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バトシーラー日記

あまり知られていない様々な真実の知識をお届けします


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近現代日本という暗黒社会Part3


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       ●ガダルカナルを中心とした陸海の攻防での惨敗(S17.8.7~S18.2)
         ガダルカナル戦は補給を全く無視して陸軍部隊を送り込み、戦死
        者の3倍もの餓死者を出すという悲惨なな結果を迎えた。まさに大東
        亜戦争の全局面を象徴するような戦闘となった。(藤原彰氏著『餓
        死(うえじに)した英霊たち』青木書店、p.22)
         (「い」号作戦:ガダルカナルを巡っての航空決戦。このガダルカ
         ナルこそは大東亜戦争の縮図だ。大本営と日本軍の最も愚かな部
         分がこの戦いの全てに現れている)。
          第一次ソロモン海戦。陸海軍兵隊約3万1000人のうち約2万800
         人が無駄に死(大半が餓死、マラリアによる病死)んだ。多くの
         熟練パイロットの戦死により海軍航空隊の戦力が激減(893機の
         飛行機と2362名の搭乗員を失う)した。
           ※井本熊男(当時参謀本部作戦課)の回想
              「ガ島作戦で最も深く自省三思して責任を痛感しなけ
             ればならぬのは、当時大本営にありて、この作戦を計画、
             指導した、洞察力のない、先の見えぬ、而も第一線の実
             情苦心を察する能力のない人間共(吾人もその一人)で
             なければならぬ」
           ※藤木参謀(ガダルカナル作戦大失敗の馬鹿参謀)曰く
              ・・・一支隊の命運はそれこそ鴻毛の如し、従容とし
             て悠久の大義に生くる悦びとして受け入れるべきであり、
             戦争ではよくあることであります。その一つ一つに過度
             の感情移入は禁物であります。(ゴミだな。こいつは)
                    (福井孝典氏著『屍境』作品社、p.18)
           ※大本営発表
              「・・・ガダルカナル島に作戦中の部隊は・・其の目
             的を達成せるに依り二月上旬同島を撤し他に転進せしめ
             られたり」(あほか? 狂っとる)
           ※撤退にあたっての陸軍司令部よりの命令(最低!!)
             「新企画実行の為行動不如意にある将兵に対しては皇国
             伝統の武士道的道義を以て遺憾なきを期すること」
               (飯田進氏著『地獄の日本兵』新潮新書、p.41))
       ●横浜事件(S.17.9~10頃)
          太平洋戦争下の特高警察による、研究者や編集者に対する言論
         思想弾圧事件。(特高特別高等警察=思想の取り締まりが任務)
          1942年、総合雑誌『改造』8、9月号に細川嘉六論文〈世界史の
         動向と日本〉が掲載されたが、発行1ヵ月後,大本営報道部長谷
         萩少将が細川論文は共産主義の宣伝であると非難し、これをきっ
         かけとして神奈川県特高警察は、9月14日に細川嘉六を出版法違
         反で検挙し、知識人に影響力をもつ改造社弾圧の口実をデッチ上
         げようとした。しかし,細川論文は厳重な情報局の事前検閲を通
         過していたぐらいだから、共産主義宣伝の証拠に決め手を欠いて
         いた。そこで特高は細川嘉六の知友をかたっぱしから検挙し始め、
         このときの家宅捜査で押収した証拠品の中から,細川嘉六の郷里
         の富山県泊町に『改造』『中央公論』編集者や研究者を招待した
         さい開いた宴会の1枚の写真を発見した。
          特高はこの会合を共産党再建の会議と決めつけ、改造社、中央
         公論社、日本評論社岩波書店朝日新聞社などの編集者を検挙
         し、拷問により自白を強要した(泊共産党再建事件)。
          このため44年7月、大正デモクラシー以来リベラルな伝統をもつ
         『改造』『中央公論』両誌は廃刊させられた。一方、特高は弾圧
         の輪を広げ、細川嘉六の周辺にいた、アメリカ共産党と関係があ
         ったとされた労働問題研究家川田寿夫妻、世界経済調査会、満鉄
          調査部の調査員や研究者を検挙し、治安維持法で起訴した。
           拷問によって中央公論編集者2名が死亡、さらに出獄後2名が
          死亡した。その他の被告は、敗戦後の9月から10月にかけて一律
          に懲役2年、執行猶予3年という形で釈放され、『改造』『中央
          公論』も復刊された。拷問した3人の特高警察官は被告たちに人
          権蹂躙の罪で告訴され有罪となったが、投獄されなかった。   
                     (松浦総三平凡社大百科事典より))
       ●「敵性語を使うな」とか「敵性音楽を聴くな」
          国民には強制的な言論統制がなされていた。この年(昭和18年)
         の初めから「敵性語を使うな」とか「敵性音楽を聴くな」という
         命令が内務省や情報局からだされた。カフェとかダンスといった
         語はすでに使われず、野球のストライクもまた「よし一本」とい
         う具合に変わった。電車のなかで英語の教科書をもっていた学生
         が、公衆の面前で難詰されたり、警察に告げ口されたりもした。
          とにかく米英にかかわる文化や言語、教養などはすべて日常生
         活から追い払えというのだ。まさに末期的な心理状態がつくられ
         ていく予兆であった。指導者たちが自分たちに都合のいい情報の
         みを聞かせることで国民に奇妙な陶酔をつくつていき、それは国
         民の思考を放棄させる。つまり考えることを止めよという人間の
         ロボット化だったのだ。
          ロボット化に抗して戦争に悲観的な意見を述べたり、指導者を
         批判したりすると、たちまちのうちに告げ口をする者によって警
         察に連行されるという状態だった。(保阪正康氏著『あの戦争は
         何だったのか』新潮新書、pp.154-155より)

       ●ニューギニア東岸、輸送船団壊滅(S18.2.28)
          昭和十人年二月二十八日、第十八軍の隷下に入る兵士たちを乗
         せた八隻の輸送船団は、陸海八十機の戦闘機、八隻の駆逐艦に護
         られながらラバウルを出発しました。しかし、ブナから三百キロ
         北西のラエ近くで敵空軍の反復攻撃を受け、輸送船はすべて沈ん
         でしまいました。駆逐艦も四隻が沈没しました。第十人軍の司令
         部要員のほか、三千名の将兵が海に沈んだのです。貴重な武器、
         弾薬、車両、燃料などを失った僅か八百五十名の将兵が、丸腰の
         ままラエに上陸しただけでした。(飯田進氏著『地獄の日本兵』
         新潮新書、p.61)
       ・ビスマルク海での日本軍輸送船団壊滅(S18.3.4)
          アメリカ空軍による新しい攻撃方法(スキップ爆撃)
       ・唖然とする100トン戦車構想
          どうやって持ち込み、何に使う? 実際機能するのか?
         貧弱な発想の典型。
       ・「い号作戦」(S18.4.7)
          零戦はじめ合計400機による航空部隊による、ニューギニア
         アメリカ軍飛行場攻撃作戦(山本五十六自ら指揮)
       ●連合艦隊司令長官山本五十六大将戦死(S18.4.18)
          ラバウルブーゲンビル島カヒリ(ブイン)に赴く途中に撃墜
         された。長官の日程は暗号で打電されたが完全に解読されていた。
         ミッドウェーの失敗に学ばないバカ丸だしの軍部であった。
         (暗号解読の実際についてはマイケル・パターソン『エニグマ
         コードを解読せよ』角敦子訳、原書房、pp.369-370を参照)
       ●御用哲学者田辺元の体制迎合的講義(1943.5.19)
         (林尹夫(1945年7月28日戦死、享年24歳)の日記より)
         19日のT(筆者注:田辺元)教授月曜講義「死生」を聴講。
        すなわち、死は自然現象であり、我々の本性意志のいかんと
        もしがたいものとみる、ストアを代表とする自然観的認識論
        と、これにたいして、死を現実の可能性とみて、それへの覚
        悟により蘇生の意義をみるハイデッガーを代表とする自覚存
        在論的態度を説明し、このいずれも現代の我々の死生の迷い
        を救うものでないとする。しからば我々を救う死の態度とは
        ”決死 ”という覚悟のなかにありとT教授は説く。つまり、
        死を可能性の問題として我々の生を考えるのではなく、我々
        はつねに死にとびこんでゆくことを前提に現在の生があると
        いう。この場合、死はSein(存在)ではなくしてSollen(当
        為)であるという。
         林は、「T教授の論理は、あきらかに今日の我が国の現状の
        必要性に即応することを考慮した考え方であろう」と鋭く見
        抜いていた。
         (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.124)
       ●アッツ島玉砕(S18.5.29)
          大東亜戦争下での初めての玉砕。傷病兵を安楽死させ、2576人
         全員死亡。(藤田嗣治画伯『アッツ島玉砕』を見よ!!)            
         山崎保代大佐:「傷病者は最後の覚悟を決め、非戦闘員たる
                軍属は各自兵器を執り、共に生きて捕虜の辱
                めを受けざるよう覚悟せしめたり。他に策な
                きにあらざるも、武人の最後を汚さんことを
                虞る。英魂と共に突撃せん」
          ※「玉砕」とは
            「玉砕」は、唐の時代に編まれた 『北斉書』 の一節
           「大丈夫寧可玉砕何能全」に由来すると言われる。大丈夫
           たる男子は、いたずらに生き長らえるよりは玉のごとく美
           しく砕け散るほうがよいという意味だが、それを現代に復
           活させ神がかり的な殉国思想と結び付けたところに、大本
           営の詐術があった。国家および天皇のためにいさぎよく死
           ぬことは、生き延びることよりも美しい。実際には戦場で
           無謀な突撃をして皆殺しにされることを、「玉砕」の二文
           字は美化し、そのような徒死に向かって国民の意識を誘導
           する役割をも果たした。(野村進氏著『日本領サイパン島
           の一万日』岩波書店、p.207)
          ※ 清沢洌氏『暗黒日記』(岩波文庫、p.39より)
            昨日(S18.5.29)アッツ島の日本軍が玉砕した旨の放送
           があった。午后五時大本営発表だ。今朝の新聞でみると、
           最後には百数十名しか残らず、負傷者は自決し、健康者は
           突撃して死んだという。これが軍関係でなければ、こうし
           た疑問が起って社会の問題となったろう。
            第一、谷萩報道部長の放送によると、同部隊長山崎保代
           大佐は一兵の援助をも乞わなかったという。しからば何故
           に本部は進んでこれに援兵を送らなかったか。
            第二、敵の行動は分っていたはずだ。アラスカの完備の
           如きは特に然り。しからば何故にこれに対する善後処置を
           せず、孤立無援のままにして置いたか。
            第三、軍隊の勇壮無比なることが、世界に冠絶していれ
           ばいるほど、その全滅は作戦上の失敗になるのではないか。
            第四、作戦に対する批判が全くないことが、その反省が
           皆無になり、したがってあらゆる失敗が行われるわけでは
           ないか。
            第五、次にくるものはキスカだ。ここに一ケ師団ぐらい
           のものがいるといわれる。玉砕主義は、この人々の生命を
           も奪うであろう。それが国家のためにいいのであるか。こ
           の点も今後必ず問題になろう。もっとも一般民衆にはそん
           な事は疑問にはならないかも知れぬ。ああ、暗愚なる大衆!
          ※ 不愉快なのは徳富蘇峰、武藤貞一、斎藤忠といった鼠輩が
            威張り廻していることだ。(伊藤正徳
             (清沢洌氏著『暗黒日記』、岩波文庫、p.46)
          ※ 開戦の責任四天王は・・・
             徳富蘇峰(文筆界)、本多熊太郎(外交界)、末次信正
           (軍界)、中野正剛(政界)
             (清沢洌氏著『暗黒日記』、岩波文庫、p.102)
       ●東条内閣「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定(S18.6.25)
         <大東亜戦争の現段階に対処し、教育練成内容の一環として、
          学徒の戦時動員体制を確立し学徒をして有事即応の態勢たら
          しむるとともに、これが勤労動員を強化して学徒尽忠の至誠
          を傾け、その総力を戦力増強に結集せしめんとす> アホか!!
       ・創価学会初代会長・牧口常三郎、二代目会長・戸田城聖(甚一)
        が治安維持法違反で逮捕された。(S18.7.6)
       ●清沢洌氏の日記より(S18.7.31)
          毎朝のラジオを聞いて常に思う。世界の大国において、かく
         の如く貧弱にして無学なる指導者を有した国が類例ありや。国
         際政治の重要なる時代にあって国際政治を知らず。全く世界の
         情勢を知らざる者によって導かるる危険さ。
       ・イタリア無条件降伏(S18.9.8)
          昨日まで「イタリー、イタリー」といっていたのが、今日は
         文芸欄その他まで動員しての悪口だ。日本の新聞には小学校生
         徒の常識と論理もないらしい。(清沢洌氏著『暗黒日記』、
         岩波文庫、p.89)
       ●ニューギニア東部サラワケット山越え"地獄の撤退"(S18.9.10)
             (飯田進氏著『地獄の日本兵』新潮新書、pp.63-69)
        ※ラエ・サラモアからキアリへの標高4000m級の山越え行軍を強い
         られた部隊の一つである第51師団第三野戦病院の岩田亀索衛生
         伍長は次のように書いている。
         「ラエより(S18.9.15発)死のサラワケット越え(行程約400km)、
         前半10日くらいは的包囲のうちの逃避行、虎の尾を踏む思ひの暗
         夜の難行軍、谷へ転げ落ちる者数知れず、キアリ着(S18.10.15)
          。ラエ撤退時の兵力約六千、どうにかキアリに着いた将兵は半
         数の約三千、熱帯とは云へ四千米以上の高山、寒さ、連日の行軍、
         疲労凍死、餓死数十名が各所に枕を並べて無念の涙を飲み此の山
         の犠牲となる。今もなほ白骨を晒す姿が目に浮かぶ」(藤原彰
         著『餓死(うえじに) した英霊たち』青木書店、p.57)
       ・ロンドンに連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)が設置(1943.10)さ
        れ、1944年より活動を開始。
       ●学徒出陣(S18.10.21、最初の「壮行会」、25000人)
          東条英機:「御国の若人たる諸君が、勇躍学窓より征途に就
               き、祖先の遺風を昂揚し、仇なす敵を撃破して皇運
               を扶翼し奉る日はきたのである」。
           ※時まさに連戦連敗、戦争を知らない人間には、戦争をやめ
            る断固たる決意も持ち得なかったということだろう。あき
            れる他はない。
           ※特攻パイロットには意図的に学徒出陣組が徴用された。
           ※1943年12月にいまだに正確な数字はわかっていないが、
            全国で20~30万人の学生が学徒兵として徴兵された。
            (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.126)
           ※学徒兵として召集された朝鮮人は4385人、このうち640人
            が戦死 (大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店
           ※林尹夫(1945年7月28日戦死、享年24歳)の場合
             1941年9月5日には、林は次のように記す。「日本よ、
            ぼくはなぜ、この国に敬愛の念を持ちえないのか」。
            さらに10月12日には、「国家、それは強力な支配権力
            の実体である。・・・ぼくは、もはや日本を賛美する
            こと、それすらできないのだ」と言いつつ、「戦争は、
            国体擁護のためではない。そうではなくして、日本の
            基本的性格と、そのあり方が、日本という国家に、戦
            争を不可欠な要素たらしめているのだ」と鋭い洞察を
            示す。日本は戦争なしでは一瞬たりとも存続しえない
            戦争機械のような存在である。戦争がなければ、自ら
            が生き延びるために無理やりにでも戦争を作り出すだ
            ろう-ーこの戦争不可欠という洞察からはどのような
            希望も導き出すことはできない。林はこの日、次のよ
            うにも述懐する。
              ・・・ぼくは、この戦争で死ぬことが、我ら世代
             の宿命として受けとらねばならぬような気がする。
             根本的な問題について、ぼくらは発言し、批判し、
             是非を論じ、そして決然たる態度で行動する。そう
             いう自主性と実践性を剥奪されたままの状況で戦場
             にでねばならぬためである。だから宿命と言うのだ。
              戦争で死ぬことを、国家の、かかる要求のなかで
             死ぬことを、讃えたいとは霜ほども思わぬ。その、
             あまりにもひどい悲劇のゆえに。(大貫美恵子氏著
             『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.120-121)
       ・東条英機を公然と批判した中野正剛憲兵隊に引っ張られ10月27日
        自殺させられた。(憲兵隊:軍隊の警察。本来の任務は軍の綱紀粛
        正。内地憲兵と外地憲兵の二種あり。外地憲兵は作戦任務・諜報活
        動・機密保全が主な任務)。
         中野正剛:「国は経済によりて滅びず。敗戦によりてすら滅びず。
              指導者が自信を喪失し、国民が帰趨に迷うことにより
              滅びる」(『戦時宰相論』)
       ・米英ソが三国首脳の名で「ドイツの残虐行為に関する宣言」(モス
        クワ宣言)を発表(1943.11.1)
         ”ドイツの戦争指導者については、連合国政府の共同決定によっ
        て処罰する”ことをはじめて規定した。(粟屋憲太郎氏著『東京裁判   
        への道<上>』講談社、pp.18-19)
       ●マキン、タラワ両島の守備隊が全滅(S18.11)
          柴崎恵次海軍少将他4500名全滅
       ●ブーゲンビル島沖海戦(S18.10~11)
          ブーゲンビル島ラバウル防衛ののための要点であったので、
         米軍のタロキナ岬上陸(S18.10.27)に対して連合艦隊の主力を
         あげて反撃したが米艦のレーダーが大威力を発揮、絶対劣勢と
         思われた米艦隊が勝利した。日本海軍はブーゲンビル島突入に
         失敗。情報収集・分析・活用を無視した結果であった。なおこの
         時の戦果は大本営発表の1/10だった。
          タロキナ作戦大敗北の後に残った兵は4万余あったが、方面軍
         の報告ではS20.12.10には203053人に減少。大部分は飢餓に基づ
         く戦病死であった。しかもブーゲンビル島の第6師団のすさまじ
         い飢餓の状況のなかで食糧を求めて離隊し、敗戦後に戻った兵
         を軍法会議にもかけず、敵前逃亡とみなし銃殺したという。
         (1997.7.12放送、NHK教育テレビ「封印ーー脱走者たちの終戦」)
         (後半部は藤原彰氏著『餓死(うえじに)した英霊たち』
          pp.30-31より)
       ・カイロ会談(1943.11):ルーズベルトチャーチルの反対を押して
         蒋介石をカイロに招き戦後の満州、日本の帰趨についてなど話し
         あった。どういうわけか蒋介石夫人の宋美齢も同席した。チャー
         チルにとっては中国はどうでもよかった。(このあとルーズベル
         トとチャーチルスターリンと会談するためにテヘランに行き、
         結局、カイロ会談での合意(中国を援助する)を放棄。蒋介石
         激怒させた。これが蒋介石政権の没落のはじまりとなった)。
          この『カイロ宣言』で連合国が、日本の戦争責任処罰をはじめ
         て公式に共同声明した。(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道
         <上>』講談社、p.20)
       ・マーシャル諸島、クェゼリン本島、ルオット、ナムル壊滅(S19.1)
       ・フーコン死の行軍(S19.1)~メイクテーラ奪回(?)作戦(S20)
         古山高麗雄氏『フーコン戦記』(文藝春秋社)より
            俺たちが半月がかりであの道を踏破したのは、十九年の
           一月中旬から下旬にかけてであったという。泰緬鉄道が完
           成したのは、十八年の十月二十五日だという。すでに鉄道
           は開通していたのだが、俺たちは歩かされた。鉄道隊は、
           「歩兵を歩かせるな」を合言葉にして敷設を急いだという
           が、できると物資輪送が先になり、歩兵は後になった、と
           古賀中尉は書いている。
            歩兵は歩け、である。けれども歩兵だからと言って、歩
           かせて泰緬国境を越えていたのでは、大東亜戦争では勝て
           なかったのだ。歩兵は歩かせるものと考えていた軍隊は、
           歩兵は送るものと考えていた軍隊には勝てないのである。
           俺たちは日露戦争用の鉄砲、三八式歩兵銃を担がされ、自
           動小銃をかかえて輸送機で運ばれていた軍隊に、途方もな
           い長い道のりを、途方もない長い時間歩いて向かって行っ
           て、兵員が少なくても、食べる物がなくても、大和魂で戦
           えば勝てる、敵の兵員が十倍なら、一人が十人ずつ殺せば
           勝てる、俺たちはそんなことを言われながら戦い、やられ
           たのだ。
                  ******************
            どれぐらい待っただろうか。やっと一行が現われた。
           徒歩であった。副官らしい将校と参謀を従えて、師団長も
           泥道を歩いた。前後に護衛兵らしいのがいた。
            師団長だの参謀だのというのは、物を食っているから元
           気である。着ているものも、汚れてなくて立派である。フ
           ーコンでは戦闘司令所が危険にさらされたこともあったと
           いうが、あいつらは、食糧にも、酒、タバコにも不自由し
           ないし、だから、元気なわけだ。しかもこうして、瀕死の
           兵士や、浮浪者のようになっている兵士は見せないように
           と部下たちがしつらえるのだから、白骨街道の飢餓街道の
           と聞いても、わからないのである。あるいは、わかっても
           意に介せぬ連中でもあるのだろうが、どうしてみんな、あ
           んなやつらに仕えたがるのか。
            いろいろ記憶が呆けていると言っても、あのとき、貴様
           ら浮浪者のような兵隊は、閣下には見せられん、と言った
           下士官の言葉も、あの姐虫と同じように、忘れることがで
           きないのである。
       ●海軍軍務局が呉海軍工廠魚雷実験部に対して人間魚雷(暗号名
         「○六」)の試作を命じた。
       ・米空母機動部隊トラック島攻撃~パラオ空襲(S19.2~3)
          日本海軍は燃料補給に致命的打撃を被った。
          トラック島(海軍最大の前進基地)の機能喪失とラバウルの孤
          立(S19.3)。このあと日本軍は全ての戦いで完敗を重ねた。
       ・東條演説事件(S19.2.28):臨時の「全国司法長官会同」において
         東條が司法を脅した。
           「従来諸君の分野に於いて執られてきた措置ぶりを自ら
          批判もせず、ただ漫然とこれを踏襲するとき、そのところ
          に、果たして必勝司法の本旨にそわざるものなきやいなや、
          とくと振り返ってみることが肝要と存ずるのであります。
           (中略)私は、司法権尊重の点に於いて人後に落つるも
          のではないのであります。しかしながら、勝利なくしては
          司法権の独立もあり得ないのであります。かりそめにも心
          構えに於いて、はたまた執務ぶりに於いて、法文の末節に
          捉われ、無益有害なる慣習にこだわり、戦争遂行上に重大
          なる障害を与うるがどとき措置をせらるるに於いては、ま
          ことに寒心に堪えないところであります。
           万々(が)一にもかくのごとき状況にて推移せんや、政
          府と致しましては、戦時治安確保上、緊急なる措置を講ず
          ることをも考慮せざるを得なくなると考えているのであり
          ます。
           かくしてこの緊急措置を執らざるを得ない状況に立ち至
          ることありと致しまするならば、この国家のためまことに
          不幸とするところであります。
           しかしながら、真に必要やむを得ざるに至れば、政府は
          機を失せずこの非常措置にも出づる考えであります。この
          点については特に諸君の充分なるご注意を願いたいものと
          存ずる次第であります(以下略)」(清永聡氏著『気骨の
          判決』新潮新書、pp.134-135)
       ・中学生勤労動員大綱決定(S19.3.29)
       ●インパール死の行軍(S19.1.7に認可、S19.3月8日~7月)
         チンドウィンの大河を渡り、インドとビルマの国境のアラカン
        山脈を越えて、インドのアッサム州に侵入しようとした作戦。
          補給がなければ潰れるのは当然。稀にみる杜撰で愚劣な作戦だ
        った。(司令官:牟田口廉也、10万人中7万人死亡。なお牟田口の
        直属上司はビルマ方面軍司令官河辺正三だった)。
                 ---------------------------
        ☆インパール作戦失敗後の7月10日、司令官であった牟田口は、自
         らが建立させた遥拝所に幹部将校たちを集め、泣きながら次のよ
         うに訓示した。
           「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を
            放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手
            に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても
            戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸
            がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由になら
            ぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がな
            くなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。
            足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和
            魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州であ
            る。神々が守って下さる…」
          以下、訓示は1時間以上も続いたため、栄養失調で立っている
         ことが出来ない幹部将校たちは次々と倒れた。
                 ---------------------------
            ※インパール作戦での日本兵の敵
              ○一番目:牟田口廉也(および日本の軍部)
                「インパール作戦」大敗後、作戦失敗を問われた
               牟田口は、こう弁明した。
                「この作戦は″援蒋ライン”を断ち切る重要な戦
               闘だった。この失敗はひとえに、師団の連中がだら
               しないせいである。戦闘意欲がなく、私に逆らって
               敵前逃亡したのだ」
                部下に一切の責任を押し付けたのである。
                三人の師団長たちはそれぞれ罷免、更迭された。
               しかし、牟田口は責任を問われることはなく参謀本
               部付という名目で東京に戻っているのだから、開い
               た口がふさがらない。
                私はインパール作戦で辛うじて生きのこった兵士
               たちに取材を試みたことがある(昭和63年のこと)。
                彼らの大半は数珠をにぎりしめて私の取材に応じ
               た。そして私がひとたび牟田口の名を口にするや、
               身体をふるわせ、「あんな軍人が畳の上で死んだこ
               とは許されない」と悪しざまに罵ることでも共通し
               ていた。(保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』
               新潮新書、p.179)
              ○二番目:軍部に同調する日本人のものの考え方
              ○三番目:雨季とマラリア(蚊)
              ○四番目:飢餓
              ○五番目:英国・インド軍

          萩原の言うとおりなのかも知れない。確かに、軍隊では、将軍
         の一声で、何万人もの人間の運命が違って来る。参謀が無茶な作
         戦を作ると、大量の人間が死ぬことになる。無茶と言えば、あの
         戦争自体が、最初から無茶だったのかも知れない。ビルマくんだ
         りまで行って、糧秣も兵器弾薬もろくになく、十五倍、二十倍の
         敵と戦うなどというのは、どだい無茶である。あの頃は、不可能
         を可能にするのが大和魂だ、などと言われて尻を叩かれたが、将
         軍や参謀たちは、成算もないのに、ただやみくもに不可能を可能
         にしろと命令していたわけだろうか。泰緬鉄道を作ることが、ど
         れほどの難工事であるか、アラカンを越えてインパールを攻略す
         ることがどのようなものであるか、将軍や参謀たちには、まるで
         わかっていなかったのであろうか。
          (奴ら、一種の精神病患者なんやね、病人たい、病人、軍人病
         とでも言えばよかかね、この病気にかかると、ミイトキーナを死
         守せよ、などと平気で言えるようになる。玉砕なんて、自慢にも
         何もならんよ、勝目のない喧嘩をして、ぶっ飛ばされたからと言
         うて、自慢にはならんじゃろう)。
               (古山高麗雄氏『断作戦』(文春文庫)pp.46-47)

            ※大本営発表(この頃は大ウソとボカしの連続)
               「コヒマ及インパール平地周辺に於て作戦中なりし
              我部隊は八月上旬印緬国境線付近に戦闘を整理し次期
              作戦準備中なり」
            ※桑原真一氏(日本-イギリス戦友会交流世話人
               「あの作戦の目的について、私は今も知らない。ビル
              マ、インドからあなたたち(注:英軍)を追い出そうと
              したことだと思うが、しかしそれが目的ならあのような
              かたちの戦闘は必要でない。私は、あの作戦は高級指揮
              官の私利私欲のために利用されたと思っている。いや私
              だけではない。皆、そう思っている」
               (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)
            ※インパールを含めてビルマに派遣された兵隊33万人中
             19万人以上が戦死した。
        ・帝国陸軍「一号作戦」(大陸打通作戦)を発令(S19.4)
           51万人の大兵力を投じ、北京ー漢口、広州ー漢口の鉄道線沿い
          の重要拠点全てを占領して大陸交通を完全に支配下におくととも
          に、アメリカ軍の航空隊基地を破壊するという、気宇壮大、前代
          未聞の作戦。斜陽日本も、この作戦では弱体の中国軍に大攻勢を
          かけた。(結局は中国との和解に至らなかったのだが)
       ●「湘桂作戦」(S19.5~11):支那派遣軍最終最大の作戦
         黄河を渡り京漢線を打通し信陽まで400km、さらに奥漢線、湘桂線
        を打通して仏印まで1400kmに及ぶ長大な区間を、16個師団・50万人
        の大軍を動かした、日本陸軍始まって以来の大作戦。(服部卓四郎と
        辻政信(当時参謀部兵站課長)の極悪残忍さがよくわかる)。
           作戦担当の檜兵団は、野戦病院入院患者の死亡37%(三分の一
          強)、そのうち戦傷死13.9%に対し、脚気腸炎、戦争栄養失調
          症等消化器病栄養病の死亡率は73.5%を占めた。
           入院患者中、「戦争栄養失調症」と診断された患者の97.7%が
          死亡したという。一人も助からなかったというにひとしい。
           前線から武漢地区病院に後送された患者の場合、栄養低下によ
          り、顔色はいちじるしく不良、弊衣破帽、被服(衣服)は汚れて
          不潔、「現地の乞食」以下であり、シラミのわいている者多く、
          「褌さえ持たぬ者もあった」と書かれている。全身むくみ、頭髪
          はまばらとなり、ヒゲは赤茶色、眼光無気力、動作鈍重、応答に
          活気がないなどと観察されている(19年9月下旬から10月中旬の
          こと)。
           日中戦争について論議は多いが、この種の臨場感ある専門家の
          文章に接するのははじめてのように思う。彼等もまた「皇軍」と
          いう名の軍隊の成員だったのだ。
           すべての戦線は母国からはるかに距離をへだてたところにある。
          しかし、中国戦線は「朝鮮」「満州」と地つづきである。海上だ
          けではなく、陸路の補給も絶え、飢餓線上で落命した多くの兵士
          がいたことを改めてつきつけられた。
          (澤地久枝氏著『わたしが生きた「昭和」』岩波現代文庫.p194)
        ・連合軍ノルマンディー上陸(S19.6.6)
       ●マリアナ沖海戦(「あ」号作戦、S19.6.19~20)
           日本海軍機動部隊消滅。新鋭空母大鳳」(カタパルトなし)
          沈没。(作戦用Z文書は米軍の手に渡っていた)
            ※"マリアナ七面鳥狩り"(米国評)
            ※渾作戦(戦艦「大和」出動):宇垣纏(最後の特攻で
                           戦死)司令官
               「蒼い海がサンゴ礁を覆う南溟の果てに、大艦隊が
              海を圧し、脾肉の嘆をかこっている。祖国の興廃が分
              かれる戦機を眼前にしながら、阿呆の作戦、ただ手を
              こまねいて芒っとしているだけ・・・」
                 (吉田俊雄氏著『特攻戦艦大和』より)
            ※宇垣纏は中将は身の毛もよだつ「桜花特攻作戦」に対し
             平然と出撃命令を下した。「桜花特攻作戦」は一式陸攻
             の胴体の下に、頭部に1200キロの火薬を載せ、尾部にロ
             ケットを装着した小型グライダーをつけて攻撃目標まで
             運び、攻撃というときにこのグライダーに特攻兵士を乗
             せて殆んど滑空降下の形で目標艦へ突入させるというも
             のであった。
              「桜花特攻作戦」の総指揮官野中五郎中将は、この作
             戦を断じて拒否したが、掩護機に見捨てられ、出撃後ま
             もなく一式陸攻搭乗の野中五郎中将以下135名の乗員と
             三橋大尉以下 「桜花特攻作戦」隊員15名が沖縄の海に
             没した。 (荘子邦雄氏著『人間と戦争』朝日新聞出版
             pp.152-155より)
               
       ●サイパン陥落と玉砕(S19.6.15-->7.7~10):「バンザイ・クリフ」
          米軍の皆殺し作戦(ナパーム弾使用)で軍人、民間人約60000人
         が全滅。南雲忠一中将自決。(この後よりB29の日本本土爆撃が本
         格的にはじまった)。南雲忠一はミッドウェー惨敗の責任を負わ
         されサイパンへの流刑状態(悪魔の上にも悪魔がいる)だった。
         ※南雲忠一「『サイパン』島ノ皇軍将兵ニ告グ」(直後自決)
           「今ヤ止マルモ死、進ムモ死、生死須ラクソノ時ヲ得テ帝国
          男児ノ真骨頂アリ。今米軍ニ一撃ヲ加エ、太平洋ノ防波堤トシ
          テ『サイパン』島ニ骨ヲ埋メントス。戦陣訓ニ日ク『生キテ虜
          囚ノ辱ヲ受ケズ』、『勇躍全力ヲ尽シ、従容トシテ悠久ノ大義
          ニ生クルコトヲ悦ビトスベシ』ト。茲ニ将兵卜共ニ聖寿ノ無窮、
          皇国ノ弥栄(いやさか)ヲ祈念スベク敵ヲ索メテ発進ス。続ケ」
          (野村進氏著『日本領サイパン島の一万日』岩波書店、p.273)
       ・東部ニューギニア戦線(アイタペ作戦など、S18~19)
          ここは地獄の戦場だった。約16万人が戦死、戦病死。
           (大本営発表では一言も触れられていない)
             ---------------------------------------
               <第十八軍司令官安達二十三の回想>
          ・・・何も無いジャングルの地に投げ出すように放りこまれ、
         その後補給も無かった。近代戦の最低限の条件である物資と兵站
         線確保。安達はなんとかそれを獲得しようと努めた。しかし異境
         の地でそれは困難を極めた。潤沢に補給される敵の物量を前にし
         て、まるで徒手空拳さながらに対崎したのである。火力の差はと
         ても話しにならなかった。しかし何よりも兵士を苦しめたのは、
         食べる物が無いことだった。餓鬼地獄という言葉がある。まさに
         その言葉通りの惨状が日常となった。制空権も制海権も完全に奪
         われた南涙の未開地で、飢えと病にさいなまれて死んでいったの
         である。生きたまゝ死骸同然となっていく兵士たちの群れを見な
         がら、最高責任者として、済まないと思わぬ時はなかった。切歯
         扼腕、途方も無い絶望の淵に立ちすくむ時もしばしばだった。不
         屈の皇軍敢闘精神で捨て身の肉薄攻撃を繰り返したものの勝負は
         戦う前からついていた。そんな状態で戦い続けなければならなか
         った。それが悔しかった。その悔しさは兵士たちも同じ筈だった。
         同じ思いを抱いた者と一緒に死にたかった。(福井孝典氏著『屍
         境』作品社、p.196)

           ---------------<ある悲しいエピソード>--------------
           私たちはこの見張り所を占拠して、ここから敵の陣地を見る
          ことにしました。そこで私たちは一斉に銃を射って、彼らを倒
          したのです。不意の攻撃ですから、彼らに反撃の余裕はありま
          せん。全員を射殺しました。そして、私たちはその見張り所に
          入りこんだのですが、私は大学を卒業していましたので、ある
          程度の英語の読み書きはできます。
           私は、なにげなく机の上のノートを見ました。その兵士はす
          でに死んでいたのですが、まだ二十歳を超えたような青年でし
          た。そのノートに書かれた英文を読むと、「ママ、僕は元気に
          戦場にいます。あと一週間で除隊になりますが、すぐに家に帰
          ります。それまで皆を集めておいて、私の帰りを待っていてく
          ださい。そのときが楽しみです。・・・」という文面でした。
          戦友の中で英語がわかるのは私だけでしたから、何が書いてあ
          るんだと尋ねられたときも、どうやら報告書のようなものらし
          いと答えて、最後のページを被り、私はポケットにしまいこん
          だのです。しかしこれをもっていると、何かのときに都合がわ
          るいと思って、後にこっそりと焼いてしまいました。
          (保阪正康氏著『昭和の空白を読み解く』講談社文庫、p.12)
       ・西部ニューギニア戦線(S19~S20)
          苛烈な爆撃と飢餓、マラリアアメーバ赤痢脚気などが次々
         と若者の命を奪っていった。司令部のお偉いさんは漁船を呼びつ
         けこっそり逃げようとした。指揮官は爆撃の際には防空壕の底に
         へばりついていた。
         --------------<三橋國民氏著『鳥の詩』より>--------------
          早朝、破壊されたサマテ飛行場滑走路の修復作業のため、私た
         ち仲間の少しでも動ける何人かが、それぞれスコップを肩にして
         陣地を出発した。陣地の草っ原を抜けると山径になり清原のいる
         砲分隊のニッパ小屋につきあたる。すると、その小屋の高床式に
         なっている隅の柱に、清原が両手でしがみつき、辛うじて腰を浮
         きあがらせた恰好でうめき声をあげていた。私は清原が何をやっ
         ているのか見当がつかず、小屋の中に入っていった。
          「きよはら!何やってるんだい。・・・どうしたんだい?」
          清原は私の声を聞くなり握っていた両の手を放した。とたんに、
         尻餅をついた。こちらを振り返った清原の目に悔しげな涙が滲ん
         でいる。それでも清原は口もとに笑みをつくりながら、
          「三橋、情けねぇよ、どうにもならねぇんだ。四十度もあった
         マラリアの熱が、下がったと思ったら、腰が抜けちゃって立てね
         ぇんだよなぁ。いまこの柱に掴まって何とかして立とうとしてた
    ㌦    んだが・・・」             
          げっそりと痩せこけて毛髪が茶褐色になってしまい、ほんの幾
         日かで皺くちゃになった日の縁、手のひらの辺りなど老人めいた
         容貌に一変している。私はその時、ふっとそんな清原の状態が気
         になった。腰が抜けたあと、そのまま寝こんでしまい、余病を併
         発して亡くなっていくケースが意外に多かったからだ。高熱の引
         いたあと衰弱して、まるで老人そのもののようになってしまうの
         は、あまりいい経過とは言えないのだ。「アメーバ赤痢」「南方
         浮腫」などというのは、ほとんどがこんなふうになった体の弱点
         を衝いてくる命取りの病気のように思われ、誰からも恐れられて
         いた。軍医からは、-ーこれといって打つ手もなく、患者自身の
         体力に期待するだけーーといった絶望的な答えが返ってくるに過
         ぎなかったのである。(pp.250-251)
            **********     **********     **********     
          「こんちは、オッサン! どこから来られたんですか」
          「あぁ、兵隊さん、ご苦労さんだね、わしらは三崎漁港からだ
           よ」
          「えぇ! 三崎ですか、三浦半島の、神奈川県の・・・、よく
         こんなところまで・・・、どのくらいの日数をかけてこられたん
         ですか、すごいですねぇ、こんな小さな船で、五千キロも・・」
          「いやぁ、これも軍の機密とかだけどね、もう三崎を発ってか
         ら4か月日なんだよ。来る途中は随分おっかなかったよ、でも兵
         隊さんたちのことを思えば比べものにはならねえがね」
          「これからどこへ?」
          「まあ聞きっこなしさ。うるせえんだよ、防諜とかでね。だが
         まあいいや、赤道直下のここで兵隊さんに話したからって、敵さ
         んに漏れるわけじゃあねえしな。この船はこれから二、三日後に
         司令部のお偉いさん方を乗せて、島伝いに内地まで脱出するんだ
         とか言ってるんだがね、果たしてご注文どおりにうまくいきます
         かってぇところだな。だいいち、わしらがここまでやってくるこ
         とだけでも精一杯だったんだからねぇ・・・。帰りの海にゃあ敵
         潜がうようよしてるのを知らねぇんだから、全くいい気なもんだ
         よ、偉い人たちはねぇ」
          脱出などという、いわば軍隊ではタブーとされている言葉を、
         私たちに平気でしゃべれるのも民間人の気軽さなのだろうか。そ
         れとも、このような最悪の戦場に取り残されてしまう私たちを前
         にして、気兼ねしての言いまわしなのだろうか。しかし、この船
         が軍幹部の脱出用なのだと聞かされたとき、その理由はどうであ
         れなんとも複雑な気持ちがした。(pp.100-101)
            **********     **********     **********     
          「あぁ、もういやだ、いやだ。三橋よぅ、このあいだの戦闘で
         の四人の死にざまはほんとに惨めだったなぁ。おっかねえなぁ、
         戦争は・・・。それにしても、あの戦闘中に中助のS(鳥越注:中
         隊長S中尉)が何をやっていたか知ってるかい。敵さんが空から
         しかけてきたとき、あの野郎はドラム缶の輪っばを三つも繋ぎ合
         わせた壕の底にへばりついて、終わるまで出てこずじまいだった
         んだぜ。高射砲は空に向かって射つんだからなあ! 地面の底に
         へばりついていたんじゃあ指揮なんてできる訳がねえよ。あとで、
         中助がぬかした訓示を聞いてたかい? 『貴様らはヤマトダマシイ
         をこめて射たんから当たらないんだ』とか言ってたなぁ。あれは
         たしか何処かにあった軍歌の文句じゃあねえの・・・。ひでえ野
         郎に俺たちは、くっついちまつたなぁ・・・。だのに、あんな中
         助にべたべたして、ご機嫌とりばかりをやっている中隊機関(幹
         部室のやつらも気にいらねえよ。俺も軍隊生活は長えけれど、こ
         んなひでえ中隊に配属されちまったのはどうみても百年目だよ。
         あぁ、いやだ、いやだ。これから先、この独立中隊はどうなって
         しまうのか、皆は分かってんのかなぁ・・・」
          佐地の言ってることは、ただ単に愚痴をこぼしているといった
         ものではなく、内容そのものが時宜を得、的確な指摘だった。
         (p.150)(三橋國民氏著『鳥の詩』角川文庫)

       ●東条内閣消滅--->小磯内閣(S19.7.18)
          「敵ノ決戦方面来攻ニ方リテハ空海陸ノ戦力ヲ極度ニ集中シ敵
         空母及輸送船ヲ所在ニ求メテ之ヲ必殺スルト共ニ敵上陸セハ之ヲ
         地上ニ必滅ス」(捷号作戦と称された)
               捷一号:比島決戦(レイテ湾海戦)
               捷二号:台湾、南西諸島での迎撃戦
               捷三号:日本本土(北海道を除く)決戦
               捷四号:北東方面、千島列島での決戦
       ・グアム島10000人玉砕(S19.8)
          米軍がマリアナ諸島全域を制圧。
       ●沖縄から本土への疎開船「對島丸」が米潜水艦に攻撃され沈没。約
        1500人が死亡、生存者は227人(学童59人、一般168人)。「對島丸」
        へは護衛船がついていたが自分の身の安全のために救助活動を行わ
        ず。(外間守善氏著『私の沖縄戦記』角川書店、pp.19-27)
       ・満17歳以上兵役編入決定
       ・米軍のセブ島攻撃(S19.9~)
          米軍のセブ島空襲は十九年九月にはじまるが、二十年春、陣地
         を捨てて山中に逃げこむに至って、日本軍は民間人を邪魔もの扱
         いしはじめた。男は現地召集で軍隊にとられ、年寄りと女子供が
         のこっていた。
          「私は山で兄に会って、海軍の方へいったから命があったんで
         す。うちの義姉の弟嫁は、十一の男の子を頭に女の子四人連れて、
         陸軍の方にのこった。それを、子供がいると、ガヤガヤして敵に
         聞かれると言って、五人とも銃剣で殺してしまったんです。男の
         子は、『兵隊さん、泣きもしないし、なんでも言うこと聞きます
         から、殺さないで下さい』と言って逃げさまよっているのに、つ
         かまえて。四、五歳まで私が同じ家にいて育てた子です。そして
         妹たち四人も…。敵に知られると言って、鉄砲をうたないんです。
         銃剣で…。セブの話は一週間話してもつきないんです、あの残酷
         なやり方は。別行動をとりなさいと言ってくれればよかったんで
         すよ。殺す必要はなかったんです」。
          自決を強要され、手榴弾で死のうとして死にきれなかった人間
         を、日本兵が銃剣で刺し、出血多量で意識不明になっているのを、
         上陸してきた米兵が救い出し、レイテの野戦病院へ連れていって、
         輸血で助けた話も出る。
          「アメリカ兵は敵ながらあっぱれですね」。
            (澤地久枝氏著『滄海よ眠れ(-)』文春文庫、pp.149-150)
       ●神風特別攻撃隊の編成(S19.10、詳細は後記)
          戦争末期、いくらかの例外はあるが、日本軍の航空機使用は、
         青年の神風特攻と高級将校の逃亡という二つの機能に集中してい
         る。まことに無残という他はない。
          (鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』朝日選書;1994:166)
         ※「特攻に行く人は、誇りです。しかし、それを強いるのは国の
          恥です」(粟屋康子:門田隆将氏著『康子十九歳 戦渦の日記』
          文藝春秋、p.81より)
       ●ハルゼイ機動部隊の沖縄「十・十空襲」(S19.10.10)
       ・台湾沖航空戦(S19.10.13~15)
          大本営発表では、日本は未曾有の大勝利をおさめたことになっ
         ている。(全くの虚報、大本営発表法螺吹きの最高)。
          大本営情報参謀掘栄三氏は、これらの成果に懐疑的で、ただち
         に参謀本部所属部長に打電したが、当時の作戦参謀瀬島龍三が握
         り潰してしまった。瀬島は捷一号作戦の直接の起案者だった。大
         本営の作戦部は、情報を軽視するだけでなく、自分たちに都合の
         悪い情報はすべて「作戦主導」の名のもとににぎりつぶしていた
         のだ。(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)
       ●レイテ決戦(捷一号作戦、S19.10.22~)
          比島決戦では日本人52万人以上が死亡したが、このうち8万4000
         人はレイテ島の攻防戦で死亡した。
          首謀者:服部卓四郎(敗戦後も復員省に籍をおき半ば公然と活
              動した)
       ●レイテ湾奇襲作戦 (S19.10.24~25)
          小沢囮艦隊の快挙(エンガノ沖海戦・ハルゼーの暴走)あるも、
         栗田艦隊の突然の中途退却で失敗。西村艦隊(支隊)壊滅。
          戦艦「武蔵」撃沈される(シブヤン海、S19.10.24 19:35)。
          日本の空母全滅・日本の連合艦隊全滅。--->特攻へ
       ●特攻開始(S19.10.25、海軍が一日早かった)。
          「(目標)大型戦艦ハ煙突下、ブリッジノ中間トシ、航空
          母艦ハ、エレベーターノ位置トスル」。
          「突進 一、最後マデ照準セヨ、眼ヲツムルナカレ、眼ヲツ
          ムレバ命中セズ」。(小田実氏ら『玉砕』岩波書店、p.16)
       ・「フ号兵器作戦」(S19.11.3):鹿島灘より発進
          和紙で作った直径10mの巨大な風船に15キロ爆弾1個と焼夷弾2個
         を吊して、ジェット気流にまかせてアメリカを爆撃する。しかも
         いずれはこれにペスト菌コレラ菌を乗せてばら撒こうという愚
         劣で卑劣極まる作戦。
          (ただしこの「風船爆弾の愚劣さ」というのはGHQの嘘の情報操
         作であり、実際は1/10の確率で米国に届いたという。もしこれが
         本当ならば、例えば風船爆弾に生物・化学兵器を搭載したとすれ
         ば、大きな効果が期待出来たという。(佐藤優氏著『国家の自縛』
         、産経新聞社、p.226 ))
       ●人間魚雷「回天」(発案は黒木博司海軍少佐)の第一回出撃隊(
        「菊水隊」)が発進(S19.11.8)
       ●最初の大規模な東京空襲(S19.11.24):日本の迎撃も対空砲火も
        全く役立たなかった。
       ・東南海地震(S19.12.7)
          1944年12月7日の東南海地震震源紀伊半島沖の海底深さ約40
         kmで、三重県紀勢町では地震発生からわずか10分程度で6mの大津波
         が押し寄せたという記録もあります。最大震度6という揺れと津波
         によって三重県、愛知県、静岡県を中心に死者・不明者は1223名に
         のぼるということですが、太平洋戦争の混乱期でもあったためにあ
         まり詳しい記録は残っていない。
         (http://blog.goo.ne.jp/nan_1962/e
              /bec8cef008010403e54c26f14a432c4a より。H18.4.12)
       ・人肉食事件(S20.2.23~25):父島事件
          (秦郁彦氏著『昭和史の謎を追う<下>』、大岡昇平氏著
           『野火』などを参照)

          --------<休憩:サウジアラビアとアメリカ>--------
           米国は第二次大戦で石油の重要性を再認識し、豊富な
          埋蔵量をもつサウジを重要な石油供給源として位置づけ、
          関与を強めていく。石油は単にサウジ経済の柱となった
          ばかりではない。石油を媒介として、サウジと米国の関
          係が経済から安全保障の分野にまで拡大、緊密化してい
          ったのである。それを象徴したのが1945年2月、スエズ
          運河洋上でのアブドゥルアジーズと米国のローズヴェル
          ト大統領との会見であった。ここに石油と安全保障を機
          軸とした、堅固で相互補完的な両国間の「特殊な関係」
          が完成する。しかし、パレスチナ問題に対する政策の食
          い違いなどいくつもの課題を取り残したままであり、こ
          の関係は切っても切れないと同時にきわめて傷つきやす
          いという相矛盾した性格を引き摺っていく。
          (保阪修司氏著『サウジアラビア岩波新書、p.11)
          --------------------------------------------------
       ●硫黄島全滅(S19.12.8~S20.3.26):東京より南1080kmに位置。
          戦闘49日、陸海軍23000人全滅、米軍死傷者28686人(6821人
         死亡)。太平洋戦争最大の死闘。
          栗林忠道中将 vs ホーランド M. スミス。
         ※硫黄島の滑走路が敵にとられると、本土大空襲が可能になるの
          であった。
             <名将栗林忠道中将の最後の電文より>
           戦局、最後の関頭に直面せり。敵来攻以来、麾下将兵
          の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり。特に想像を越え
          たる物量的優勢を以てする陸海空よりの攻撃に対し、宛
          然徒手空拳を以て克く健闘を続けたるは、小職自ら聊か
          悦びとする所なり。
           然れども飽くなき敵の猛攻に相次で斃れ、為に御期待
          に反し此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは、小職
          の誠に恐懼に堪へざる所にして幾重にも御託申上ぐ。今
          や弾丸尽き水涸れ、全員反撃し最後の敢闘を行はんとす
          るに方り、塾々皇恩を思ひ粉骨砕身も亦悔いず。
           特に本島を奪還せざる限り、皇土永遠に安からざるに
          思ひ至り、縦ひ魂魄となるも誓つて皇軍の捲土重来の魁
          たらんことを期す。
           茲に最後の関頭に立ち、重ねて衷情を披瀝すると共に、
          只管(ひたすら)皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永に
          御別れ申上ぐ。(後略)
           (梯久美子氏著『散るぞ悲しき』新潮社、pp.18-19)
         ※ この電文に書き添えてあった、3首の辞世のうちの1首...
             国の為重きつとめを果たし得で
                      矢弾尽き果て散るぞ悲しき
          は最後の句”散るぞ悲しき”が大本営により改ざんされ ”散る
          ぞ口惜し”として新聞発表されていた。
                 (梯久美子氏著『散るぞ悲しき』新潮社、p.23)
         ※ 硫黄島は、軍中央部の度重なる戦略方針の変化に翻弄され、
          最終的に孤立無援の状態で敵を迎え撃たねばならなかった戦場
          である。
           当初、大本営は硫黄島の価値を重視し、それゆえに2万の兵力
          を投入したはずだった。それが、まさに米軍上陸近しという時
          期になって、一転「価値なし」と切り捨てられたのである。そ
          の結果、硫黄島の日本軍は航空・海上戦力の支援をほとんど得
          られぬまま戦わざるをえなかった。
           防衛庁防衛研修所戦史室による戦史叢書(公刊戦史)『大本
          営陸軍部10 昭和二十年八月まで』は、硫黄島の陥落を大本営
          がどう受け止めたかについて、以下のように記述している。

             軍中央部は、硫黄島の喪失についてはある程度予期して
            いたことでもあり、守備部隊の敢闘をたたえ栗林中将の統
            帥に感歎するものの、格別の反応を示していない。

           「喪失についてはある程度予期」していたから「格別の反応
          を示」さなかったという。2万の生命を、戦争指導者たちは何と
          簡単に見限っていたことか。
           実質を伴わぬ弥縫策を繰り返し、行き詰まってにっちもさっ
          ちもいかなくなったら「見込みなし」として放棄する大本営
          その結果、見捨てられた戦場では、効果が少ないと知りながら
          バンザイ突撃で兵士たちが死んでいく。将軍は腹を切る。アッ
          ツでもタラワでも、サイパンでもグアムでもそうだった。その
          死を玉砕(=玉と砕ける)という美しい名で呼び、見通しの誤
          りと作戦の無謀を「美学」で覆い隠す欺瞞を、栗林は許せなか
          ったのではないか。
           合理主義者であり、また誰よりも兵士たちを愛した栗林は、
          生きて帰れぬ戦場ならば、せめて彼らに”甲斐ある死”を与え
          たかったに違いない。だから、バンザイ突撃はさせないという
          方針を最後まで貫いたのであろう。
             (梯久美子氏著『散るぞ悲しき』新潮社、pp.228-229)
       ●吉田久大審院判事が鹿児島二区の翼賛選挙訴訟に無効判決を下す。
                                 (S20.3.1)
          主文:昭和十七年四月三十日施行セラレタル鹿児島県第二区ニ
             於ケル衆議院議員ノ選挙ハ之ヲ無効トス 訴訟費用は被
             告の負担トス
          ・・・翼賛政治体制協議会のごとき政見政策を有せざる政治
            結社を結成し、その所属構成員と関係なき第三者を候補
            者として広く全国的に推薦し、その推薦候補者の当選を
            期するために選挙運動をなすことは、憲法および選挙法
            の精神に照らし、果たしてこれを許容し得べきものなり
            やは、大いに疑の存する所・・・(清永聡氏著『気骨の
            判決』新潮新書、pp.1153-154)
       ●東京大空襲(S20.3.10):M69焼夷弾による首都壊滅。
         罹災者100万人以上、死者83793人、負傷者40918人(11万以上と
        の報告もある)を数えた。(荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店
         p.165)
         日本は3月10日にはじまって4月16日までに12回も大空襲を受けた。
        その内訳は東京(3.10)、名古屋(3.12)、大阪(3.13)、神戸
        (3.17)、名古屋(3.19)、名古屋(3.25)、東京西部(4.2)、
        東京(4.4)、東京周辺・名古屋(4.7)、東京(4.12)、東京市
        (4.13~14)、東京・横浜・川崎(4.15~16)で、消失戸数全71万
         戸、戦災者数全314万にのぼった。
             (清沢洌氏著『暗黒日記』岩波文庫、pp.337-338)
             --------------------------------------    
          「何千何万という民家が、そして男も女も子どもも一緒に、焼
         かれ破壊された。夜、空は赤々と照り、昼、空は暗黒となった。
         東京攻囲戦はすでに始まっている。戦争とは何か、軍国主義とは
         何か。狂信の徒に牛耳られた政治とは何か、今こそすべての日本
         人は真に悟らねばならない」(昭和20年6月12日)
          「どの新聞を見ても、戦争終結を望む声一つだになし。皆が平
         和を望んでいる。そのくせ皆が戦争、戦いが嫌さに戦っている。
         すなわち誰も己の意思を表明できずにいる。戦争は雪崩のような
         ものだ。崩れおちるべきものが崩れ落ちぬかぎり終わらない」
                                  (7月6日)
          「首相曰く、<国民個人の生命は問題にあらず、我国体を護持
         せねばならぬ>と」(7月9日)
             --------------------------------------    
          「十時、外国文學科の会。集まるほどのこともなし。<外国を
         知らぬから負けたんだ>と諸教授申される。<外国を知らぬから
         こんな馬鹿な戦争を始めたのだ>と訂正すべきものであろう」
                              (9月5日、敗戦後)
          (以上、串田孫一・二宮敬編『渡辺一夫 敗戦日記』 、博文館
           新社)
         -----------------------------------------------------------    
         (付録) 1945年3月10日未明に東京の下町一帯が空襲された際
             も、私はまだ熱気が満ちていた朝の焼跡を駆け回って
             いました。真夜中のたった二時間半の空爆で、10万人の
             人間と27万戸の家屋が焼きつくされた光景…。網膜に焼
             きついたその光景は、出来合いのどんな言葉でも表現で
             きないほどだった。
              呼吸困難になるほどのショックを受けて、しばらくす
             ると、腹の底からはげしい怒りがこみ上げてきた。こん
             な馬鹿なことがあるものだろうか、あっていいのだろう
             か、と。炭化して散乱している死者の誰一人として、自
             分がこうなる運命の発端には参画していないし、相談も
             受けてはいない。自分から選んだ運命ではない。
              しかし、戦争はいったん始まってしまうと、いっさい
             が無差別で、落下してくる爆弾は、そこに住む人々の性
             別、老幼、貧富、考えの新旧などには日もくれず、十把
             ひとからげに襲いかかってくるのだ、と痛感させられま
             した。
              始まってしまうと、戦争は自分で前に歩き出してしま
             い、これはもう誰も止めようがない。完全に勝敗が決ま
             るか、両方とも共倒れするか、そのどちらかしかない。
             さっきも言ったように、「狂い」の状態にある戦場から
             反戦運動が出てくることは、まずありえません。それ
             なら、戦争を遂行中の国内から反戦運動が出てくるかと
             言えば、やはりそうはならない。なぜなら、戦争状態に
             なると、生活が困難になるということもありますが、国
             民同士が精神的に、国家の機密を守らなければだめだ、
             というように変わっていくんです。(むのたけじ氏著
             『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、pp.49-50)

             --------------------------------------    
          # ルメイは「すべての住民が飛行機や軍需品をつくる作業に
           携わり働いていた。男も女も子供も。街を焼いた時、たくさ
           んの女や子供を殺すことになることをわれわれは知っていた。
           それはやらなければならないことだった」とのちに弁明して
           いる。(荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、p.166)
          # 戦争終結までに空襲は中小都市を含む206都市に及び、94
           の都市が焼き払われた。終戦直後に内務省の発表した数字に
           よれば、全国で死者26万人、負傷者42万人、その大部分が非
           戦闘員であった。このようにおびただしい民間人の犠牲をだ
           したにもかかわらず、爆撃が軍事目標に向けられたことを強
           調する一方、無差別爆撃は意図していなかったとすることが、
           この戦争の最終段階におけるアメリカ軍の公式態度であり、
           この態度を固執することが非人道的な空爆にたいする道徳的
           批判を回避する常套手段となった。
             (荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、pp.166-167)
          ※ 何と東京・日本大空襲の指揮官ルメイには、戦後自衛隊
           作ったことで勲章までくれてやったという。ここまでくると
           アホらしくて唖然としてグーの音も出ませんなぁ。
                    -------------------
             「久美子、私はいつか、日本の都市焼きつくし、一方的
            殺戮、破壊の作戦を立案し、実行したカーティス・ルメイ
            が、戦後、自分たちの側が戦争に負けていれば、自分はま
            ちがいなく戦犯として法廷に引き出されていた、幸いにし
            て、自分たちの側は戦争に勝った、そう言ったと教えたこ
            とがあるだろう。『正義の戦争』が、勝利することによっ
            てのみ『正義の戦争』として成立する実例だが、その彼に、
            私たち『不正義の戦争』をした、そう『正義の戦争』をし
            た側によって断じられた側の最高の指導者だった、そのは
            ずだった天皇は、勲一等旭日大綬章という、日本の最高位
            に近い勲章を手ずから(カーティス・ルメイに(筆者注))
            授与することで、相手側の正義を追認した。それは、自分
            の側の戦争の不正義を、あらためて確認したことになる。
            相手側に正義があれば、一方的な殺戟であれ破壊であれ、
            何をされても仕方がないーーになるのかね。一方的な殺戮
             、破壊のなかで殺される人間は、どうなるのか。ただ見
            棄てられる存在でしかないのか」。(小田実氏著『終らな
            い旅』新潮社、p.265)
                    -------------------
       ・陸軍記念日奉天勝利の日):アホクサ!!
            陸軍記念日にあたり陸軍将兵一般に告ぐるの辞
          曠古の戦局下、陸軍記念日を迎うるにあたり特に陸軍将兵
         一般に告ぐ。本日ここに第四十回陸軍記念日を迎う。往時を
         回想して感懐転た切なるものあり。惟うに戦局いよいよ重大
         にして早期終戦を焦慮する敵はいよいよ進攻の速度を急ぎか
         つその手段を選ばざるを想わしむ。あるいはさきに神域を冒
         しまた宮城を漬すの暴挙を敢てす。まことに恐懼憤激に堪え
         ず。あるいは我国体の変革を夢みて帝国の根本的崩壊を放言
         するが如きその不逞天人共に断じて許し難きところなり。
          最近の戦局推移を察するに敵が皇土侵寇を企図しあること
          火を睹るよりも明らかなり。軍は、大元帥陛下親率の下多
          年の伝統と精髄とを発揮して神州を護持し、国体を擁護す
          る秋正に到れりというべし。全陸軍将兵深く思いをここに
          致し外地に在りと皇土に在りとを問わず、随処に敵の野望
          を撃摧し、以て天壌無窮の皇運を扶翼し奉らざるべからず。
          およそ戦勝獲得の根基は至誠純忠烈々たる闘魂と必勝の戦
          意とに存す。全陸軍将兵宜しく挙げて特攻精神の権化とな
          り、衆心一致いよいよ軍人精神を昂揚し精魂を尽して敵を
          徹底的に撃滅せんことを期すべし。
         皇国は神霊の鎮まりたまうところ、皇土は父祖の眠るところ、
         天神地祇挙って皇軍の忠誠を照覧ししたもう 想え肇国三千
         年金甌無欠の皇国の真姿を、偲べ明治三十七、八年国難を累
         卵の危きに克服せる先人の偉績を。
          最後に皇土にある将兵に一言す。皇土における作戦は外征
          のそれと趣きを異にし、真に軍を中核とせる官民一億結集
          の戦なり。而して総力結集の道は軍鉄石の団結の下燃ゆる
          が如き必勝の確信を堅持し、能く武徳を発揚して軍官民同
          心一体必勝の一途に邁進するに在り。かくして身を挺して
          難に赴き父祖の伝統を如実に顕現せば、一億の忠誠凝って
          皇国磐石の安きに在らん。
           昭和二十年三月十日 陸軍大臣 杉山 元
             (清沢洌氏著『暗黒日記』岩波文庫、pp.286-287)
       ※ 日本が、どうぞして健全に進歩するように-ーそれが心から願
        望される。この国に生れ、この図に死に、子々孫々もまた同じ運
        命を辿るのだ。いままでのように、蛮力が国家を偉大にするとい
        うような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うものであること
        をこの国民が覚るようにーー「仇討ち思想」が、国民の再起の動
        力になるようではこの国民に見込みはない。(清沢洌氏著『暗黒
        日記』岩波文庫、p.262)
       ※ 戦争を職業とするものが、人間の生命をどんなに軽く取り扱う
        かを、国民一般に知らせることは、結局日本のためになるかも知
        れぬ。ああ。・・・それにしても、日本人は、口を開けば対手軽
        く見ることばかりしており、また罵倒ーー極めて低級なーーばか
        りしているが、日本国民に、この辺の相違が分からぬのだろうか。
                 (清沢洌氏著『暗黒日記』岩波文庫、p.298)
       ・「軍事特別措置法」(S20.3.28)
          国民の一切の権利を制限し、私有財産にまで強権介入し、国民
         は本土決戦に備えて、いかなる抗弁、抵抗もできなくなった。
       ●米軍が沖縄本島に上陸(S20.4.1)
       ・戦艦「大和」の最後の出撃(特攻)と撃沈(S20.4.7/14:23)
          「大和」:46センチ砲9門、1億6000万円、1941年完成。
               全長263m、72808屯、27.46ノット、153553馬力。
               東シナ海の海底に眠る。
               乗員3332人中269人救助(生存者、昭和60年現在、
               140余名)。
          # 連合艦隊参謀長、草鹿龍之介(中将)曰く
              「いずれ一億総特攻ということになるのであるから、
             その模範となるよう立派に死んでもらいたい」(アホウ
             な屁理屈である)
          # 戦艦「大和」乗員の発言
              「連合艦隊の作戦というのなら、なぜ参謀長は日吉の
             防空壕におられるのか。防空壕を出て、自ら特攻の指揮
             をとる気はないのか」
          # 伊藤整一提督
              「まぁ、我々は死に場所を与えられたのだ」
               ------------------------
           「世界の三馬鹿、万里の長城、ピラミッド、大和」
           (淵田三津雄『真珠彎攻撃総隊長の回想』講談社、p.48)
           「少佐以上を銃殺せよ、海軍を救う道はこれしかない」
               ------------------------
          # 八杉康夫上等水兵(当時)が回想する戦争
            「戦争がどんなにすさまじいか、酷いかを私が見たのは、
           あの沈没した日だった。血みどろの甲板や、吹きちぎれ、だ
           れのものか形さえとどめない肉片、重油を死ぬかと思うほど
           飲んだ海の中での漂流、我れ勝ちに駆逐艦のロープを奪い合
           う人々、私は、醜いと思った。このとき、帝国海軍軍人を自
           覚していた人が果たしてどれだけいただろうか。死ぬとは思
           わなかった。殺されると思った。『雪風』に拾い上げられた
           のは私が最後だった。それも、私と同じ年齢ぐらいの上等水
           兵が偶然見つけて救助してくれた。生きるか死ぬかのほんの
           一分にも満たない境だった。重油の海には、まだたくさんの
           人が、助けてくれッ、と叫んでいた。
            いったい何のための戦いだったのか、どうして、あんな酷
           い目に遭わねばならなかったのか、戦後、私が最初に知りた
           いと思ったのはそれだった。私が戦後を生きるという原点は、
           あの四月七日にあったと思っている」と、語っている。
          (辺見じゅん氏著『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.197)
                   --------------------------
             ※H18年現在、広島県福山市在住の八杉康夫氏(昭和2年
              生)は、H18.4.12日、筆者の住む岡山県井原市で講演
              された。
               ストーリーは映画『男たちの大和』(辺見じゅん
              作、佐藤純彌監督、2005年)に準ずるものであったが、
              帝国海軍は陸軍よりもはるかに人命を大事にしたらし
              く、「上官から『死ね』とは一度も言われなかったし、
              船が沈没して海上に放り出された時の生きる方法も軍
              事教練のなかで教えられた」ということだった。
                   --------------------------
          # 「初霜」救助艇ニ拾ワレタル砲術士、洩ラシテ言ウ
            救助艇忽チニ漂流者ヲ満載、ナオモ追加スル一方ニテ、危
           険状態ニ陥ル 更ニ拾収セバ転覆避ケ難ク、全員空シク海ノ
           藻屑トナラン
           シカモ船べリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク、艇
           ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル
           ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払イ、
           犇メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬り捨テ、マタハ足
           蹴ニカケテ突キ落トス セメテ、スデニ救助艇ニアル者ヲ救
           ワントノ苦肉ノ策ナルモ、斬ラルルヤ敢エナクノケゾッテ堕
           チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼ヨリ終生消エ難カラン
           剣ヲ揮ウ身モ、顔面蒼白、脂汗滴り、喘ギツツ船べリヲ走り
           廻ル 今生ノ地獄絵ナリ
           (吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、p156)

          # 清水芳人少佐(当時)の戦闘詳報
             戦闘が終わると、どの艦でも戦闘詳報が書かれる。戦闘
            詳報 は、戦略・戦術を記載し、次の戦いへの教訓ともなる
            報告書で、連合艦隊司令部へ提出される。
             「戦況逼迫セル場合ニハ、兎角焦慮ノ感ニカラレ、計画
            準備二余裕ナキヲ常トスルモ、特攻兵器ハ別トシテ今後残
            存駆逐艦等ヲ以テ此ノ種ノ特攻作戦ニ成功ヲ期センガ為ニ
            ハ、慎重ニ計画ヲ進メ、事前ノ準備ヲ可及的綿密ニ行フノ
            要アリ。『思ヒ付キ』作戦ハ、精鋭部隊(艦船)ヲモ、ミ
            スミス徒死セシムルニ過ギズ」
             この「大和」戦闘詳報には、これまでの戦闘報告には類
            を見ない激烈な怒りがつらねられている。
             沖縄突入作戦が唐突に下令され、「大和」以下の出撃が、
            「思ヒ付キ」作戦であり「ミスミス徒死セシムル」ものだ
            ったという遺憾の思いで埋まっている。
           (辺見じゅん氏著『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.202)

       ●沖縄戦沖縄県民の悲劇(S20.3.26~6.23)
          昭和20年3月26日、硫黄島の戦いで栗林中将が戦死した、まさ
         にその早朝、硫黄島から西に1380km離れた沖縄・慶良間列島
         米陸軍第77師団が奇襲上陸。これが沖縄戦の始まりとなった。
          昭和20年4月1日アメリカ軍18万3000が沖縄本島の中西部の嘉手
         納海岸に上陸。5月15日は那覇周辺で戦闘激化。この沖縄戦は本
         土決戦そのもので、時間稼ぎの意味をも持って、沖縄住民は「本
         土の盾」として犠牲になった。満17歳から45歳未満の男子はみな
         戦争参加を強要され、軍に召集された。戦場では子どもや老人や
         婦人や負傷者といった弱い者から順に犠牲になった。彼等は邪魔
         物扱いにされ、あるいは自決やおとりを強要された。また泣き声
         で陣地が暴露されるという理由で日本軍兵士に殺された。兵士た
         ちは、与えられた戦場で、やみくもに戦って死んで行くという役
         割だけを押しつけられていた。82日間にわたる死闘ののち守備軍
         約90000人が6月21日に玉砕。沖縄県民の死者は15万人とも20万人
         ともいわれる。実に県民の3人に1人が亡くなったのである。
          # 海軍根拠地隊司令官・大田実少将(6.13に豊見城村の司令
            部濠で自決)からの海軍次官あて電報(S20.6.6)                    

             「若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ケ 看護婦烹飯婦ハモト
            ヨリ 砲弾運ヒ 挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ 所詮 
            敵来タリナハ老人子供ハ殺サレルヘク 婦女子ハ後方ニ運
            ヒ去ラレテ 毒牙ニ供セラレヘシトテ 親子生別レ 娘ヲ
            軍衛門ニ捨ツル親アリ 看護婦ニ至リテハ 軍移動ニ際シ
            衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ・・・
             沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜
            ランコトヲ・・・」(浅田次郎氏著『勇気凛凛ルリの色
            四十肩と恋愛』講談社文庫より引用、60ページ)

          # 「恐ろしきかな、あさましきかな、人類よ、猿の親類よ」
                   (長谷川信、『きけわだつみのこえ』より)

          # 「米軍は日本軍を評して兵は優秀、下級幹部は良好中級将
           校は凡庸、高級指揮官は愚劣といっているが、上は大本営
           り下は第一線軍の重要な地位を占める人々の多くが、用兵作
           戦の本質的知識と能力に欠けているのではないかと疑う。
            (理知的な作戦参謀八原博道の言葉、保阪正康氏著『昭和
             陸軍の研究<下>』より引用)

          # 沖縄戦の研究者である石原昌家沖縄国際大学教授は、
           『争点・沖縄戦の記憶』(社会評論社)の中で、沖縄戦
           住民犠牲を、次の三つの類型に大別しています。1.米英両軍  
           の砲爆撃死、2.日本軍(皇軍)による犠牲、3.戦争に起因す
           る犠牲。
            石原氏はそれらをさらに細かく分けていますが、ここでは
           簡略化してまとめておきます。
            1. は米英軍の空襲や艦鞄射撃、地上戦での砲・銃撃、洞窟
           や壊への攻撃、虐殺、強姦による死などです。
            2. は日本軍(皇軍)による住民の死で、スパイの疑いをか
           けたり、食料や濠の提供を渋ったなど非協力的であったこと
           を理由とした殺害。濠の中で泣く乳幼児の殺害や軍による濠
           追い出しによって砲撃にさらされたり、強制退去でマラリア
           や栄養失調に追いやられたことによる死、日本軍の指示、強
           制による「集団死」などです。
            3. は非戦闘地域での衰弱死、病死、ソテツなどを食べた中
           毒死、収容所内での衰弱死、住民同士のスパイ視殺害、食料
           強奪死、米潜水艦による疎開船、引き揚げ船などの撃沈死な
           どです。
            注意しなければいけないのは、牛島満司令官らが自決して
           日本軍が壊滅し、組織的戦闘が終わったとされる6月22日や、
           日本が無条件降伏した8月15日以降も、これらの類型の中の
           いくつかの死は続いていたということです。久米島での日本
           軍守備隊による仲村渠明勇さん一家の虐殺が起こつたのは8月
           13日だし、谷川昇さん一家が虐殺されたのは8月20日です。
           マラリアなどの病死、衰弱死は二、三年経っても続いていま
           した。
           (目取真俊氏著『沖縄「戦後」ゼロ年』NHK出版、pp.60-61)

          # 学校で教え込まれていたことと、天と地ほども隔たった日
           本軍の実態をまざまざと見せつけられ、あまりの衝撃に言葉
           を失った。(大田昌秀氏著『沖縄の決断』朝日新聞社
                  --------------------------
             戦場での体験は、わが目を疑うほど信じられないことば
            かりだった。
             守備軍将兵は戦前から、県民の生命を守るために来た、
            と絶えず公言していた。しかるに、私たちが毎日のように
            目撃したのは、それとは逆の光景だったのだ。最も頼りに
            していた守備軍将兵が行き場もない老弱者や子供たちを壕
            から追い出しただけでなく、大事に蓄えていた食糧までも
            奪い取ってしまう。そのうえ、私たちの目の前で、兵士た
            ちは泣きすがる住民に向かって「お前たちを守るために沖
            縄くんだりまで来ているのだから、お前たちはここを出て
            行け」と冷酷に言い放ったものだ。しかも、赤ん坊を抱き
            かかえた母親が「お願いです。どうか壕に置いてやって下
            さい」と泣きすがっても、銃を突き付け容赦なく追い出す
            ことさえあった。
             この戦争は「聖戦」と称されていたにもかかわらず、ど
            うしてこのような事態になったのか。私たちには理解の仕
            様もなく、ただ愕然と見守るしかなかった。

            大田は同じ本のなかで、生き延びるためにわずかな食糧を
           めぐって味方の兵隊同士が、手榴弾で殺しあう場面を毎日の
           ように見せつけられたとも述べている。
            「日本軍に対する不信感といちう以上に、もう人間そのも
           のへの信頼を失っていたんです。それとは反対に、戦場では
           日本人が見殺しにした沖縄の住民を助けているアメリカ兵を
           随見ました。それで鬼畜米英というのは違うなと思い始めて
           いたんです」(佐野眞一氏著『沖縄 誰にも書かれたくなか
           った戦後史』集英社インターナショナル、pp.402-403)
                  --------------------------
        ・アメリカ、F. ルーズベルト大統領急死(1945.4.17)
          脳出血といわれているが、あるいは自殺かもしれないし殺され
         たのかもしれない。とにかく「私は大統領を辞めたい」と愛人に
         告げて死んだ。(そして広島への原爆投下は陸軍長官ヘンリー・
         ルイス・スティムソンとその操り人形たるトルーマンに委ねられ
         た)(鬼塚英昭氏著『原爆の秘密』成甲書房、pp.175-208)
       ・ドイツ軍無条件降伏(S20.5.7)<---ヒトラー自殺(1945.4.30)
       ●日本本土無差別爆撃(最高指揮官カーティス・ルメイ
          # 横浜大通り公園「平和祈念碑由来之記」より
             「一九四一年十二月八日、日本軍の米国真珠湾軍港に対
            する奇襲攻撃により、大日本帝国連合国軍との間に戦端
            を開くに至った。その後一九四五年八月十五日に至り、わ
            が民族の滅亡を憂うご聖断により漸く敗戦の日を迎えた。
            その間、三年九ケ月余。政・軍・官の情報統制の下、一般
            庶民は戦争の実相を知らされることなく、ひたすら盲従を
            強いられた日々であった。戦線が次第に日本本土に近づく
            につれ、米軍機による空爆は職烈を極め、国内百数十の都
            市が軍事施設・民間施設の別なく攻撃を受け、非武装の一
            般民衆が多数犠牲となった。(後略)」
               (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.49)
          # 「宇都宮平和記念館建設準備会」藤田勝春氏のノートより
              「非戦闘員と、その住まいに容しゃなく襲いかかった、
             この無差別爆撃は、”みな殺し”空襲であった。軍都の
             名にふさわしく、宇都宮には数多くの軍事施設があった。
             が、なぜか、その施設は何ら爆撃されていないのである。
             明らかに、米軍の目的は、一般市民を焼き殺す、いわば
             ”無差別絨椴爆撃”によるみな殺しにあったことは、こ
             れで理解されるところである。
              ところでどういうわけか宇都宮の歴史の中で最も大き
             な火災ともいうべきこの空襲の実態が市民に明かされて
             いなかった。あっても、それはほんの数字的なものばか
             りで味もそっ気もなかった。つまり市民の眼で、市民の
             心で編まれた総合的な記録というものがなかったのであ
             る。そして戦後三十年を迎える今危うく歴史のそとへ押
             し出され、忘却の彼方へ押しやられようとしていたこの
             空襲の”真実の糸”が、市民の手によって編まれるよう
             になった。痛々しい戦災の傷痕は、長い歳月の風化に耐
             え、やはり市民の心に静かに、しかも深く息づいていた
             のであった」
               (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.63)
          # 戦時下の国民にとって、米国の撒いた”伝単(避難を促す
           警告ビラ)”は見てはならぬものだった。

             「あなたは自分や親兄弟友達の命を助けようとは思ひ
            ませんか 助けたければこのビラをよく読んで下さい
             数日の内に裏面の都市の内四つか五つの都市にある軍
            事施設を米空軍は爆撃します
            この都市には軍事施設や軍需品を製造する工場がありま
            す 軍部がこの勝目のない戦争を長引かせる為に使ふ兵
            器を米空軍は全部破壊します けれども爆弾には眼があ
            りませんからどこに落ちるか分りません 御承知の様に
            人道主義のアメリカは罪のない人達を傷つけたくはあり
            ません ですから真に書いてある都市から避難して下さ
            い アメリカの敵はあなた方ではありません あなた方
            を戦争に引っ張り込んでゐる軍部こそ敵です アメリカ
            の考へてゐる平和といふのはたゞ軍部の庄迫からあなた
            方を解放する事です さうすればもっとよい新日本が出
            来上るんです(中略)
             この裏に書いてある都市でなくても爆撃されるかも知
            れませんが少くともこの裏に書いてある都市の内必ず四
            つは爆撃します
             予め注意しておきますから裏に書いてある都市から避
            難して下さい」

            裏には爆撃中のB29の写真に、攻撃目標の11都市が、日本の
           丸い印鑑のようなかたちで刷りこまれている。青森、西宮、
           大垣、一ノ宮、久留米、宇和島、長岡、函館、郡山、津、宇
           治山田だった。アメリカ軍資料によると、長岡には7月31日
           午後9時39分、8月1日午後9時27分の2回にわたってまかれてい
           る。(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.75)
          # 長岡空襲で孤児になった原田新司氏の記憶
             「どこかへ避難しているとおもっていたんですね。しか
            し、知人に会って尋ねてみると、原田屋さん、見かけなか
            ったなあという返事がかえってきました。平潟神社にいく
            と、死体が山のようになっている。信濃川の土堤を探して
            もみあたりません。一日中探しまわって、疲れはてて、夕
            方、焼跡にかえると、火はどうにかおさまっていて、中に
            入ることができました。すると、瓦礫のなかから祖母や両
            親の持物が出てきました。箪笥の鍵、水晶の印鑑。両親の
            死はその持物でわかりました。遺体は焼けただれて俯せに
            なっていました。庭の奥のほうに井戸があったんですが、
            その近くから女学生のバックルが出てきた。しかし妹たち
            の姿はみあたりません。遺骨だけがありました……。祖母
            57歳、父37歳、母は38歳でした。上の妹は女学校1年生、
            12歳でした。そして9歳、6歳、3歳の妹たち……。みんな
            いっペんに死んでしまったんです。いまでも街で女の子の
            うしろ姿をみると、妹たちのことを想い出します。焼け死
            んだ妹たちのことが忘れられませんね」
               (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、pp.89-90)
          # 富山は人口10万人、空襲の死者は2275人。大被害だった。
             神通川の河原では、多くの人が死んだ。その堤防と並行
            するように松川の流れている個所があるが、そこでも死屍
            累々だった。東のいたち川でもおなじだった。母と妹を失
            った政二俊子さん(三上在住)は、神通川手前の護国神社
            にはいったとたんに「ブスブスブスと土煙をあげる機銃掃
            射を浴びた」といい、「ふと土手に目をやると、黄燐焼夷
            弾や油脂焼夷弾が真っ赤な光の噴水を上げるように火花を
            ひろげ、その中を黒い影がうごめいているのがうつる。
              ……火炎に映えた真っ赤な敵機は、無防備の都市を悠々
            と飛翔し、物量に物を言わせて投下を続ける。こんな火の
            中では、猫の子一匹助かりっこないと思われた」と書いて
            いる。(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.102)
          # 熊谷空襲、長島二三子氏の詩
              死者たちよ 戦争で死んだものたちよ
              赤児も 大人も 年寄りも
              黄色も 黒も 白瞥
              轟然と声をはなって泣け
              生きている者たちに その声を忘れさせるな
               (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.183)
          # アメリカの詩人ジョン・チアルディ(日本爆撃に参加)
             「カーティス・ルメイがきて、作戦は全面的に変更され
            た。ルメイは第八空軍の司令官だったが、第20空軍を引き
            つげというわけで、ここへきたんだった。その第20空軍に
            私はいた。まず戦術に変更があった。ルメイは、夜間空襲
            せよ。5000フィートでやれ、銃撃なし、後部にふたりの
            チェックマンを配置せよ、といった。これで回転銃座と弾
            薬の重量が変わる。日本軍は戦闘機で夜間戦うことはしな
            い。レーダーもない。焼夷弾をおとせばいい、っていった
            んだ。家にすごい写真をもってるんだ。トーキョーが平坦
            な灰の面になつている。ところどころに立っているのは石
            造りのビルだけだ。注意深くその写真をみると、そのビル
            も内部は破壊されてる。この火炎をのがれようと川にとび
            こんだものもいたんだ。その数も多く、火にまかれて、み
            んな窒息してしまった。……
             私としては優秀戦士になろうなんて野心はなかった。私
            は自分に暗示をかけた。死んでもやむをえないんだってね。
            それには憎しみが必要だから、日本人ならだれもが死ねば
            いいとおもった。
             たしかにプロパガンダの影響もあったが、同時に、実際
            自分たちが耳にしたことも作用していた。なにしろ敵なん
            だ。その敵を潰滅させるためにここへきてるんだ。そんな
            兵隊特有の近視眼的発想があった」。
               (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.201)
          # 帰り掛けの駄賃:日本最後の空爆、小田原空爆
               (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.202-)
          # 島田豊治氏体験記(『東京被爆記』より)
             「ひとかたまりにうずくまり、降り注ぐ火の粉と飛んで
            来る物から身を守るため、トタン板をかぶっていた。弟の
            防空ずきんに火がついて燃え上がった。父が素手でもみ消
            していた。その間に母が見えなくなっているのに気がつか
            なかった。母を捜しに川岸近くまでにじりよってみたが、
            そこは魔のふちであった。男も女も、年寄りも子どもも、
            折重なって川に落ちころげていた。こうして、母を捜すこ
            ともできずに、長い悪夢の夜を過ごしたのだった。
             朝になり、恐ろしい光景があちこちにあった。地上の物
            はすべて燃え尽され、異様な臭気がただよっていた。それ
            からの毎日は、生死不明の母を捜すことに明け暮れた。焼
            けこげた死体のまわりに品物を求め、水死体を引寄せては
            顔をあらためて見たりした。あちこちにバラックが立つよ
            うになってからも、病院から病院へと足を棒にして歩き続
            けた。どんな姿になっていてでも生きてさえいたらそれだ
            けを祈って捜しまわったが、姿はもとより消息すらわから
            なかった」(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.224)
       ・ロンドン会議(1945.6~)
         戦争犯罪人を裁く国際裁判方式の法的根拠について米英仏ソは鋭
        く対立。「通例の戦争犯罪」に加えて「平和に対する罪」「人道に
        対する罪」が採択される事になった。(粟屋憲太郎氏著『東京裁判   
        への道<上>』講談社、pp.19-20)
       ●第87臨時議会開院式(戦前最後の議会、S20.6.9)での天皇発言
         「世界の大局急変し敵の浸冦亦倍々猖獗を極む正に敵国の非望を
         粉砕して征戦の目的を達成し以て国体の精華を発揮すべき秋なり」
         という勅語を発している。(もう完全にアホです)
          (纐纈厚氏著『日本降伏』日本評論社、p.209)
       ・天皇がやっと戦争終結を方針を表明した。(S20.6.22)
          (纐纈厚氏著『日本降伏』日本評論社、p.213)
       ●沖縄守備軍全滅(S20.6.23)
          "鉄の暴風"(砲撃)。戦死9万人、一般市民の死者10万人。
       ●国民義勇隊結成のすすめと法的枠付け(義勇兵役法公布、S20.6)
          15歳以上60歳までの男子と17歳以上40歳までの女子に義勇兵
         を課す。これが国家総力戦構想のなれの果ての姿だった(国民総
         員特攻化)。
          日本陸軍は人間特攻として戦車やアメリカ軍に突入する玉砕要
          員が欲しかっただけのことである。
       ・国民義勇隊の兵器展示(S20.7)
          手りゅう弾、単発銃(元亀天正の銃)、竹ヤリ、弓、さす叉、
         鎌、鉈、玄翁、出刃包丁、とび口など。
          (こういう発想を平気で行う軍人は狂人という他なく、呆れ果て
           るばかりである)
          結局、昭和陸軍は、あらゆる戦力が尽きつつあったときに、本
         土決戦という名の玉砕を目指していたのだ。
               ---------------------------------
          大本営から来たという中佐は岩松(筆者注:岩松三郎、当時東
         京民事地方裁判所所長・戦後最高裁判事)にこう説明した。
           「諸君は義勇軍を組織して帝都を守るんだ。各省庁ごとの
           連絡は隊長がやりなさい。我々の方からも命令を出す。し
           っかりやるように」
          しっかりやれと言われたところで、裁判官たちに戦う能力が
         あるとは思えない。岩松はおそるおそる訊いている。
           「それじゃ、武器はどうなるのですか。どういう武器をい
           ただけるのですか」
           「所在の武器をとってやれ」
           「所在の武器とはどこに」
           「棒でも石ころでもあるだろう」
          そう言い放つ中佐に、岩松はたまらず訊き返した。
           「それで上陸してくる米軍と戦えというのですか。軍人は
           帝都を守ってくださらないんですか」
           「軍人は陛下をいただいて長野に引っ込んで国を守るんだ」
          もはや呆然とするしかなかった。中佐が出ていってから、立
         ちつくす所長の元に部下の裁判官たちが集まってきた。
          岩松は首を振って彼らに諭した。
           「もう、こんなところにいてはいけない。私は大隊長とし
           て敵のタンクに向かって突進します。みんなは疎開しなさ
           い。妻子をこんなところに置いてはいけない」
          所長の言葉に、部下の一人は家から持ってきたという日本刀
         を見せた。
           「所長だけを死なせるわけにいきません。私もこの日本刀
           を振りかざして、タンクに向かいます。私も一緒に死にま
           す」
          岩松の目から涙がこぼれた。そんなことをしたって無駄だよ、
         無駄に死ぬよりも、生き延びろ。記録さえ残しておけば、また
         いつか裁判を続けることができる。
          所長の言葉を聞きながら、集まった裁判官たちも、泣いてい
         たという。(清永聡氏著『気骨の判決』新潮新書、pp.145-147)
               ---------------------------------
       ・満州への定住者約130万人
       ・敗戦時の海外の日本人
          軍人・軍属:約353万人、民間人:約306万人
               (昭和20年、『昭和 二万日の全記録』講談社
       ●プルトニウムを用いた人類最初の原爆実験成功(1945.7.16)
         コード・ネーム”トリニティ(三位一体)”(オッペンハイマ
        ーが命名)
       ●原爆投下:広島(S20.8.6 08:15:45=ウラン
         ※ソ連の極東戦争への介入を妨害、対日戦勝利のへの寄与をでき
          るだけ最小限に食い止める。
                **************    **************
          トルーマンにとって必要だったのは、ソビエトを怯えさせるこ
         と、アメリカの優位をスターリンに認めさせ野放図な振る舞いを
         慎ませることだった。そのために「世界中を焼き尽くす業火」を、
         降伏する前の日本に対して、使用しなければならない。7月26日
         に発表された「ポツダム宣言」にたいして、アメリカはソビエト
         の署名を求めなかった。その炎が燃えさかった時、スターリン
         新大統領(トルーマン)がなぜかくも強硬だったかを知るだろう。
                  (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
              -----------------------------------
           「そりゃもう目もあてられん状態じゃけェ、あっちにも
          こっちにも黒焦げになった人が転がっとるんよ。だれがだ
          れやら見分けがつかんのじゃ、むごいことじゃ。あっちこ
          っちで焼いとるんじゃけェ、たまらんのよその匂いがのう、
          赤ん坊を抱いたまま死んどってんよ、電車でも焼け死んど
          りんさる。腐って蛆がわいとりんさる。薬がないんよ、ヨ
          ードチンキを塗るぐらいじゃのう、死に水をとったげるた
          めにきたようなもんじゃよ」(新藤兼人氏の姉の話)
          (新藤兼人氏著『新藤兼人・原爆を撮る』新日本出版社、p.10)
              -----------------------------------
           6月6日にスチムソンは、5月31日の暫定委員会の決定を大統領
         に報告した。その時には、「大量の労働者を使用し、労働者住宅
         群にびっしり取り囲まれている重要な軍需工場」という投下目標
         が実際には住民の大量殺教を意味することは知っていたのである。
         したがって、トルーマンが日記に書いている女、子供を投下目標
         にしないというスチムソンとの合意を額面通りに受け取ることは
         到底できない。
          実際にも原爆による直接の被害を受けたのは、軍人よりも圧倒
         的に多数の民間人であった。広島の場合でいえば、軍人の被爆者
         は4万人以上、軍人以外の直接被爆者の数は31万から32万人であっ
         たと考えられている。
          また被爆者の意識には、「原爆によってもたらされたのは、一
         瞬にして人間や人間の生の条件そのものを壊滅させ炎上させる非
         人間的な世界、ホロコーストの世界にも匹敵できる地獄」として
         とらえられている。
          そのような被爆のイメージをあらわしたものに深水経孝の絵物
         語『崎陽のあらし』がある。被爆した後中学教師となった深水は、
         被爆体験を記録として後世に残すため、まだ惨劇の記憶の生々し
         い1946年夏にこの絵物語を描いた。
          そこには天を仰いで路上に倒れる女、子供、母子、両眼を失い
         天に祈る乙女、火焔をあげるバスの中で倒れ這いだそうとして力
         尽き焼け焦げる人、火中に退路を絶たれ防火用水に飛び込み悶絶
         する人々などが燃えさかる市街を背景に描かれ、心にやきついた
         被爆の原風景が如実に再現されている。
          深水は絵に添えた文章のなかで、この原風景を「古の修羅もか
         くて」とか、「いずれも悲しきことながら、之の世の事とも思わ
         れず」、あるいは「されどこれ、地獄というも愚かなり。想え、
         外道、天日の晦きを」などと形容している。被爆直後の心象とし
         て刻まれた世界は「この世の外」、「地獄」、「外道」 の世界、
         まさに人間が非人間化されるこの世の終末、すなわちホロコース
         トの世界であった。 (荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店
         pp.174-175)

       ●ソビエト軍満州進攻(対日宣戦布告、S20.8.8)
         モロトフ外相:「・・・日本はポツダム宣言の受諾を拒否した
           ので、ソ連に対する日本の和平調停の提案は、まったくそ
           の基礎を失った。日本の降伏拒否にかんがみ、連合国はソ
           連の対日参戦を提議した。ソ連ポツダム宣言に参加し、
           明日、すなわち8月9日寄り、日本と戦争状態にあるべきこ
           とを宣告する」
               ***************    ***************
          ソビエト軍は将兵160万人、戦車等5000台余り、航空機4000機
         以上という圧倒的兵力で満州になだれ込んだ。ソビエト軍は、南
         へと逃れる開拓団の老若男女を殺戮し、ハルビンで、新京で、奉
         天で、破壊と略奪の限りを尽くした。満州国の充実した重工業の
         設備を肇、主要な機械や財貨などすべてがソビエトに持ち去られ
         た。そのなかには、何ら国際法上正当性にない仕方で連れ去られ
          、抑留された60万人の将兵や官吏らもいた。
              <日本人難民、棄民、捨駒以下、中学生の囮兵>
            軍および政府関係の日本人家族だけが、なぜ特別編成の列
           車で新京を離れられたのか。この年の秋までに日本へ帰りつ
           いた人びともある。生きのこったことを責めようとは思わな
           い。しかし、決定権をもち、いち早く情報をとらえ得た人た
           ち、その家族の敗戦は、一般の在満居留民とは異なった。身
           勝手な軍人たちの判断の詳細とその責任は、現在に至るまで
           あきらかにされていない。軍人たちにより、明白な「棄民」
           がおこなわれた。軍中央も政府も、承知していたはずである。
            切り棄てることがきまった土地へ、女学校と中学校の三年
           生が動員されている。たまたまわたしは、その動員学徒の一
           人として開拓団生活を体験している。それを小さな文章に書
           いた縁で、新京第一中学校三年生の「運命」を知った(英文
           学者の小田島雄志氏の同級生たち。小田島さんとわたしには、
           新京室町小学校の一年一学期、同級だった縁がある。知った
           のは何十年ものちのこと)。
            新京一中の三年生は三つのグループにわけられ、そのうち
           の126名が5月28日、「東寧隊」として東満国境近くの東寧報
           国農場に動員された。
            この日付は、大本営が「朝鮮方面対ソ作戦計画要領」を関
           東軍に示達する2日前。同要領によって、京図線の南・連京線
           の東という三角地帯が定まったのだが、南満と北朝鮮へ重点
           変更の作戦計画は、20年1月上旬にはじまっていた。さらに
           新京一中生の動員は、予定よりも1か月間延長になっている。
            8月9日未明、ソ連参戦。東寧は穆稜(ムリン)などと同様、
           国境にいた関東軍がほとんど全滅した一帯である。関東軍
           あって、国境部隊は時間かせぎの捨駒以下だった。『人間の
           条件』の主人公は、穆稜の戦闘で奇蹟的に生きのこる。作者
           自身の体験が裏付けにある。東寧の陣地には、彫刻家の佐藤
           忠良氏もいて、「地獄」を体験、ソ連軍の捕虜となり、シベ
           リア送りとなった。
            現役部隊がほぼ全滅し、生きのこる成算のほとんどなくな
           る国境地帯へ、なぜ14か15の中学生を動員したのか。しかも、
           ソ連参戦まで動員は継続された。列車は不通となり、国境線
           の戦闘が終ったあと、中学生たちは歩いて新京の親もとまで
           帰る。大陸の広大さ、伝染病と餓え、北満のきびしい寒気、
           そしてソ連軍の銃火と中国人の憎悪。中学生たちは70余日の
           避難行をし、乞食姿の幽鬼のようになって新京へたどりつく
           が、四人が途中で亡くなった。
             体験者の一人谷口倍氏が『仔羊たちの戦場-ボクたち中
           学生は関東軍の囮兵だった』を出版するのは1988年。体験か
           ら40年以上経ってである。
           (澤地久枝氏著『わたしが生きた「昭和」』
                          岩波現代文庫. p210-213)
       ●ふたたび原爆投下:長崎(S20.8.9=プルトニウム
         ※ソ連の対日参戦の影響を力をできるだけ少なくせねばならぬ。
              <祈りの長崎>(永井隆の弔辞)
          「原子爆弾がわが浦上で爆発し、カトリック教徒8000人の
         霊魂は一瞬にして天主のみ御手に召され、猛火は数時間にし
         て東洋の聖地を廃墟とした。しかし原爆は決して天罰ではあ
         りません。神の摂理によってこの浦上にもたらされたもので
         す。これまで空襲によって壊滅された都市が多くありました
         が、日本は戦争を止めませんでした。それは犠牲としてふさ
         わしくなかったからです。神は戦争を終結させるために、私
         たちに原爆という犠牲を要求したのです。戦争という人類の
         大きい罪の償いとして、日本唯一の聖地である浦上に貴い犠
         牲の祭壇を設け、燃やされる子羊として私たちを選ばれたの
         です。そして浦上の祭壇に献げられた清き子羊によって、犠
         牲になるはずだった幾千万の人々が救われたのです。子羊と
         して神の手に抱かれた信者こそ幸福です。あの日、私たちは
         なぜ一緒に死ねなかったのでしょう。なぜ私たちだけが、こ
         のような悲惨な生活を強いられるのでしょうか。生き残った
         者の惨めさ、それは私たちが罪人だったからです。罪多きも
         のが、償いを果たしていなかったから残されたのです。日本
         人がこれから歩まなければいけない敗戦の道は苦難と悲惨に
         満ちています。この重荷を背負い苦難の道をゆくことこそ、
         われわれ残された罪人が償いを果たしえる希望なのではない
         でしょうか。カルワリオの丘に十字架を担ぎ、登り給いしキ
         リストは私たちに勇気を与えてくれるでしょう。神が浦上を
         選ばれ燔祭に供えられたことを感謝いたします。そして貴い
         犠牲者によって世界に平和が再来したことを感謝します。願
         わくば死せる人々の霊魂、天主の御哀れみによって安らかに
         憩わんことを、アーメン」(鈴木厚氏著『世界を感動させた
         日本の医師』時空出版、pp.28-29)
       ●昭和20年8月9日御前会議、天皇の発言
         「開戦以来、陸海軍のしてきたところをみると、どうも、計画
        と実際が違う場合が多かった。いま陸海軍では、先程、大臣と総
        長が申したように、本土決戦の準備をしており、勝つ自信がある
        といったが、自分はその点について心配している。先日、参謀総
        長の話では、九十九里浜の防備は八月中旬に完成するということ
        であったが、侍従武官が現地を見てきたところでは、八月末にな
        らなければできないという。また新設師団ができても、これに供
        給する兵器は準備されていないという。これでは、あの機械力を
        ほこる米英軍に対して、勝算の見込みがない。こうした状況で本
        土決戦に突入したらどうなるか、自分は非常に心配である。空襲
        は激化しており、これ以上、国民を塗炭の苦しみにおちいれ、文
        化を破壊し、世界人類の不幸を招くのは、自分の欲しないところ
        である。忠勇な軍人より武器を取り上げ、忠勤をはげんだ者を戦
        争犯罪人とすることは情において忍び得ないが、国家のためには
        やむをえない。明治天皇の三国干渉の際の決断にならい忍び難き
        を忍び、国民を破局から救い、世界人類の幸福のために、このよ
        うに(筆者注:ポツダム宣言受諾)決心した」(実松譲著『米内
        光政正伝』光人社、p.335)
             ----------------------------------------
       ・陸相の布告(アホ丸出し、S20.8.11読売新聞より)
          全軍将兵に告ぐ
          ソ聯遂に鋒を執つて皇国に寇す
          名分如何に粉飾すと錐も大東亜を侵略制覇せんとする野望
           歴然たり
          事ここに至る又何をか言はん、断乎神洲護持の聖戦を戦ひ
           抜かんのみ
          仮令(たとへ)草を喰み土を噛り野に伏するとも断じて戦
           ふところ死中自ら活あるを信ず
          是即ち七生報国、「我れ一人生きてありせば」てふ楠公救
           国の精神なると共に時宗の「莫煩悩」「驀直進前」以て
           醜敵を撃滅せる闘魂なり
          全軍将兵宜しく一人も余さず楠公精神を具現すべし、而し
           て又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀直進前すべし
                昭和二十年八月十日      陸軍大臣
         「何をか言はん」とは、全く何をか言わんやだ。国民の方で
        指導側に言いたい言葉であって、指導側でいうべき言葉ではな
        いだろう。かかる状態に至ったのは、何も敵のせいのみではな
        い。指導側の無策無能からもきているのだ。しかるにその自ら
        の無策無能を棚に挙げて「何をか言はん」とは。鳴呼かかる軍
        部が国をこの破滅に陥れたのである。
             (高見順氏著『敗戦日記』中公文庫、pp.294-295)
             ----------------------------------------

       ●「降伏文書」調印式(S20.9.2)
       ●スターリンの対日勝利宣言(S20.9.2)
          敗戦当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して参戦し、
         国後島を占拠したスターリンは対日勝利宣言を行った。
           「日本の侵略行為は、1904年の日露戦争から始まってい
          る。1904年の日露戦争の敗北は国民意識の中で悲痛な記録
          を残した。その敗北は、わが国に汚点を留めた。わが国民
          は日本が撃破され、汚点が払われる日の到来を信じて待っ
          ていた。40年間、われわれの古い世代の人々はその日を待
          った。遂にその日が到来した」。(山室信一氏著『日露戦
          争の世紀』岩波新書、pp.ii~iii)
       ●731石井細菌部隊(と栄1644部隊(通称「多摩部隊」))の残虐
        性、神風特攻隊、人間魚雷、竹槍訓練・・・等々。
       ●敗戦後の特務団の山西省残留
          9月9日、南京で中国における降伏調印式があった。しかし
        蒋介石率いる国民党の司令長官閻錫山と北支派遣軍司令官澄田懶
        四郎が密約をして当時の残留兵59000人を国民党に協力させ八路軍
        (中国共産党)と戦わせようと図った。
         結果的には約2600人が山西省に残留し、敗戦後なお4年間共産軍
        (毛沢東)と戦った。(奥村和一・酒井誠氏著『私は「蟻の兵隊
        だった』岩波ジュニア新書、pp.35-42)
       ●シベリア抑留:約57万5000人中約6万人が死亡。
          スターリンは北海道占領をあきらめる代わりに、北方四島と日
         本人捕虜を戦利品として獲得した。シベリア抑留の真相は敗戦処
         理とその後の東西冷戦という政治的駆け引きのなかでスターリン
         の思いつきから生まれた公算が大きい。
            (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)

    ★敗戦時、日本国籍の者は外地に629万702人いた。
       旧満州国からの引き揚げにあたっては、関東軍将校が自らの家族を
      優先させて帰国させてしまい、民間人を見捨てたという状態になった。
      中国残留孤児問題はその結末の一つである。
         -------------   -------------   -------------
      <森正蔵『あるジャーナリストの敗戦日記』(ゆまに書房)p.37より>
        満州の事情は大ぶんひどいらしい。樺太でも左様であるが、ソ聯兵
       の暴行が頻々として伝はれてゐるほかに、満軍の反乱が相次いで起り、
       満人や鮮人の暴徒が邦人を襲つたりしてゐる。関東軍武装解除をし
       たのだから、もう何の力もないわけである。そして醜態を現はしてゐ
       るのは、関東軍の将校たちで、いち早く三個列車を仕立てゝ自分たち
       の家族をまづ避難さした。満鉄社員、満州国の日系官吏がそれに続い
       て家族を避難させ、取残された一般邦人がひとりさんざんな目に遭つ
       てゐる。戦争情態に入つた新京では親衛隊が離反して皇帝の身辺が危
       くなつた。そこで通化にお遷ししたのだが、通化からさらに日本にお
       遷しするために、奉天の飛行場までお連れして来たところを、降下し
       たソ聯の空挺隊のために抑へられてしまつた。それは十九日のことで
       あるが、それ以後今日まで、皇帝の御身体は赤軍の手中にあるのであ
       る。

    *********** 【以下、順不同に悪魔の所業を書き出しておく】 ************

       # 昭和15年頃、第一線部隊の師団長、旅団長、野戦病院長までもが女
        と暮らしていたのには驚いた・・・。日米開戦当時陸軍でも、海軍で
        も一部の幹部は陣中で兵の苦労をよそに着物姿だった。
        (当時日本の軍事関係費は総予算の40%で、その60%が陸軍にまわさ
         れていた)

       # 激変する雨と川の関係は、さまざまな配慮を人間に要求する。サバ
        のラナウーサンダカンの道路は、ボルネオを横断する唯一の道だが、
        それは川から遠く離れた高い固い地面を選び選び走っている。バス旅
        行に慣れた今日の人間は、自然の厳しさを忘れるようになっていく。
        実際この知識と配慮がなかったために、ここを強行軍させられた日本
        軍兵士は、山中で無残に溺死した。水が引くとかれらの死体は樹々の
        高みにひっかかっていた。(鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』
        朝日選書;1994:293)

       # サイパンの戦い(田中徳治氏『我ら降伏せず』(サイパン玉砕戦の
        狂喜と現実)などより)
          ・・酒だ。ムラムラッと怒りがこみあげてきた。こんな安全な
         洞窟の中で、酒を飲みながら、作戦指揮とは・・・。この連中は
         一体全体、昨日の無謀な戦闘を知っているのだろうか。よくも酒
         など飲んでいられるものだ。我々は部下も戦友も次々失い、空腹
         も忘れ、無我夢中で戦っている。それにくらべ・・・と思うと、
         怒りと同時に全身から力がガックリと抜けてしまった。我々を指
         揮する最高司令官がこれでは、と思うと情けなくなった、不動の
         姿勢が保てなかった。気力をふりしぼってやっと報告に立った。

         田中:「以後、的確なる命令と、各部隊の密接なる戦闘計画なく
             ば敗戦の連続です」
         斎藤:「バカ! 的確な命令とは何事だ。命令を何と心得とるか。
             大元帥陛下の命令なるぞ。軍人は死するは本望だ。兵士
             は師団長の命令通り動き、死せばよいのだ」
         田中:「閣下、我々軍人は命令に従って死せば戦闘に勝てるので
             すか。尊い生命を惜し気もなく、一片の木の葉か、一塊
             の石の如く捨てれば勝てるのですか」

         (斎藤はこの後田中徳治氏に「無礼者」といい、軍扇で頭を殴り、
          田中氏を狂人呼ばわりして司令部を追い出した)

         田中徳治氏の書にある兵士は、故郷を思い、父母の名を叫び、そし
        て絶望的な気持ちで死んでいっている。彼らは司令官を、そして大本
        営作戦参謀を呪い、恨み、そして死んでいったことだけはまちがいあ
        るまい。(以上、保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より引用)

       # いくら督促されても、「できないことは、できない」こと。「だか
        ら、何とかしてくれ」と頼みに行ったわけである。ところがその返事
        たるや「ナンだと。機材がないからどうもならんと、砲弾が輸送でき
        んからどうもならんダと。どうにもならんですむか! キサマそれで
        も将校か。ここをどこだと心得トル。ここは戦場じゃぞ。これがない
        から出来ません、あれがないから出来ませんでは戦さはできんのだ。
        将校たるものがそんな気魄のないことでどうなる。砲弾は人力で運べ。
        住民がいるじゃろう。それを組織化して戦力に役立たせるのがキサマ
        の任務じゃろう。任務を完遂せんで何やかやと司令部に言って来オル。
        このバカモンが! 砲を押して敵に突撃するぐらいの気魄がなくてナ
        ンで決戦ができるか。この腰抜けが!……」延々と無限につづく罵詈
        雑言。
         悲しいとか口惜しいとか言うのではない。むしろ何ともいえない空
        虚感であった。(山本七平氏著『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文
        庫、pp.164-165)

       # 東条英機の残した『赤い手帳』(三男、東条敏雄氏所有)より
         (多少、言い訳めいたことも書き残したかったのであろうか)。
        昭和一八年八月十一日
        「戦局ノ進展深刻化ニ伴フ戦争的要求ト日本ニ於ケル政治 単的ニ
         謂ヘハ下僚政治、属僚政治ノ弊ノ根深キモノアルト。
         統帥ノ独立ニ立籠リ又ハ之レニ籍口シテ陸軍大臣タル職権ヲ有
         スルニ不拘ラス之レニ対シ積極的ナル行為ヲ取リ得ズ、国家ノ
         重大案件モ戦時即応ノ処断ヲ取リ得サルコトハ共ニ現下ノ最大
         難事ナリ」
        解釈:戦争は行く末が見えず、益々進展し深刻化しているという
           のに日本の政治は・・・(混迷を極めていて、世界を相手に
           戦争出来る様な情勢ではない)、一言でいえば下っ端官僚や
           属僚たちが幅をきかせている政治、この弊害は根深いもの
           がある。しかし自分は(それは良く分かっているのだが)、
           統帥の独立という構造にたてこもり、またそれを口実にして
           積極的な改善手段を実現させることが出来ない。総理大臣と
           して国家の重大案件も思うに任せず、陸軍大臣として切羽詰
           まった戦況の打開策も、いずれも即時に処置断行することが
           出来ない。これはともに今の最大の難事である。
                 (月刊『宝石』、平成10年6月号より抜粋)

       # ガダルカナル最前線(元陸軍中尉、小尾靖夫の手記より)
         「立つ事の出来る人間は・・寿命30日間。体を起こして座れる
        人間は・・3週間。寝たきり、起きられない人間は・・1週間。
        寝たまま小便をする者は・・3日間。もの言わなくなった者は・・
        2日間。またたきしなくなった者は・・明日。ああ、人生わずか
        五十年という言葉があるのに、俺は齢わずかに二十二歳で終わる
        のであろうか」(昭和17年~18年)

       # ブーゲンビル島ブイン飛行場(昭和18年4月頃)
         飛行場のまわりは、昼なお暗きジャングルである。マラリア蚊が
        跳梁し毒蛇や鰐が横行している。こんな、とても人が住めない密林
        のなかで、日本海軍の男たちは戦っていたのだ。
        (星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督 伊藤整一』より)

       #  馬を引いて前線に届けるのが任務である。「馬は軍にとって大変
        大切だ。おまえらは一銭五厘の切手で召集できるが馬はそうはいか
        ぬ。おまえらより馬のほうが大切なのである」
                    
         「昭和15年召集、入隊してそこで待っていたのは、毎日のような
        しごきでした。教官はお前たちの命は九牛の一毛より軽いというこ
        とで兵隊の命なんか上の方では、人権なんか余り考えてなかったよ
        うな気がします」(朝日新聞、H10.12.2朝刊より)

       #  第三班。そのまま聞いとれ。今日はお前たちの担当じゃなかっ
        たけん、よかったが、お前たちの番になって、あんな真似をしとっ
        たら、おれが承知せんぞ。お前たちのような消耗品は、一枚二銭の
        はがきで、なんぼでも代わりが来るが、兵器は、小銃は、二銭じゃ
        出来んからな。銃の取り扱い方、手入れ法を、ようと勉強しとけよ。
            (大西巨人氏著『神聖喜劇<1>』光文社文庫、p.97より)

       # これが戦争なんだ。これが軍隊なんだ。       
         上官が家々を物色して回る「徴発」 を命じた。村民はクモの子を
        散らすように逃げまどった。「背に弾を打ち込め」と命令されたが
        銃身をわずかに空に向けて外した。食料はないか、家畜はいないか。
        一軒一軒をのぞいて回った。ある民家の土間に老女がうずくまって
        いた。・・・その老女は逃げる体力も気力も持ちあわせていないよう
        に思えた。一抱えもある鉄鍋の下にかぼそい炎が見えた。「何か
        炊いている」食い物にありつけるかも知れない。腹をすかせた兵士
        たちの期待が膨らんだ。老女は恨めしそうな目を投げかけてきた。
       「あんたら日本人は何でも奪う」、そう言いたげな刺す様な視線だ
        った。・・・鍋に近付いた。その中に、黒ずんだものがかすかに
        ブスブスと動いていた。何の臭いもしなかった。・・・
         老女が煮ていたものは、ただの土。何のために?。・・・
                      (朝日新聞、H10.11.30日朝刊より)
         絶叫でもなく、悲鳴でもない。動物の呷きにもにた男の声が残った。
        暴れる男は太い幹にくくりつけられた。何が始まるのか初年兵全員が
        分かっていた。・・・「突け!」。剣のついた小銃を持った初年兵が
        木に向けて走った。・・・約50人の初年兵が次から次へと突いた。
        男の内蔵は裂け、ぼろぞうきんのようになった。体はどす黒い血の塊
        となって木の下に崩れた。(朝日新聞、H10.12.1日朝刊より)

       # われわれが連れていかれたのは、寧武にある処刑場です。荒れ地で、
        城壁の角地でした。そこへ、綿入れの便衣を着た中国人五十数人がじ
        ゅずつなぎに連行されてきました。そこでは、すでに数人の将校によ
        って「試し斬り」がおこなわれていました。手をしばられた中国人の
        首を刀でバサッと斬っているのです。ところが下手な将校は、刀の扱
        いがうまくできずに頚動脈を切ってしまうものだから、血が噴き出し
        ている。あわてて刀を何回も振り下ろしています。一回で首を切りお
        とせなかったのです。むしろ下士官のほうがうまくて、片手にもった
        サーベルをパッと振り下ろすと、首がごろっと落ちる。私は仰天しま
        した。いままでこんな恐ろしい場面を見たことがなかったからです。
        つぎからつぎへとくりひろげられる悽惨な光景に、体はふるえ、こわ
        ばつて目も開けられない状態でした。
         そうして、こんどは私たちに「肝試し」が命じられました。正確に
        はこれを「刺突訓練」と呼んでいました。銃剣で、後ろ手にしばられ
        立たされている中国人を突き刺すのです。目隠しもされていない彼ら
        は、目を開いてこちらをにらみつけているので、こわくてこわくてた
        まらない。しかし、「かかれっ」と上官の声がかかるのです。私は目
        が開けられず、目をつむったまま、当てずっぼうに刺すものだから、
        どこを刺しているのかわかりません。そばで見ている古年兵にどやさ
        れ、「突け、抜け」「突け、抜け」と掛け声をかけられる。どのくら
        い、蜂の巣のように刺したかわかりません。しまいに、心臓にスパッ
        と入った。そうしたら「よ-し」と言われて、「合格」になったので
        す。こうして、私は「人間を一個の物体として処理する」殺人者に仕
        立て上げられたのでした。(奥村和一・酒井誠氏著『私は「蟻の兵隊
        だった』岩波ジュニア新書、pp.22-23)

       # 私は既に日本の勝利を信じていなかった。私は祖国をこんな絶望的
        な戦いに引きり込んだ軍部を憎んでいたが、私がこれまで彼等を阻止
        すべく何事も賭さなかった以上、今更彼等によって与えられた運命に
        抗議する権利はないと思われた。一介の無力な市民と、一国の暴力を
        行使する組織とを対等におくこうした考え方に私は滑稽を感じたが、
        今無意味な死に駆り出されて行く自己の愚劣を笑わないためにも、そ
        う考える必要があったのである。
         しかし夜、関門海峡に投錨した輸送船の甲板から、下の方を動いて
        行くおもちゃのような連絡船の赤や青の灯を見て、奴隷のように死に
        向かって積み出されて行く自分の惨めさが肚にこたえた。
                         (大岡昇平氏『俘虜記』より)

       # 軍の輸送船はひどい、まるで地獄船だという話は前にも聞いてい
        た。しかしその実情は聞きしにまさるもので、いかなる奴隷船もど
        のような強制収容所も、これに比べれば格段に上等である。前に週
        刊朝日でも触れたが、人類が作り出した最低最悪の収容所といわれ
        るラーベンスブリュック強制収容所の狂人房も、収容人員一人あた
        りのスペースでは、陸軍の輸送船よりはるかに”人道的”といえる
        のである。前述の石塚中尉の日記をもう一度ここで引用させていた
        だこう。「・・・船中は予想外の混乱なり。船艙も三段設備にて、
        中隊176名は三間と二間の狭隘なる場所に入れられ、かつ換気悪い
        ため上層の奥など呼吸停止するほどの蒸れ方なり。何故かくまで船
        舶事情逼迫せるや。われわれとしては初めて輸送能力の低下してい
        る事情を知り大いに考えざるべからず。銃後人にもこの実情を見せ、
        生産力増強の一助にすべきものなるにかかわらず、国民に実情を秘
        し、盲目的指導をつづけていることは疑問なり」。
         これ以上の説明は不要であろう。2間に3間は6坪、これを3層のカ
        イコ棚にすると、人間がしゃがんで入れるスペースは18坪、言いか
        えれば、ひざをかかえた姿勢の人間を、畳2枚に10名ずつ押し込み、
        その状態がすでに2週間つづいているということ、窒息して不思議
        ではない。それは一種異様な、名状しがたい状態であり、ひとたび
        そこへ入ると、すべてが、この世の情景とは思えなくなるほどであ
        った。その中の空気は浮遊する塵挨と湿度で一種異様な濃密さをも
        ち、真暗な船艙の通路の、所々に下がっている裸電球までが、霧に
        かすんだようにボーッと見え、む-っとする人いきれで、一瞬にし
        て、衣服も体もべタベタしてくる。簡単にいえば、天井が低くて立
        てないという点で、また窓もなく光も殆どない鉄の箱だという点で、
        ラッシュアワーの電車以上のひどさで家畜輸送以下なのである。だ
        が、このような場所に2週間も押し込められたままなら、人間は、
        窒息か発狂かである。従って耐えられなくなった者は、甲板へ甲板
        へと出ていく。しかし甲板には、トラックや機材が足の踏み場もな
        いほど積まれ、通路のようなその間隙には、これまた人間がぎっし
        りつまり、腰を下ろす余地さえなくなる。一言でいえば、前述した
        プラットホームである。そのくねくねした迷路に一列に並んでいる
        人の先端が、仮設便所であった。便所にたどりつくのが、文字通り
        「一日仕事」。人間は貨物ではない。貨物なら船艙いっぱいにつめ
        こめればそれですむ。しかし、人間には排泄がある。・・・
        (山本七平氏著『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、pp.63-64)

       # 「日本のボロ船は、アメリカ製高性能魚雷2発で15秒で沈む。
        3000人のうち助かるのは12、3名」。
          (山本七平氏著『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、p.67)

       # 師団長や参謀たちが何だというのだ。彼らは私にとって、面と向か
        って反抗できない存在だ。その点では班長や下級将校も同様だが、班
        長や下級将校は、私たちと同様に彼らに使われているのだ。あいつら
        やあいつらよりもっと上の連中たちが、こんな馬鹿げた戦争をしてい
        るのだ。ああいう連中になりたがっている連中もいるわけだが、しか
        し、私は、結局は、あいつらに使われる状態から逃れられないのだ。
        私は、彼らに対して、そう思っていた。挙国一致だと。糞食らえだ。
        尽忠報国だと。糞食らえだ。心中ひそかに悪態をついてみたところで、
        もうどうなるものでもない、と思いながら、私は悪態をついていたの
        だ。
         気力なし、体力なし、プライドなし、自信なし、希望なし。悪態は
        ついても、恨みも不平もなかった。私は、もう、なにがどうでもいい
        ような気持になっていたのだ。
         龍陵の雨を、寒さを、漆黒の闇を、草を、木を、土を、空を、星を、
        運を、思い出す。その中で、常時、死と体のつらさに付き合っていた
        ことを思い出す。歩けないのに歩かなければならないときの苦しさを
        思い出す。(古山高麗雄氏『龍陵会戦』(文春文庫)p.52)

       ★特攻隊攻撃:軍部にみる残酷さと卑怯さの象徴(発案は服部卓四郎、
              源田実、大西瀧治郎(直属部下:玉井浅市、猪口力平、
              中島正)、富永恭次ほかの悪魔ども)。
          初めて行われたのは比島沖海戦の翌日の昭和19年10月25日で、
         敷島隊がレイテ湾の米軍艦に体当たりを敢行。 敗戦までに実に
         2367機が出撃した。(因に潜水「魚雷」は海軍大将黒木博司によ
         り別に考案され最初の出撃は昭和19年11月だった)
          青年達(海軍の飛行予科練習生と学徒兵)に下士官の軍服を着
         せて飛行機に乗せ、未熟な操縦技術ながら敵に体当たりさせた。
         (昭和17年から乙種飛行予科練習生の徴募年齢が満14歳に引き下
         げられていた)。
         皮肉にもこの特攻隊攻撃が原爆投下を米英に決断させることにな
         った。
        ※おそるべき無責任
          英文学者の中野好夫は、特攻を命令した長官が、若いパイロッ
         トたちに与えた訓辞を引用して、一九五二年にこう述べている。

          「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救い得るものは、
         大臣でも大将でも軍令部総長でもない。勿論自分のような長官で
         もない。それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみ
         である。(下略)」
          この一節、大臣、大将、軍令部総長等々は、首相、外相、政党
         総裁、代議士、指導者-その他なんと置き換えてもよいであろう。
         問題は、あの太平洋戦争へと導いた日本の運命の過程において、
         これら「若い人々」は、なんの発言も許されなかった。軍部、政
         治家、指導者たちの声は一せいに、「君らはまだ思想未熟、万事
         は俺たちにまかせておけ」として、その便々たる腹をたたいたも
         のであった。しかもその彼等が導いた祖国の危機に際しては、驚
         くべきことに、みずからその完全な無力さを告白しているのだ。
         扇動の欺瞞でなければ、おそるべき無責任である。
            (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.61-62)
        ※死へのカウントダウン
          学徒兵たちは、自分たちの政府に「殺される」出撃の最期の
         瞬間まで読書と日記を続けた。どんな時代や国においても、死
         とは孤独なものである。こうした若者は人生の早い段階で死刑
         宣告を受けていたも同然で、ただでさえ短かった人生を、死の
         影の中で生きねばならなかった。そのため、彼らの人生には常
         にこのうえない淋しさが付きまとっていた。だが、潔く死ぬこ
         とを当然祝された若き学徒兵たちは、こうした感情を公にする
         ことはできなかった。残された手記は、自らの行為に納得のい
         く意味を見出そうとするものの、最期の瞬間まで苦悩し続け、
         悲壮なまでの孤独感に覆われた胸中をありありと見せている。
         1940年11月の日記に、林尹夫は「死にたくない!… 生きたい!」
         と書き連ねていた。中尾武徳は、1942年9月に「静寂」という
         題の詩を書き、多くの若者たちが感じていた時間の経過に対す
         る焦燥感を表現している。刻々と時を刻む時計の針の音は、彼
         らにとって死へのカウントダウンの音でもあったのである。
          中尾や他の学徒兵の手記は、人生そのものを含め、彼らが失
         ったすべてのものへの嘆きの声で満ちている。
         (大貫恵美子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.34-35)
        ※驚くべきことに、悪魔らが特攻作戦を創設した際、陸海軍兵学校
         出身の職業軍人の中から志願したものは一人もいなかった。
               (大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店
        ※関行男大尉(23歳、第一次神風特別攻撃隊、敷島隊(5機の零戦))
          「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すな
         んて。僕なら体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に500キロ爆弾を
         命中させて還る自信がある」。
         ●特攻隊攻撃については柳田邦男氏著『零戦燃ゆ(渾身編)』や
          大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』に詳しく載っている。ぜひ
          ご一読をお勧めする。また『はるかなる山河に』(南原繁編集)
          や『きけわだつみの声』(一、二集)という遺稿集もぜひ読ん
          でほしい。
         ●源田実はのうのうと生き続けて、戦後は自衛隊に入り、最後に
          は参議院議員にまでなった。つまり戦没した特攻隊員に恥じる
          ことも殉ずることもなかったのである。
           -------<別に賞賛しないが、こういう軍人もいた>-------
            軍令部々員の国枝兼男少佐が去る二十二日未明自決した。
           かつて予科練の教官をしてゐて、その教へ子のうちから沢山
           の特攻隊員が出てゐる。それ等の教へ子を先に死なせ、しか
           も戦争はこのやうな終末になつた。相済まぬといふ心に耐へ
           られなかつたのである。最後まで役所の仕事は滞りなく片づ
           け、土浦の自宅に帰り、夫人に決心のほどを語りて納得させ
           たうへ、拳銃で二人の子供を殺し、夫人をも同様の手段で殺
           した後、自らの頭に銃弾を打込んで果てたのである。
           (森正蔵『あるジャーナリストの敗戦日記』
                           ゆまに書房、pp.34-35)
        ※上原良司特攻隊員(20年5月11日、沖縄嘉手納湾の米国機動部隊に
         突入し戦死)
           いわゆる軍人精神の入ったと称する愚者が、我々に対しても
          自由の滅却を強要し、肉体的苦痛もその督戦隊としている。し
          かしながら、激しい肉体的苦痛の鞭の下に頼っても、常に自由
          は戦い、そして常に勝利者である。我々は一部の愚者が、我々
          の自由を奪おうして、軍人精神という矛盾の題目を唱えるたび
          に、何ものにも屈せぬ自由の偉大さを更めて感ずるのみである。
          偉大なるは自由、汝は永久不滅にて、人間の本性、人類の希望
          である。
        ※何が愛国だ? 何が祖国だ?(佐々木八郎、1945年特攻にて戦死、
         享年22歳、1941.9.14の日記より)
           戦時下重要産業へ全国民を動員するとか。全国民のこの苦悩、
          人格の無視、ヒューマニティの軽視の中に甘い汁を吸っている
          奴がいる。尊い意志を踏みにじって利を貪る不埒な奴がいるの
          だ。何が愛国だ? 何が祖国だ? 掴み所のない抽象概念のた
          めに幾百万の生命を害い、幾千万、何億の人間の自由を奪うこ
          とを肯んずるのか。抽象概念のかげに惷動する醜きものの姿を
          抉り出さねばならぬ。徒らに現状に理由づけをして諦めること
          はやめよう。(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店
           p.83)
        ※古川正崇(海軍中尉、神風特別攻撃隊振天隊、S20.5.29沖縄近海
              にて特攻により戦死。享年24歳)の決意と覚悟
           出征の日に私は友の前で、「大空の彼方へ我が二十二歳の生
          命を散華せん」と詠つた。さうして今その二十四歳の生命をぶ
          ち投げる時がきた。
           出征の日に私は机に「雲湧きて流るるはての青空の、その青
          の上わが死に所」と書いてきた。さうして今その青空の上でな
          くして、敵艦群がる大海原の青に向つて私の死に所を定めやう
          としてゐる。
           しかも人生そのものにやはり大きな懐疑を持つてゐる。生き
          てゐるといふこと、死ぬといふことも考へれば考へるだけ分ら
          ない。ただ分つてゐることは、今、日本は大戦争を行つてゐる
          といふこと、神州不滅といふこと、その渦中に在る日本人とし
          て私の答はただ、死なねばならぬ、といふことだけである。
           絶対に死なねばならぬ。我が身が死してこそ国に対する憂ひ 
          も、人間に対する愛着も、社会に対する憤懣もいふことができ
          るのだ。死せずしては、何ごともなしえないのだ。
           今、絶体絶命の立場に私はゐる。
           死ぬのだ。潔く死ぬことによつて、このわだかまつた気持の
          むすび目が解けるといふものだ。
           (桶谷秀昭氏著『日本人の遺訓』文春新書、pp.186-187)
        ※特攻隊員たちの生活
          一方、多くの士官は鬼のように振る舞った。職業軍人たちは、
         自分より階級の低い学徒兵の些細な行動を不快に思う度、それを
         行なった本人のみでなく、隊全員に苛酷な体罰を加えた。色川(
         歴史家色川大吉氏、土浦基地元学徒兵)は、学徒兵を待ち受けて
         いた「生き地獄」について、まざまざと語っている。
             「土浦海軍航空隊の門をくぐってからは、顔の形が変
            るほど撲られる「猛訓練」の日がつづいた。一九四五年
            一月二日の朝は、金子という少尉に二十回も顔中を撲ら
            れ、口の中がズタズタに切れ、楽しみにしていた雑煮が
            たべられず、血を呑んですごした。二月の十四日は、同
            じ隊のほとんど全員が、外出のさい農家で飢えを満たし
            たという理由で、厳寒の夜七時間もコンクリートの床に
            すわらされ、丸太棒で豚のように尻を撲りつけられると
            いう事件が起こった。
            私も長い時間呼出しを待ち、士官室に入ったとたん、
            眼が見えなくなるほど張り倒され、投げ飛ばされ、起き
            直ると棍棒をうけて「自白」を強いられた。頭から投げ
            飛ばされた瞬間、床板がぬけて重態におちいり、そのま
            ま病院に運ばれ、ついに帰らなかった友もあった。これ
            をやったのは分隊長の筒井という中尉で、私たちは今で
            もこの男のことをさがしている」
          学徒兵たちは、しばしば叩き上げの職業軍人の格好の的とされ
         た。彼らは大学どころか高等学校にさえ在籍することの叶わなか
         った自らと比較し、学生たちを、勉学に専心することの許される
         特権階級の出身者として見ていたのも一つの理由である。
             (大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店より)
        ※出撃前夜の様子
          ガンルームでの別離の酒宴席設営。明日出撃の若き士官の冷酒
         の酒盛り、一気飲み!! ガブ飲み!! 果ては遂に修羅場と化して、
         暗幕下の電灯は刀で叩き落され、窓硝子は両手で持ち上げられた
         椅子でガラガラと次ぎつぎに破られ、真白きテーブル掛布も引き
         裂れて、軍歌は罵声の如く入り乱れ、灯火管制下の軍隊でこゝガ
         ンルームでの酒席は、”別世界”。ある者は怒号、ある者は泣き
         喚き、今宵限りの命……。父母、兄弟、姉妹の顔、顔、姿。そし
         て恋人の微笑の顔、婚約者との悲しき別れ。走馬灯の如く巡り来
         り去り来る想いはつきずに。明日は愈々出撃、日本帝国の為、天
         皇陛下の御為にと、若き尊い青春の身命を捧げる覚悟は決してい
         るものの、散乱のテーブルに伏す者、遺書を綴る者、両手を組み
         て瞑想する者。荒れ果てた会場から去る者、何時までも黙々と何
         かを書き続ける者、狂い踊りをしながら花壇を叩き毀す者。この
         凄惨な出撃前のやり場の無い、学徒兵士の心境は余りにも知らさ
         れていません。……早朝飛行場に走り昨夜水盃ならぬ冷酒の勇士
         は日の丸のはち巻も勇ましく爆音高く出撃!! 私は……英霊に成
         られし方々の日常を知り尽くしております。私同様激しい教練の
         後にお定まりの制裁のシゴキが続けられていました。
           (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.15-16)
        ※特攻生き残り隊員への罵声
         「貴様たちはなぜ、のめのめ帰ってきたのか、いかなる理由が
          あろうと、出撃の意思がないから帰ったことは明白である。
          死んだ仲間に恥ずかしくないのか!」
                  *****
         「あの時の参謀の迎え方で、われわれは司令部の考えていたこと
          がすべて分かりました。われわれは帰って来てはいけなかった
          のです。無駄でもなんでもいい、死ななければならなかったの
          です。生きていては困る存在だったのです」
                    (佐藤早苗氏著『特攻の町知覧』より)

         ◆  我々は故意に歪められた歴史と、その過程における ◆
         ◆ 政治の役割にもっと注意を払うべきである。特攻隊員 ◆
         ◆ たちは自分たちで語ることはもはやできない。もし、 ◆
         ◆ 「死者でさえ敵から安全ではない」(ベンジャミン) ◆
         ◆ ならば(この場合敵とは日本と欧米諸国のとの政治権 ◆
         ◆ 力の不平等、日本国内における政治への無関心である ◆
         ◆ )、彼らはポール・クレーの絵の中のような、青ざ  ◆
         ◆ めた歴史の天使が彼らを目覚めさせ、人間性と歴史の ◆
         ◆ 中に彼らの場所を確保してくれるのを待っているので ◆
         ◆ ある。                      ◆
         ◆  いかなる歴史的過程においても、全体主義政権の指 ◆
         ◆ 導者のような歴史的エージェントは、他の者よりはる ◆
         ◆ かに大きな影響力を持っていた。こういう者が人間性 ◆
         ◆ に対して犯した罪は決して許されるべきものではない。◆
         ◆  隊員たちの日記は、夢と理想に溢れた若者たちを死 ◆
         ◆ に追いやった日本帝国主義の極悪非道の行為を証明す ◆
         ◆ るものである。                  ◆
         ◆   (大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)◆

       ★「玉砕戦法」:昭和20年8月8日夜、ソ連軍の参戦。本土防衛のため
         国境(ソ連-満州)付近にいた精鋭部隊は帰国しており無防備状態
         。予備士官学校生も急きょ防衛隊を編成したが満足な武器はなか
         った。塹濠から爆弾を抱えて戦車に突進する以外に有効な手段は
         なかった。(「戦後50年『あの日・・・どう語り継ぐ』」、山陽
         新聞(H6.8.16)より引用)

       # 戦艦大和の最期がせまり、動揺する戦艦の兵士たちに向かって、
        哨戒長・臼淵大尉は、囁く様にこう言うのだ。
         「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目覚メルコトガ最上ノ
         道ダ 
         日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダ
         ワッテ 本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル ソレ以外ニ
         ドウシテ日本ガ救ワレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺
         タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサ
         ニ本望ジャナイカ」
         (吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』、哨戒長・臼淵大尉(当時21歳)
          の言葉、講談社文芸文庫、p46)
        ※戦艦大和の乗組員3332人のうち3063人が死亡、生存者は269人とい
         う。

          遺書ノ筆ノ進ミ難キヨ サレドワガ書ク一文字ヲモ待チ給り人
          ノ心ニ、報イザルベカラズ
          母ガ歎キヲ如何ニスベキ
          先立チテ散ル不孝ノワレニ、今、母ガ悲シミヲ慰ムル途アリヤ
          母ガ歎キヲ、ワガ身ニ代ッテ負ウ途残サレタルヤ
          更ニワガ生涯ノ一切ハ、母ガ愛ノ賜物ナリトノ感謝ヲ伝ウル由
          モナシ
          イナ、面ヲ上ゲヨ
          ワレニアルハ戦イノミ ワレハタダ出陣ノ戦士タルノミ
          打チ伏ス母ガオクレ毛ヲ想ウナカレ
          カクミズカラヲ鼓舞シツツヨウヤクニシタタム
          「私ノモノハスベテ処分シテ下サイ 皆様マスマスオ元気デ、
          ドコマデモ生キ抜イテ下サイ ソノコトヲノミ念ジマス」 更
          ニ何ヲカ言イ加ウベキ
          文面ニ訣別ノ思イ明ラカナレバ、歎キ給ウベシ
          ワレ、タダ俯シテ死スルノミ ワガ死ノ実リアランコトヲ願ウ
          ノミ
          ワレ幸イニ悔イナキ死ヲカチ得タラバ、喜ビ給エ
          読ム人ノ心ノ肌ニ触ルル思イニ、読ミ返ス能ワズ 郵便箱ニ急
          ギ押シ入レ、私室ヲノガレ出ズ カクシテ、ワレト骨肉トヲ結
          ブ絆絶タレタリ
          カカル折ニモ、父ガ愁イヲ顧ミルコト薄キハ如何ナル心情カ 
          晩酌ノ一献ヲ傾クル後姿ノ、ヤヤ淋シゲナルヲ一瞬脳裡ニ描キ
          シノミ
          世話好キノ鈴木少尉、戦友一人一人ニ、「貴様モウ遺書ヲ書イ
          タカ」
          面ヲソムクル者アレバ「何ダマダ書カンノカ オ前ニハオフク
          ロガイナイノカ一字デモイイカラ書イテヤレヨ」 促シツツ「
          ペン」ヲ握ラス
          (吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、pp33-34)

       # 戦艦大和甲板上、森少尉の遺言
         太キ眉ノ影、月ニ冴エシ頬ニ落チタル横顔ハ森少尉ナリ
         艦内随一ノ酒量、闊達ノ気風ヲモッテ聞エ、マタソノ美シキ許婚
         者ヲモッテ鳴ル彼 常ニ肌身ヲ離サザル写真ノソノ美貌ト、シバ
         シバ届ク便リノ水茎ノ鮮カサトハ、カネテ一次室全員ノ羨望ノ的
         ナリ
         学徒出陣ヲ目前ニ控エシ一夜、初メテ彼女ノ手ヲ握り、「君ノ眼
         モ口モ鼻モ、コノ手モ足モ、ミンナ俺ノモノダ」ト短キ言葉ヲ残
         シテ、訣別セリトイウ
         暗キ波間ニ投ゲタル眸ヲワレニ返シ、耳元二訴エル如ク呟ク
         「俺ハ死ヌカライイ 死ヌ者ハ仕合セデ 俺ハイイ ダガア奴(
         イツ)ハドウスルノカ ア奴(イツ)ハドウシタラ仕合セニナッ
         テクレルノカ
         キット俺ヨリモイイ奴ガアラワレテ、ア奴卜結婚シテ、ソシテモ
         ット素晴シイ仕合セヲ与エテクレルグロウ キットソウニ違イナ
         イ
         俺卜結バレタア奴ノ仕合セハモウ終ッタ 俺ハコレカラ死ニニ行
         ク ダカラソレ以上ノ仕合セヲ掴ンデ貰ウノダ モットイイ奴卜
         結婚スルンダ ソノ仕合セヲ心カラ受ケル気持ニナッテ欲シイン
         ダ
         俺ハ真底悲シンデクレル者ヲ残シテ死ヌ 俺ハ果報者ダ ダガ残
         サレタア奴ハドウナルノダ イイ結婚ヲシテ仕合セニナル 俺ハ
         ソレガ、ソレダケガ望ミダ ア奴ガ本当ニ仕合セニナッテクレタ
         時、俺ハア奴ノ中ニ生キル、生キルンダ……
         ダガ、コノ俺ノ願イヲドウシテ伝エタライイノダ 自分ノ口カラ
         繰返シ言ッタ 手紙デモ何度トナク書イテキタ 俺ヲ超エテ、仕
         合セヲ得テクレ、ソレダケガ最後ノ望ミダト……
         シカシソレヲドウシテ確カメルノダ ア奴ガ必ズソウシテクレル
         ト、何ガ保証シテクレルンダ
         祈ルノカ ドウシテモ祈ラズニハ居レナイ、コノ俺ノ気持ハ本当
         ダ ダガソレダケデイイノカ 自分ヲ投ゲ出シテ祈レバソレデイ
         イノカ ドウカア奴ニマデ聞エテクレト、腹ノ底カラ叫ブシカナ
         イノカ」
         荒キ語勢ニ涙ナシ セキ込ムバカリノ切願ナリ ムシロ怒リナリ
         怒リヲ吐ク彼 肯キツツ言葉モナキワレ 二人ヲ蔽ウハ、コレガ
         見収メノ清澄ノ月空
         二人ノ足ヲ支ウルハ、再ビ踏ムコトアルマジキ堅牢ノ最上甲板
         許婚者ナル方ヨ 君ハ類イナキ愛ヲ獲タリ
         彼ガ全心コメタル祈リハ、聞キ入ラルルベシ 必ズ聞キ入ラルル
         ベシ
         彼、怒レルママニ口ヲ結ビ、凝然卜足下ノ波頭二見入ル
          (吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、pp39-40)

       # シベリアで仲間は死んだ。(朝日新聞、H10.11.29朝刊より)
         食料は下になるほど上級兵にピンはねされ、飯盒のフタにエンドウ
        が五、六ツブといった食事が何日も続いた。
         一昨日は隣分隊の初年兵が栄養失調で死んだ。昨日は山下が死んだ。
        今日は隣の奴がと、毎日のように死人がでた。
         収容所は全本能の闘争場だった。陰気な、悽惨なものだった。

    ***************** 【以上、悪魔の所業のほんの一部】 *****************

   ※そのうえに日本にとって最も不幸だったことは、以上申し述べたような諸種の
    事情が、日本有史以来の大人物の端境期に起こったということでありまして、
    建国三千年最大の危難に直面しながら、如何にこれを乗り切るかという確固不
    動の信念と周到なる思慮を有する大黒柱の役割を演ずべき一人の中心人物がな
    く、ただ器用に目先の雑務をごまかしていく式の官僚がたくさん集まって、わ
    いわい騒ぎながら、あれよあれよという間に世界的大波瀾の中に捲き込まれ、
    押し流されてしまったのであります。
     これは必ずしも、北条時宗の故事に遡らずとも、〔明治〕維新当時、日本の
    各地に雲のごとく現れた各藩の志士、例えば一人の西郷隆盛、一人の木戸孝充
    、一人の大久保利通のごとき大人物が現存しておったなら、否、それほどの人
    物でなくても、せめて日清、日露の戦役当時の伊藤博文山県有朋のごとき政
    治家、また軍人とすれば陸軍の児玉源太郎、降って、せめて加藤高明原敬
    あるいは一人の山本条太郎が今日おったならば、恐らく日本の歴史は書き換え
    られておったろうと思われるのです。支那事変から大東亜戦争を通じて、日本
    の代表的政治家は曰く近衛文麿、曰く東条英機、曰く小磯国昭、曰くなにがし
    であり、これを米国のルーズベルト、英国のチャーチル支那蒋介石ソ連
    のスターリン、ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニなど、いずれも世
    界史的な傑物が百花繚乱の姿で並んでいることに思いを致してみると、千両役
    者のオールスターキャストの一座の中に我が国の指導者の顔ぶれの如何に大根
    役者然たるものであったかを痛感せざるを得ないでしょう。
     また、民間の代表的人物といいますと、三井財閥では住井某、三菱財閥では
    船田某など、いずれも相当の人柄でしょうが、これを一昔前の渋沢栄一、井上
    準之助などに比べると、いかにも見劣りせざるを得ない。その他、政党方面に
    誰がいるか、言論文化の方面には誰がいるか、どの方面も非常な人物飢饉であ
    り、そのために本筋の大道を見損なって、とんでもない方面に日本国民を引っ
    張っていく一つの大きな原因になったと思われます。
         (昭和20年、永野護氏『敗戦真相記』、バジリコ.2002;p.27-28)

   ※親泊朝省大佐(陸軍報道部、沖縄出身、9月2日自決)のいう敗戦の原因
     その第一は陸海軍の思潮的対立である。陸軍はドイツ流に仕立られてゐる。
    陸大にはメッケルの胸像が日本戦術の開祖として立ち、その講堂にはヒンデ
    ンブルグとルーデンドルフとが作戦を練る図が掲げられ学生の憧憬の的とな
    つてゐる。これに反して海軍は兵学校の講堂に東郷元帥の遺髪とともにネル
    ソンの遺髪を安置して精神教育の資としてゐる。しかもこの相背く二つの思
    潮に立つ陸海軍が日本的に結合しようとするところに云ひ知れぬ困難を伴ふ
    のである。また陸軍内部ではドイツ班の勢力がロシヤ班や米、英班を凌ぎ、
    その結果は正衡な戦政局の判断が出来なかつたのである。第二には満州事変
    以後、事変を単に軍の一部の力で推進して来たといふ幕僚統帥の弊風が挙げ
    られてゐる。第三には軍人が軍人に賜はりたる勅諭の御旨に反して政治に介
    入し、軍本然の姿を失つたことである。第四が人事の大権が派閥的に行はれ
    東条人事とか梅津人事とか呼ばれるに至つたこと、更に甚しいのは第一線に
    出されることが懲罰を意味するといふに至つては言語道断である。第五には
    軍の割拠主義である。作戦面にまで陸軍地区とか海軍地区といふものが分れ
    てゐた結果、戦勢を不利に導いたことは少くないのである。
     (森正蔵氏著『あるジャーナリストの敗戦日記』ゆまに書房、p.52)

   ※日本のジャーナリズムには、戦争を客観的に見つめる目はなく、あったとして
    も検閲が強化され、紙面に反映させることはできず、各新聞は競って特攻を礼
    賛し、本土決戦を訴えた。
        (星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督 伊藤整一』より)

   ※古山高麗雄氏の回想(作家案内ーー「吉田満 寡言の人」より)
     散華の世代の者の責任として、いや、人間として、戦後、自分は何をしなけ
    ればならないのか、どのように考えなければならないのか、を追究する。英霊
    を犬死ににさせてはならぬ、そのためには、この国を誇りある社会にしなけれ
    ばならぬ、と吉田さん(鳥越注:吉田満氏)は言う。
     私も、この国が誇りある社会になれば、どんなにいいだろう、とは思うのだ
    が、けれども私には、英霊を犬死ににさせないため身を粉にして、誇りある社
    会づくりに身を投じようという気はない。散華だの、犬死にだの、玉砕だの、
    英霊だの、という言葉が私にはない。私は、戦死者も、生存者も、その自己犠
    牲も、善意も、まったく報いられずに終わるかも知れぬ、と思っている。それ
    を、私たちはどうすることもできない、と言ったら吉田さんは、またまた澱の
    ようなものが溜まるような気持になるであろう。
            (吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、p198)

   ※国民は家畜並。軍隊というのは最低最悪の組織だ。
     支那事変が拡大して、大東亜戦争になりますが、大東亜戦争でも、まず集め
    られ、使われたのは、甲種合格の現役兵です。人間を甲だの乙だのにわけて、
    甲はガダルカナル島に送られて、大量に死にました。
     敗戦後、わが国民は、二言目には人権と言うようになりましたが、戦前の日
    本には、人権などというものはありませんでした。国あっての国民、国民あっ
    ての国、昔も今も、そう言いますが、藩政時代も、明治維新以降も、日本は民
    主の国ではありませんでした。忠と孝が、人の倫理の基本として教育される。
    孝は肉親愛に基づく人間の自然な情ですが、忠は為政者が、為政者の受益のた
    めに、人の性向を利用し誘導して作り上げた道徳です。自分の国を護るための
    徴兵制だ、国民皆兵だと言われ、法律を作られ、違反するものは官憲に揃えら
    れて罰せられるということになると、厭でも従わないわけには行きません。高
    位の軍人は政治家や実業家と共に、国民を国のためという名目で、実は自分の
    ために、家畜並に使用しました。私の知る限り、軍隊ぐらい人間を家畜並にし
    てしまう組織はありません。貧しい農家の二男、三男の生活より、下士官の生
    活の方がいい、ということで人の厭がる軍隊に志願で入隊した人を、馬鹿とは
    言えません。しかし、国の為だ、天皇への忠義だ、国民なら当然だ、と言われ
    ても、人間を家畜と変わらないものにしてしまう組織は憂鬱な場所です。けれ
    ども、そこからのがれる術はありません。・・・
     軍隊というのは、私には最低最悪の組織です。
              (古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社137-138)

   ※軍隊はpassionを殺し、machine(機械)の一歯車に変ずるところなのだ。
           (林尹夫(1945年7月28日戦死、享年24歳)の日記より)
     「家に帰れなかったら、そして、この海兵団から足を洗えなかったら、気
    が狂ってしまいそうだ」と言う。「いまおれは、ゆっくり本が読みたい。こ
    のぶんでは、とても戦争に行けない。”死”なぞいまのおれにとって思案の
    外の突発事)だ」、「…いまのおれにはそのようなパッションも気力もない。
    無関心、どうでもなれという自己喪失。そうだ、なにが苦しいといって、い
    まのような自己喪失を強制された生活、一歩動くとすぐにぶつかってくると
    いう障、なのだ。生のクライマックスで生が切断される。人生の幕がおりる。
    あるいは、それは実に素晴らしい。ましてクライマックスのあとに、静かな
    る無感覚がつづき、そのあと死の使者がくる」、「それはなおすばらしい筋
    書だ。だが生活に自己を打ち込めぬ、そして自己を表現する生活をなし得ぬ
    ままに死んでしまうとしたら、こんな悲惨なことが、あろうか」と追いつめ
    られた、極度に悲惨な心情を書き下す(1944年1月23日)。
     この3日後の1944年1月26日には、海軍航空隊の飛行機搭乗員の選抜発表を
    翌日に控え、選ばれることを願っている。そして林は、飛行専修予備学生予
    定者に決定し、1944年1月28日に、兵士の待遇の過酷なことで知られていた
    土浦海軍航空基地に配置されることになった。
     土浦に配属されて問もないころの日記には次のように書いている。
       学校にいたときの、あのPatriotismus(祖国愛)の感激、一歩一歩後
      退を余儀なくされているときの緊迫感、そういうものは、もういまは全
      然ない。だいたいpassionというものは、もう消えてしまった。軍隊は
      そういうpassionを殺し、人間をindifference(無関心)にし、惰性的
      に動く歯車に代えてしまうところだ。
          (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.130-131)

   ※阿呆と家畜のオンパレード
     それにしても、名誉の出征に、名誉の戦死。聖戦という言葉も使われまし
    た。聖戦は鬼畜米英にホリーウォーと訳されて噂われましたが、アラヒトガ
    ミだとか、いざというときには大昔の蒙古襲来のときのように神風が吹く、
    なぜならわが国は神国だから、だとか。よくもまあ国の指導者があれほど次
    から次に、阿呆を阿呆と思わずに言い、国民もまた、その阿呆にあきれてい
    た者まで、とにかく、権力者たちに追従したのです。
     あれは、全体主義国家の国民としては、やむを得ない生き方であり、世界
    に冠たる大和民族の性癖でもあるのでしょう。世界に冠たる大和民族は、天
    皇を担ぐ権力者たちに押し付けられた言葉や考え方を否でも応でも、とにか
    く受け入れ、追従する者も、便乗して旗を振っている者も、みんな家畜にな
    りました。(古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社、p.144)

   ※戦前の日本は、嘘八百の国であったが、嘘八百ということでは戦後も同様で
    ある。戦前の嘘の第一は、天皇陛下のため、御国のため、というやつだ。御
    国のために命を捧げる、というやつだ。本当に国を護るために、命をかけて
    戦うというのならいいが、あの戦争で国民が、国を護る戦争だと思い始めた
    のは、敗け始めてからである。本土が空襲で焼かれ、沖縄が占領されたころ
    になって大東亜戦争は、侵略の戦争から、国を護る戦争に変わったのである。
    国民は、徴兵を拒むことはできなかった。軍の敷いた法律から逃れることは
    できず、軍の意のままに狩り出され、物品のようにどんなところにでも送ら
    れて、殺し合いをやらされた。
     あの戦争は、米英仏蘭にはめられたということもあるだろうが、日本軍は、
    国を護るために支那大陸を侵略したのではない。東亜解放というのも、後追
    いの標語である。国民はそれを感じながら、しかし、ロを揃えて、天皇陛下
    のため、国のため、と言った。口先だけで言っていた者もいたが、そうだと
    思い込もうとした。そう思わなければ、軍の奴隷になってしまうからである。
     フーコンでもインパールでも、おびただしい将兵が餓死した。それを本人
    も、遺族も、軍の奴隷の餓死だとは思いたくないのである。国のための名誉
    の戦死だと思いたいのである。軍は、人のそういう心につけ込んだ。
     辰平はそう思っている。戦後は、天皇陛下のため、とは言わなくなったが、
    平和のために戦争を語ろう、などという嘘に満ちた国になった。戦争で最も
    苦しめられるのは、一番弱い女と子供だ、などという、甘言が幅を利かす国
    になった。・・・。(古山高麗雄氏著『フーコン戦記』(文藝春秋社)より)

   ※陸軍と海軍、足の引っ張りあい。大局観の喪失、ワンマン体制・・・
      挙句の果てが、「陸軍」と「海軍」の足の引っ張り合いであった。
      この頃から、両軍お互いの意地の張り合いが、目に付くようになつてい
     く。バカげたことに、それぞれが自分たちの情報を隠しあってしまう。
      「日本は太平洋戦争において、本当はアメリカと戦っていたのではない。
     陸軍と海軍が戦っていた、その合い間にアメリカと戦っていた……」など
     と揶揄されてしまう所以である。
      陸軍と海軍の意地の張り合いは、「大本営発表」が最もいい例であろう。
     大本営「陸軍報道部」と「海軍報道部」が競い合って国民によい戦果を報
     告しようと躍起になっていた。やがてそれがエスカレートしていき、悪い
     情報は隠蔽されてしまう。そして虚偽の情報が流されるようになっていく。
     「大本営発表」のウソは、この時期からより肥大化が始まる。
      仕方ないのかもしれない、この当時、東條に向かって「東條閣下、この
     戦争は何のために戦っているのでしょうか」などと意見するような者がい
     たら、たちまちのうちに反戦主義者として南方の激戦地に転任させられて
     しまうのがオチである。
      危機に陥った時こそもっとも必要なものは、大局を見た政略、戦略であ
     るはずだが、それがすっぼり抜け落ちてしまっていた。大局を見ることが
     できた人材は、すでに「二・二六事件」から三国同盟締結のプロセスで、
     大体が要職から外されてしまい、視野の狭いトップの下、彼らに逆らわな
     い者だけが生き残って組織が構成されていた。
      昭和17年の頃の日本は、喩えていえば台風が来て屋根が飛んでしまい、
     家の中に雨がザーザー降り込んできているのに、誰も何もいわない、雨漏
     りしているのに、わざと見ないようにして、一生懸命、玄関の鍵を閉めて
     戸締りなどに精をだしている……、そんなようなものだった。
      だが、そうした組織の”体質”は、今を顧みても、実は、そう変わらな
     いのかもしれない。
      昨今のNHKの、海老沢勝二元会長をめぐる一連の辞任騒動や西武グループ
     の総帥、堤義明の逮捕劇など見ていると、当時の軍の組織構造と同じよう
     に見えてしまう。あれだけ大きな組織の中でワンマン体制が敷かれ、誰も
     彼に意見できず、傲慢な裸の王様の下、みな従順に飼い馴らされてきたの
     だ。そして、危機に直面すると、何の具体策もない精神論をふりまわす。
     (保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.122-123より)

   ※ 渡辺清氏著『砕かれた神』(岩波現代文庫)より
     東条英機大将が自殺をはかり未遂(九月十一日)。・・・
     それにしてもなんという醜態だろう。人の生死についてことさらなことは
    慎むべきだと思っているが、余人ならいざ知らず、東条といえば開戦時の首
    相だった人ではないか。一時は総理大臣だけでなく、同時に陸軍大臣や参謀
    総長も兼任していたほどの権力者だったではないか。そればかりではない。
    陸軍大臣だった当時、自ら「戦陣訓」なるものを公布して全軍に戦陣の戒め
    をたれていたではないか。「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を
    残すこと勿れ」。これはその中の一節であるが、この訓令を破っているのは、
    ほかでもない当の本人ではないか。
     軍人の最高位をきわめた陸軍大将が、商売道具のピストルを射ちそこなっ
    て、敵の縄目にかかる。これではもう喜劇にもなるまい。
     東条はこの失態によって、彼自身の恥だけでなく、日本人全体の恥を内外
    にさらしたようなものだ。おれは東条大将だけは連合軍から戦犯に指名され
    る前に潔く自決してほしかった。あの阿南陸相のように責任者なら責任者ら
    しく、それにふさわしい最期を遂げてほしかったと思う。(p.23-24)

     ・・・「出てこいニミッツ、マッカーサー」と歌にまでうたわれていた恨
    みのマッカーサーである。その男にこっちからわざわざ頭を下げていくなん
    て、天皇には恥というものがないのか。いくら戦争に敗けたからといって、
    いや、敗けたからこそ、なおさら毅然としていなくてはならないのではない
    か。まったくこんな屈辱はない。人まえで皮膚をめくられたように恥ずかし
    い。自分がこのような天皇を元首にしている日本人の一人であることが、い
    たたまれぬほど恥ずかしい。
     マッカーサーも、おそらく頭をさげて訪ねてきた天皇を心の中で冷ややか
    にせせら笑ったにちがいない。軽くなめてかかったにちがいない。その気配
    は二人の写実にも露骨にでている。モーニング姿の天皇は石のように固くし
    ゃちこばっているのに、マッカーサーのほうはふだん着の開襟シャツで、天
    皇などまるで眼中にないといったふうに、ゆったりと両手を腰にあてがって
    いる。足をいくらか開きかげんにして、「どうだ」といわんばかりに傲慢不
    遜にかまえている。天皇はさしずめ横柄でのっぼな主人にかしずく、鈍重で
    小心な従者といった感じである。
     だが、天皇天皇だ。よくも敵の司令官の前に顔が出せたものだ。それも
    一国の元首として、陸海軍の大元帥として捨て身の決闘でも申し込みに行っ
    たというのなら話はわかる。それならそれで納得もいく。といってもおれは
    別に天皇にそうすぺきだと言っているのではないが、ただそれくらいの威厳
    と気概があってほしかった。
     ところが実際はどうだろう。わざわざ訪ねたあげく、記念のつもりかどう
    かは知らないが、二人で仲よくカメラにおさまったりして、恬として恥ずる
    ところもなさそうだ。おれにはそう見える。いずれにしろ天皇は、元首とし
    ての神聖とその権威を自らかなぐり捨てて、敵の前にさながら犬のように頭
    をたれてしまったのだ。敵の膝下にだらしなく手をついてしまったのだ。そ
    れを思うと無念でならぬ。天皇にたいする泡だつような怒りをおさえること
    ができない。(p.36-37)

     夜新聞を読んでいて感じたことだが、この頃の新聞の豹変ぶりは実にひど
    い。よくもこうまで変われるものだ。これはラジオも同じだが、ついせんだ
    ってまでは、「聖戦完遂」だの「一億火の玉」だの「神州不滅」だのと公言
    していたくせに、降伏したとたんに今度は「戦争ははじめから軍閥と財閥と
    官僚がぐるになって仕組んだものであり、聖戦どころか正義にもとる侵略戦
    争であった」などとさかんに書いたり放送したりしている。
     まったく人を馬鹿にしている。それならそれでなぜもっと早く、少なくと
    も戦争になる前にそれをちゃんと書いてくれなかったのか。事実はこれこれ
    だと正直に報道してくれなかったのか。それが本来の新聞やラジオの使命と
    いうものだろう。それを今ごろになってズボンでも裏返すように、いとも簡
    単に前言をひっくりかえす。チャランポランな二枚舌、舞文曲筆、無責任に
    もほどがある。いつだったか「新聞で本当なのは死亡広告だけだ」と言って
    いた人がいたが、おれももう金輪際、新聞やラジオなるものを信用しない。
    というのは、いま言ったり書いたりしていることが、いつまた同じ手口でひ
    っくり返されるかわからないからである。
     それからこれも前から腹にすえかねていることだが、このごろの新聞やラ
    ジオが、ふた言目にはアメリカを民主主義のお手本だといって持ち上げてい
    る。日本が平和な文化国家として立ち直るためには、この際もろもろの過去
    の行きがかりを捨ててアメリカと手を取りあって仲良くすぺきだといってい
    る。こういう場あたり的なご都合主義を敗け犬の媚びへつらいというのだろ
    う。それほど仲良くする必要があるのなら、はじめから戦争などしなければ
    よかったのだ。だいいち、それではアメリカを敵として戦って死んでいった
    者はどうなるのだ。新聞やラジオの仕事にたずさわる人たちは、そういう人
    たちのことを一度でも考えてみたことがあるのだろうか。
     おれはアメリカとの戦いに生命を賭けた。一度賭けたからにはこのまま生
    涯賭け通してやる。誰がなんと言おうと、アメリカはこれからもおれにとっ
    ては敵だ。いまになって「昨日の敵は今日の友」などという浪花節は聞きた
    くもない。(p.46-47)

     三菱財閥がかつて東条大将に一千万円を寄付したということが新聞に出て
    いる。これをみると、「戦争中軍閥と財閥は結託していた」というのはやは
    り事実のようだ。それにしてもこんな気の遠くなるような大金を贈った三菱
    も三菱だが、それを右から左に受けとった東条も東条だ。
     表では「尽忠報国」だの「悠久の大義」だの「聖戦の完遂」だなどと立派
    なことを言っておきながら、裏にまわって袖の下とはあきれてものも言えな
    い。まったくよくもそんな恥知らずなことができたものだ。むろんこれは氷
    山の一角かもしれない。首相の東条さえこうなのだから、ほかのお偉方もわ
    かったものではない。天皇にもそれ相応の寄進があったのではないかと疑い
    たくもなる。
     いずれにしろ、おれたちが前線で命を的に戦っていた最中に、上の者がこ
    んなふらちな真似をしていたのかと思うと、ほんとに腹がたつ。と同時に、
    これまでそういう連中をえらい指導者としててんから信じきっていた自分が
    なんともやりきれない。(p.87)

    <渡辺清氏の冷静な回想、p.220-221>
     考えてみると、おれは天皇について直接なにも知らなかった。個人的には
    会ったことも口をきいたこともないのだからそれは当然のことだが、そのお
    れが天皇を崇拝するようになったのは小学校に上がってからである。おれは
    そこで毎日のように天皇の「アリガタサ」について繰り返し教えこまれた。
    「万世一系」「天皇御親政」「大御心」「現御神」「皇恩無窮」「忠君愛国」
    等々。そして、そこから天皇のために命を捧げるのが「臣民」の最高の道徳
    だという天皇帰一の精神が培われていったわけだが、実はここにかくれた落
    とし穴があったのだ。
     おれは教えられることをそのまま頭から鵜呑みにして、それをまたそっく
    り自分の考えだと思いこんでいた。そしてそれをいささかも疑ってみようと
    もしなかった。つまり、なにもかも出来合いのあてがいぶちで、おれは勝手
    に自分のなかに自分の寸法にあった天皇像をつくりあげていたのだ。現実の
    天皇とは似ても似つかないおれの理想の天皇を……。
     だから天皇に裏切られたのは、まさに天皇をそのように信じていた自分自
    身にたいしてなのだ。現実の天皇ではなく、おれが勝手に内部にあたためて
    いた虚像の天皇に裏切られたのだ。言ってみれば、おれがおれ自身を裏切っ
    ていたのだ。自分で自分を欺していたのだ。
     郁男のかけた謎の意味もおそらくこのことだろうと思う。いずれにしろ、
    いままでのおれは天皇を自分と等距離において見つめていく眼を持っていな
    かった。この点にたいする自覚と反省がまるでなかった。天皇を一方的に弾
    劾することで、自分を”よし”とする思い上がりと逃避がそこにあったと思
    う。
     天皇を責めることは、同時に天皇をかく信じていた自分をも責めることで
    なければならない。自分を抜きにしていくら天皇を糾弾したところで、そこ
    からはなにも生まれてこない。それはせいぜいその場かぎりの腹いせか個人
    的なグチに終わってしまう。そしてそれでことはすんだつもりになって、時
    とともに忘れてしまい、結局、いつかまた同じ目にあわされることになるの
    だ。とにかく肝心なのはおれ自身なのだ。二度と裏切られないためにも、天
    皇の責任はむろんのこと、天皇をそのように信じていた自分の自分にたいす
    る私的な責任も同時にきびしく追及しなければならない。おれは今にして強
    くそう思う。
     戦争についてもまったく同じことがいえる。……。

   ※ 加藤周一の怒り(『天皇制を論ず』、1946年3月)
     加藤周一も、1946年3月に「天皇制を論ず」という論考を発表し、「恥を
    知れ」と保守派を非難した。加藤はその理由を、後年こう述べている。
    
      一九四五年、敗戦が事実上決定した状況のもとで、降伏か抗戦かを考え
     た日本の支配者層の念頭にあったのは、降伏の場合の天皇の地位であって、
     抗戦の場合の少くとも何十万、あるいは何百万に達するかもしれない無益
     な人命の犠牲ではなかった。彼らにとっては、一人の天皇が日本の人民の
     全体よりも大切であった。その彼らが、降伏後、天皇制を廃止すれば、世
     の中に混乱がおこる、といったのである。そのとき彼らに向って、無名の
     日本人の一人として、私は「天皇制を論ず」を書き、「恥を知れ」と書い
     た。日本国とは日本の人民である。日本の人民を馬鹿にし、その生命を軽
     んじる者に、怒りを覚えるのは、けだし愛国心の然らしめるところだろう
     と思う。

     ここでいう「人命の犠牲」は、敗戦直後の人びとにとって、抽象的な言葉
    ではなかった。敗戦時に26歳だった加藤は、同年輩の友人の多くを戦争で失
    っていた。加藤によれば、「太平洋戦争は多くの日本の青年を殺し、私の貴
    重な友人を殺した。私自身が生きのびたのは、全く偶然にすぎない。戦争は
    自然の災害ではなく、政治的指導者の無意味な愚挙である、と考えていた私
    は、彼らと彼らに追随し便乗した人々に対し、怒っていた」。
     こうして加藤は46年の「天皇制を論ず」で、天皇制を「個人の自由意志を
    奪い、責任の観念を不可能にし、道徳を頑廃させ」る原因だと批判したので
    ある。(小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.134)

   ※前線の兵士の飢えと難渋(現在:国民の耐乏生活と企業努力)を大本営
    (現在:政府)は無視し、「大和魂」や「神風」などの戯言をもって
    ごまかし続けた。
    この戦争の中に、現在(平成8~11年)の日本の姿が全て凝縮されていると
    感じているのは筆者だけだろうか?

        はじめ第十五軍の隷下にあった龍兵団が、後にビルマ方面の直属隷
       下部隊となり、さらに昭和十九年に、新設された第三十三軍の隷下に
       移ったといったようなことも、当時の芳太郎は、知らなかった。師団
       の上に軍があり、その上にビルマ方面軍があり、その上に南方総軍が
       あり、そのまた上に大本営があるといったぐらいのことは知っていた
       が、自分の部隊が十五軍の下であろうが三十三軍の下であろうが、ど
       うでもよかった。奥州町の萩原稔は、上の者がちっとばかり異常であ
       ったり馬鹿であったりしたら、それだけでたちまち何千何方の者が殺
       されるのが戦争だと言う。大東亜戦争はちっとばかりの異常や馬鹿ぐ
       らいでやれるものではなく、あれはもう大異常の大馬鹿だが、軍司令
       官だの師団長だのが、自分にできることで、ほんのちょっとでも異常
       や馬鹿から脱すれば、どれだけの人間の命が救われるかわからない。
       その良いほうの見本が水上源蔵少将であり、悪いほうの見本が、たと
       えば第十五軍司令官の牟田口中将だと萩原は言った。
               (古山高麗雄氏『断作戦』(文春文庫) p.140)
                --------------------------
       (鳥越注:龍陵会戦(S19.4~10)撤退のしんがりをつとめながら
      生き残った大竹さんはその手記のなかで・・・)
       守備隊の兵士たちは、マラリア赤痢にかかり、連日連夜戦い続
      け、飢え、気力も体力も限界の状態にあった。眼は開いていてもよ
      く見えない、自分ではせいいっぱい走って突撃しているつもりでも、
      実はヨタヨタ歩きをしているのであって、喚声を上げたつもりが、
      声が出ていない。そんなふうになっている兵士たちに、何時までに
      どこそこの敵陣地を占領せよ、と簡単に命令を出す上官が、不可解
      であった、と書いているが、許せないと憤っていたのではないだろ
      うか。勝算もないのに攻撃命令が出され、そのたびに戦死傷者をつ
      くった。肉薄攻撃をする敵なら、反撃するが、砲爆撃には手の打ち
      ようもなく、ただ耐え忍ぶだけである。一兵卒には、防禦の方法も
      攻撃の方法もない。そのような状態が長期間続き、兵士たちは、外
      見が幽鬼のような姿になったばかりでなく、中身も異常になってい
      た。なぜ、そのような戦闘を続けなければならなかったのだろうか。
       断作戦(鳥越注:S19.7、中国雲南省の援蒋ルート遮断作戦。また
      してもキチガイ辻政信の愚劣な発想)が発動されて、私が龍陵周辺
      高地に着いたころには、守備隊の苦痛は限界に達していたのだ。も
      うこれ以上はもちこたえられない。これが最期だと、守備隊の兵士
      たちが覚悟をしていたギリギリの状態だったのである。
             (古山高麗雄氏『龍陵会戦』(文春文庫) p.270)

   ※木村久夫の場合
     私は死刑を宣告せられた。誰がこれを予測したであろう。年齢三十に至ら
    ず、かつ、学半ばにしてこの世を去る運命を誰が予知し得たであろう。波瀾
    の極めて多かった私の一生は、またもや類まれな一波瀾の中に沈み消えて行
    く。我ながら一篇の小説を見るような感がする。
     しかしこれも運命の命ずるところと知った時、最後の諦観が湧いて来た。
    大きな歴史の転換の下には、私のような蔭の犠牲がいかに多くあったかを過
    去の歴史に照して知る時、全く無意味のように見える私の死も、大きな世界
    歴史の命ずるところと感知するのである。
     日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真只中に負けたのである。
    日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時、彼らの怒る
    のは全く当然なのである。今私は世界全人類の気晴らしの一つとして死んで
    行くのである。これで世界人類の気持が少しでも静まればよい。それは将来
    の日本に幸福の種を遺すことなのである。
     私は何ら死に値する悪をした事はない。悪を為したのは他の人々である。
    しかし今の場合弁解は成立しない。江戸の仇が長崎で討たれたのであるが、
    全世界から見れば彼らも私も同じく日本人である。彼らの責任を私がとって
    死ぬことは、一見大きな不合理のように見えるが、かかる不合理は過去にお
    いて日本人がいやというほど他国人に強いて来た事であるから、あえて不服
    は言い得ないのである。彼らの眼に留った私が不運とするより他、苦情の持
    って行きどころはないのである。日本の軍隊のために犠牲になったと思えば
    死に切れないが、日本国民全体の罪と非難とを一身に浴びて死ぬと思えば腹
    も立たない。笑って死んで行ける。
     ・・・・・
     私は生きるべく、私の身の潔白を証明すべくあらゆる手段を尽した。私の
    上級者たる将校連より法廷において真実の陳述をなすことを厳禁せられ、そ
    れがため、命令者たる上級将校が懲役、被命者たる私が死刑の判決を下され
    た。これは明らかに不合理である。私にとっては、私の生きる事が、かかる
    将校連の生きる事よりも日本にとっては数倍有益なる事は明白と思われ、ま
    た事件そのものの実情としても、命令者なる将校連に責が行くべきは当然で
    あり、また彼らが自分自身でこれを知るがゆえに私に事実の陳述を厳禁した
    のである。ここで生きる事は私には当然の権利で、日本国家のためにもなさ
    ねばならぬ事であり、かつ、最後の親孝行でもあると思って、判決のあった
    後ではあるが、私は英文の書面をもって事件の真相を暴露して訴えた。判決
    後の事であり、また上告のない裁判であるから、私の真相暴露が果して取り
    上げられるか否かは知らないが、とにかく最後の努力は試みたのである。初
    め私の虚偽の陳述が日本人全体のためになるならばやむなしとして命令に従
    ったのであるが、結果は逆に我々被命者らに仇となったので、真相を暴露し
    た次第である。もしそれが取り上げられたならば、数人の大佐中佐、数人の
    尉官連が死刑を宣告されるかも知れないが、それが真実である以上は当然で
    あり、また彼らの死によってこの私が救われるとするならば、国家的見地か
    ら見て私の生きる方が数倍有益である事を確信したからである。美辞麗句ば
    かりで内容の全くない、彼らのいわゆる「精神的」なる言語を吐きながら、
    内実においては物慾、名誉慾、虚栄心以外の何ものでもなかった軍人たちが、
    過去において為して来たと同様の生活を将来において続けて行くとしても、
    国家に有益なる事は何ら為し得ないのは明白なりと確信するのである。日本
    の軍人中には偉い人もいたであろう。しかし私の見た軍人中には偉い人は余
    りいなかった。早い話が高等学校の教授ほどの人物すら将軍と呼ばれる人々
    の中にもいなかった。監獄において何々中将、何々大佐という人々に幾人も
    会い、共に生活して来たが、軍服を脱いだ赤裸の彼らは、その言動において
    実に見聞するに耐えないものであった。この程度の将軍を戴いていたのでは、
    日本に幾ら科学と物量があったとしても戦勝は到底望み得ないものであった
    と思われるほどである。殊に満州事変以来、更に南方占領後の日本軍人は、
    毎日利益を追うを仕事とする商人よりも、もっと下劣な根性になり下ってい
    たのである。彼らが常々大言壮語して言った「忠義」「犠牲的精神」はどこ
    へやったか。終戦により外身を装う着物を取り除かれた彼らの肌は、実に見
    るに耐えないものだった。
     しかし国民はこれらの軍人を非難する前に、かかる軍人の存在を許容し、
    また養って来た事を知らねばならない。結局の責任は日本国民全体の知能程
    度の浅かった事にあるのである。知能程度の低い事は結局歴史の浅い事だ。
    二千六百余年の歴史があるというかも知れないが、内容の貧弱にして長いば
    かりが自慢にはならない。近世社会としての訓練と経験が足りなかったとい
    っても、今ではもう非国民として軍部からお叱りを受けないであろう。
     私の学生時代の一見反逆的として見えた生活も、全くこの軍閥的傾向への
    無批判的追従に対する反撥に外ならなかったのである。
     ・・・     (『新版 きけわだつみのこえ』岩波新書、pp.444-467)

   ※「軍神」とか「作戦の神様」とか、何を根拠に賞賛したのであろうか?。
     暗号は悉く盗聴、解析され事実上作戦などはなきに等しかった。いい気な
    ものである。
     「トルコの父」として、今でもトルコ国民に敬愛されている傑出した軍人
    であり政治家「ケマル・パシャ」と比較したとき、我が国の軍部中枢の精神
    活動に対して名状し難い稚拙さと卑怯さを感じる。

   ※日本がましな国だったのは、日露戦争までだった。あとはーー特に大正七年
    のシベリア出兵からはーーキツネに酒を飲ませて馬に乗せたような国になり、
    太平洋戦争の敗戦で、キツネの幻想は潰えた。
                 (司馬遼太郎氏著『アメリカ素描』より引用)

   ※日本軍は日露戦争の段階では、せっぱつまって立ち上がった桶狭間的状況の
    戦いであり、児玉(源太郎)の苦心もそこにあり、つねに寡をもって衆をや
    ぶることに腐心した。
     が、その後の日本陸軍の歴代首脳がいかに無能であったかということは、
    この日露戦争という全体が「桶狭間」的宿命にあった戦いで勝利を得たこと
    を先例としてしまったことである。陸軍の崩壊まで日本陸軍桶狭間式で
    終始した。 (司馬遼太郎氏著『坂の上の雲<四>』より引用)

   ※日本人は敗れたことで過去をすべて否定し、現代の平和を享受しているが、
    本当にそれでいいのだろうか。国家という存在が希薄で、しかも無防備な姿
    のままの今日の日本が、未来永劫に存在していけるのだろうか。
    (星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督 伊藤整一』あとがきより)