ホーミングに対して、航空機を電波反射の少ない形状
     にし、表面に電波吸収剤を貼りつけるとともに、エンジンの排気孔を横広
     に紙のように薄くして排気温度を下げた。ロッキードF-117Aが世界最初の
     ステルス機である。(--->1991年1月17日、湾岸戦争へ投入)
       (リチャード・P・ハリオン『現代の航空戦 湾岸戦争』服部省吾訳、
        東洋書林より)

       ■日本の「油乞い外交」(日本はアラブ諸国を支持した)
   ※第四次中東戦争(1973.10.6)に続き、OPECの石油価格自主引き上げ、ニクソ
    ンのイスラエル軍事援助に対抗した突然のアラブ側の石油供給削減のニュー
    スで、不安にかられた一般消費者は、トイレットペーパー、砂糖、洗剤、灯
    油など の生活必需品の買いだめに狂奔し、そのためにこれらの商品が店頭か
    ら姿を消し、それがいっそうの物価高騰を招くというパニック状態になった。
                     -->■第一次石油危機(1973年11月)
    それはまさに水鳥の羽音に驚く平家の軍勢のありさまそのものであった。
           (渡邊昭夫氏著『日本の近代8 大国日本の揺らぎ』より)
   ※原油価格の変化:2ドル弱/バレル(159L)-->第一次石油危機-->8ドル以上
    (1973年12月には1バレル、11ドル65セント)になった。

1974年(昭和49年):●出生率:2.05
  ☆☆☆ 1974年から1990年(バブルの末期から終焉)は経済の相対安定期(経済
     成長率4%)☆☆☆
       ■田中首相ASEAN五か国訪問(昭和49年1月)
          一方ではシンガポールリー・クアンユー首相)の歓迎、一方
         ではインドネシア、タイでの反日運動激化など経済大国日本への
         東南アジア諸国の期待と反発が表面化した。
       ■三木武夫内閣成立(昭和49年12月)
       ■社会党朝鮮労働党の「友党」になった。
         (筆者は全く知らなかったが、社会党江田三郎氏以外はアホば
          かりだったと知らされた。投票して恥をかいてしまった)。
         中国から冷たくされた社会党が新たな外交パートナーとして選ん
        だのは北朝鮮だった。・・・社会党金日成主席に対して「賢明な
        指導者」だと礼賛しているのである。もちろん中国の毛沢東も独裁
        で、・・・こちらにも「深い敬意」を表明している。
                   (田原総一朗氏著『日本の戦後』講談社
        ・「ベ平連」解散
        -------------------------------------------
        ・ニクソン大統領が「ウォーターゲート事件」をきっかけに辞任。
                             (1974年8月8日)

  ▼▼▼▼▼ ヨーロッパとアジアで、時代の一つの区切りを迎えて ▼▼▼▼▼
  ▼▼▼▼▼ 時代のテーマが政治から経済へとシフトするなかで、 ▼▼▼▼▼
  ▼▼▼▼▼ 米国中心の経済先進国は態勢立て直しの時期を迎えた ▼▼▼▼▼

   ※ 日本政府は48年初めから5回にわたり公定歩合を引きあげた。さらに
    緊縮財政、不動産融資規制など厳しい景気抑制を行い、公定歩合はつい
    に9%の高さになった。49年度実質経済成長率はマイナス0.2%、鉱工業生
    産の伸びはマイナス9.7%で戦後はじめてのマイナス成長だった。
        (この景気低迷は1978年(昭和53年)まで約5年間続く)

   ※ 1974年から1980年代初頭にかけてインフレが世界で猛威をふるった。
     1970年代アメリカ経済の競争力は悲劇的なほど低下した。1979年10月
     合衆国のインフレは12%を越えようとしていた。
       ●金の価格(ロンドン市場)
         46ドル/オンス(1972年はじめ)--->64ドル(1972年末)
        --->100ドル突破(1973年=石油価格2.11ドル/バレル-->10ドル以上
        に引き揚げ)--->130~180ドル(1974~1977年)
        --->244ドル突破(1978年=OPECが石油価格を1バレル30ドルに)
        --->500ドル(1979年)
       (P・バーンスタイン『ゴールド』鈴木主税訳、日本経済新聞社
       ●原油の価格
         1バレル34ドル(1970年には1バレル3ドル)で売られ、サウジ
        アラビアの石油収入は1010億/年ドルを越えた。生産量も1000万
        バレルに達した。(1970年は350万バレル、12億ドルだった)
       (ジェレミー・リフキン『水素エコノミー』柴田裕之訳、NHK出版)


1975年(昭和50年):日本は1972年ころから世界中にテロリストをばらまい
             ていた(日本赤軍)。

             <連合赤軍の海外活動(テロ)>
     1972年 5月 テルアビブ空港乱射事件。24人を無差別に殺害。
     1973年 7月 パリ発東京行きの航空機をハイジャック。リビアで乗客
           を降ろした後機体爆破。
     1974年 1月 シンガポールの石油精製所爆破。
     1974年 9月 オランダのフランス大使館占拠(ハーグ事件)フランス
           政府は超法規措置で逮捕していたメンバーを釈放。
     1975年 8月 クアラルンプールの米・スウェーデン両大使館を占拠す
           る(クアラルンプール事件)。日本政府は超法規措置で
           メンバー5人を釈放。
     1977年 9月 ボンベイ離陸直後の日航機をハイジャック(ダッカ事件
           また日本政府は超法規措置でメンバーを含む6人を釈放。
     1988年 4月 イタリアのナポリでアメリカ士官の車を爆破(ナポリ事件)
            ---------------------------------

   ※ 日本政府は昭和50年8月のマレーシアの米大使館が占拠されたクアラルン
    プール事件において日本赤軍の要求に応じて、法的根拠が明確でないまま
    服役、拘置中の赤軍幹部ら合計11人を釈放した。
     これは「テロには屈しない」という国際的合意に反する暴挙を行ったため
    世界中の顰蹙をかった。(日本国家の弱小さを露呈した大恥であった)
 
  ★勤労世帯の実収入は約23万6000円/月(<--1965年65000円)
  ☆国民性・国民意識:アメリカから強制的に与えられた民主主義(もどき)を
            バックに他力本願に「自由」・「人権」・「平等」を求め
            るという主体性の欠如した意識(欲望)の蔓延。
           (国家にとっても国民にとっても不幸な意識の蔓延)
       --------------------------------------------------------
   ◎『日本よ国家たれー核の選択ー』(清水幾太郎氏著、昭和55年、文藝春秋社)
       国防の不在を憂う名著。(「国防こそ最高の福祉」と著者はいう)
       --------------------------------------------------------
   ※「強力で正当なシビリアン・コントロールの下で軍隊を持つ事」は焦眉の
    急だろう。しかし、残念ながら平和ボケして民主主義が根づかない日本と、
    その国民不在の三流政治に「軍隊を持つ」資格はないというのが読書後の
    感想だった。
     解説:「シビリアン・コントロール」とは政治にたづさわる人の意見が
        軍事にたづさわる人の意見を統制することであり、政治が軍事の
        枠組みを決定することである。(政治優先の原則)
         決して「文民(背広組)が武官(制服組、軍人)を統制」する
        ことではない。防衛事務次官の席を大蔵官僚が奪い合ったり、
        装備局長(装備調達など莫大な予算を行使)などの要職を通産官
        僚が占めるなどバカげた話である。日本のシビリアン・コントロ
        ール(文民統制)はまったくルールを失っているのが実体だ。
         首相、官僚自らルールを破壊しているのだから止むを得ない。
        政治家と軍人が対等な立場で腹を割って直接に話をできないよう
        では日本の将来の平和は覚束ない。
   ※このころ以降の政治家、官僚の防衛感覚について
     1.有事を想定しない。議論しない。戦える自衛隊を作らない。
     2.抑止戦略によって戦争を抑止できると誤解している。
     3.専守防衛だから国土が戦場になっても仕方がない。
        「専守防衛」戦略は国土を主戦場に想定しているから、はじめから
       日本の町が焼かれ、老幼婦女子が殺される事を覚悟した戦略。
     4.万一、武力攻撃を受けても自衛隊に多くを期待しない。
     5.実質的に米軍に日本の防衛を任せる。
     6.外国における武力紛争について関心がなく、関与する気はまったくない。
            (松村劭氏著『日本人は戦争ができるか』より引用)
       --------------------------------------------------------

  ★サイゴン陥落、ヴェトナム戦争終結(昭和50年4月)
    プノンペンカンボジア)とサイゴン(ヴェトナム)が陥落し拠点を失った
   アメリカは長年に渡るインドシナ戦争から手を引いた。

  ★カンボジアクメール・ルージュ(急進的共産主義革命派)が首都プノンペン
   を制圧、ロン・ノル政権(アメリカが支援)を倒した(1975.4.17)。
    「我々は交渉のためではなく、征服者としてプノンペンにきたのだ」
    ----->ポル・ポト(サロス・サー)による国民大虐殺(200万人)。

  ★ヘルシンキ宣言(昭和50年(1975)8月1日)
     ヨーロッパ安全保障協力会議の最終文書に、ヨーロッパ33か国とアメリカ、
    カナダをいれた35か国が調印し、(ヨーロッパ中心にみた場合)戦後の歴史に
    一つの区切りがついた年だった。(ソ連はブレジネフ書記長が調印)
     つまり1945年に引かれた国境を確認したという意味で、第二次世界大戦
    正式に終結させたものと言える。(渡邊昭夫氏著『日本の近代8 大国日本の
    揺らぎ』より)

  ★先進国サミット開催(昭和50年(1975)11月15~17日):パリ郊外ランブイエの古城
     フランス:ジスカール・デスタン大統領(提唱者)
     アメリカ:ジェラルド・フォード大統領
     イギリス:ハロルド・ウィルソン首相
     西ドイツ:ヘルムート・シュミット首相
     イタリア:アルド・モロ首相
     日本  :三木武夫首相
        --------------------------------
       ■信濃川河川敷事件:「田中金脈」の原点の一つといわれる

1976年(昭和51年)~1981年(昭和56年)
       ■田中角栄ロッキード事件で逮捕される。(昭和51年7月)
         田中角栄:「検察庁筋の話ではな、もし、領収証が一枚あったら、
               この事件は初めからなかったそうだ・・・」
                    (麻生幾氏著『戦慄』より引用)
   ※ロッキード事件はCIAが韓国朴政権(民主化弾圧政策;児玉誉士夫らと強力
    に癒着)の崩壊を狙ってしかけた事件だったという見解がある。
    (畠山清行『何にも知らなかった日本人』祥伝社文庫、pp.11-25)
          ----------------------------------------------
   ※この頃は国民の「平和ボケ」は最高潮に達していた。根拠のない平和状態、
    権力闘争に終始する政治、国民に見えない権力の暗黒部分、旧態然とした
    官僚独裁体制、幻想的人命尊重、実質のない危機管理能力、思考力も信念
    も失いただひたすら金銭を追いかけるだけの国民意識悪平等を求める卑
    しさ、「人権」という名の人権侵害、日本列島におおい被さるこの一億総
    無責任状態は今後も引き続いて日本を蝕んでいった。そして民主主義とは
    名ばかりの「日本型社会主義」の下に言論統制情報統制が淡々と敷きつ
    められつつあった。
    ・「不快用語整理法」制定(1981年、昭和56年)
    ●米軍駐留経費の日本側負担(「思いやり予算」)を決める。
                       (金丸防衛庁長官
    ●アメリカでAIDSが新しい病気として認定される(1981.6.5)。
      (患者発生は1979頃、日本へのAIDS上陸は1980年とされている)
          ----------------------------------------------
   ※ 山崎豊子氏『沈まぬ太陽』(全五巻)のなかに、国家~国策会社~省益
    ~族議員の暗躍という役人・政治屋の集りの構図と、私物された国家ともい
    うべき日本の暗澹たる状況が凝縮されている。その影響をモロに被るのは、
    いつの世も善良で人を疑うことを知らない柔和な国民なのである。

       ■「目白の闇将軍」(田中角栄):永田町「二重権力構造」の始まり
          永田町の政治家は「表」を受け持ち、黒幕や政商は「裏」を
         受け持っていたが、田中角栄は永田町に「裏」とその担当者を
         作ってしまった。(「政界のドン」=金丸信、H5.3.6脱税で逮捕)

         +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
         <余談> 田中角栄氏(大正7年5月4日一白水星戊午生)のこと
            筆者は毀誉褒貶の激しい元総理大臣田中角栄氏を殆ど
           尊敬の念をもってみている。氏の生い立ちの過酷さ、若
           き日々の身過世過の凄じさを想像するとき、氏の生き様
           は敬愛の想いを持ってしか望めないと思うのである。
            「政治とは生活だ」と喝破し、豪雪の越後を雪害から
           解放し、若干44歳で大蔵大臣を努め並み居る官僚群を手
           足の如く利用し使いこなした。ロッキード事件で窮地に
           陥っても、決して弁解したり他に責任を転嫁したりしな
           かったという。勝利を誇らず、勝者を称え敗者を庇い、
           いかなる屈辱的な事態においても報復を嫌った。見事と
           いうほかはない。
            氏が若い人に色紙を書く時、好んで書いた言葉がある。

                 末ついに海となるべき山水も
                 しばし木の葉の下くぐるなり
     
           (津本揚氏著『田中角栄』、早坂茂三氏著『オヤジの知恵』
            などより)
         +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

    ●核拡散防止条約(昭和45年調印、佐藤栄作内閣)の国会承認成立
                            (昭和51年5月21日)
      ロッキード事件のどさくさに紛れて調印後6年後にやっと承認された。
     昭和天皇の悲願を受けた衆議院議長前尾繁三郎の執念の成果だった。
        (平野貞夫昭和天皇の「極秘指令」』講談社、pp.125-126)

    ・「ジェネンテク」社創業(昭和51年4月):バイオ産業のさきがけ
       世界初の遺伝子組み換え技術の実用化を目指したベンチャー企業誕生
       (ハーブ・ボイヤーとロバート・スワンソン)
    ・日豪友好協力基本条約締結(昭和51年6月)
       資源保有国と資源消費国との新しい関係(相互依存型)の端緒とな
      った。
          -------------------------------------
    ●周恩来(膀胱癌・結腸癌・肺癌)死去(昭和51年1月8日)-->後任は華国鋒
    ●毛沢東筋萎縮性側索硬化症心筋梗塞)死去(昭和51年9月9日0時6分)
    ●中国「文革四人組(張春橋王洪文姚文元江青)」逮捕
      華国鋒、汪東興、葉剣英らによる権力闘争の始まり(昭和51年10月6日)                       
    ●トウ小平が権力に復帰:華国鋒、汪東興失脚(昭和53年12月)
            (李志綏『毛沢東の私生活<下>』新庄哲夫訳、文春文庫)
          -------------------------------------
    ■福田赳夫内閣成立(昭和51年12月):幻想的全方位平和外交
       福田内閣は石油危機と田中内閣の日本列島改造計画の影響で発生した
      狂乱物価をおさめる仕事を引き受けさせられたことになる。
          -------------------------------------
    ・天然痘撲滅宣言(1977年)
          -------------------------------------
    ■ダッカ事件(1977年、昭和52年9月28日):福田赳夫は「人間の命は地球
     より重い」という言い訳とともに、テロリストを世界にバラ巻いた。

       ハイジャック犯人グループ:丸岡修、和光晴生、佐々木規夫
                     戸平和夫、坂東国男

       パリ発羽田行きの日本航空機472便(DC-8、乗員14名、乗客137名、
      犯人グループ5名)が、経由地のインド、ボンベイ空港を離陸直後、
      拳銃、手投げ弾などで武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャ
      ックされた。
       同機はバングラデシュのダッカ国際空港に強行着陸、犯人グループ
      は人質の身代金として米ドルで600万ドル(当時の為替レートで約16
      億円)と、日本で服役および拘留中のメンバー9名の釈放を要求し、
      これが拒否された場合、または回答が無い場合は人質を順次殺害する
      と警告した。
       日本国政府は議論の末、10月1日に福田赳夫首相が「人命は地球よ
      り重い」として、身代金の支払いおよび、超法規的措置としてメンバ
      ーの引き渡しを決断。身代金と、釈放に応じたメンバー6名(3名は拒
      否)を日本航空特別機でダッカへ輸送した。
       10月2日、人質との交換が行われ、乗員乗客のうち118名が解放され
      た。10月3日、残りの人質を乗せたままハイジャック機は離陸、クウェ
      ートとシリアのダマスカスを経て人質17名を解放、アルジェリアのダ
      ル・エル・ペイダ空港に着陸して、同国当局の管理下に置かれた。こ
      の時点で残りの乗客乗員も全員解放され、事件は終結した。
       しかし、この事件における日本の対応は、欧米の「テロリストや過
      激派と交渉せず」という姿勢の反対であり、国際的非難を受け、「日
      本はテロまで輸出するのか。」と言われた。日本はこの事件を受け、
      ハイジャックに対応する特殊部隊としてSATを設置した。
         (2004年 ; http://ja.wikipedia.org/w/wiki.phtml より)

    ・日中平和友好条約締結(1978年、昭和53年8月8日)
       1978年は、いろいろな角度から見ても象徴的な意味を持つ重要な年
      だ。その年のトウ小平の訪日に合わせ、中国で開催された日本映画週
      間は中日交流史に大きな足跡を残した。そして、この年の未に長年鎖
      国政策を実施してきた中国は、ようやく改革・開放政策を取りいれ、
      改革の春を迎えた。当時、経済的にその成果を確認できるものは何一
      つなかったが、それでも国民の多くが改革・開放を情熱的に支持した
      のは、外国の映画を見ることができたからだ。ここでいう外国の映画
      とは日本映画のことである。・・・
       日本人は諸悪の根源で趨る資本主義のために路頭に迷い、苦しい生
      活にあえいでいる、とそれまでの政治教育によって多くの中国人は信
      じこんでいた。しかし、物が溢れんばかりに豊かで近代的な日本社会
      と、いかにも幸せそうに暮らしている日本人の生活をスクリーンやブ
      ラウン管で目の当たりにした時、遅れているのは中国人自身なのでは
      ないか、と誰もがショックを覚えた。
       その意味で、日本映画は中国と世界との距離をわかりやすく教えて
      くれたばかりでなく、同時に強烈なインパクトをもって新時代の訪れ
      を知らせてくれた。(莫邦富氏著『日中はなぜわかり合えないのか』
      平凡社新書、2005:pp.92-94)
    ■ヤクザと同和利権、エセ同和の大活躍
       部落解放同盟同和団体といううるさくてやっかいな相手、それを
      さばくことができ、仕切ることができる。それが、官僚としての優秀
      さを示すものとして評価されたのだ。これは、団だけではなく、被差
      別部落の問題をかかえている自治体でも、同じことであり、場合によ
      っては、より大きな要素となっていたとも考えられる。
       これは、解放同盟はともかく、ヤクザにとってはまたとない、つけ
      いる隙となった。
       「同和団体」を組織して、被差別部落民への自治体の予算を獲得し
      たり、融資を実現したりして、手数料を取っていたヤクザのうちには、
      こうした行政側の姿勢を見て、これをビジネスとしてやっていこうと
      するものが生じていった。「ビジネスとして」というのは、「同和」
      を看板にして、同和対策に関係のないところまで公共の資金を引っ張
      ってくる行為を始めていくことを指していた。
       たとえば、土地・不動産関係の許認可ビジネスをやる。開発業者を
      顧客にして、農地の住宅地への転用、市街化調整区域の地目変更など、
      土地開発に必要な許認可を、「同和対策」を大義名分として取りつけ、
      手数料を稼ぐのである。あるいは、融資ビジネスをやる。たとえば
      「同和対策」の名で中小企業信用保証協会ーー中小企業基本法に基づ
      いて各都道府県に設けられている公的機関ーーに保証させて、金融機
      関から無担保で数千万の融資をさせ、手数料を稼ぐ。あるいは、「同
      和対策」としておこなわれている固定資産税の減免などの税制優遇策
      を使って、税務工作をやってやり、手数料を稼ぐ。
       いずれの場合も、「同和対策」の看板は掲げているが、許認可先、
      融資先などはいずれも一般企業でもいい。そのほうが多額の報酬が得
      られる。このようなビジネスが成立していったところで、「エセ同和」
      が誕生したわけである。
       この種のビジネスには、私が京都で仕事をしているころにいくつも
      遭遇した。
      たとえば、京都岩倉の宅地造成にからんで、山口組系の男がやってい
      る同和事業組合を使って、市街化調整区域の線引きをやり直させた事
      例は、『突破者』にかなり詳しく書いたが、同じような例はいくつも
      あった。
       京都では、「エセ同和の帝王」と呼ばれた尾崎清光も派手に活動し
      ていた。尾崎は、1978年(昭和53年)に設立した「日本同和清光会」
      といういわゆるエセ同和団体を使って、中央省庁や地方自治体の官僚
      を徹底的に恫喝する手法で、広大なエセ同和ビジネスを確立して展開
      し、大儲けしたのである。尾崎は「人権」「差別」という戦後民主主
      義理念が絶対に逆らえない、したがって官僚が対抗できないポイント
      を利用すること、そして「こらっ、ワシをなめとんのか!」「いのち
      が惜しうないんか」といった高飛車な恫喝をかましながら、机や椅子
      をひっくりかえすというむきだしの暴力、このふたつを駆使して、相
      手をやりこめた。尾崎は、同時に、取り上げる問題とその周辺や、恫
      喝する人間とその周辺について、徹底した調査をしてネタを集めて、
      盲点を抉り出すのもうまかった。そして、複数のヤクザの組と提携し
      ながら、恐喝ビジネスを「同和」の名の下に展開したのだった。
       (宮崎学氏著『近代ヤクザ肯定論拠』筑摩書房、pp.280-281より)

    ■大平政権誕生(1978年、昭和53年11月) 
       大平首相の時代は自民党の田中・反田中を軸とする派閥抗争が加熱化
      する一方、与野党伯仲による綱渡りの国会運営が強いられていた。
    ・イラン革命:親米パーレヴィ王朝の崩壊(1979.2)-->■第二次石油危機
       ※原油価格の変化:約8ドル/バレル(159L)
                -->第二次石油危機--> 20ドル以上(1978年)
                         --> 40ドル以上(1980~81年)
                         -->110ドル  (2008年3月)
       ※ホメイニ師が指導したイラン革命によって、現代におけるイスラム
        と政治の一体化が現実のものとなった
         ----------------------------------------------
              <オイルマネーの還流>
          石油輸出国が稼いだ石油代金はユーロ市場で預金され、
         あるいはアメリカ国債などの投資されて欧米へと還流し
         た。それが、今度は非産油発展途上国に貸しつけられた
         が、実はオイルマネーを預金として取得した多国籍銀行
         が非産油発展途上国への貸し付け主体となってオイルマ
         ネーの還流の中心となっていた。
          またサウジアラビアは特に狡猾に振る舞った。イスラ
         ム原理主義を掲げる国内の反対勢力を抑えるため、彼ら
         イスラム急進派に多額の賄賂を与え、アフガニスタン
         パキスタンなどの国におけるイスラム「革命運動」に資
         金を提供した。こうしてサウジアラビアの若い世代の急
         進派がこれらの国々に広がり、今日(21世紀)のイスラ
         ム武装勢力の土壌を作った。(後半部分はポール・ロバ
         ーツ『石油の終焉』久保恵美子訳、光文社、p.171)
         ----------------------------------------------
             <アメリカの財政巨大赤字の発生>
          1979年に起きた第二次オイルショックは、インフレ圧
         力をいっそう高めることになった。インフレを制御しよ
         うとして、FRBは経済学者ミルトン・フリードマンの主張
         するマネタリズムを採用した。マネーサプライ(通貨の
         供給量)に目標値を導入する一方、それまで操作してい
         たFF(短期)金利は自由に上下するにまかせたのである。
         この新政策・は1979年10月に導入され、レーガン大統領
         が就任した頃には、すでにアメリカの金利は記録的な高
         水準に達していた。
          レーガン大統領は、企業への減税が民間経済に活力を
         生み、かえって税収を増大させるという、いわゆるサプ
         ライサイド(供給重視)経済学の政策処方と、アメリカ
         の軍事力強化の重要性を信じていた。レーガン政権の初
         年度予算は、大幅な減税と巨額の軍拡をともに盛り込ん
         でいる。軍事以外の政府歳出を減らそうとして努力も重
         ねたが、そうして捻り出された歳出減は、軍拡および減
         税による歳出増よりも、はるかに小さかった。政治的に
         最も抵抗の少ない道が選ばれたのである。かくて、巨額
         の財政赤字が発生した。(ジョージ・ソロス『ソロスは
         警告する』徳川家広・松藤民輔訳、講談社、p.172)

  ★懲りない原子力政策の策定と推進:高速増殖炉プルサーマル計画
         <高速増殖炉の危険性>(日本では『常陽』『もんじゅ』)
     高速増殖炉は、その構造の特殊性から、軽水炉のもつ潜在的危険性に
    加えて、軽水炉にはない安全上の問題点をもっている。それらを詳述す
    ることは専門領域に属することといえそうだが、基本的な点だけはおさ
    えておこう。
     高速増殖炉の基本的な難しさは、軽水炉と比べて炉心の出力密度が高
    く、温度も高いことである。表5-2(ここでは省略)に、高速増殖炉
    軽水炉の基本的なデータの比較を掲げておく。この表をみても分るよう
    に、さまざまな数量的因子が場合によっては一桁近くも高速増殖炉の方
    が高く、それだけ反応の制御や安全設計に難しい点が出てくる。
     それと同時に大きな問題は、毒性の強くやっかいなプルトニウムの炉
    心内蔵量が多いということである。炉心とブランケットを合わせて、大
    型の高速増殖炉では高温の原子炉が内蔵するプルトニウム量は、数トン
    に達する。また、高速増殖炉が実用化されることになれば、核燃料サイ
    クルで取扱われるプルトニウム量は飛躍的に増大する・これは、核拡散
    問題まで含めて大きな社会問題となる。
     次に、冷却材としてナトリウムが使われることも大きな問題である。
    ナトリウムは、腐食性に富むため、配管の腐食の問題が深刻となる。さ
    らに、一次系のナトリウムは原子炉内で放射性となり、冷却材自体が強
    い放射能を帯びるという軽水炉にはない問題が生じる。そして、ナトリ
    ウムがきわめて反応性に富む物質で、水に接触すれば爆発的に反応する
    (燃える)という点が、何よりも恐れられていることである。そのナト
    リウムと水が熱交換器のパイプの薄い金属を隔てて接しているからだ。
    高温のナトリウムは、空気中でも燃える。
   (高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館
     pp.236-237:1981年『プルトニウムの恐怖』を著作集として再録)
       +++++++++++    +++++++++++    +++++++++++
              <プル・サーマル計画>
     すでに述べたように、この何十年という期間を考えても、高速増殖炉
    多量のプルトニウムを消費するというようなことは実現しそうもない。そ
    の間、軽水炉によるプルトニウムの生産が続けば、プルトニウムはむしろ
    たまり続ける。そのたまり続けるプルトニウム軽水炉で燃やそうという
    のが、プル・サーマル計画である。サーマルとは、サーマル・リアクタ
    (熱中性子炉)からきている。
     原理的にはこの方法は可能である。プルトニウムウランにまぜて、混
    合酸化物燃料として使用することになる。実際この方法で、プルトニウム
    を燃やす試験をすることが、すでに日本でも1970年代初期から検討され、
    美浜1号炉で試みられることになっていた。このことについては、日本のプ
    ルトニウムがアメリカに売られる問題に関連して、第四章で触れた。その
    後に美浜1号炉が、燃料棒大破損や蒸気発生器の事故で長い間運転を停止し
    たため、現在までその試験は実施されないままになっているが、今後復活
    することになりそうだ。政府の計画では90年代には実用化したいとしてい
    る。
     1978年に出された資源エネルギー庁の「核燃料サイクルに関する検討結
    果中間とりまとめ」によると、プル・サーマル計画の意義を、(1)燃料節約
    効果、(2)プルトニウムを貯蔵所で保管するより、原子炉内に入れておいた
    方が核拡散防止上好ましい、(3)高速増殖炉時代への技術的訓練、の三点に
    あるとしている。
     このうち(1)以外は、とってつけたというか、本来的な必然性のない理由
    である。(1)の燃料節約効果があるかどうかという点もそう自明ではない。
    高速増殖炉とは異なるといっても、プル・サーマル計画はプルトニウム
    リサイクル計画である。仮にそれが核燃料節釣上の効果をもつとすれば、そ
    れは核燃料サイクル全体が「プルトニウム経済」(第6章参照)という形で
    回転する時のことだろう。それにともなって、本書で述べたようなプルト
    ウムに関するあらゆる問題が問われることになる。それを覚悟で実行するだ
    けの魅力が、プル・サーマル計画にあるとは思われない。もちろん、プル・
    サーマル計画にともなって、プルトニウムの安全上の問題が、社会に大きな
    重荷を背負わすことになろう。実際、世界各国でも、プル・サーマルの方向
    に歩み出した国はない。
   (高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館
     pp.252-253:1981年『プルトニウムの恐怖』を著作集として再録)
     ---------------------------------------------------------------
    ●アメリカ・ジェネンテック社が遺伝子組み換え技術を使ってヒト・イン
     スリン合成に成功(1978年)。
    ■KDD贈答品密輸事件:年間20億円以上の巨大な交際費(1979年)
       ----->郵政省を舞台にした贈収賄事件に発展(190人の政治家に金品)
               (詳細は清水一行氏著『社命』を読んでほしい)
    ●中越戦争(1979(S54).2):中国人民解放軍がヴェトナム深く進入。1か月
     後、ヴェトナム軍にコテンパンにやられて逃げ帰った。
    ●米国、ペンシルヴェニア州ハリスバーグスリーマイル島原発で、原子炉
     の冷却系が誤作動し大量の放射性ガスが大気に噴出。(1979(S54).3.28)
    ・東京サミット:第五回主要経済先進国首脳会議開催(G7)(S54.6.28~29)
    ●靖国神社への戦犯(太平洋戦争の戦犯1068名)の合祀(1979(S54))
      殆んど報道されず。(大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店
      (またこれにともない昭和50年10月より天皇参拝がとだえた)。
    ・イラクサダム・フセインバース党党首、そしてイラクの国家指導者に
     なった(1979)。当時イラク国民の20%はスンニ派イスラム教クルド人
     別の20%はスンニ派イスラム教徒アラブ人、50%がシーア派イスラム教
     アラブ人、残り10%がどこにも属さない者で、バース党首脳部の大部分は
     スンニ派イスラム教徒という少数派だった。
    ●韓国、朴正煕大統領射殺事件(1979.10)
    ●アフガニスタン戦争(1979年末~1988年夏)
      ソ連は局地戦ではイスラム・ゲリラを圧倒したが、補給が続かず撤退。
    ●韓国、光州市民へ対する血の弾圧(1980.5)
    ●イラン・イラク戦争勃発(1980年9月22日~1987年7月)
      この戦争の最大の目的はイラクがイランの大油田の獲得を狙ったもの
     だった。アメリカは当時、イラン(ホメイニ師)憎しで、強力にイラク
     (フセイン)を支援した。(この石油争奪戦はもとはといえばイギリス・
     ロスチャイルドとアメリカ・ロックフェラーの戦いで、イラクを利用し
     てホメイニ政権とイギリス・メジャー(ロイヤル・ダッチ・セル)を強引
     に潰そうと仕掛けた戦争だった)。
    ・総選挙における自民党の敗北と、内部権力闘争(1979年、昭和54年10月)
    ・自民党内部分裂に乗じて社会党提出の内閣不信任案可決、解散総選挙へ。
                           (1980年、昭和55年5月)
          -------------------------------------
    ・1981年、日本政府は世界に先駆けてDNA技術の基盤整備を目指して委員
     会を設置。しかし一部の研究者からの「機械にDNAは読めない。職人芸を
     要する」という異論がでたり、研究者同士の反目や予算投入の遅れなど、
     足並みが揃わなかった。結局、出発こそ遅れたもののアメリカで研究が急
     速に進展し1990年、米国の主導で「ヒトゲノム計画」として今に至る。
      日本人にはあくまでも夢がないのである。目先の金銭的利益追求しか能
     のない民族には明るい明日はない。(ヒトゲノム解読は2003年4月14日に
     完了した)。
      なおこの詳しいいきさつについては岸宜仁氏著『ゲノム敗北』(ダイヤ
     モンド社、2004)を参照されたい。世界に先駆けてゲノム自動読み取りの
     ためのシークエンサーの原理を明らかにした和田昭允氏の構想は、先見性
     も創造性も全く皆無の政治と行政により潰されてしまった。(「日本人に
     独創性がないのではなく、日本という国に独創性の芽を摘んでしまう風土
     があるんです」(和田昭允))
          -------------------------------------
    ・アメリカ、レーガン政権(共和党)誕生(1981年1月、昭和56年)
       1. 金融引き締め、物価の安定-->失業率増加-->大幅減税、設備投資減税
                    -->財政赤字
       2. 金利水準上昇-->ドル高円安-->輸入増加-->貿易赤字
       3. 規制撤廃
          -------------------------------------
    ●AIDSの世界的流行のはじまり(1981年、昭和56年)
         --->1999年12月には世界中で4730万人感染、うち1390万人死亡
              (原因が HIV であると特定されたのは1984年)
      ※ HIV が襲ったのは、まさにレーガン政権がメディケア、メディケイド
       および特別な公衆衛生プログラムを改変して施行した後に、最も保健
       医療の安全網から漏れ易い人口集団だった。
     (ローリー・ギャレット『崩壊の予兆<下>』野中浩一訳、河出書房新社
         --->2003年現在、世界で6000万人以上がHIVに感染。1/3以上が
           既に死亡。さらに15000人以上/日が新たに感染。
          (塩川優一氏著『私の「日本エイズ史」』日本評論社、p.212)
      ※ 日本のAIDSについて(2003年3月31日現在)
        AIDS患者:2624人、HIV感染者:5286人、累積死亡者:1292人、
       2010年には50000人になると推定されている。最近は男性感染者
       が増加、その86.7%は性的接触。77.2%が国内感染、関東甲信越ブロ
       ックで64.3%。近畿ブロックで最近増加。
          (塩川優一氏著『私の「日本エイズ史」』日本評論社、p.213)

  ★これまでの日本社会は平等か不平等だったか?
     戦後の社会は少なくとも1980年代終わりまでは職業選択への機会平等の傾向
    があった(より開かれていた)ことは確かだろう。また1985年を境にして新規
    開業・起業が難しくなっているという傾向も認められる。
            (佐藤俊樹氏著『不平等社会日本』中公新書より)
     つまり日本は1980~1985年頃を境にして機会不平等となってゆくのである。

1982年(昭和57年):このころ国民健康保険法の大幅な見直しと
             老人保険法成立(実質は老人医療の後退)
  ★中曽根政権誕生(田中派の全面的支援、昭和57年11月)
  ★【国家が個人の命の重みを再確認し始めだす時代の到来】
   ◎「来たるべき高齢者激増時代に向かって、医療保障を見直そう」
   ◎厚生省吉村仁保険局長「医療費亡国論」展開-->この思想は現在に至る。

    **************************************************************
  ★物価高の背景
    日本の有名な物価高は、形を変えた所得移転メカニズムであり、失業を隠す手
   段であった。消費者は生産者に高い価格を支払い、さらに効率的な生産者は非効
   率的な生産者に高い価格を支払わなければならない。高価格、それに必要なカル
   テルや談合のような共謀行為、さらにカルテルに必要な輸入制限、すべてが自民
   党による「政府予算とは別の」後援会支援となった。
       (リチャード・カッツ氏著『腐りゆく日本というシステム』より引用)
    **************************************************************

    ●日本における最初のAIDSに関する報道(1982.7.20)
      毎日新聞ーー「免疫性」壊す奇病、米で広がる。・・・

    **************************************************************
  ★アメリカ:レーガン政権の「マネーの帝国循環」
    銀行が融資に積極的だったのは、好況の中で、どんな融資であろうと自らの
   資産構成を改善することが明らかだったからだ。経済成長が力強いせいで資金
   需要も旺盛となり、おかげで最初のうちは下がっていた金利が再度上昇に転じ、
   歴史的な高水準でしばらく安定したかと思うと、さらに上昇していく。
    高金利に加えて、レーガン大統領の力強さ、楽観主義のおかげで、アメリカ
   は投資先としてひどく魅力的に見え出した。その結果、外国資金がアメリカに
   大量に流入する。為替レートがぐんぐん上昇し、他国に比べて金利も高かった
   「強いドル」は投資対象として、このうえもなく魅力的だった。強いドルはア
   メリカの輸入を増やし、輸入増はアメリカ国内のインフレ率を低いままに留め
   る結果をもたらした。つまり、「強い経済」、「強い通貨」、「大きな財政赤
   字」、それに「大きな貿易赤字」が相互に補強しあって低インフレの高成長を
   もたらすという、正のフイードバックが動き出してしまったのだ。
    私はその後、ほどなくして刊行した処女作『ソロスの錬金術』の中で、この
   正のフイードバックのことを「レーガンの帝国循環」と表現した。それは世界
   中から財と資金を呼び込むことで強大な軍事力を維持するという仕組みだった
   からである。この循環は、世界経済の中枢部というべきアメリカには優しく、
   周辺部にあたる発展途上国に対しては厳しかった(私は「レーガンの帝国循環」
   を、バブルのモデルとは別種の「再帰的」過程の実例として紹介した)。
    これが、アメリカの経常収支赤字の始まりであり、「困った時の在庫の引受
   先」 としてのアメリカの登場である。国際経済における”エンジン”という
   アメリカの役割は、その後、紆余曲折を経ているが、基本的には今日にいたる
   まで同じままである。(ジョージ・ソロス『ソロスは警告する』徳川家広・松
   藤民輔訳、講談社

1983年~1988年(昭和58年~昭和63年)
    ○AIDSウイルス(レトロウイルス)が発見される(仏のモンタニエら)。
    ○東京ディズニーランド開園(1983年、昭和58年)
    ○鳥越医院開院(昭和59年12月1日):一人内科医で有床診療所開設。命知ら
      ずの無謀な試みだったと悟ったのは平成11年12月のことだった。有床など
      気安くやるものではない。こういう命の実践は実に過酷なものだ。
    ○バブルで金融・証券・不動産を中心に全国大デタラメの時代。
     日本の一人儲けで各国が協調して円高にシフト(プラザ合意、昭和60年9月)
  ★バブル時代とは主に財界が円高に耐えるために政治家や官僚を使って、国民から
   多量の金を巻き上げて(金融業界の不祥事)、アメリカに資金提供しつつ大散財
   をやった時代。中曽根政権の対米協調政策がバブルを招いた。
  ★【国家不信時代の到来】(注意:国民が選び、国民が作らせた政府であり国家)
    金権政治、官僚腐敗、金融政策の乱脈ぶり、薬害問題、動燃のウソ八百、
   結局は国民への付け回しとなる大借金(350兆円+150兆円+28兆円+α+・・・)。
       ■官僚腐敗、官僚制度の弊害の顕在化。
       ■政治家腐敗、日本の政治は三流政治であることの再認識。
       ■創政会(竹下登小沢一郎金丸信ら)の旗揚げ(1985年2月)
         ---(田中角栄との訣別) --->経世会結成(竹下派、1987年7月)
       ■女性の社会進出、政治への参加の功罪
         女性は、男性に比べて賄賂などを潔しとしない天性の資質を持っ
        ている。だからこそ政治腐敗に対して女性の進出が望まれたのであ
        ろう。しかし、女性には個の命を守るという重要な本能があり、そ
        の故に国家の命運を担うことにかけて現時点で女性がどの程度の認
        識を持っているか、大いに疑問であると筆者は思う。
       ■福島第2原発3号炉で再循環ポンプ損傷事故(1987年1月6日)。
       ■リクルート事件(1988年6月)
       ---------------------------------------------------
       ●ソ連ゴルバチョフソ連共産党中央委員会書記長に選
        出された。(1985.3)
       ・スウェーデン、オーロフ・パルメ首相暗殺(1986.2.28)
          冷戦下のストックホルムは国際スパイとテロリスト
         のセンターとしての顔ももっていた。日本とスウェー
         デンは人口(890万人)と国民皆兵と国民性(個人主
         義)、国防意識のほかには、色々類似したところがあ
         る。
       ・ソ連チェルノブイリ原発4号基が大爆発。原発史上最大
        の爆発とされる(1986年4月26日)。
       ●ソ連で”グラースノスチ”政策が正式に採択(1988年)。
         ただし、共産党一統独裁への疑念と、深刻な民族問題
        の発生の報道は始めはダブーだった。(佐藤優氏著
        『自壊する帝国』新潮社、p.113)
       ●ナゴルノ・カラバフ問題(1988年)
         ゴルバチョフになって以来、知的エリート(ユダヤ人、
        アルメニア人)を背景にして、モスクワは(かつて石油
        を求めた親アゼルバイジャンから)親アルメニアへと
        民族バランスの転換を始めていた。
         ナゴルノ・カラバフ問題はそのような内情のおりに起
        きた。アゼルバイジャン共和国内の自治州ナゴルノ・カ
        ラバフで、その80%を占めるアルメニア人がナゴルノ・
        カラバフのアルメニアへの帰属を要求したもの。この
        結果民族紛争が惹起され、1988.2.28にアゼルバイジャン
        人(イスラム教徒)がアルメニア人(キリスト教徒)を
        襲撃し死者31人、負傷者197人に達した。(佐藤優氏著
        『自壊する帝国』新潮社、p.114-117)
       ●ジェフリー・バラードが率いる小型燃料電池開発会社が
        相次ぐ技術進歩を達成して、安価な燃料電池車の開発が
        現実的になってきた。(ポール・ロバーツ『石油の終焉』
        久保恵美子訳、光文社、pp.130-131)
         ただし様々な水素供給の困難、消費者のニーズの程度、
        石油業界の反発などで水素燃料電池車の実現は1993年ダイ
        ムラー・ベンツ社がバラード社と技術提携し1996年に
        「NECAR II」を開発するまで待たなければならなかった。
        (同、pp.137-138)
         残念ながら2004年現在燃料電池車の信頼性や耐久性、
        燃料補給に関して問題山積のため自動車メーカーの熱意は
        かなりさめている。(同、pp.146-148)
       ---------------------------------------------------

    「世の中に莫迦は多い。大局を見ずおのれの能に専念して、それを誇り生き
   甲斐とする。政治莫迦は永田町での功名争いに国家・国民を忘れ、使命を忘却
   する。官僚莫迦は省益に溺れ、技術莫迦は経営を忘却し、企業莫迦は働く事の
   本質と意義を顧みない」(池宮彰一郎氏著『島津奔る』より引用)

       ■自民党総裁選を控えた竹下登に対する、右翼・日本皇民党
        「ほめ殺し」事件
          金丸信、渡辺(元東京佐川急便社長)、石井進(稲川会会長)
         らが押さえにかかった。政治家が陰の社会の住人の力を借りて
         自民党総裁を戦う等は言語道断もはなはだしい。
       ■後の佐川急便事件(1991年)で金丸信は1992年に議員辞職に追い
        込まれた。
         これは小沢-竹下抗争の第二幕(第一幕は、1991年海部内閣に
        おける政治改革関連三法案の審議未了廃案)で、金丸は自民党
        副総裁を辞任から経世会会長を辞任、さらには議員辞職までに追
        い込まれ、金丸-小沢グループと竹下-梶山・小渕グループ(反政
        治改革グループ)の対立は決定的となった。(野中尚人氏著『自
        民党政治の終わり』、ちくま新書、pp.41-43)
       ------------------------------------------------------------
       ■日蓮正宗創価学会創価学会インターナショナルを破門。
                           (1991年(S.66)11月)
       ------------------------------------------------------------
       ■「老人保健法」施行(1983年、昭和58年)
        武見太郎:「・・・老健法が動き出すが、これで日本の医療は全て
              変わってしまうね。流れは止めることはできないが、
              変える努力は忘れてはならないよ」
        (熊本県医師会長、白男川史朗氏ー武見太郎先生を偲んでーより引用)
       ------------------------------------------------------------
    ● BSE(ウシ海綿状脳症)の恐怖
       遺伝子組み換え食品にもっとも激しく反対しているのはヨーロッパだ
      が、それは単なる偶然ではない。ヨーロッパの人々、とくにイギリス人
      は、食品に何が含まれているかと疑い、かつ提供された情報を信じよう
      としないが、それにはれっきとした理由があるのだ。1984年、イングラ
      ンド南部のある農家が、一頭の雌牛が奇妙な行動を取っていることに気
      がついた。それから1993年までに、イギリスで十万頭の牛がこの新たな
      脳の病気で死んだ。その病気こそ、かつて狂牛病と呼ばれた″ウシ海綿
      状脳症(BSE)”である。大臣たちは慌てふためき、この病気はおそらく
      食肉処理された動物の残骸から作った飼料によって伝染したものであり、
      ヒトに感染することはないと請け合った。ところが2002年2月までに、
      106人のイギリス人がヒトのBSEで亡くなった。彼らはBSEで汚染された肉
      を食べて感染したのだ。
       (ジェームス D. ワトソン『DNA』青木薫訳、講談社、p201)

  ☆国民性・国民意識:行政に頼りきった全く主体性のない国民意識の中で義務を
            十分果たすことなく、自由・平等を叫び、権利ばかり主張
            している。

  ★ブラック・マンディー:ニューヨーク株式市場の大暴落(1987年、S62.10.19)
     東京市場にも影響は及んだが、日本経済の立ち直りは早かった。
    このころ為替レートは1ドル=122円を記録。1985年(プラザ合意)と比べて
     2倍の円高となった。   
  ★1988年(昭和63年)末現在の世界の海外直接投資残高は初めて1兆ドルの大台に
   乗った。米国31.7%、イギリス17.8%、日本10.7%となっていた。プラザ合意以後
   の大幅な円高は日本の海外直接投資の爆発的拡大をもたらした。
                 (プラザ合意、1985年=円高、原油安、金利安)
    -------------------------<プラザ合意の影響>---------------------
     具体的には、1985年以降、円の購買力を増した日本は、アメリカの企業
    や不動産を次々に買収していくようになる。そのことで日本はアメリカ産
    業の競争力に対する脅威としてばかりか、アメリカの一般の人々にとって
    も自国を吸収してしまうかもしれない巨大な怪物として認識された。その
    ことは同時に、日本がアメリカの安全保障にとっての脅威としてもとらえ
    られた。たとえば87年に富士通半導体メーカーのフェアチャイルド社の
    買収を試みた際に、半導体という重要な産業を日本の企業に買収させるこ
    とは許されないという声がアメリカで高まり、富士通はその買収を断念せ
    ざるをえないというかたちになって現れた(フェアチャイルドは実際には
    フランス資本だった)。
     また88年8月に米議会で成立した包括通商法案にも、日本の経済的脅威
    を強く意識し、それをアメリカの安全保障の懸念とリンクさせた措置がと
    られた。というのは、その中には、米通商代表部(USTR)が不公正な貿易
    相手国に対して、一方的に報復措置をとることができるスーパー301条が
    含まれていたからである。さらに、外国資本がアメリカ企業を買収しよう
    とする際に、買収の対象となったアメリカ企業がアメリカの国防上重要と
    思われる場合には、それを阻止できるというエクソン・フロリオ条項とい
    うものも盛り込まれていた。
     産業だけでなく、米政府の財政赤字を埋めるために発行される財務省
    券(米国債)の購入でも、日本の存在感は大きくなる。急速な円高で日本
    の購買力が高まったものの、日本国内に適当な投資先がなかったことから、
    日本の機関投資家財務省証券を大量に購入するようになった。米国債
    新規発行の入札にあたって日本の資本はその過半数を占めることもあり、
    ここでも日本経済は財政的にアメリカの生死に大きく影響するものとして、
    具体的なかたちでアメリカの前に姿を現した(実際には、財政赤字に悩む
    米政府に配慮して日本側が積極的に財務省証券を購入したという理由もあ
    る)。
    (石澤靖治氏著『戦争とマスメディア』ミネルヴァ書房、pp.220-221)
    ------------------------------------------------------------------
       ■中曽根首相が自ら公務を宣言して靖国神社公式参拝をした。
                             (1985.8.15)
       ■白州次郎逝去(S60.11.28)
         日本は”日本最後の男”を失った。この後日本は下り坂を転げ落
        ちるように衰退の一途を辿るのである。
          ”プリンシプルを持って生きていれば、人生に迷うことは無い。
         プリンシプルに沿って突き進んでいけばいいからだ。そこには後悔
         もないだろう”。

1989年(昭和64年):■昭和天皇崩御(1989年、昭和64年1月7日、87歳)
        ・北京天安門事件(1989年6月)
          中国政府は民主化を要求する国民を武力をもって制圧した。
        ・ベルリンの壁崩壊(1989年11月)
        ・地中海のマルタ島で米ソ首脳会談(1989年12月)
        ・1989年~1990年。フランスで「フェニックス」(高速増殖炉
         に事故多発。反応速度低下、出力異常(急激な出力の高低の振れ)
         などを認めたが、何一つその原因の確定に至らず。(高木仁三郎
         氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館
         pp.357-359より)
        -------------------------------------------
  ★新日本製鉄釜石製鉄所の高炉の火が完全に消えた(1989年(昭和64年)<--1985)。
  ★日本のODAは1989年には総額約90億ドルになっていて、米国の76億ドルをぬい
   て世界第一位になっていた。
  ★日米構造協議開催(1989年、H1.7.14、パリ):日米貿易不均衡是正のための協議
     日本側の問題:貯蓄・投資パターン、系列、土地利用、流通
            価格メカニズム、排他的取り引きの慣行
     米国側の問題:貯蓄・投資パターン(日本とは逆)、米国の競争力強化
            企業行動、政府規制
                 <主な内容>
       1.米国は日本の消費者の利益を表に掲げて「大店法」の全面的改正を
        迫った。
       2.公共投資の問題:21世紀までのむこう10年間に430兆円の公共投資
        を行うことを了承させられた。
  ★参議院議員選挙自民党が大惨敗(1989年7月)
    「衆院では多数でも、参院の与野党逆転は少なくとも向こう9年は続く。『ね
   じれ』現象を解消しない限り、重要法案はことごとく討ち死にする」(朝日新聞
   1990年4月14日、小沢一郎)(野中尚人氏著『自民党政治の終わり』、ちくま新
   書、p.22)
  ★日本の景気がバブルであることが明確に指摘されはじめた。
                           (1989年末~1990年初頭)
  ☆☆☆ 1991年から2008年は日本経済の停滞期(経済成長率1%)☆☆☆
        -------------------------------------------
         (★創価学会日蓮正宗の対立が悪化の道をたどる)。
        ●ブッシュ大統領ゴルバチョフ書記長が冷戦終結宣言
                         (1989年12月、マルタ島会談)
        ・アメリカのパナマ侵攻(1989年12月20日)
          元親米のノリエガ将軍を軍隊を出動させて拉致した。(伊藤
         千尋氏著『反米大陸』集英社新書、pp.154-159)
        ・東西ドイツ統一(1990年、平成2年) 
        ●欧州安全保障協力機構は、ソ連をも含む参加各国が議会制民主
         主義を採用することで合意に達し、国民国家憲法原理をめぐ
         る the Long War は終結した。(長谷部恭男氏著『憲法とは何
         か』岩波新書、p.53)
        ・湾岸戦争(1990年8月2日):イラクがクウェイトへ武力侵攻
          1991年1月16日、米軍と多国籍軍イラク攻撃開始
        ・ソ連崩壊(1991年、平成3年)
        -------------------------------------------
       ■不動産融資総量規制(1990年、平成2年3月27日):一片の通達
          土地を買う際の融資の規制で建築の融資への規制はなく、住専
         だけは対象から外れた。
          地価下落、バブル崩壊、農協系金融の大デタラメ、住専破綻・・
         日本の全てのデタラメ行政が明るみに出始めた。
          --------------<不動産融資総量規制の顛末>--------------
           ところで、この銀行局長通達は金融機関に対する行政指導
          であり、法的強制力をもつものではなかった。この通達は、
          貸出総量規制と三業種規制という二本の柱からなっていた。
          総量規制とは、一般金融機関と農協系金融機関に対して、総
          貸し出しの増加率の範囲内に不動産業向け融資の増加率を抑
          制するというもので、ノンバンクの住宅専門金融機関(いわ
          ゆる住専)は規制の対象外とされた。
           三業種規制は一般金融機関に、不動産業、建設業、ノンバ
          ンク(住専も含む)への融資状況の報告を四半期毎に求める
          というものだった。ただし、農協系金融機関は対象外であっ
          た。こうした規制の結果、住専を通じて大量の農協系資金
          不動産業に流入していくことになり、その後の住専破綻、金
          融破綻につながっていく。
           総量規制と言われる銀行局長通達は1年10か月続いた。その
          結果、日本経済の根幹を形成していた土地を媒介とした価値
          増殖メカニズム、いわゆる土地兌換性が完膚なきまでに崩壊
          し、日本経済は大不況に突入していった。金融機関の破綻、
          金融制度の破綻、これを補填するための国債発行による国家
          財政の破綻という、破綻の連鎖である。
            2年後の2001年においても、この崩壊現象はなお続き、復
          活の兆しは夢のまた夢である。この政策を決定したのは、当
          時の大蔵大臣橋本龍太郎その他である。本人たちに自覚は
          ないようだが。
           この間、血の一滴にも等しい金が、三業態の個人、法人に
          融資されることはなかった。このため、不動産業、建設業者
          は、事業の継続及び計画していた事業ができなくなったり、
          不動産関連の支払いができなくなった。同時に不動産の流通
          が滞ったため、価格が低下して売るに売れず、買い手も融資
          がつかないので買えないという悪循環に陥っていく。
             (佐佐木吉之助『蒲田戦記』文春文庫、pp.166-167)
          --------------------------------------------------------
  ★「吹き飛んだ270兆円、バブルの崩壊」(1990年、平成2年10月1日)
     1989年暮れに590兆円を記録し、世界一を誇った東証一部の時価総額は、株
    価が2万円の大台を割った1990年10月1日に319兆円にまで落ち込んだ。わずか
    9か月で270兆円の資産が吹き飛んだ。
          (ビル・エモット氏『日はまた沈む』の予言が当たった)
        -------------- 以下、バブル崩壊の余波 -------------
       ■共和汚職事件(1989年~1992年~1996年)
       ■イトマン事件(1990年)
       ■野村証券はじめ4大証券損失補填事件(1991年)
          日本の金融世界には、特権的に優遇されている階層が存在する
         ということが明るみになった。
       ■「暴対法」制定(1991年5月)
       ■経世会の内部抗争激化(竹下派 vs 金丸-小沢ライン)、1992年12月
        に遂に分裂。
       ■東京協和・安全信組事件(1991年~1993年)
        (以上、詳細は黒田清氏・大谷昭宏氏著『権力犯罪』など参照)
       ■住友銀行は1993年以来22回以上もの襲撃を受けており、名古屋支店
        支店長殺人事件は解決していないし、解決しそうにない。
        ---------------------------------------------------------
       ●1999年7月1日に、日本銀行公定歩合を6%から5.5%に引き下げて
        バブル経済退治の終了を宣言。経済企画庁は景気の減速を認めた。
        1990年は、長い長い平成不況への入口であった。
        ---------------------------------------------------------
       ・ヨーロッパ、マーストリヒト首脳会議(1991年12月)
          通貨統合計画を折り込んだ欧州連合条約を承認。EC(経済共同
         体)を包含するEU(政治体としてのユニオン)へ発展
       ・米国大手証券会社ソロモン・ブラザーズ米国債の入札で不正。
          顧客の名義などを借用して大量の国債を買い、国債価格を操作
         し不正に利益を上げた。
        ---------------------------------------------------------
       ・イギリスが高速増殖炉PFRの打ち切りを決定、さらにEFR(ヨーロッ
        パ高速炉計画)からの撤退を決定(1992年7月)。
       ・ドイツの電力大手二者が大胆な脱原発・脱プルトニウム構想を明ら
        かにした(1992年11月)。
        ---------------------------------------------------------
       ●中国、トウ小平「改革解放を加速せよ」、「一部の人が先に豊か
        になれ」(1992年)

1993年(平成5年)
       ■金丸信が逮捕され、自民党内の「二重権力構造」が終わりを告げる。
         これがきっかけで自民党単独政権の「五十五年体制」が崩壊。
         金丸信: 「・・・、そのヤミ献金は、私の政治団体『新国土
             開発研究会』を経由して、議員たちに渡しました。そ
             れもこれも、竹下を総理にするためです。かなりの巨
             額の金を使ったのです。特に昭和六十二年に経世会
             発足や竹下内閣を作るために、私はそのヤミ献金を議
             員に配ったりと、とにかく竹下を総理にするために相
             当な金を使いました。また昭和六十二年末、経世会
             属する議員たちにも、いわゆる餅代として配っている
             と思う。」
             ・・・
              「業界は、建設業、運輸業、セメント業に携わる企
             業や個人、またそういった業界の団体連合会です。名
             前は話すわけには・・・」
             ・・・
              「年間、御歳暮や御中元を中心に、おおよその話で
             すが、十億円以上はあったと思う。大きな選挙があっ
             た時は、より高額だったと思う」
             ・・・
              「・・・私はこれまで、山梨県の道路、ダムや川の
             建設や整備、住宅、学校の建築、またリニアモータ
             カーの建設など努力して来たので、地元の皆さんが感
             謝してくれたのではないかと思います」
             ・・・
              「北海道を始めとする道路や空港の建設、整備新幹
             線の建設など国の発展のつながる基盤整備などの公共
             事業に全力を傾けていたので、ゼネコン関係などから
             も感謝されていました。またいわゆる建設族であると
             ともに、運輸族郵政族であったことからも、毎年の
             御歳暮や御中元にヤミ献金を頂いたのではないかと思
             います」

       ※ 節操のない、何でもありの世界が繰り広げられているのが今日
        の政界だ。・・・権力の中枢には、常に金丸の子飼いたちーー旧
        経世会のメンバーたちが存在していることだけはまったく変わら
        ない。いくら政権が変わろうとも、いまだ経世会という小さなパ
        イの中で日本の政治は動かされ続けている。
                    (以上、麻生幾氏著『戦慄』より引用)
       ■ゼネコン汚職事件(1993年6月~1994年3月)
         金丸脱税事件--->ゼネコン汚職事件--->自民党分裂

  ★「五五年体制の崩壊」:細川連立内閣成立(1993年、平成5年8月)

     ------------------------------------------------------------------
  ★「脱プルトニウム宣言」(高木仁三郎)(1993年1月3日)
    全文は高木仁三郎氏著『市民科学者として生きる』岩波新書、pp.185-
   188ページ参照。以下は結び部分。
     現在の日本のプルトニウム政策は、官僚とそれをとりまく一部の学者
    ・技山衝者たちの手に委ねられているが、彼らは自己の利害のかかった
    巨大プロジェクトを自ら断つことはできないであろう。彼ら「専門家」
    や「識者」に判断を委ねるのは、自分の命や子供たちの将来を委ねてし
    まうにも等しい。プルトニウムのように猛毒で、核兵器になりやすく、
    また秘密の壁をひたすら厚くしなくては守れない物質と、安全で民主的
    な社会がいったいどう相容れるのか、日本のすべての人々が、真剣に考
    え、決断すべきときだと信じる。
  ★米国ではエネルギー省(DOE)長官に任命されていたヘイゼル・オリアリー女史
   が完全機密組織に変貌していたDOEの体質を解放した。(1993(H5).12.7)
      ・「冷戦はすんだ。・・・事実を言おう」
      ・「放射能人体実験」
          一つが、18人にしたプルトニウム注射です。ぞっとしました。
         ・・・、今の基準に合う同意を患者から得たとは思えません。
         被験者の名も公表したかったが、DOEの法律家に止められた。国民
         の知る権利と、残されたご家族の思いを秤にかけ、こういう形に
         とどめさせてもらいます。
          (アイリーン・ウェルサム『プルトニウムファイル<下>』)
     ------------------------------------------------------------------

       ・大蔵省発表:不良債券総額7兆9927億円(巷の囁きでは30~50兆円)
       ・コスモ証券経営破綻--->大和銀行が買収
       ・野村秋介氏自殺
         「体をかけないと何もできないし、人も振り向かない」
         「母と子の絆で耐えるしぐれ獄」
                  (見沢知廉氏『獄の息子は発狂寸前』)
       ●海外企業の日本離れ
          土地も家賃も人件費も税金も各種手数料もバカ高く、制度は
         複雑怪奇かつ不合理で行政の干渉が絶えず、しかも市場が沈滞
         して商売にならない。

1994年~現在まで(平成6年~平成14年頃まで):危機管理のお粗末さを露呈
    ○湾岸戦争阪神大震災地下鉄サリン事件、超円高(79.75円/ドル、
     1995年4月)、日経平均株価最低値(14295円、1995年7月)、薬害エイズ
     問題、ペルー大使館人質事件、金融ビッグバン宣言(1996年11月、橋本
     龍太郎)・・・
         (●出生数:約120万人)
  ★【日本という国家は、国民の命を守る力を全く持ってないことを再認識】
   ※個人が命の重みを見直すべき時代の到来
    ◎「自分の生きていることの意義を、自分の力で見いだそう」
    ◎「誰も頼りにならない。自分を守るのは自分である」
        ----------------------------------------------------
        ●出生率:1.39(1997(平成9)年度):最低値を更新
        ●出生数:119万1681人(平成8年:120万6555人)
        ●軍人恩給受給者:177万7000人(平成7年)
             支給額:1兆5992億1900万円(国家予算の2.2%~2.3%)
        ----------------------------------------------------
  ★衆議院議員選挙に小選挙区制が導入された(1994年1月)
  ★高速増殖炉もんじゅ」で液体ナトリウム漏れ事故と公開上の度重なる欺瞞。
                            (1995年12月8日)
        <高速増殖炉の危険性>(日本では『常陽』『もんじゅ』)
     高速増殖炉は、その構造の特殊性から、軽水炉のもつ潜在的危険性に
    加えて、軽水炉にはない安全上の問題点をもっている。それらを詳述す
    ることは専門領域に属することといえそうだが、基本的な点だけはおさ
    えておこう。
     高速増殖炉の基本的な難しさは、軽水炉と比べて炉心の出力密度が高
    く、温度も高いことである。表5-2(ここでは省略)に、高速増殖炉
    軽水炉の基本的なデータの比較を掲げておく。この表をみても分るよう
    に、さまざまな数量的因子が場合によっては一桁近くも高速増殖炉の方
    が高く、それだけ反応の制御や安全設計に難しい点が出てくる。
     それと同時に大きな問題は、毒性の強くやっかいなプルトニウムの炉
    心内蔵量が多いということである。炉心とブランケットを合わせて、大
    型の高速増殖炉では高温の原子炉が内蔵するプルトニウム量は、数トン
    に達する。また、高速増殖炉が実用化されることになれば、核燃料サイ
    クルで取扱われるプルトニウム量は飛躍的に増大する。これは、核拡散
    問題まで含めて大きな社会問題となる。
     次に、冷却材としてナトリウムが使われることも大きな問題である。
    ナトリウムは、腐食性に富むため、配管の腐食の問題が深刻となる。さ
    らに、一次系のナトリウムは原子炉内で放射性となり、冷却材自体が強
    い放射能を帯びるという軽水炉にはない問題が生じる。そして、ナトリ
    ウムがきわめて反応性に富む物質で、水に接触すれば爆発的に反応する
    (燃える)という点が、何よりも恐れられていることである。そのナト
    リウムと水が熱交換器のパイプの薄い金属を隔てて接しているからだ。
    高温のナトリウムは、空気中でも燃える。
    (高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森
     館、pp.236-237:1981年『プルトニウムの恐怖』を著作集に再録)
        ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
         <ドイツにおける高速増殖炉放棄についての感想>
     高速増殖炉の内部で本当に深刻な事故が発生した場合に、どういうこ
    とに至るのかということについては、未だ科学が及んでいない領域だと
    思います。その科学が及んでいないところを、不確かさと見て、人間の
    安全の立場から許容しがたいとするのか、分かってないからと言って、
    手抜きをして作業をしないでごまかしてしまうのか、そういうところで
    高速増殖炉を許容するかしないかということが分かれると思います。
    ドイツで高速増殖炉が放棄されたのは、そこに誠実である人たちが一定
    程度州当局の中にいたということに尽きると思います。日本の場合には、
    まったく粗末な安全審査の結果で、それゆえに今日になっていると思い
    ます。(『もんじゅ訴訟』第28回口頭弁論(1993.7.16)において。高木
    仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館
     p.395より)

  ★プルサーマル計画閣議了解(1997年2月):ばかの屋上屋を連ねる。
           <プル・サーマル計画の問題点>
     すでに述べたように、この何十年という期間を考えても、高速増殖炉
    が多量のプルトニウムを消費するというようなことは実現しそうもない。
    その間、軽水炉によるプルトニウムの生産が続けば、プルトニウムはむ
    しろたまり続ける。そのたまり続けるプルトニウム軽水炉で燃やそう
    というのが、プル・サーマル計画である。サーマルとは、サーマル・リ
    アクタ(熱中性子炉)からきている。
     原理的にはこの方法は可能である。プルトニウムウランにまぜて、
    混合酸化物燃料として使用することになる。実際この方法で、プルト
    ウムを燃やす試験をすることが、すでに日本でも1970年代初期から検討
    され、美浜1号炉で試みられることになっていた。このことについては、
    日本のプルトニウムがアメリカに売られる問題に関連して、第四章で触
    れた。その後に美浜1号炉が、燃料棒大破損や蒸気発生器の事故で長い
    間運転を停止したため、現在までその試験は実施されないままになって
    いるが、今後復活することになりそうだ。政府の計画では90年代には実
    用化したいとしている。
     1978年に出された資源エネルギー庁の「核燃料サイクルに関する検討
    結果中間とりまとめ」によると、プル・サーマル計画の意義を、(1)燃料
    節約効果、(2)プルトニウムを貯蔵所で保管するより、原子炉内に入れて
    おいた方が核拡散防止上好ましい、(3)高速増殖炉時代への技術的訓練、
    の三点にあるとしている。
     このうち(1)以外は、とってつけたというか、本来的な必然性のない
    理由である。(1)の燃料節約効果があるかどうかという点もそう自明では
    ない。高速増殖炉とは異なるといっても、プル・サーマル計画はプルト
    ニウム・リサイクル計画である。仮にそれが核燃料節釣上の効果をもつ
    とすれば、それは核燃料サイクル全体が「プルトニウム経済」という形
    で回転する時のことだろう。それにともなって、本書で述べたようなプ
    ルトニウムに関するあらゆる問題が問われることになる。それを覚悟で
    実行するだけの魅力が、プル・サーマル計画にあるとは思われない。も
    ちろん、プル・サーマル計画にともなって、プルトニウムの安全上の問
    題が、社会に大きな重荷を背負わすことになろう。実際、世界各国でも、
    プル・サーマルの方向に歩み出した国はない。
    (高木仁三郎氏著『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館
     pp.252-253:1981年『プルトニウムの恐怖』を著作集に再録)

               <次々と起こる原子炉事故>
       ●日立の下請けが原発配管溶接工事での焼鈍記録を捏造(1997年9
        月16日)。
       ●相次ぐ事故隠しと虚偽報告が発覚して動力炉・核燃料開発事業団
        (動燃)が核燃料サイクル開発機構に改名(1998年10月1日)。 
       ●使用済み燃料・MOX燃料の輸送容器の中性子遮蔽材データ捏造・
        改ざんが内部告発で発覚(1998年10月4日)。
       ●東海村JCOウラン臨界事故。ウラン0.5~1mgが燃えた(1999年9月
        30日)。
       ----------------------------------------------------

  ★次々と表出・噴出する権力犯罪
       ■大和銀行ニューヨーク支店巨額損失隠蔽事件(重大なルール違反)
       ■岡光厚生事務次官養護老人ホーム事件(1996年11月)
         「福祉」という利権に官・業が癒着して補助金にたかり、高齢者
        を食い物にした事件。
       ■証券各社総会屋事件(1997年3月)
       ■大蔵・日銀接待事件(1998年1月)
       ■防衛庁調本不正事件(1998年9月)
       ■神奈川県警事件(1999年9月)
       ■中尾元建設相贈収賄事件(2000年6月)
        (以上、詳細は黒田清氏・大谷昭宏氏著『権力犯罪』など参照)
   ※熊崎勝彦氏(1997年当時東京地検特捜部長)は大蔵省と銀行業界の腐敗に
    メスを入れ、関係者何人かを告発したが、この捜査がさらに上層部に及ん
    だところで富山地検に転勤させられた。(B.フルフォード『日本がアルゼ
    ンチン・タンゴを踊る日』光文社、pp.55-56)
       ----------------------------------------------------
  ★改正日銀法施行(平成11年(1998年)4月1日)
     日本銀行は法的に独立し、政府および大蔵省に対する最低限の報告義務が
    課されるだけになった。日銀の通貨および金融の調節の自主性は最大限保た
    れるようになった。換言すれば日銀は資金貸出(通貨印刷)において信用調
    節(信用創造と信用収縮)により、物価安定を(目眩ましの)金科玉条とし
    て経済のバブルへの誘導もデフレへの誘導も、おおっぴらに意のままに操れ
    るようになった。(つまりバブルは日本銀行の”窓口指導”が原因だった)。
    (歴代日銀系総裁:一万田-->佐々木-->前川-->三重野-->福井の悲願が実っ
    たのだ) (R.A.ヴェルナー氏著『円の支配者』より要約)

  ★【大失業時代到来、未曾有の不景気】
   ※銀行の不良債権について
    評判の悪い日本の銀行危機は過剰貯蓄症候群が金融面に現れたものである。
   銀行の帳簿上の不良債権は1998年半ばで140兆円、日本のGDPの約30%と推定され
   ているが、単なる数字の問題ではなかった。それらは、新しい建物や工場に組み
   込まれた労働力、原材料、機械といった実体のある社会資源を表している。これ
   らは全て対価を支払わなければならなかったのだが、これらの投資はその支払い
   を行うための本物の経済リターンを提供していなかった。新しい建物や工場が産
   み出す生産物の価値は、建物や工場を作り出すためにかかったコストよりも低か
   った。こうしてすべて不良債権となったのである。
    なぜ、このようなまずい投資が行われたのか、大きな理由は、金融サイドの
   「過剰貯蓄」である。毎年、毎年、銀行には必要としていない預金が何兆円も流
   れ込み、保険会社にはそれほど欲しいとは思わない莫大な保険料が流入し、証券
   会社には山のような投資資金が集まっていた。銀行や他の金融機関は、集まった
   お金に対する金利や配当金の支払いができるよう、狂ったようにお金の投資先を
   探した。銀行にとって本来必要な金額をはるかに上回って預金が急拡大し、貸出
   競争を引き起こしたため、銀行の商業貸出の対GDP比は1987年の73%から、92年に
   は97%にまで急上昇した。
    投資しなければならない余分なお金がたくさんあるときは、賢明な配分はなさ
   れにくい。・・・余分なお金の80%は金持ち国に向かい、そこでは6000億ドルのお
   金が為替差損だけで失われてしまった。
       (リチャード・カッツ氏著『腐りゆく日本というシステム』より引用)

  ★1995年アメリカによる地獄の円高攻勢
    1994年細川軟弱首相が訪米し、日米構造協議に出席。何の戦略もなく「NO」と
   言い捨てた。激怒したクリントン、ラリー・サマーズ(当時財務長官)は地獄の
   円高攻勢を仕掛け1995年4月17日、円の対ドルレートは79円の史上最高値となっ
   た。完全に日本の敗北だった。

   ※1997年中に経営が破綻した主な企業(()内は従業員数)
    ●日産生命保険(4700人、1997年4月25日)
    ・三洋証券(2760人、1997年11月3日):コール市場デフォールト発生
    ●北海道拓殖銀行(5510人、1997年11月17日)
    ●山一証券(7330人、1997年11月24日)
    ・東海興業(1540人)
    ・ヤオハンジャパン(1200人)
    ・大都工業(870人)
    ・多田建設(810人)

   ※過去(1995年(平成7年)~)の大デタラメ=約50兆円
      1.日本興業銀行公的資金投入額:6000億円
      2.第一勧業銀行公的資金投入額:9000億円
      3.さくら銀行公的資金投入額:8000億円
      4.富士銀行公的資金投入額:1兆円
      5.住友銀行公的資金投入額:5010億円
      6.大和銀行公的資金投入額:4080億円
      7.三和銀行公的資金投入額:7000億円
      8.東海銀行公的資金投入額:6000億円
      9.あさひ銀行公的資金投入額:5000億円
     10.三井信託銀行公的資金投入額:4002億円
     11.三菱信託銀行公的資金投入額:3000億円
     12.住友信託銀行公的資金投入額:2000億円
     13.東洋信託銀行公的資金投入額:2000億円
     14.中央信託銀行公的資金投入額:1500億円
     15.横浜銀行公的資金投入額:2000億円
     16.対青木建設債券放棄額:2049億円
     17.対フジタ債券放棄額:1200億円
     18.対東和不動産債券放棄額:2400億円
     19.対西友系ノンバンク債券放棄額:2100億円
     20.対佐藤工業債券放棄額:1100億円
     21.対長谷工コーポレーション債券放棄額:3500億円
     22.末野興産負債総額:6000億円
     23.住専一次損失:6兆4990億円
       ※ 農協系金融機関の政治力を使ったゴネ得で、6850億円が雲散霧消
        した。農協系金融機関(農林中金、47都道府県信連、全国共済農協
        連合会と47旧共済連)の住専融資総額は約5兆5000億円だった。
         (岡田保氏『農協貯金「ドンブリ勘定」の末路』文藝春秋 2000;11
          月号:284-292より)
       ※ バブル期に「地上げ」「土地ころがし」に使われた住専資金
        、最終的にはそれに荷担したヤクザのもとに流れていたのだ。その
        過程では、政治家や官僚、銀行家がさまざまな形で絡み、それぞれ
        が金をポケットに入れていたのだ。これは、日本の上層部がヤクザ
        と癒着していることの証明であり、政府は国民に向かって、腐敗し
        た彼らのために「金を差し出せ」と言っているのに等しかった。
        (B.フルフォード『日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日』光文社
                                 pp.23-24)
     24.北海道拓殖銀行不良債券額:2兆3433億円
     25.山一証券負債総額:3兆5085億円
     26.日本長期信用銀行("政治家の貯金箱")債務超過額:2兆6535億円
       <リップルウッド・ホールディングズの日本長期信用銀行買収
                         (H12/2/10朝日新聞朝刊)>
          損失穴埋め額  :3兆6000億円
          資本増強額   :  2400億円
          H10/3月既注入額:  1300億円(合計3兆9700億円)
       ※日本長期信用銀行への公的資金注入は、非常にわかりにくく最終
        的には合計4兆2000億円程度の完全穴埋めになると言われている。
     27.日本債券信用銀行("政治家の貯金箱")債務超過額:3兆 943億円
         H10/12/13に一時国有化。総資産:6兆5772億円
        公的資金注入:3兆2000億円、資本増強:2000億円
       ※日債銀の貸出記録には朝鮮信用組合への何億ドルもの疑わしい記録
        が残っている。
       ※H11/5月の金融再生委の資産判定で1兆2000億円の「譲渡不可能=不適
        資産」が含まれていることがリークされた。
       ※この銀行はH12/9月4日「あおぞら銀行」(="孫正義銀行")として
        「瑕疵担保条項」とともに民間に譲渡された。社長本間忠世は16日
        後に自殺(本当に自殺か、その真相は謎。97年移行に起きた政府高
        官や大銀行のトップの急死はこれで7人目)した。
     28.国民銀行債務超過額:777億円
        H11/4/11破綻。破綻処理額:6155億円
     29.みなと銀行公的資金援助額:1兆 560億円
     30.木津信用組合資金贈与額:1兆 340億円
        (木津の資産1兆3100億円のうち9600億円が回収不能となっていた)
     31.東京協和・安全信用組合不良債券譲渡額:667億円
     32.コスモ信用組合債務超過額:1700億円
     33.三洋証券負債総額:3736億円
     34.日産生命債務超過額:1853億円
     35.日本リース負債総額:2兆4443億円
     36.東海興業負債総額:5110億円
     37.多田建設負債総額:1700億円
     38.東京都新庁舎建設費用:1569億円
     39.苫小牧東部大規模工業団地負債額:1800億円
     40.住友商事銅不正取引損失額:3120億円
     41.むつ小川原開発会社債権放棄額:1620億円(H11/8月)
     42.足利,北陸,琉球,廣島総合銀行公的資金投入額:2610億円
                          (H11.9.14朝日新聞朝刊)
         足利銀行  :1050億円
         北陸銀行  : 750億円
         琉球銀行  : 400億円
         廣島総合銀行: 400億円
        (これらは1.54~0.94%の優先株を発行して国が買い取ることで公的
         資金注入)
     43.幸福銀行破綻
        H11/5/22破綻。破綻処理額:2兆 321億円
     44.東京相和銀行破綻
        H11/6/12破綻。破綻処理額:2兆5293億円
     45.なみはや銀行破綻
        H11/8/17破綻。破綻処理額:2兆 038億円
     46.新潟中央銀行破綻
        H11/10/2破綻。破綻処理額:1兆2400億円
       (以下調べ、リストアップするのも煩わしいので、ここで一旦中止)

   ※1998年企業・団体政治献金(平成10年分、H11/9/10朝日新聞より)
        ・献金御三家:銀行、建設、鉄鋼
        ・献金五摂家:銀行、建設、鉄鋼、自動車、電機
      1.トヨタ自動車:6540万円(自民党民主党
      2.NEC   :4000万円(自民党
      3.戸田建設  :3427万円(自民党民主党自由党
      4.日産自動車 :3410万円(自民党民主党
      5.大成建設  :3114万円(自民党民主党自由党
      6.新日本製鉄 :3000万円(自民党
      7.東芝    :2964万円(自民党
      8.日立制作所 :2964万円(自民党
      9.松下電器産業:2964万円(自民党
     10.熊谷組   :2920万円(自民党民主党自由党
     11.大林組   :2714万円(自民党民主党自由党
     12.竹中工務店 :2714万円(自民党民主党自由党
     13.サントリー :2703万円(自民党自由党
     14.清水建設  :2584万円(自民党民主党自由党
     15.川崎製鉄  :2500万円(自民党
     16.スズキ   :2490万円(自民党
     17.フジタ   :2454万円(自民党民主党自由党
     18.ソニー   :2300万円(自民党
     19.本田技研工業:2300万円(自民党
     20.鹿島    :2291万円(自民党自由党
    不況の鉄鋼・電機、不良債務不問建設業、防衛庁デタラメ経理の貪官汚吏絡
   み腐敗企業が軒並み政治献金というこの現実を我々はどう受け止めるべきなのか。

   ※失業者数(2001年12月)
     完全失業者337万人(完全失業率5.6%)<---240万人(3.2%)=1995年4月

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        # ナチス政権の軍拡放漫財政に対するライヒス・バンク理事会
          (フォッケ、シャハトら)の上申書(1939年1月7日)
          < 政府が放漫な財政政策を続けて止まるところを知らない
           ため、通貨価値は危胎に瀕している。止まるところを知ら
           ない国家財政の膨脹は秩序ある財政を求める努力とは相容
           れないものであり、巨額の税金をむりに取り上げているの
           もかかわらず、財政はまさに破綻に瀕し、これによって中
           央銀行の機能は撹乱され通貨価値も動揺している。際限の
           ない放漫財政を放任しておきながら、その通貨価値におよ
           ぼす破壊作用を抑えようとしても、そのようなことができ
           る独創的かつ特効薬的な財政政策通貨政策上の措置や組織
           ・機構や統制手段は存しない。国家がインフレーション
           放漫財政政策をおこなうならば、いかなる中央銀行といえ
           ども通貨価値を維持することはできない。・・・>
                (城山三郎氏著『小説日本銀行』より孫引き)

        ※ 命を賭してヒトラーに提出されたこの勇気と栄光に満ちた上
         申書の内容とその意義は、いつの時代においても、その財政政
         策の闇夜を照らす貴重なサーチライトだろう。
          いま、我々も平成不況のなかの放漫財政を考えなおす時が来
         ているのかもしれない。
        +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
  ※以下、北村龍行氏著『「借金棒引き」の経済学』より抜粋
  ★金融監督庁発足(1998年6月22日)
    大蔵省の金融支配は、事実上ここに終焉を迎えた。(学歴信仰のメカニズム
   も崩壊)
  ★金融再生法(1998年10月12日)、金融早期健全化法(1998年10月16日)成立。
   ・金融再生法:銀行破綻時の処理方法決定
     1.管財人による清算
     2.特別公的管理(一時国有化)(-->10.23に長銀、12.12に日債銀に適用)
        特別公的管理下におかれた金融機関を、国がどこかの金融機関に
       譲渡する際には、債務超過分は公的資金で埋めあわせる。
      ※日本長期信用銀行を清算せずに、あくまで譲渡にこだわった理由
        a. 長銀の大手融資先(川崎製鉄東京電力日本信販熊谷組
         セゾングループ、そごう、ダイエー、NTT・・・)への配慮。
        b. 金融債(無記名(--->脱税に利用)、元本無保証、預貯金保
         無加入)への損失補填が目的。【しかしこの公的資金による金融
         債への補填は、極めて怪しい異常事態なのだ】
     3.ブリッジバンク
   ・金融早期健全化法:公的資金枠設定
     1.預貯金保険機構の金融機能早期健全化勘定に政府保証枠25兆円
     2.金融再生勘定(新設)に18兆円
     3.預貯金保護用特別業務勘定に17兆円
   ・金融再生委員会、整理回収機構RCC)設置:大蔵省の退場
  ★中小企業に対する30兆円の特別信用保証枠(1998年10月、中小企業金融安定化
    特別保証制度、2001年3月末まで):1999年度末の保証債務残高は43兆190億円
  ★建設業界の事業規模(1998年):集票マシン、利益共同体
    ・許可業者57万社、就業者662万人(労働人口の約10%)
    ・民間建設投資43兆円+公共事業投資33兆円(GDPの14.3%)
  ★1999年(平成11年)以降の金融再編ビッグ・ニュース(管理された金融再編)
   ・みずほフィナンシャル・グループ:第一勧銀=富士銀=興銀(共同持ち株)
   ・あさひ銀(のち離脱)=東海銀(=2001年、三和銀)(共同持ち株)
   ・住銀+さくら銀(合併)
   ・三菱東京フィナンシャル・グループ(仮称)
      :東京三菱=(三菱信託+日本信託+東京信託)(共同持ち株+合併)
  ★民事再生法(2000年、平成12年4月):新たな「徳政令」の発動
     会社が破綻する前に再建計画を作成して、債務の免除などを認める制度。
    金融機関にとっては非常に恐ろしい制度であり、金融機関の融資先選別は厳
    しくなり、疑わしい融資先からは融資をさっさと引き上げる。

  ★建設・不動産業界の不振企業の動き(平成14年3月3日、朝日新聞朝刊より)
      社名      債務の免除額(概数・億円)  主力銀行・代表行
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   ・飛島建設         6400            富士
      20年の再建計画を短縮模索、富士が金融支援を検討、合併も
   ・熊谷組          4300        三井住友(旧住友)
      12年の再建計画の今後の見直しの有無が焦点に
   ・長谷工          3550            大和
      15年の再建案を3年に短縮。追加の金融支援受ける。1500億円の債務
     の株式化へ
   ・青木建設         2050           あさひ
      20年の再建計画がとん挫し、昨年末に民事再生法を申請
   ・三井建設         1420        三井住友(旧さくら)
      住友建設と経営統合を発表。追加金融支援の有無が焦点
   ・フジタ          1200        三井住友(旧さくら)
      建設部門と不採算の不動産部門を分社し、建設は三井・住友に合流する。
     追加の金融支援の有無が焦点
   ・佐藤工業         1110           第一勧業
      10年の再建計画がとん挫。平成14年3月3日に会社更生法を申請予定
   ・ハザマ          1050           第一勧業
      飛島など同業との提携や合併が焦点に
   ・藤和不動産        2900           UFJ(旧東海)
      1500億円程度の追加の金融支援が焦点
   ・殖産住宅相互        650           UFJ(旧三和)
      1月に民事再生法を申請
   ・ミサワホーム        350           UFJ(旧東海)
      債務免除要請を1日に発表
   ・大京          (未確定)         UFJ(旧三和)
      銀行側が3000億円規模の支援を表明
 (注)債務免除が少額のケースとして大末建設、井上工業ダイア建設などがある。
    大京・ミサワ以外の債務免除は初回は実施済み。

   ※建設会社の主な大型倒産(平成14年3月3日、朝日新聞朝刊より)
     年月      会社     負債額(億円)
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    1993年11月    村本建設     5900   会社更生法
    1997年 7月    東海興業     6110   会社更生法
    1997年 7月    多田建設     1714   会社更生法
    1997年 8月    大都工業     1592   会社更生法 
    1998年 7月    浅川組       603   会社更生法
    1998年12月    日本国土開発   4067   会社更生法
    2001年 3月    冨士工       831   民事再生法
    2001年12月    青木建設     3721   民事再生法
    2002年 3月    佐藤工業     1110   会社更生法
       -----------------------------------------
   ※2000年(平成12年)前後に破綻した生保会社の運命(外資系に買収された)
   ・東邦生命--->GE(米)--->AIG(米)
   ・千代田生命--->AIG(米)+ジブラルタル
   ・平和生命--->エトナ(米)--->マスミューチュアル(米)
   ・協栄生命--->プルデンシャル(米)
   ・オリコ生命--->プルデンシャル(英)
   ・第百生命--->マニュライフ(カナダ)
   ・日産生命--->アルテミス(フランス)
   ・日本団体生命--->アクサ(フランス)
   ・ニコス生命--->クレディ・スイス(スイス)
     (関岡英之氏『奪われる日本』文芸春秋 2005;12:98)
       -----------------------------------------