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バトシーラー日記

あまり知られていない様々な真実の知識をお届けします


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近現代日本という暗黒社会Part2


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  ★【官僚化した軍部の暴走の時代、国家が命を翻弄する時代の再来】
  ☆国民性・国民意識:「やっぱり戦争がないとダメだ、軍部頼むよ」
            「満州には日本の未来がある。一旗あげるチャンスがある」

             <軍部の独善主義とその暴走>
    ※ところで、ついに今日の事態を招いた日本軍部の独善主義はそもそも何故に
     よって招来されたかということを深く掘り下げると、幼年学校教育という神
     秘的な深淵が底のほうに横たわっていることを、我々は発見せざるを得ませ
     ん。これまで陸軍の枢要ポストのほとんど全部は幼年校の出身者によって占
     有されており、したがって日本の政治というものはある意味で、幼年校に支
     配されていたと言っていいくらいですが、この幼年校教育というものは、精
     神的にも身体的にも全く白紙な少年時代から、極端な天皇中心の神国選民主
     義、軍国主義、独善的画一主義を強制され注入されるのです。こうした幼年
     校出身者の支配する軍部の動向が世間知らずで独善的かつ排他的な気風を持
     つのは、むしろ必然といえましょう。
     (注釈)幼年学校→陸軍幼年学校
        陸軍将校を目指す少年に軍事教育を施すエリ-卜教育機関。満13歳か
       ら15歳までの三年教育。年齢的には中学に相当。前身は1870年(明治3
       年)、大阪兵学寮内に設置された幼年校舎。1872年(明治5年)、陸軍
       幼年学校に改称。東京、大阪、名古屋、仙台、広島、熊本の六校があり、
       卒業後は陸軍士官学校予科に進んだ。幼年学校、士官学校陸軍大学校
       と進むのが陸軍のエリートコースといわれた。
             (昭和20年、永野護氏『敗戦真相記』、バジリコ、p.22)

  ★【人間の屑と国賊の時代】
    人間の屑とは、命といっしょに個人の自由を言われるままに国家に差し出して
   しまう輩である。国賊とは、勝ち目のない戦いに国と民を駆り立てる壮士風の愚
   者にほかならない。(丸山健二氏著『虹よ、冒涜の虹よ<下>』新潮文庫、p46)
    昭和10年代は人間の屑と国賊が日本にはびこった時代だったといっても言い過
   ぎにはならないだろう。

  ★【戦争は起きる】
    誰しも戦争には反対のはずである。だが、戦争は起きる。現に、今も世界
   のあちこちで起こっている。日本もまた戦争という魔物に呑みこまれないと
   もかぎらない。そのときは必ず、戦争を合理化する人間がまず現れる。それ
   が大きな渦となったとき、もはや抗す術はなくなってしまう。
           (辺見じゅん『戦場から届いた遺書』文春文庫、p13)

  ★日中戦争の特質:中国に対する差別意識
    この戦争のもう一つの特徴は、日本の中国に対する特別な意識、ある意味
   では差別意識に基づいていたと言えます。中国人に対しては、これを殺した
   って構わない。どうしたって構わないという感覚を持っていた。満州事変
   経験に鑑みて、日本は対支那軍の戦闘法の研究を始めます。それまで日本陸
   軍は主たる敵はソ連ですから、対ソ戦の研究をし、対ソ戦の訓練をしていた
   のですが、満州事変中国軍と戦うことになったので、改めて中国軍との戦
   いはどういうふうにやったらいいかという研究を陸軍の学校の一つである歩
   兵学校でやったわけですが、その教訓を『対支那軍戦闘法ノ研究』というか
   たちで1933年にまとめています。
    その中にはいろいろなことが書いてありますが、とくに重要なのは、「捕
   虜の処置」という項目です。そこには「捕虜ハ他列国人ニ対スル如ク必スシ
   モ之レヲ後送監禁シテ戦局ヲ待ツヲ要セス、特別ノ場合ノ外之レヲ現地又ハ
   他ノ地方ニ移シ釈放シテ可ナリ。支那人ハ戸籍法完全ナラサルノミナラス特
   ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラレアルモノ少キヲ以テ仮リニ之レヲ殺
   害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ」と書いてあります。
   そこには、つまり中国人の人権を認めない、非常に差別的な意識がここに表
   れていると言えます。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、
   pp.68-69)

  ★歴代首相
    斎藤実(S7~9)-->岡田啓介(S9~11)-->広田弘毅(S11~12)-->林銑十郎(S12)
    -->近衛文麿(S12~14、第1次)-->平沼麒一郎(S14)-->阿部信行(S14~15)-->
    米内光政(S15.1.16~S15.7.16)-->近衛文麿(S15~16、第2~3次)

    ● F.D.ルーズベルト、アメリカ第32代大統領に就任(1933年3月4日)
       1. 全国銀行休業の上緊急銀行救済法案提出
       2. 失業保険、高齢者福祉の充実
       3. 農産物の生産調整
       4. 様々な公共事業の推進(TVAなど)
       5. 預金者保護
      (6. サウジアラビアの石油漁り(筆者私論))

    ● ヒトラーの台頭(1933年1月~):ナチ党の一党独裁体制確立(6月14日)
       ※(シモーヌ・ヴェイユの言葉によると)ヒトラーの台頭当時、ナ
        チスは「必要とあらば労働者の組織的な破壊をもためらわぬ大資
        本の手中に」、社会民主党は「支配階級の国家機関と癒着した官
        僚制の手中に」、肝腎の共産党は「外国(ソ連)の国家官僚組織
        の手中に」あって労働者たちは孤立無援だった。(シモーヌ・ヴ
        ェイユ『自由と社会的抑圧』の解説(富原眞弓)より、岩波文庫
        p.177)
      1933年
       1月30日:軍部クーデタの恐れのため、ブロンベルク将軍を国防相
            に任命して鎮圧を図るが、ヒンデンブルク大統領は不本
            意ながらヒトラーを首相に任命し、右翼連立政権が成立
            する。
       2月 1日:ヒトラー首相の強要で、大統領は国会を解散する。広範
            囲な全権委任獲得を求め、多数を得るために総選挙を選
            択。
       2月 4日:出版と言論の自由を制限する取締法の通過。
       2月24日:ナチス突撃隊が共産党本部を襲撃して占拠。
       2月27日:国会議事堂の炎上(オランダ人共産党貞のルッペを逮捕
            するとともに、これを機会に共産党議員の逮捕)。
       2月28日:事実上の戒厳令を閣議で決定する。
       3月 5日:ナチス党が選挙で第一党になる。
       3月23日:帝国議会で全権委任法(受権法)が成立し翌日に発効。
       4月 1日:ユダヤ人排斥連動の実施。「専門的官職再興法」(ユダヤ
            人とマルクス主義者を官職から排除できる法律)やナチ党
            中央委員会(ユリウス・シュトライヒャー)を使った徹底
            的弾圧。(ロバート・ジェラテリー『ヒトラーを支持した
            ドイツ国民』根岸隆夫訳、みすず書房も参照)
       5月10日:ナチス政府が社会民主党の資産没収。ゲッベルスは非ド
            イツ的な書籍の焚書を扇動。
       7月14日:政党新設禁止法によりナチス党の独裁樹立。また、国民
            投票に関しての法律の実施。「遺伝疾患予防法」制定。
       10月14日:国際連盟ジュネーブ軍縮から脱退の声明。
       11月12日:国際連盟脱退の国民投票。95%が政権支持。
       12月 5日:補足命令で患者の遺伝疾患やアルコール中毒などの当局
            への届け出義務が発生した。
       12月 7日:労働組合の解散命令。
       12月28日:学校での挨拶は「ハイル・ヒトラー」と規定。
      1934年
       4月20日:ハインリヒ・ヒムラー率いる政治警察は中央集権化して
            絶大な権力をふるっており、ついにプロイセン・ゲシュタ
            ポの長官の地位までも手中にした(ロバート・ジェラテリ
            ー『ヒトラーを支持したドイツ国民』根岸隆夫訳、みすず
            書房、p.38)
       6月30日:「長いナイフの夜」、SA突撃隊貝の虐殺と粛清。
       8月 2日:ヒンデンブルク大統領の死去。「国家元首法」の発効で
            ヒトラー首相は大統領を兼任して、合法的に総統に就任
            して独裁の完成。
       8月19日:新国家元首への信任の国民投票で89%の賛成。
       (以上の年表の主要部分は、藤原肇氏著『小泉純一郎と日本の病理』
                          光文社、pp.156-157より)
       ※ニュールンベルク法制定(1935年9月)
         ”ドイツ人の血統とドイツ人の名誉を保護する法”
       ※「水晶の夜」(1938年11月9日~10日):ユダヤ人に対する全国的
        なポグロム(襲撃)。
         11月7日ポーランドユダヤ人ヘルシェル・グリュンスパンがパリ
        のドイツ大使館の下級外交官エルンスト・フォン・ラートを撃った
        (グリュンスパンの両親がドイツから追放されたのが動機)のを機
        会に開始された。(ロバート・ジェラテリー『ヒトラーを支持した
        ドイツ国民』根岸隆夫訳、みすず書房、p.151)
       ※アドルフ・アイヒマン(元親衛隊(SS)中佐)
         無思想で道化のような人間によってファシズムが行われたとき笑
        うしか対応の仕方がなかった。(ハンナ・アーレント『イェルサレ
        ムのアイヒマン』)
           一度おこなわれ、そして人類の歴史に記された行為はすべて、
          その事実が過去のこととなってしまってからも長く可能性とし
          て人類のもとにとどまる。これが人間のおこなうことの性格な
          のである。
                  *************
           アイヒマンという人物の厄介なところはまさに、実に多くの
          人々が彼に似ていたし、しかもその多くの者が倒錯してもいず
          サディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだったし、今でも
          ノーマルであるということなのだ。われわれの法律制度とわれ
          われの道徳的判断基準から見れば、この正常性はすべての残虐
          行為を一緒にしたよりもわれわれをはるかに慄然とさせる。
       ※ニュールンベルグ裁判で法廷に呼び出されたポーランド人看守の証言
           子供を連れている女性はいつでも子供と一緒に焼き場に送り
          込まれた。子供は労働力としての価値がなく、だから殺された。
          母親たちも一緒に送られたのは、引き離せばパニックやヒステ
          リーにつながりかねず、そうなると絶滅工程が減速する可能性
          があり、それを許容している余裕はなかったからだ。母親たち
          も一緒に殺して、すべてが静かに滑らかに進むようにしたほう
          が無難だった。子供は焼き場の外で親から引き離され、別々に
          ガス室に送られた。その時点ではなるべく多くの人を一度にガ
          ス室に詰めこむことがもっとも優先順位の高い事項だった。親
          から引き離せばもっと多くの子供だけを別に詰めこむことが可
          能になったし、ガス室が満杯になったあとで大人たちの頭上の
          空間に子供を放りこむこともできた。ガス室でのユダヤ人根絶
          の最盛期には、子供は最初にガス室に送ることなしに、焼き場
          の炉に、あるいは焼き場近くの墓穴に直接投げこむように、と
          の命令が出されていた。(ライアル・ワトソン『ダーク・ネイ
          チャー』旦敬介訳、筑摩書房、pp.397-398)

       ***************     ***************   ***************
     <以下、クラウス・コルドン『ベルリン1933』酒寄進一訳、理論社より>
     ※ナチの典型的スローガン「パンがなけりゃ、法律なんてくそくらえだ」
      ヒトラーの「優性至上主義」は障害者、病者を収容所に隔離、隔世
      することから始まり、果ては「ホロコースト」にまで至った。
     (※当時の元リトアニア領事代理、杉原千畝は日本政府に反命しユダヤ
       の国外脱出を助けた。帰国後彼は非難と左遷の憂き目に会い、名誉が
       回復されたのは、ほんの最近のことである)。
     ※フォス新聞より
       現実の矛盾は、暴力で解決することはできないだろう。しかし、民衆
      のあいだの対立は、暴力によって沈黙させることが可能だ。貧困をなく
      すことはできないが、自由をなくすことは可能だ。困窮を訴える声を消
      すことはできないが、報道を禁ずることは可能だ。飢えをなくすことは
      できなくても、ユダヤ人を追放することは可能だ。・・・ドイツは世界
      を制覇するか、消え去るかだ。(クラウス・コルドン『ベルリン1933』
      酒寄進一訳、理論社より)
     ※ヒトラーの脅迫的演説
       ・・・もしドイツ民族がわれらを見捨てるならば、天よ、われらを許
      したまえ。われらは、ドイツのために必要な道を進むであろう。(同上)
       (マルクス:「理論もそれが大衆の心をつかむやいなや、物質的
              な力になる」はファシズムを予告している)
     ※ナチ突撃隊に埓された監獄のなかで
       「・・・だが、最悪なのはそんなことじゃない。共産党社会民主党
       がいがみあっているのは知っているだろう。監獄の中でも、おなじ調
       子だったんだ。こうなった責任を、おたがいにかぶせあってあってい
       たんだ。悲惨な状況でなかったら、笑いがでていただろう。処刑台の
       下に来てまで、いっしょに死刑執行人と闘おうとせず、けんかをして
       いるんだからな」(同上)
     ※ 1933年9月、ヒトラーはナチ党大会で、司令部衛生班に対して「ライ
      プシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー(LAH)」という名称を正
      式に与えた。さらに11月19日、LAHの隊員は帝国首相アドルフ・ヒトラ
      ーに無条件の特別な忠誠を誓った。ここにおいてヒトラーはLAHをSS(
      親衛隊)帝国指導者からもナチ党からも切り離して直接自分の指揮下に
      おいただけでなく、これによって正規の国防郡と警察とは違う、いかな
      る法的根拠ももたない独立した軍事組織を創設した。
     (ジョージ H. ステイン『武装SS興亡史』吉本貴美子訳、学研、pp.41-42)
     ※ヒトラーによるSA(国家社会主義運動のための私設革命部隊で、褐色の
      シャツを着た突撃隊(SA:Sturnabteilung))の粛清(1934年6月30日)
       レーム事件:ナチ親衛隊によるSA指揮官エルンスト・レーム殺害など
      (ジョージ H. ステイン『武装SS興亡史』吉本貴美子訳、学研、p.24)

              <ナチズム社会主義的根源>
        「ドイツは観念の世界においては、すべての社会主義的夢の最も
       信頼のおける代表者であり、現実の世界においては、最も高度に組
       織化された経済体制の最も有力な建築家であったからーー20世紀は
       われわれのものである。いかなる形で戦争が終っても、われわれは
       代表的国民である。われわれの観念は人類の生活目的を決定するで
       あろうーー世界史は現在、わが国においては人生の新しい偉大な理
       想を最終の勝利に押し進めているのに反し、同じときにイギリスに
       おいては、世界史的な原理が最終的に崩壊するというすばらしい光
       景を露呈しているのである」。
        1914年にドイツに起った戦時経済は、「最初に実現した社会主義
       社会であって、その精神は社会主義的精神の最初の積極的な現われ
       であり、単に漠然と要求された現われではない。戦争という緊急事
       態のもとで、ドイツの経済生活のなかに社会主義的理念が入り込み
       〔その組織は新しい精神と結びつき〕、そしてこのようにして、わ
       が国の防衛が人類のために1914年の観念、ドイツ的組織の観念、す
       なわち国家主義社会主義の民族共同体(Volksgemeinschaft)を
       生み出したのである。われわれは真にそのことを注意していないが、
       国家と産業におけるわれわれの全政治的生活は高い段階に上ってい
       る。国家と経済は結びついて新しい統一体を形成しているのである。
       ……官吏の仕事を特徴づける経済的責任感はいまやすべての私的活
       動(原文では企業者と農民の組織、労働組合)に広がつてゆく」。
       経済生活の新ドイツ的協同組合組織は(プレンゲ教授は未完成であ
       り、不完全であることを認めているが)、「この世で知られている
       国家の生命の最高の形態である」。
        最初、プレンゲ教授はなお自由の理念と組織の理念とを調和させ
       ようと望んでいた。もっともそれは主として全体に対する個人の完
       全でしかも自発的な服従によってではあるが。けれどもこうした自
       由主義的観念の痕跡は、彼の書物からまもなく消え失せた。1916年
       までに彼の心のなかには、社会主義と冷酷な政治的権力の結合が完
       全なものとなっていた。戦争の終る少し前に、彼は"Die Glocke"と
       いう社会主義の新聞紙上において次のように同胞に訴えている。
       「社会主義はそれが組織化されるべきものであるから、権力政策で
       なくてはならぬという事実を確認する絶好の時期である。社会主義
       は権力を獲得しなければならない。社会主義は決して盲目的に権力
       を破壊してはならない。そして民族間の戦争の際に社会主義にとっ
       て最も重要にして緊急な問題は、必ずどういう民族がぬきんでて権
       力の座につくか、ということでなければならない。というのは、そ
       の民族が諸民族の組織の代表的な指導者だからである」。
        そして彼はついにヒットラーの新秩序を正当化するに役立ったす
       べての観念を予言しているのである。「組織である社会主義の観点
       からすれば、絶対的な民族自決権は、個人主義的な経済的無政府状
       態を意味しないか。個々の民族に対しその経済生活における完全な
       自己決定権を与えることは好ましいことか。首尾一貫した社会主義
       は歴史的に決まっている勢力の真の分配にしたがってのみ、民族に
       政治的な団結権を与えることができる」。(F・A・ハイエク『隷従
       への道』一谷藤一郎・英理子訳、東京創元社、pp.220-221)
                ---------------
    ●中国「長征」のはじまり(1934年10月、8万人の行軍)
       蒋介石は「抗日」より「反共」を優先。江西省南部を中心とする共産党
      地区にたいし、本格的な包囲掃討作戦を開始。陸軍100万人、空軍200機の
      国民党の攻勢の前に共産党は根拠地である瑞金を放棄し西南方面に移動。
       この当時共産党の実権を握っていたのは、李徳(オットー・ブラウン)
      、博古(秦邦憲)、周恩来の3人の中央委員だったが、この25000里の行軍
      の間に毛沢東共産党の指導者の地位を確立。一年に及ぶ「長征」の後、
      紅軍は陳西省延安に根拠を定めた。(この時、徹底的な抗日を唱える張学
      良の率いる東北軍は陳西省西安に駐留していた。(--->西安事件、1936年
      12月12日)日本の侵略は、この中国の内乱に乗じて拡大の一途を辿ってい
      た。
       (「長征」の行く手には国民党の四重の封鎖線があったはずだが、蒋介
      石はこの「長征」の主力部隊を意図的に通過させてやった。この詳しい理
      由は、ユン・チアン『マオ<上>』講談社、pp.229-234とpp.240-241(
      紅軍とモスクワに捕われていた息子・蒋国経との交換交渉)とを参照)。
                ---------------
      ※「長征」が1935年1月に貴州の遵義にたどりついたとき、今後の方針に
       ついて会議が行われた、そこには李徳、毛沢東朱徳、博古、周恩来
       陳雲らの政治局員らとともに、劉少奇林彪楊尚昆トウ小平、その
       後の中国史を飾る主要な人物が際会した。毛沢東はここで黒幕として采
       配をふるうようになり、ついには絶対的権力を奪取した。
       (さらに詳細なことは、やはりユン・チアン『マオ<上>』講談社
       pp.242- を参照)
    ・ドイツとスウェーデンで強制断種法が制定された。(1934年)
                ---------------
    ・「滝川事件」(1933年、昭和8年):京大刑法学教授、滝川幸辰氏を追放。
      「国権による自由封じ」の象徴。(黒沢明映画『わが青春に悔いなし』)
    ・挙国一致内閣(海軍大将、斉藤実)の横暴
      「非常時」を叫び、ファッショ的な風潮と言論・思想統制が強まるなか、
      共産党の弾圧が強まった。(河上肇の検挙、小林多喜二の獄中虐殺など)
      なお挙国一致とはファシズムにほかならない。
    ●「満州国」否認される。日本、国際連盟を脱退(1933年、昭和8年2月24
      日)。日本は国際的な孤立を深めていった。
      ※昭和8年頃までに満州での軍事行動は一段落した。関係者は満州国
       育成に努力したが、日本の政府や陸軍の配慮は十分でなかった。日本
       のためだけの利益を追求するのにやっきになっており(満蒙開拓団)、
       古くからの住民の生活が不当に圧迫された。このことは日本人が他の
       民族と共存共栄する器量に乏しいことを証明した。
    ・「ゴー・ストップ事件」:大阪府警粟屋仙吉大阪府警警察部長=S18.7
     より広島市長・原爆で死亡)と陸軍の喧嘩:国民が軍にたてつくことが
     できた最後の事件(半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p119)
    ● 出版法・新聞紙法改悪(1933年、昭和8年9月5日)
       当局による新聞、ラジオの統制強化
    ・救国埼玉青年挺身隊事件(昭和8年11月13日、猪又明正氏著『幻のクーデ
      ター』参照)
    ・満州事変(1931年)の頃より約5年間ほど共産党(非合法)は相次ぐ弾圧によ
     り地下に潜り、労働者たちが反戦ビラを張りまくっていた。
     (むのたけじ氏著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、p.7)

  ★昭和十年代の大日本帝国のそこは(東京、三宅坂上、日本陸軍参謀本部)、建物
   こそ古びていたが、まさしく国策決定の中枢であった。・・・ここは左手の皇居
   と右手の国会議事堂や首相官邸のちょうど中間にある。国政の府が直接に天皇
   結びつかないように、監視するか妨害するかのごとく、参謀本部は聳立していた
   ことになる。書くまでもないことであるが、参謀本部とは大元帥(天皇)のもつ
   統帥大権を補佐する官衙である。・・・しかし1937年(昭和12)7月の日中戦争
   勃発以来、11月には宮中に大本営も設置され、日本は戦時国家となった。参謀本
   部の主要任務は、大本営陸軍部として海軍部(軍令部)と協力し、統帥権独立の
   名のもとに、あらゆる手をつくしてまず中国大陸での戦争に勝つことにある。次
   には来たるべき対ソ戦に備えることである。そのために、議会の承認をへずに湯
   水のごとく国税を臨時軍事費として使うことが許されている。大本営報道部の指
   導のもとになされる新聞紙上での戦局発表は、順調そのもので、・・・日本軍は
   中国大陸の奥へ奥へと進撃していった。三宅坂上の参謀本部は・・・民衆からは
   常に頼もしく、微動だにしない戦略戦術の総本山として眺められている。・・・
    特に日本陸軍には秀才信仰というのがあった。日露戦争という「国難」での陸
   の戦いを、なんとか勝利をもってしのげたのは、陸軍大学校出の俊秀たちのおか
   げであったと、陸軍は組織をあげて信じた。とくに参謀本部第一部(作戦)の第
   二課(作戦課)には、エリート中のエリートだけが終結した。・・・そこが参謀
   本部の中心であり、日本陸軍の聖域なのである。・・・そこでたてられる作戦計
   画は外にはいっさい洩らされず、またその策定については外からの干渉は完璧な
   までに排除された。・・・このため、ややもすれば唯我独尊的であると批判され
   た。・・・彼らは常に参謀本部作戦課という名の集団で動く、・・・はてしなき
   論議のはてに、いったん課長がこれでいこうと決定したことには口を封じただ服
   従あるのみである。・・・参謀本部創設いらいの長い伝統と矜持とが、一丸とな
   った集団意志を至高と認めているのである。そのために作戦課育ちあるいは作戦
   畑という閉鎖集団がいつか形成され、外からの批判をあびた。しかし、それらを
   すべて無視した。かれらにとっては、そのなかでの人間と人間のつきあい自体が
   最高に価値あるものであった。こうして外側のものを、純粋性を乱すからと徹底
   して排除した。外からの情報、問題提起、アイディアが作戦課につながることは
   まずなかった。つまり組織はつねに進化しそのために学ばねばならない、という
   近代主義とは無縁のところなのである。作戦課はつねにわが決定を唯一の正道と
   してわが道を邁進した。
         (以上、半藤一利氏著『ノモンハンの夏』より若干改変して引用)
   ※これから約60年経た現在、状況は何も変わらなかった。霞が関にたむろする見
    せかけのエリート集団が、平成の大不況のシナリオの主役となり、わが日本を
    経済的壊滅の危機に瀕しせしめている。将来を見通す知恵も知識もなく滄桑の
    変にさえも鈍感で新しいパラダイムを創造できず、過去に学ばない一群の特権
    的な役人が権力を握って、秘密主義・形式主義・画一主義で煩瑣で独裁的な政
    治を行い、そのなれの果てを今我々被支配者階級は、またしても否応なく味わ
    わされているのである。

    ----------------<軍人どもの内閣諸機関への介入>----------------
    ・陸軍が対満事務局の設置に成功(1934年)
       これにより外務省と拓務省の発言権が奪われ、満州問題は全面的に
      陸軍将校の統制下におかれることになった。
          <関東局(駐満日本大使の監督下)ー関東軍の設置>
         関東局が1934年12月26日付けで設置され、駐満日本大使は
        実際には関東軍司令官が兼任したため、結局軍人が満州問題
        を全面的に取り扱う事になった。(古川隆久氏著『あるエリ
        ート官僚の昭和秘史』芙蓉書房出版、pp.19-21)
    ・内閣審議会および直属下部機関の内閣調査局を新設(1935年、岡田内閣)
       とくに内閣調査局は軍人どもが文官行政に関与する新しい経路にな
      った。しかも内閣調査局は内閣企画庁へと発展的に改組され、政府の
      もとに行政各省の重要政策を統合する要、総動員計画の中心となって
      いった。
    ・現役将官制の復活(1936年、広田内閣)
       陸軍大臣は陸軍によって、海軍大臣は海軍によってのみ統制される
      こととなり、陸海軍いずれかが現役将官から大臣候補者を推薦するこ
      とを拒否すれば、気に入らない内閣の組閣を妨害したり、内閣の存続
      を妨げることが可能になった。
               (後述、「平民宰相広田弘毅の苦悩」を参照)
    ・「不穏文書臨時取締法」(広田内閣、1936年)
       これにより、少しでも反政府的・反軍部的なものはすべて、即、取
      り締まられることとなった。
    -----------------------------------------------------------------

  ★明治~大正~昭和と日本は富国強兵・殖産興業への道を官僚主導のもとで強制的
   に歩んでいった。しかし資本蓄積、統一規格品大量生産(メートル法採用)、教
   育改革(統一規格化した人材育成)は国民や議会の大反対を招き、日本の官僚は
  「議会が権威を持っているかぎり、近代工業国家にならない」と思うようになっ
   た。官僚は次々と汚職事件、疑獄事件をデッチあげ議会(政治家)の権威を失墜
   させようと目論んだ。「帝人事件」はその頂点であった。
    ●「帝人事件」(1934年、昭和9年)
      官僚が帝国議会の権威失墜を目論んでデッチ上げた大疑獄事件。
     昭和12年「本件無罪は証拠不十分に非ず。事実無根による無罪である」
     という判決で被告の名誉は守られたが、民主主義は守られなかった。
     この間に「2.26事件」が起こって法律が改正されたので、帝人事件以後
     議会内閣は終戦までできなかった。(行革700人委員会『民と官』より)
                 -----------------
      「帝人事件」は当時、枢密院副議長の座にあった平沼騏一郎が、腹心
     の塩野季彦を使って政党寄りの斎藤実内閣を潰すために疑獄事件を仕組
     んだものだった。端的にいえば戦前の議会政治の息の根を止めたのがこ
     のデッチ上げ疑獄事件だった。(文藝春秋 2009;5月号:113-115)
     ---------------------------------------------------------
         彦坂忠義氏(当時東北帝大理学部物理学科助手)が
         原子核の「核模型論」を提唱(1934年)。しかし当
         時は大御所ニールス・ボーアの「液滴模型論」が主
         流で相手にされなかった。結局1963年にイェンゼン
         やメイヤーが全く同じ図形でノーベル賞を受賞した
         のである。日本は全くナメられていたのであった。
         (『20世紀 どんな時代だったのか 思想・科学編』より)
     ---------------------------------------------------------
    ●永田鉄山(総動員国家推進者、陸軍統制派)暗殺される(陸軍派閥抗争)
     (1935年、昭和10年8月12日)--->二・二六事件(昭和11年2月26日)へ
       陸軍皇道派の相沢三郎中佐は、永田鉄山社会主義者、実業界の大物、
      狡猾な官僚らと気脈を通じたことを理由として永田鉄山を斬殺した。
       (東条英機は、このあと永田鉄山に代わり、統制派のエース格となっ
      ていった)
     ※相沢三郎中佐:「この国は嘆かわしい状態にある。農民は貧困に陥り、
             役人はスキャンダルにまみれ、外交は弱体化し、統帥権
             は海軍軍縮条約によって干犯された。これらを思うと、
             私は兵士練成の教育に慢然と時をすごすことはできなか
             った。それが国家改造に関心を抱いた私の動機である」
       (ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・増田修代訳、
                              刀水書房、p.91)

     ※永田鉄山殺害は、軍を内閣の管理下におこうとした政府の企画への陸軍
      の反革命だった(皇道派と統制派の対立抗争の帰結)。

        詳細に語らなかったけれど、弁護人の鵜沢ははっきりと理解してい
       たように、弁護側が主張したのは、陸軍とは、そのメンバーを合意な
       しには代えてはならないとする、三長官(筆者注:陸軍統制の三長官
       は参謀総長、陸軍大臣、教育総監だった)の恒久的寡頭制によって管
       理される自主的な自治団体だ、と見なすことであった。この自治団体
       は「天皇の軍隊」であり、それを内閣の管理下におこうとするいかな
       る企図も、「軍を私的軍隊に変えること」なのである。したがって、
       相沢のような人物の、たとえ言葉になってはいないにしても、頭のな
       かでは、天皇は帝位に装われたお神輿にすぎないことになる。1000年
       の歴史が、これこそまさしく日本の天皇概念であることを立証してい
       る。天皇は神人、つまり、国家の永遠性の象徴である。天皇は、その
       職にある人間が行なう進言には異議をさしはさむことなく裁可する自
       動人形(オートマトン)である。1868年の明治維新は、天皇にそうし
       た地位を創りだしたのだと言えよう。永田殺害は、陸軍の反革命の一
       部だったのである。
       (ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・増田修代訳、
                              刀水書房、p.101)
     ※鈴木貞一(企画院総裁)が戦後に曰く
       「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」。
         -------------------------------------------------------

    ●"統帥権"による謀略的な冀東政権が華北に誕生(1935年、昭和10年)
        日本からの商品が満州国にはいる場合無関税だったが、これにより
       華北にも無関税ではいるようになった。このため上海あたりに萌芽し
       ていた中国の民族資本は総だおれになり、反日の大合唱に資本家も参
       加するようになった。
    ・参謀本部によるいわゆる「天皇機関説」(美濃部達吉博士)への攻撃
       ともかくも昭和十年以降の統帥機関によって、明治人が苦労してつく
      った近代国家は扼殺されたといっていい。このときに死んだといってい
      い。(司馬遼太郎氏)

     「天皇機関説」:国家を法人とみなしたときに、その最高機関を天皇と考
             えること。法人企業の最高機関を社長と考えることと同
             じ。こののち、昭和10年3月国会で「国体明徴決議」なる
             ものが通り、天皇絶対主権説が日本の本当の国体とされ、
             天皇機関説は公式に国家異端の学説として排除された。
                    <国体明徴決議>
               国体の本義を明徴にし人心の帰趨を一にするは刻下
               最大の要務なり。政府は崇高無比なる我が国体と相
               容れざる言説に対し直に断乎たる措置を取るべし。
               右決議す。

        ※ 天皇機関説は高度に抽象的な法学概念がかかわる問題で、
         あまり一般人の関心をよぶ問題ではなかったのに、浜口内閣
         時代、ロンドン軍縮条約が結ばれたとき、政府が軍部の反対
         を押しきってそのような条約を結ぶ権利があるかどうか(そ
         ういう権利は天皇大権=統帥権に属するから、政府が勝手に
         軍備にかかわる条約を結ぶと統帥権干犯になるのかどうか)
         の議論がおきたとき、美濃部が天皇機関説をもとに政府の行
         動を支持したところから、天皇機関説はにわかに政治的な意
         味を帯び、ロンドン条約に反対する軍部や国家主義者たちか
         ら激しく攻撃されるようになった。(立花隆氏「日本中を右
         傾化させた五・一五事件と神兵隊事件」文藝春秋 2002;9月
         特別号:439ページより引用)

         --------陸軍内部の派閥抗争(昭和7年頃より激化)--------
         ○統制派: 青年将校たちも含め、軍人は組織の統制に服す
              べし。
               天皇機関説を奉じ、合法的に軍部が権力を手に
              入れ、そして国家総動員体制(高度国防体制)を
              つくってゆこうと主張するグループで陸軍上層部
              に多かった。
               エリート中心の近代化された国防国家を目指し、
              官僚的だった。
              (渡辺錠太郎教育総監(S11.2暗殺)、永田鉄山
               陸軍省軍務局長(S10.8に暗殺)、林銑十郎ら)
         ○皇道派: 国体明徴運動(今の腐敗した国家は日本の天皇
              の意に沿う国家ではないから、理想的な国家をつ
              くろう)に熱心で非合法によってでも権力を握ろ
              うとし、そして天皇親政による国家を目指すグル
              ープで青年将校に多かった。(農民出身の兵士た
              ちと兵舎で寝起きをともにしており)農民・労働
              者の窮状に深い同情をもっていた(精神主義的)。
               (荒木貞夫、真崎甚三郎、小畑敏四郎ら)
         -------------------------------------------------------
         <高見順『いやな感じ』角川文庫、p.425より>
      「……。どえらい戦争をはじめたら、きっと日本は、しまいには敗
     けるにきまってる。どえらい敗け方をするにちがいない。だって今の
     軍部の内情では、戦争の途中で、こりゃ敗けそうだと分っても、利口
     な手のひき方をすることができない。派閥争い、功名争いで、トコト
     ンまで戦争をやるにきまってる。そうした軍部をおさえて、利口な手
     のひき方をさせるような政治家が日本にはいない。海軍がその場合、
     戦争をやめようと陸軍をおさえられれば別問題だが、海軍と陸軍との
     対立はこれがまたひどいもんだから、陸軍を説得することなんか海軍
     にはできない。逸る陸軍を天皇だっておさえることほできない。こう
     見てくると、戦争の結果は、どえらい敗戦に決まってる。そのとき、
     日本には革命がくる」
         -------------------------------------------------------

    ●中国共産党「八・一」宣言(1935年8月1日):抗日統一戦線の呼びかけ
       「全ての者が内戦を停止し、すべての国力を集中して抗日救国の
        神聖なる事業に奮闘すべきである」

    ●牧野伸顕が内大臣を更迭される。(昭和10年12月26日)
      吉田茂牧野伸顕、樺山愛輔は反戦の”三羽がらす”だったが、東条ら
     により身の危険さえある圧力を受けていた。

  ★農民は「富国強兵」の犠牲者だった。
    農民は明治政府の重要政策であった「富国強兵」の犠牲者であった。後進国
   が自らの原始的蓄積によってその資本主義を発展させる「富国」のために農民
   は犠牲を求められた(地主金納、小作物納の租税体系と地租の国税に占める割
   合をみても判る)。同時に「インド以下」といわれた農民は「強兵」のために
   はあたかもグルカ兵のように、馬車馬的兵士として使われた。「富国」と「強
   兵」とは農民にとって本来結合しない政策であった。この農民の二重苦にもか
   かわらず、隊附将校は「富国」のために強兵を訓練し、「強兵」と生死をとも
   にする立場に立たされていた。そして幕僚は「富国」への体制に専念した。こ
   の「富国強兵」策のもつ矛盾は、大正九年の経済恐慌、昭和二年の金融恐慌、
   昭和五年の農業恐慌によって激化された。このことは、「武窓に育って」社会
   ときりはなされていた青年将校に、軍の危機イコール国の危機であるという彼
   ら特有の信念を、いよいよ自明のものとしてうけとらせるのに十分であった。
              (高橋正衛氏著『二・二六事件中公新書、p.148)
    ----------------------------------------------------------
        <高見順『いやな感じ』角川文庫、p.154より>
     「 ……。あの・・中尉は俺にこう言ってた。軍人として国のため
    に命を捧げるのはいいが、今の日本の、金儲けしか眼中にないような
    資本家階級のために命を捨てるんではやりきれない。奴らの手先をつ
    とめさせられるのは、かなわない。こう言うんだが、あれも俺と同じ
    水呑み百姓のせがれなんだ。今のような世の中では、百姓が可哀そう
    だ。地主に搾取されてる百姓も惨めなら、資本家に搾取されてる労働
    者も惨めだ。彼らを縛ってる鎖を断ち切るために、世の中の立て直し
    が必要だと、こう言うんだ。自分たち軍人が、喜んで命を捧げられる
    国にしなければならない。今みたいでは、兵隊に向って、国のために
    命をささげろと言うのが苦痛だ。これでは、兵隊を戦場に連れて行っ
    て、むざむざ殺すのに忍びない……」
    ----------------------------------------------------------

    ●二・二六事件(1936年、昭和11年2月26日):岡田内閣終焉-->テロの恐怖
        陸軍内部で国家改造運動をすすめていた皇道派青年将校(栗原安秀、
       村中孝次、磯部浅市ら)たち約1500名が起こしたクー・デタ未遂事件。
       緊縮財政を推進し、軍事支出をできる限り押さえようとした岡田内閣
       が軍部の標的にされ、高橋是清蔵相、内大臣斉藤実、渡辺錠太郎教育
       総監らが暗殺された。
        歩兵第一・三連隊、近衛兵第三連隊の20人余りの将校と部下約1500名
       が参加し、約1時間ほどの間に日本の中枢を手中に治めてしまった。
        皇道派の首魁は真崎甚三郎、決起隊の中心人物は野中四郎(のち自決)
       だった。
       (歩兵第三連隊安藤輝三大尉の決意と兵を想う気持ちを覚えておこう)。
       (真崎甚三郎の卑怯、狡猾さは忘れてはならない)。
        ※あてにもならぬ人の口を信じ、どうにもならぬ世の中で飛び出し
         て見たのは愚かであった。(竹島継夫の遺書より)
        ※国民よ軍部を信頼するな。(渋川善助)
           ここで真崎甚三郎を縛ってしまったら、日本の陸軍は全滅する
          といってもいい。そこで、当時、北一輝のところに若い将校が出
          入りしていたものだから、結局北一輝らのこの責任を押しつけて、
          死刑にした。(むのたけじ氏著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波
          新書、p.13)
        ※昭和史に造詣の深い高橋正衛氏によれば「二・二六事件は真崎甚
         三郎の野心とかさなりあった青年将校の維新運動」(『二・二六
         事件』、中公新書、p.175)と結論づけられるが、真崎の卑しさ
         とでたらめは粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<下>』(講談社
         pp.129-136)にも簡潔にまとめてある。日本ではいつもこういう
         卑怯で臆病なものどもがはびこるのである。
           ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
      蹶起趣意書
      謹んで惟るに我神洲たる所以は、万世一神たる天皇陛下御統帥の下に、
     挙国一体生々化育を遂げ、終に八紘一宇を完ふするの国体に存す。此の国
     体の尊厳秀絶は天祖肇国、神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ、
     今や方に万方に向って開顕進展を遂ぐべきの秋なり
      然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我欲を恣にし、至尊絶体の尊
     厳を藐視し僭上之れ働き、万民の生々化育を阻碍して塗炭の痛苦に呷吟せ
     しめ、随って外侮外患日を逐ふて激化す
      所謂元老重臣軍閥官僚政党等は此の国体破壊の元凶なり。倫敦海軍条約
     並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三
     月事件或は学匪共匪大逆教団等利害相結で陰謀至らざるなき等は最も著し
     き事例にして、其の滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。中岡、佐
     郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の噴騰、相沢中佐の閃発となる、
     寔に故なきに非ず
      而も幾度か頸血を濺ぎ来って今尚些も懺悔反省なく、然も依然として私
     権自欲に居って苟且偸安を事とせり。露支英米との間一触即発して祖宗遺
     垂の此の神洲を一擲破滅に堕らしむるは火を睹るよりも明かなり
      内外真に重大至急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮して稜威を遮り
     御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずんば皇謨を一空せん。恰も第
     一師団出動の大命煥発せられ、年来御維新翼賛を誓ひ殉国捨身の奉公を期
     し来りし帝都衛戌の我等同志は、将に万里征途に上らんとして而も顧みて
     内の世状に憂心転々禁ずる能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して、彼の中枢
     を粉砕するは我等の任として能く為すべし。臣子たり股肱たるの絶対道を
     今にして尽さざれば、破滅沈淪を翻へすに由なし
      茲に同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して大義を正し、国体の
     擁護開顕に肝脳を竭し、以て神洲赤子の微衷を献ぜんとす
      皇祖皇宗の神霊冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを
        昭和十一年二月二十六日
                        陸軍歩兵大尉 野中四郎
                              他同志一同
               --------------------------
     背景:「天皇大権は玉体と不二一体のもの」(磯部「獄中遺書」)であり、 
        さらに天皇と国民は君民一体である。と同時に天皇は彼らにとり政
        治権力機構から切り離された雲の上の人であった。だから改めるべ
        きは、国民と天皇との間にある障壁にあり、それは、国民の頂上に
        いて、しかも天皇と直接話し合うことのできる重臣、元老であり、
        これを支える財閥、軍閥、官僚、政党であった。 (高橋正衛氏著
        『二・二六事件中公新書、pp.166-167)
           ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

      ※陸軍内部の派閥抗争(権力闘争)の極致
         陸軍士官学校陸軍大学校から軍の高級官僚が供給されるように
        なって以来、彼等の人事権が確立し、外部の干渉を排して自らの組
        織を編成するという、官僚機構独特の行動が目立ちはじめた。ここ
        に陸軍省参謀本部の内部で、陸軍の主導権をめぐって皇道派と統
        制派の対立が生まれた。二・二六事件は権力闘争に敗れた皇道派
        青年将校のやぶれかぶれの行動であった。いつの時代も官僚は白蟻
        のごとく国家に寄生しつつ権力闘争に明け暮れている。結局依拠す
        る基盤もろともに壊滅し、時には国家の存亡を殆うくする。日本は
        21世紀に入っても相も変わらず、全く懲りることなく同じ状況を呈
        している。

       # 私の見るところ、昭和初年代、十年代の初めに公然と軍部に抵抗
        した言論人はこの桐生を含めて福岡日日新聞の菊竹淳ではないかと
        思う。それだけにこのような言論人は歴史上に名を刻んでおかなけ
        ればならないと思うし、またその言論から学ばなければならない。
         その桐生(筆者注:桐生悠々(政次))だが、二・二六事件から
        十日ほど後の発行(三月五日の『他山の石』で「皇軍を私兵化して
        国民の同情を失った軍部」という見出しのもと、次のような批判を
        行った。
          「だから言ったではないか。国体明徽よりも軍勅瀾徽が先きで
         あると。だから言ったではないか、五・一五事件の犯人に対して
         一部国民が余りに盲目的、雷同的の讃辞を呈すれば、これが模倣
         を防ぎ能わないと。だから、言ったではないか。疾くに軍部の盲
         動を誡めなければ、その害の及ぶところ実に測り知るべからざる
         ものがあると。だから、軍部と政府とに苦言を呈して、幾たびと
         なく発禁の厄に遭ったではないか。国民はここに至って、漸く目
         さめた。目さめたけれどももう遅い」。(保阪正康氏著『昭和史
         の教訓』朝日新書、p.43)

       # 軍人その本務を逸脱して余事に奔走すること、すでに好ましくな
        いが、さらに憂うべきことは、軍人が政治を左右する結果は、もし
        一度戦争の危機に立った時、国民の中には、戦争がはたして必至の
        運命によるか、あるいは何らかのためにする結果かという疑惑を生
        ずるであろう。(河合栄治郎二・二六事件について」、帝国大学
        新聞(S11.3.9)より引用) 
     
       # 二・二六事件の本質は二つある、第一は一部少数のものが暴力の
        行使により政権を左右せんとしたことに於て、それがファシズム
        運動だということであり、第二はその暴力行使した一部少数のもの
        が、一般市民に非ずして軍隊だということである。
         二・二六事件は軍ファシズムによる「自ら善なりと確信する変革
        を行うに何の悸る所があろうか」という根本的な社会変革への誤り
        から出発した事件である。(河合栄治郎、『中央公論』巻頭論文) 
               (高橋正衛氏著『二・二六事件中公新書、p.23)

       # 石原莞爾:石原が中心になってこの事件を終息させたといえる。
          「この石原を殺したかったら、臆病なまねをするな。直接自分
         の手で殺せ。兵隊の手を借りて殺すなど卑怯千万である」
        (石原莞爾は統制派の指導者武藤章とともに、鎮圧に向いて動き始
         めていた)
          「貴様らは、何だ、この様は。陛下の軍を私兵化しおって。
         即座に解散し、原隊に復帰せよ。云う事をきかないと、軍旗を奉
         じて、討伐するぞ!」
         ※ 事件後の陸軍を牽引したのは石原莞爾梅津美治郎武藤章
          だったが、後二者は官僚色、統制色の強い輩であり、精神的に
          皇道派的な石原莞爾は彼等(幕僚派、東条英機も)との軋轢を
          もつことしばしばであった。結局このことが石原の軍人として
          の経歴に終止符をうつことになった。

       # 昭和天皇
          「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ
         於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」
          「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムル
         ニ等シキ行為ナリ」

       # 斎藤隆夫氏の粛軍演説(『粛軍に関する質問演説』)については
         松本健一氏著『評伝 斎藤隆夫』、東洋経済、pp254-284を参照の
         こと。
          ただし斎藤隆夫氏のこの憲政史上に残る名演説も、当時の広田
         弘毅首相、寺内寿一陸相をして、軍部に対して大した措置をとら
         せるには至らなかった。結局は皇道派の首脳を退陣させただけで、
         残った統制派が、我が世の春を謳歌することになっただけだった。

       # この重大な情勢下で日本には政治の指導者がいない。すでに多年
        来、政府は内蔵する力も、また決意も持たない。軍部と官僚と財界
        と政党の諸勢力のまぜものにすぎない。以前は強力であった政党も
        汚職と内部派閥の闘争のため、政治的には全く退化し、国民の大多
        数から軽蔑されている。(リヒアルト・ゾルゲ『日本の軍部』より
        引用)
          ※ゾルゲは事件後に陸軍統制派の覇権が確立し、日本は中国
           征服に向かうだろうということを正確に予言した。
          ----------------------------------------------------
       # 二・二六事件を官僚の視点で整理すると
         (佐藤優魚住昭氏著『ナショナリズムという迷宮』朝日新聞社
          pp.168-169)
         魚住 ・・・、二・二六事件は統制派に対する闘争の面は否めま
            せんよね?
         佐藤 それはそうでしょう。そこで、逆にお聞きします。全共闘
            運動の中ではいろいろな内紛がありましたが、それぞれの
            グループは何で対立していたと思いますか。
         魚住 私は全共闘世代よりも少し後の世代で、端から見ている立
            場でしたが、正直、どこが違うのかよくわかりませんね。
         佐藤 そうでしょ。まさにそれが皇道派と統制派の対立なんです。
            彼らの中では大変な対立で、場合によっては殺し合わなく
            てはならなくなるのですが、私たちにはわからないんです
            よ。全共闘型の内紛が軍事官僚の中で起きたと考えればい
            いんです。
         魚住 なるほどなあ。二・二六事件を官僚という視点で整理する
            と、30年代までの平和な時代において軍縮条約が結ばれる
            など、軍事官僚の存在意義を問われるような状況が起きた。
            そんな時代に自分たちの自己保存を図ろうとした象徴的な
            行動が二・二六事件だったということでしょうか。
         佐藤 そうだと思います。蹶起することで非日常的な状況を日常
            的な状況にする、つまり、常に軍事官僚の存在意義があり、
            自分たちの安楽な椅子を増やせるような状況を作り出すと
            いうことですね。
         魚住 二・二六事件皇道派は潰されましたが、結果としては少
            なくとも軍事官僚の自己保存運動としては成功したわけで
            すね。
         佐藤 そう、うまくいったんです。しかし彼らは国家全体が萎縮
            した(前述より(p.167):軍が動くことの恐ろしさを目の
            当たりにすることで、マスコミも学者も経済人も政治家も
            萎縮した)ところで勢力を伸張したものですから、ビュー
            ロクラシー(官僚政治)に陥ってしまったのです。社会全
            体を自分たちが理解し、統治できると。実際、後に1940年
            体制と呼ばれる統制経済システムの構築に成功しましたね。
            一方で、戦争を機能的に遂行できるテクノクラート(技術
            官僚)の側面が弱くなり、太平洋戦争で悲惨な敗北を喫し、
            軍事官僚システムは崩壊してしまいましたが。しかし、非
            軍事官僚は整理されずに生き残って、戦後の官僚機構を形
            成していきます。彼らもビューロクラシーに染まっていた。
            これは感覚的なレベルですが、現在にまで続く日本の官僚
            制の宿痾は1930年代の軍事官僚にあるのではないでしょう
            か。
          ----------------------------------------------------

      ※久原房之助の失脚
         一国一党論を掲げて、政友会(鈴木喜三郎、鳩山一郎*)と民生
        党(若槻礼次郎、町田忠治*)の連合運動に対立していた久原房之
        助は、1933年末頃より右翼団体、急進的青年将校、エリート官僚
        を巻き込んで岡田内閣を清算しようと政界・官界・軍部を引っ掻
        き回していたが、結局二・二六事件をきっかけにして姿を消した。
      ※新たな政権獲得闘争の激化(1937~)
         1. 「主流派」(政友会=鳩山一郎 + 民生党=町田忠治)指導部と
          陸軍の正面衝突
         2. 新しい連合勢力の出現
          石原莞爾大佐+近衛文麿+金融・財閥代表
           
    ・日独防共協定(1936年、昭和11年11月)成立
       大島浩中将とナチス・リッベントロップの交渉にはじまる。
       陸軍武官が大使館の外交ルートに侵食してきたケースの典型例
                 (--->昭和12年11月にはイタリアも参加)
          ---------------------------------
    ●魯迅(周樹人)死亡(1936年、昭和11年10月19日)
       肺結核によるものだが、日本人主治医(須藤某)の治療についての
      謎は今も残る。(周海嬰『わが父魯迅』、岸田登美子ら訳、集英社
    ●中国西安事件(1936年、昭和11年12月12日):張学良、葉剣英による蒋介
      石監禁。毛沢東もこれを扇動した。
       張学良が西安に赴いた蒋介石に、滅共ではなく抗日民族統一戦線を
      つくるよう迫って軟禁した。中国共産党周恩来ら)の調停で蒋介石
      は解放され、これによって、第二次国共合作(昭和12年8月)が実現
      した。(蒋介石夫人宋美齢の活躍。コミンテルンからの除名という、
      毛沢東に対するスターリンの脅しもあったらしい)
              <張学良のアピール>
        1. 南京政府を改組し、各党派を参加させて、救国の責任をとること
        2. すべての内戦を停止すること
        3. 上海で逮捕された愛国領袖の即時釈放
        4. 全国のすべての政治犯の釈放
        5. 民衆の愛国運動の解放
        6. 人民の集会、結社、すべての政治的自由の保障
        7. 孫文総理の遺嘱の切実なる遵守
        8. 救国議会の即時召集       (『中国共産党資料』第八巻)
           ---------------------------------
    ・スペイン内乱(1936~1939年):航空力が現実的に試された。
       都市爆撃で都市は破壊したが、人々の戦意を奪うことはできなかった。
      爆撃機は予想外に撃墜されやすいことも判明。航空輸送の重要性も判明。
       (リチャード・P・ハリオン『現代の航空戦 湾岸戦争」服部省吾訳、
        東洋書林より引用)
    ・1937年4月26日、ドイツのコンドル部隊が、バスクの山村ゲルニカを強襲空
     爆して死者千数百人を出して壊滅させた。再建されて僅か4年のドイツ空軍
     力の飛躍的充実を見せつけるとともに戦略爆撃のおそるべき破壊力をも見
     せつけた。

  ★1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)までの短期間に、突然、論理的に
   整合性があり、極めて効率的で、戦時中のみならず戦後日本の奇跡の経済成長
   の礎石となった戦時経済システムができあがったことは驚嘆に値することを認
   識しよう。
    ※国家の理想は”正義と平和”にあるという日本の良識の最高峰であった
     東大教授・矢内原忠雄氏は、度重なる言論弾圧により昭和12年12月2日、
     最終講義を終えて大学を去った。以下学ぶ事の多い終講の辞より。 

       植民地領有の問題をとって考えてみても、種々の方面から事をわけ
      て考えねばならない。研究者は一定の目的を以て行われている現実の
      政策をも学問的に見て、それが正しいかあるいは利益があるかを決す
      べきであり、実行者がやっているの故を以てそれを当然に正しいとか
      利益があるとかいうことは出来ない。
       ・・・大学令第一条には大学の使命を規定して、学術の蘊奥並びに
      その応用を研究し且つ教授すること、人格を陶冶すること、国家思想
      を涵養すること、の三を挙げている。その中最も直接に大学の本質た
      るものは学問である。もちろん学問の研究は実行家の実行を問題とし、
      殊に社会科学はそれ以外の対象をもたない。また学問研究の結果を実
      行家の利用に供すること、個々の問題について参考意見を述べること
      等ももとより妨げない。しかしながら学問本来の使命は実行家の実行
      に対する批判であり、常に現実政策に追随してチンドン屋を勤めるこ
      とではない。現在は具体的政策達成のためにあらゆる手段を動員して
      いる時世であるが、いやしくも学問の権威、真理の権威がある限りは、
      実用と学問的の真実さは厳重に区別されなければならない。ここに大
      学なるものの本質があり、大学教授の任務があると確信する。大学令
      に「国家思想を涵養し」云々とある如く、国家を軽視することが帝国
      大学の趣旨にかなわぬことはもちろんである。しかしながら実行者の
      現実の政策が本来の国家の理想に適うか否か、見分け得ぬような人間
      は大学教授ではない。大学において国家思想を涵養するというのは、
      学術的に涵養することである。浅薄な俗流的な国家思想を排除して、
      学問的な国家思想を養成することにある。時流によって動揺する如き
      ものでなく、真に学問の基礎の上に国家思想をよりねりかためて、把
      握しなければならない。学問的真実さ、真理に忠実にして真理のため
      には何者をも怖れぬ人格、しかして学術的鍛錬を経た深い意味の国家
      思想、そのような頭の持主を教育するのが大学であると思う。国家が
      巨額の経費をかけて諸君を教育するのは、通俗的な思想の水準を越え
      たところのかかる人間を養成する趣旨であることを記憶せよ。学問の
      立場から考えれば戦争そのものも研究の対象となり、如何なる理由で、
      また如何なる意味をそれが有つかが我々の問題となる。戦争論が何が
      故に国家思想の涵養に反するか。戎る人々は言う、私の思想が学生に
      影響を及ぼすが故によくないと。しかし私はあらゆる意味において政
      治家ではない。私は不充分ながらとにかく学問を愛し、学生を愛し、
      出来るだけ講義も休まず努力して来ただけで、それ以外には学生に対
      して殆んど何もしなかった。学生諸君の先頭に立つようなことは嫌い
      だった。しかし私がこうして研究室と教室とに精勤したということが
      よくないというなら、それは私の不徳の致すところだから仕方がない。
      私は不充分ながら自分が大学教授としての職責をおろそかにしたとは
      思わない。しかし私の考えている大学の本質、使命、任務、国家思想
      の涵養などの認識について、同僚中の数氏と意見が合わないことを今
      回明白に発見したのである。もっとも、意見の異る人々の間にあって
      やって行けないわけではない。いろいろの人々、いろいろの傾向が一
      つの組織の中に統一せられることは、大学として結構であり、学生に
      対しても善いのである。考えや思想が一色であることは、かえつて大
      学に取って致命的である。故に私は他の人々と意見が異うからという
      理由で潔癖に出てゆくわけではない。私は何人をも憎みまた恐れるわ
      けではない。地位を惜しむものでもなく、後足で砂をかけ唾を吐いて
      出てゆくのでもない。私は大学とその学生とを愛する。私はゴルフを
      やるでなし芝居を見るでなし、教室に来て諸君に講義し諸君と議論す
      ることが唯一の楽しみであった。それも今日限りで、諸君と、また諸
      君の次々に来る学生等と、相対することも出来なくなるのだ。しかし
      私の思想が悪いというので大学に御迷惑になるとすれば、私は進んで
      止める外はないのである。
       私の望むところは、私が去った後で大学がファッショ化することを
      極力恐れる。大学が外部の情勢に刺戟されて動くことはあり得ること
      であり、また或る程度必要でもあろうが、流れのまにまに外部の動く
      通りに動くことを、私は大学殊に経済学部のために衷心恐れる。もし
      そういうことであるなら、学問は当然滅びるであろう。・・・現象の
      表面、言葉の表面を越えたところの学問的真実さ、人格的真実さ、か
      かる真実さを有つ学生を養成するのが大学の使命である。これが私の
      信念である。諸君はこれを終生失うことなくして、進んで行かれるこ
      とを望む。私は大学と研究室と仲間と学生とに別れて、外へ出る。し
      かし私自身はこのことを何とも思っていない。私は身体を滅して魂を
      滅すことのできない者を恐れない。私は誰をも恐れもしなければ、憎
      みも恨みもしない。ただし身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑す
      る。諸君はそのような人間にならないように……。
      (矢内原忠雄氏著『私の歩んできた道』
                      日本図書センター、pp.106-110)
  
  ★歴代首相
    広田弘毅(S11~12)-->林銑十郎(S12)-->近衛文麿(S12~14、第1次)-->平沼
    麒一郎(S14)-->阿部信行(S14~15)-->米内光政(S15.1.16~S15.7.16)-->近
    衛文麿(S15~16、第2~3次)-->東条英機(S16~19)-->小磯国昭(S19~20)-->
    鈴木貫太郎(S20)-->東久邇宮稔彦(S20)-->幣原喜重郎(S20~21)

  ★ここまで発展してきた医師会も日中戦争から、大東亜戦争へと続戦時体制の中で、
   戦争遂行のための国家総動員体制の中に組み込まれた。(広田弘毅内閣への軍部
   の数々の嫌がらせや組閣僚人への妨害工作
       # 寺内(お坊ちゃん)大将の横やり
         「これには(閣僚予定者)、民政・政友の両党から二名ずつ
        大臣が入っている。これでは政党政治に他ならない。政党出身
        者は各党一名に限ると、軍からかねがね希望していたはずであ
        り、一名ずつに減らさぬ限り、軍は承知できない。陸軍大臣を
        辞退する」(この時陸軍は、新大衆政党結成と陸軍大将林銑十
        郎ないし近衛文麿内閣樹立を画策していた。-->●荻窪会談、
        昭和36年~37年、林銑十郎、安保清種海軍大将、結城豊太郎
        (銀行家)、小原直(岡田内閣法相)、永井柳太郎(民生党)、
        前田米蔵(政友会)、中島知久平(政友会)、山崎達之輔(政
        友会-->昭和会)、後藤文雄(文官)、有馬頼寧(産業組合)ら)

      ※平民宰相広田弘毅の苦悩(軍部大臣現役武官制の復活<--最悪!!) 
        広田弘毅二・二六事件に対して粛軍を断行した。しかしこれは
       軍部内部の派閥争い(統制派による皇道派締め出し)に利用され、
       軍部が全面的に反省の意を示したことにはならなかった。そればか
       りか、陸軍より「粛軍の一環として、軍部現役大臣(軍部大臣現役
       武官制)への復帰」という提案が出され 、広田弘毅は「現役将官
       なかから総理が自由に選任できる」ことを条件にそれを認めた。
        しかし、たとえ条件つきでも軍部大臣現役武官制のもとでは、ど
       んなときにも陸軍主導の内閣を作ることができるようになってしま
       った。(広田弘毅は、このことを軍部暴走の追随として後の東京裁
       判で弾劾されることになった。さらに彼は当時の悪名高い愛国主義
       団体(アジア主義を掲げる国家主義的団体)”黒龍会首領:頭山
       満)”の親睦団体である”玄洋社”で、青年時に教育されていた。
       この事実も彼の判決に不利に作用した。歴史は皮肉なものである)。

      ※浜田国松による軍部政策批判(1937年、昭和12年1月21日)
         政友会、浜田国松は第70議会(広田内閣、寺内陸相)において、
        軍部の改革案と政策決定への軍の関与に対して激しく批判した。
       # 「独裁強化の政治的イデオロギーは、常に滔々として軍の底を流
         れ、時に文武烙循の堤防を破壊せんとする危険あることは国民
         の均しく顰蹙するところである」
                   (--->広田内閣は致命的な分裂へ)

       # 「軍部は野放しのあばれ馬だ。それをとめようと真向から立ち
        ふさがれば、蹴殺される。といって、そのままにしておけば、何
        をするかわからん。だから、正面からとめようとしてはだめで、
        横からとびのって、ある程度思うままに寄せて、抑えて行く他は
        ない」 (以上、城山三郎氏著『落日燃ゆ』より部分的に引用)
           
      ----------------------------------------------------------------
  ☆ 余談 <昭和12年、三木清『学生の知能低下について』(文藝春秋5月号)>
     昔の高等学校の生徒は青年らしい好奇心と、懐疑心と、そして理想主義的
    熱情をもち、そのためにあらゆる書物を貪り読んだ。・・・しかるに今日の
    高等学校の生徒においては、彼等の自然の、生年らしい好奇心も、理想主義
    的感情も、彼等の前に控えている大学の入学試験に対する配慮によって抑制
    されてゐるのみでなく、一層根本的には学校の教育方針そのものによって圧
    殺されてゐる。・・・或る大学生の話によると、事変後の高等学校生は殆ど
    何等の社会的関心ものたずにただ学校を卒業しさへすれば好いといふやうな
    気持ちで大学へ入ってくる。それでも従来は、大学にはまだ事変前の学生が
    残ってゐて、彼等によって新入生は教育され、多少とも社会的関心をもつや
    うになり、学問や社会に就いて批判的な見方をするやうになることができた。
    しかるに事変前の学生が次第にすくなくなるにつれて、学生の社会的関心も
    次第に乏しくなり、かやうにして所謂「キング学生」、即ち学校の過程以外
    には「キング」程度のものしか読まない学生の数は次第に増加しつつあると
    云はれる。  (文藝春秋 2002年2月号、坪内祐三『風呂敷雑誌』より)

  ☆ 余談 <「少国民世代」>
     「少国民世代」などとも呼ばれるこの世代は、敗戦時に10歳前後から10代
    前半であった。敗戦時に31歳だった丸山(筆者注:丸山眞男)など「戦前派」
    (この呼称は丸山らの世代が自称したものではなかったが)はもちろん、敗
    戦時に25歳だった吉本など「戦中派」よりも、いっそう戦争と皇国教育に塗
    りつぶされて育ったのが、この「少国民世代」だった。
     1943年の『東京府中等学校入学案内』には、当時の中学校の面接試験で出
    された口頭試問の事例として、以下のようなものが掲載されている。
     「いま日本軍はどの辺で戦っていますか。その中で一番寒い所はどこです
    か。君はそこで戦っている兵隊さん方に対してどんな感じがしますか。では、
    どうしなければなりませんか」。「米英に勝つにはどうすればよいですか。
    君はどういうふうに節約をしていますか」。「日本の兵隊は何と言って戦死
    しますか。何故ですか。いま貴方が恩を受けている人を言ってごらんなさい。
    どうすれば恩を返す事ができますか」。
     こうした質問は、児童一人ひとりに、君はどうするのかという倫理的な問
    いを突きつけ、告白を迫るものだった。
          (小熊英二氏著氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.657)
      ----------------------------------------------------------------

  ★ この後広田内閣が倒れて、首相選びと組閣は混迷を極めた。軍人(幕僚派)の
   横暴、横やり、いやがらせが続き、結局大命は林銑十郎に下った。林銑十郎の組
   閣も陸軍、海軍、官僚が幕僚派、満州派(石原莞爾十河信二板垣征四郎、池
   田成彬、津田信吾)に分かれて次々と容喙し、「林銑十郎内閣は支那と戦争しな
   いための内閣だ(石原莞爾)」という言葉にこめられた対中融和政策が永遠に葬
   られた。(昭和12年1~2月)

    ●文部省より『国体の本義』という精神教育本を発行(昭和12年4月)。
      橋川文三はその著(『昭和ナショナリズムの諸相』)のなかで興味深い
     指摘をしている。次のようにである。               
       「(ファシズムの)推進力となった団体といいますか、主体というこ
      とと同時に、その主体のさまざまなアピールに応える共鳴盤といいます
      か、そういったものを合わせて考えないと、推進力という問題はでてこ
      ないのではないかと思います。ここで共鳴盤として考えたいのは、具体
      的に申しますと、農村青年とか、一般知識人とか、学生という階層にあ
      たるわけです。はじめから右翼的な団体があって、それがそのままファ
      シズムを作りあげたのではなく、それに共鳴する大衆の側、あるいは中
      間層、その層にいろいろ問題があったわけです。だからこそファシズム
      という一つの統合形態を生みだしえたと考えるほうが妥当ではないかと
      いうことです」
      共鳴盤という言い方が示しているのだが、それは権力を動かすグループ
     と「臣民」化した国民がともに声を発し、それが山彦のようにこだまして
     反応しあうその状態といっていいのではないか。(保阪正康氏著『昭和史
     の教訓』朝日新書、pp.126-127)
       **********        **********         **********
       「久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米が、今日
      の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が国に関する限り、
      眞に我が国独自の立場に還り、萬古不易の国体を闡明し、一切の追随を
      排して、よく本来の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて益々欧米攝収醇
      化に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量なる新日本を建設す
      ベきである」
      この訴えが、『国体の本義』(全百五十六頁)の全頁にあふれている。
     現在、この冊子を手にとって読んでもあまりにも抽象的、精神的な表現に
     驚かされるのだが、なによりも天皇神格化を軸にして、臣民は私を捨てて
     忠誠心を以て皇運を扶翼し奉ることがひたすら要求されている。昭和十二
     年四月には、この冊子は全国の尋常小学校、中学校、高校、専門学校、大
     学などのほか、各地の図書館や官庁にも配布されたというのである。
      この『国体の本義』は、前述の庶民の例の代表的な皇国史『皇国二千六
     百年史』を誘いだす上部構造からの国益を前面に打ちだしてのナショナリ
     ズム滴養の書であった。橋川文三がその書(『昭和ナショナリズムの諸
     相』)で説いたように、まさに共鳴盤の役割を果たしていたといっていい。
     (保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.128-129)
       **********        **********         **********
       「明き清き心は、主我的・利己的な心を去って、本源に生き、道に生
      きる心である。即ち君民一体の肇国以来の道に生きる心である。こゝに
      すべての私心の穢(けがれ)は去って、明き正しき心持が生ずる。私を
      没して本源に生きる精神は、やがて義勇奉公の心となって現れ、身を捨
      てて国に報ずる心となって現れる。これに反して、己に執し、己がため
      にのみ計る心は、我が国に於いては、昔より黒(きたなき)き心、穢れ
      たる心といはれ、これを祓ひ、これを去ることに努めて来た」
      こういう説得が、この『国体の本義』の骨格を成している。(保阪正康
      氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.139-140)

    ●支那事変日中戦争、1937年、昭和12年7月7日~):南京陥落(12月13日)
      ※廬溝橋事件(昭和12年7月8日未明)が発端。(S12.6第一次近衛内閣
       発足)
         北京郊外の廬溝橋に近い野原で、夜間演習中の第一連隊第三大隊
        が、国民党軍から発砲を受けた。
         当時の中国、特に華北情勢は、蒋介石南京政府共産党、冀察
        政権(宋哲元政務委員長)三者のきわめて微妙なバランスと相互作
        用の上に形成されていた。(なお国民党はナチス・ドイツと極めて
        緊密な関係にあり、同時に日本は日独伊防共協定の締結国として大
        事な政治上のパートナーであって、日中が対立することはドイツの
        世界戦略にとって頭痛の種となっていた)
      ※支那事変は厳密には重慶に位置する蒋介石政権に対する軍事行動だ
       った。日本はあえて「支那事変」と称した。それは「戦争」と宣言
       した場合主として米国が日本に対する物資の輸出を禁絶するであろ
       うと虞れたからである。(瀬島龍三『大東亜戦争の実相』より)
      ※陸軍参謀本部作戦部長は石原莞爾だった。石原は作戦課長の武藤章
       らの強硬論と対立し、期せずして日中戦争不拡大派となっていた。
       #「自分は騙されていた。徹底していたはずの不拡大命令が、いつも
         裏切られてばかりいた。面従腹背の徒にしてやられたのだ」。
      ※日中戦争がなぜ起きたのかを理解するには、浦洲国建国以降の日本
       の対中国政策という問題とともに、北清事変以来、中国の主権下に
       列強が自由に設定した場所に日本軍が30年余にわたって駐屯し続け
       て領土の分離工作を進めるとともに、連日、夜間演習をおこなって
       いたという史実にも目をむけておく必要があるのではないでしょう
       か。 (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、p.76)

      ※国家至上主義の台頭(軍人の思い上がり)
        「天皇の命令といえども、国家に益なき場合は従う必要はない」。
      ※戦争拡大派:見よ!、ワルどものオン・パレードを!!
         南次郎(朝鮮総督)、小磯国昭(朝鮮軍司令官)、東条英機(関
        東軍参謀長)、富永恭次辻政信(いずれも東条英機の輩下)、寺
        内寿一、梅津美治郎牟田口廉也陸軍省の大部分の阿呆ども(田
        中新一(陸軍省軍務局軍事課)、武藤章陸軍省軍務局作戦第三課
        、この男は"悪魔の化身"といっていい)、陸軍大臣杉山元など)
        近衛文麿広田弘毅
      ※日本史上最悪の悪魔の歌の慫慂(「軍人も国民もみんな死ね!!」)
         『海行かば水づく屍山行かば草むす屍大君の辺にこそ死なめ
                               かえりみはせじ』
          どうだ!!、この国のばけものどもが、国家をあげて慫慂したこの
         歌の非人間性を、こころ行くまで味わい給え!!。
         (当時の兵隊さんは、「海に河馬、みみずく馬鹿ね・・」と揶揄
          していたが・・・)
      ※南京攻略戦を書いた石川達三氏著『生きている兵隊』は1/4ほど伏字
       で昭和13年発表されたが翌日発禁となった。             

    ・<余談1>
       日中戦争勃発とともに日本から人気女流作家が中国に取材に出かけた。
      吉屋信子(「主婦之友」より、昭和12年8月)と林芙美子(「東京日々
      新聞」より、昭和12年12月)だった。
    ・<余談2>
       昭和12~13年にかけて、スターリン赤軍参謀長トゥハチェフスキー
      以下の赤軍将校5000人を国家反逆剤で死刑にした。
                    (津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.19)
    ・トラウトマン工作(昭和12年11月)の失敗
      中国側に対する余りにも身勝手で横暴な和平条件に蒋介石は回答せず。
    ・「通州事件」(1937年、昭和12年7月29日)
        冀東政権(冀東防衛自治政府=日本の傀儡政権)の保安隊が日本軍
       の誤爆(保安隊兵舎の誤爆)の報復として日本の守備隊、特務機関、
       一般居留民を200人あまり虐殺した。当時の「支那に膺懲を加える」
       というスローガンはこの事件がきっかけだった。
            (川本三郎氏著『林芙美子の昭和』、新書館より引用)
    ・”後方勤務要員養成所(後の中野学校)”が陸軍兵務局内に設立された。
      (1937年12月)(小谷賢氏著『日本軍のインテリジェンス』講談社選書
      メチエ、p.46)

    ●中国、第二次国共合作成立(1937年、昭和12年8月)。
      ※中国における排日抗日の気運の昂揚(「救国抗日統一戦線」)
    ・対中国政策における石原莞爾の孤軍奮闘(1935~1937年、昭和10~12年頃)
      (注意:石原は以前、関東軍次級参謀として満州事変の企画立案をした)
       #「支那と戦争しちゃいかん」
       #「日本は今戦争ができる状態じゃない。日満支結合してして大工業
         を興した後でなければ戦争はできない。これから十年は戦争は
         できない」
       #「支那事変をこのままにして戦争を起こして英米を敵にしたら、
         日本は滅びる」
       (以上、井本熊夫氏(元東条英樹秘書官)へのインタビュー(『沈黙
        のファイル』、共同通信社編)より引用)
      ※いやはやまったく、張作霖爆殺事件や満州事変の首謀者(石原・板垣)
       がよく言うよと言いたい。ただし、この頃の参謀本部では石原や参謀
       次長の多田駿、戦争指導班の秩父宮、今田新太郎、堀場一雄、高嶋辰彦
       らは、軍事的に冷静な目をもった良識派だった。中国の目まぐるしい
       政変と経済的復興に伴い、日本の対中姿勢も転換を余儀なくされてい
       た。

    ●第二次上海事変(1937年、昭和12年8月13日)
       中国空軍が上海の日本軍の戦艦出雲を空爆する。指揮官はアメリカ軍人
      シェンノート(宋美齢の要請)。しかし中国空軍は租界を誤爆(?)した
      り、着陸失敗など惨憺たる有様だった。西欧諸国はこの誤爆を全て日本の
      責任として報道、日本は不当にも西欧列強から手ひどく指弾され、英国は
      ついに蒋介石支援を決意した。
       結局、この第二次上海事変では、蒋介石側の溢れる抗戦意欲、ドイツの
      協力指導による焦土作戦の緻密さ、英米各国の蒋介石政権への固い支持が
      明らかになった。しかし参謀本部はこの脅威を一顧だにしなかった。
       このとき日本では松井石根司令官とする上海派遣軍が編成され、昭和
      12年8月14日に派遣が下命された。蒋介石は15日に総動員令を発動し、大
      本営を設置、陸海空軍の総司令官に就任。これより日中衝突は全面戦争へ
      と発展した。昭和12年11月までに死傷者は4万余に達した。
      
  ★ 日中全面戦争に至り死傷者が急増した。「一撃膺懲」などという安易なスロー
   ガンのもと、何の見通しもないまま激しい総力戦へと引きずりこまれていった国
   民が、憤激したのは当然だった。しかしこのような事態にたいし、政府は国民の
   精神、気分自体を統制しようと試みはじめた。近衛首相は上海事変たけなわの9月
   11日に、日比谷公会堂で国民精神総動員演説大会を開催、事変への国民的な献身
   と集中を呼びかけた。9月22日には、「国民精神総動員強調週間実施要綱」が閣議
   決定された。10月半ばには、国民精神の昂揚週間が設けられ、政財界など民間の
   代表を理事に迎え、各県知事を地方実行委員とする国民精神総動員中央連盟が結
   成された。       (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より要約)

  ★ 戦争拡大派が2カ月で片付くと予想した戦闘は、中国軍の烈しい抵抗で思いも
   かけない規模に拡大することになった。とくに上海に戦火が波及してからの激戦
   で、日本軍の苦戦がつづき、次々に増援兵力を送らなければならなくなった。こ
   のため兵力も、弾薬や資材も、予想もしなかった規模にふくれ上った。
    もともと日本陸軍は、対ソ戦争を第一の目標としていた。中国との戦争が拡大
   しても、対ソ戦の準備を怠るわけにはいかなかった。そして対ソ用の現役師団を
   なるべく動かさないで中国に兵力を送るために、特設師団を多数動員した。特設
   師団というのは現役2年、予備役5年半を終了したあと、年間服する年齢の高い後
   備役兵を召集して臨時に編成する部隊である。1937年後半から38年にかけて、多
   数の特設師団が中国に派遣されることになった。現役を終ってから数年から十数
   年も経ってから召集された兵士たちが、特設師団の主力を構成していたというこ
   とになる。また彼らの多くは、結婚して3人も4人も子供があるのが普通だった。
   「後顧の憂い」の多い兵士たちだったといえる。上海の激戦で生じた数万の戦死
   者の多くが、こうした後備兵だったのである。それだけに士気の衰え、軍紀の弛
   緩が生じやすかったのである。軍隊の急速な拡大による素質の低下、士気軍紀
   の弛緩も、掠奪、暴行などの戦争犯罪を多発させる原因を作ったといえる。
             (藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、p.15)

  ★ 戦時体制下の思想弾圧
     日中戦争の長期化は国内の戦時体制強化を促し、戦争に対して非協力的であ
    ったり、軍部を批判する思想・言論・学問は弾圧・排除の対象となった。日中
    戦争勃発四カ月後の1937年11月には、ヨーロッパの反ファシズム人民戦線運動
    を紹介した中井正一らの『世界文化』グループが検挙され、『世界文化』は廃
    刊となった。翌12月、コミンテルンの人民戦線戦術に呼応して革命を企図して
    いるとして、山川均、荒畑寒村、猪俣津南雄、向坂逸郎ら約400名が一斉検挙
    され、日本無産党・日本労働組合全国評議会は結社禁止となった(人民戦線事
    件)。次いで、翌38年2月には、大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎ら教授グルー
    プが検挙され、治安維持法違反で起訴された(教授グループ事件)。
    (松井慎一郎氏著『戦闘的自由主義者 河合榮治郎』社会思想社、p.193より)

    ●南京事件(1937年、昭和12年12月13日)
      ※南京攻略戦の範囲についてはS12.12.1(大本営が南京攻略を命令)から
        S13.1.8(南京城占領後治安回復)までと考える(藤原彰氏著『天皇
       の軍隊と日中戦争』大月書店、p.27より)。また南京大虐殺に関する
       論争やいやがらせなどについては笠原十九司氏の『南京事件と三光作
       戦』(大月書店)という名著がある。一読されたい。
      ※当時の外相広田弘毅は特にこの事件のため後の東京裁判で文官として
       ただ一人死刑になった。
           +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
        奥宮正武氏著「大東亜戦争」、89~93ページが真実に近いだろう。
       杉山陸相、松井大将、朝香宮・柳川・中島中将など破廉恥で獰猛な軍人
       のなせるわざであった。米内海相、広田外相の外交上の苦労推して知る
       べしであろう。(なお外相広田弘毅は和平に熱心ではなかったという
       説もある。最近の文献では文藝春秋 2003(10)、p272-274も参照)
               -------   -------   -------     
        11月20日勅令により大本営が設置され、呼称は事変のままで、宣戦布
       告もないままに、本格的戦時体制が樹立された。
        第一回の大本営での御前会議で、下村定(戦線拡大派)は、その上司
       多田駿(戦線拡大反対派)を無視して「南京其ノ他ヲ攻撃セシムルコト
       ヲモ考慮シテ居リマス」という説明文を加筆した。参謀本部の秩序は酷
       く紊乱していた。当時は、統帥権の独立によって、議会の掣肘を受けな
       い軍にとって、天皇に対する忠誠と畏敬の念こそが最大にして最後の倫
       理の基盤であったはずだ。それがかような形で侵されるとすれば、いか
       なる抑止が可能であるか、暗然とせざるをえない事態であった。
        南京を陥落させることによって、支那事変の収拾の目途がまったく立
       たなくなるということさえ予見できない無知無能連中が参謀本部を支配
       していた。
           +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
                   <この頃の右翼>
        1.「観念右翼」(「日本主義者」)
            競争的政党制と選挙手続きを否定。あらゆる対立政党を
           解消して、天皇に議員選挙権を奉還し、衆議院に政府との
           共和を表明する新たな単一勢力を樹立しようとした。
            時の枢密院議長平沼麒一郎(国粋主義的色彩の強い国本
           社の主宰)がその中心人物だった。
        2.「革新右翼
            日本をナチやファシストのような全体主義の国にしよう
           と画策。中野正剛(東方会)、橋本欣五郎陸軍大佐、末次
           信正(内相)らが際立った指導者だった。
            さらに、かつての左翼運動に中心的存在であった「社会
           大衆党」もこの「革新右翼」の一翼というべき様相を呈し
           た。
           +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

    ●近衛最大の失政:「・・仍て、帝国政府は爾後国民政府を対手とせず・・」
       これをもって、蒋介石政権との決別が決まった。(昭和13年1月16日)
      しかしこの声明は、近代日本史上、屈指の大失策であったことは明らかで
      ある。
      ※当時の陸軍内部の日中和平派は、参謀次長多田駿、戦争指導班の
       高嶋辰彦、堀場一雄、それに秩父宮だった。
      ※石原莞爾満州より東京を俯瞰、昭和13年5月12日)
         「・・私は事件(支那事変南京事件)が始まったとき、これは
        戦いを止める方がいいといった。やるならば国家の全力を挙げて、
        持久戦争の準備を万端滞りなくしてやるべきものだと思った。然し
        どちらもやりません。ズルズル何かやって居ます。掛声だけです。
        掛声だけで騒いで居るのが今日の状況です。・・私は3か月振りで東
        京に来ましたが、東京の傾向はどうも変です。満州も絶対にいいこ
        とはありませんが東京はいい悪いではありません、少し滑稽と思ひ
        ます。阿片中毒者ー又は夢遊病者とかいう病人がありますが、そん
        な人間がウロウロして居るやうに私の目には映ります」
                  (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)

        ---------------------<近衛文麿の正体>---------------------
            (戦犯指名における E・H・ノーマンの近衛批判)
         過去10年ばかりのあいだに内政外交を問わず重大な曲り角がある
        たびに、近衛はいつも日本国家の舵を取っていたこと、しかもこの
        ような重大な曲り角の一つ一つでかれの決定がいつも、侵略と軍お
        よびその文官同盟者が国を抑えこむ万力のような締めつけとを支持
        したことを明らかにせずにはいない。
         近衛が日本の侵略のために行ったもっとも貴重なつとめは、かれ
        だけがなしえたこと、すなわち、寡頭支配体制の有力な各部門、宮
        廷、軍、財閥、官僚のすべてを融合させたことであった。(粟屋
        太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、p.74)
                  ******************
         当時朝日新聞記者であった、むのたけじ武野武治)氏は「自分
        に都合の悪い質問を受けたりすると、不快感をむき出しにして、顔
        にも足にも表現した・・・この人は、自分以外の何千万人にもかか
        わる責任ですら、ある日ぽいと捨て去るのではないか、と不安にな
        ったんです」と言う。(むのたけじ氏著『戦争絶滅へ、人間復活へ』
        岩波新書、p.21)

    ●三つの戦時統制法を制定(近衛内閣)
      ・輸出入品等臨時措置法:重要物資の軍需産業への重点配分
      ・臨時資金調整法:企業設立、増資、配当、起債、資金借入の規制
      ・軍需工業動員法
      ※議会における国家総動員法案の審議がはじまる。(S13.2、近衛内閣)
         斎藤隆夫、牧野良三、池田秀雄らは、戦争と国家総動員ならびに
        非常時における国民の権利と義務の規制などの問題は、ひとり天皇
        のみが扱いうるものであることをはっきりと主張して国家総動員
        案の議会通過に反対した(憲法天皇主権を楯にした)。
    ●精神障害兵士の問題
      1938年、国府台陸軍病院(現、国立精神・神経センター国府台病院)が
     全陸軍の精神障害兵士の診療・研究の中心をなす<特殊病院>として改組
     された。(清水寛氏著『日本帝国陸軍精神障害兵士』不二出版、p.80)
    ●「国家総動員法」が正式に公布された(1938年、昭和13年4月1日)
       「本法ニ於イテ国家総動員トハ戦時(戦争ニジュンズベキ事変ノ場合
        ヲ含ム)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最ム有効ニ発揮セシム
        ル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」
           (同時に「電力国家管理法」も公布された)
      ※「国家総動員法」の内容
         国民を好き放題に徴用できる、賃金を統制できる、物資の生産・
        配給・消費などを制限できる、会社の利益を制限できる、貿易を制
        限できる・・・つまり戦争のために国民はもっている権利をいざと
        なったら全面的に政府に譲り渡すというもの。
        ・第四条「政府は戦時にさいし、国家総動員上必要あるときは、
            勅令の定むる所により×××することを得る」
          ("×××"の部分は文言が入ってない。つまり何でもあり)
              (半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p219)

       ******* <「国家総動員法」の本質:軍人は人的資源だ> *******
         Hさんの母親から気がかりなことを聞いた。NHK日曜討論
        (2003年6月8日)で、自衛隊イラク派遣の推進者、山崎拓自民
        党幹事長(当時)が、「自衛隊という資源を、人的資源を我々
        が持ってる以上、しかもそれに膨大な予算を費やして維持して
        るわけだから、それを国際貢献に使わないという手はないわけ
        で」と、薄ら笑いを浮かべながら発言した、と。
         「資源というのは消費するものですよね。人間を資源という
        のはおかしい。自衛官を使い捨てにするような発想が表れてい
        ると思います」と言う彼女は、我が子の痛ましい死を通して得
        た鋭敏な直覚によって、たとえ比喩であっても裏側にある本音
        を、小泉政権にそして国家そのものに潜む人命軽視の体質を見
        抜いたのだ。
         そしてHさんの母親から後日、電話があり、「人的資源」と
        いう言葉が気になって調べたら、それが国家総動員法のなかに
        出てくるのがわかったと知らされた。
         確かに国家総動員法(1938年公布)の第一条には、「本法ニ
        於テ国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズべキ事変ノ場合ヲ含ム以
        下之ニ同ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発
        揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」とある。
         ここでは人間は、人格も意思も認められず「統制運用」され
        る対象として物資と一緒くたに扱われている。「人的資源」の
        発想の源は、かつて国民を戦争に駆り立てたあの国家総動員
        にあるのだ。戦前~戦中~戦後を通じて国家の非情な本質は連
        続性を持つという事実を踏まえて、状況を見抜いていかなけれ
        ばならないことを痛感する。(吉田敏浩氏著『ルポ 戦争協力
        拒否』岩波新書(2005年)、pp.102-103)
       *************************************************************** 

      ※この法律は立法権制限の最たるものであり、これがその後8年間の
       政府の議会に対する関係を変えた(議会と政党の役割がかつてない
       ほどまでに低下した)ことには疑問の余地がない。
        統帥権を法令化したこの法律をもって「軍が日本を占領した」
       (司馬遼太郎)。

      ※軍部は美術家も総動員して戦争画を制作させ、戦意高揚・戦争協力
       を押し進める方針を打ち出した。(「聖戦美術展」、アホクサ!!)

       ■政友会両派の指導者である中島と久原は、政党制度の競争的
        性格を根本的に修正して、議会を恒久的に支配できるような
        単一の新政党を結成し、その新政党を国家のための国民動員
        の機関とすることを提唱していた。これは当時の内務省をは
        じめとする官僚どもの立場と共通であった。じつにおぞまし
        い時代だった。

      +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
      ※大本営の特設:天皇統帥権行使を輔翼すべき戦時の最高統帥機関と
              して参謀本部と軍令部の二位一体的に機能するように
              設置。単一化した機構の下に統帥と軍政との統合、調
              整及び陸海軍の策応協同を適切敏活ならしめる。
                (大本営は陸軍部と海軍部に分かれていた)
      ※「大本営政府連絡会議」と「戦争指導」
           (「戦争指導」:「戦略」と「政略」の統合と調整)
        戦略(大本営、「用兵作戦」)と政略(行政府、外交、財政、教育)
        の統合と調整を行うために天皇を輔佐する固有の国家機関は当時、法
        的にも実質的にも存在せず、大本営と政府の申し合わせにより「戦争
        指導」に関する国家意志の実質決定機関として「大本営政府連絡会議」
        が設置された。
      ※「御前会議」:天皇の御前における「大本営政府連絡会議」をいう。
              枢密院議長が統帥部、行政府に対し第三者的立場で
              出席し大局的見地から意見や勧告を陳述した。
               (以上、瀬島龍三『大東亜戦争の実相』より引用)
      +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
       ■日中戦争勃発とともに文部省は「修文錬武」をスローガンに
        全国の学校に軍事教練の強化と集団勤労の実施を指令した。
               (魚住昭氏著『渡邊恒雄 メディアと権力』より)
       ■厚生省が新設された。(1938年、昭和13年1月11日)
         内務省の薬務行政はすべて厚生省に移管された。
                (--->この後約8年間、厚生省が阿片政策を担当)
       ・1938年、里見甫は上海の陸軍特務部から阿片配給組織をつくる
        よう命令された。--->「宏済善堂」(「火煙局」=「里見機関」)
        ※阿片販売は日本政府・軍部の国家的プロジェクトだった。
         (岸信介東条英機はアヘンで繋がっていたという話もある)
        ※阿片に関与したものども
          原田熊吉、畑俊六、里見甫、福家俊一、塩沢清宣、
         児玉誉士夫(田中隆吉の供述より)。
       ●南京攻略後は慰安婦が制度化された。
       ・満蒙開拓青少年義勇軍応募が始まる(1938年、昭和13年)
          数え歳16~19歳の青少年を国策で満州へ移民させた。彼らは後
         にソ満国境の警備に配されたし、徴兵年齢に達したら関東軍
         召集された。
       ・ソ連極東地方内務人民委員部長官リュシコフ大将が満州国に亡命
          リュシコフによれば満ソ国境のソ連軍は飛行機2000機、戦車
         1900輛に達していたが、関東軍はそれに対して飛行機340機、戦車
         170輛だった。しかし関東軍はこの大きな差に対し何も対策を立て
         なかった。最後の死を恐れない白兵戦と大和魂に根ざす感情的な
         強がりが、このあとのノモンハン事件の大惨敗の伏線になった。
       ・「ペン部隊」:昭和13年8月に内閣情報部が武漢攻略に当たって従軍
            作家を組織した。菊地寛が中心になって人選した(各班約
           10名、女性1名ずつ)。
          陸軍班:久米正雄尾崎士郎片岡鉄兵岸田国士瀧井孝作
              丹羽文雄林芙美子
          海軍班:菊地寛、小島政二郎佐藤春夫杉山平助吉川英治
              吉屋信子
             (川本三郎氏著『林芙美子の昭和』、新書館より引用)

    ・張鼓峰事件(ハーサン湖事件、1938年、昭和13年8月)
      「ソ連軍の武力偵察」という参謀本部の中堅幕僚のちょっとした思い
      付きと一師団長の功名心の犠牲となって、多くの日本人兵士が無駄に
      死んでしまった。参謀本部作戦課は火遊び好きな幼稚なものどもの集ま
      りだった。
       ※田中隆吉中佐の述懐
          「私の連隊は、野砲、山砲、垂砲合計36門を装備していた。
         二百数十門のソ連砲兵隊と射撃の応酬をしたが、敵の弾量の豊富
         なことはおどろくばかりで、こちらは深刻な弾丸不足に悩むばか
         りであった。
          どれほど旺盛な精神力をもってあたっても、強大な火力のまえ
         には所詮蟷螂の斧であることを、身をもって知った。
          私は日本陸軍のなかで、日露戦争以後、近代装備の砲兵と戦っ
         た最初の砲兵連隊長である。張鼓峯の一戦のあと、私は日本の生
         産力をもって、近代戦をおこなうのは到底不可能であると、上司
         にしばしば意見を具申したが、耳をかたむけてくれる人はいなか
         った」 (津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.24)
    ・陸軍参謀本部の漢口作戦、広東攻略作戦(1938年、昭和13年9~10月)
       日中の戦局はさらに長期消耗戦にはいっていった。
      ※近衛内閣(ことごとくに思慮分別のない阿呆な内閣であった)
        「東亜新秩序の建設こそが日本の聖戦の目的」
        「抗日容共政権を殱滅する」「蒋介石政権は中国全土を代表せず」

    ・蒋介石重慶を戦時首都とした(1938年10月)。
       1938年2月からの約5.5年、日本軍は重慶に無差別爆撃を繰り返した。

    ●内閣情報委員会が、東亜新秩序建設という長期的課題に処するために
     精神総動員を強化する計画を提出(1938年、昭和13年11月26日)
      ※情報委員会を通じて内閣から中央連盟傘下の全国の諸組織(青年団
       、在郷軍人会、婦人会、農村の産業組合)に連なる強力な動員機構
       を樹立しようとした。これこそは国民を一気に「統合」しようとす
       る構想であった。
            ---------------------------------
    ●ケマル・アタチュルク逝去(57歳)(1938.11.10、AM09:05)
      約20年前、オスマン・トルコ帝国は無謀な世界戦争を挑んで敗北し、
     国土は白人列強によって分割解体されようとしていた。そして殆どの国民
     が飢えと病気に苦しめられ、何よりもすべての希望を失っていた。
      しかし「灰色の狼」が彗星のように現れた。彼はどんな苦難にも負けな 
     かった。彼は国民を叱咤激励し、ついに侵略者と売国奴を打ち破り祖国を
     守り抜いた。(三浦伸昭氏著『アタチュルク』文芸社、pp.446-447)
    ●ナチスドイツの科学者、O. ハーンとF. シュトラスマンが中性子による
     ウラン核分裂実験に成功(1938年、昭和13年12月17日)
            ---------------------------------
    ●中支那派遣軍の身勝手で傲慢な発言(1939年、昭和14年1月)
       「今事変は戦争に非ずして報償なり。報償の為の軍事行動は国際慣
      例の認むる所」(加藤陽子氏著『それでも、日本人は「戦争」を選ん
      だ』朝日出版社、p.20-21)
    ・日本軍海南島占領(1939年、昭和14年2月)
    ●「国民徴用令」が閣議決定にて公布、施行(1939年、昭和14年)
       帝国臣民を徴用して、戦争遂行のための総動員業務に従事せしめると
      いうもの。こういうものが簡単に閣議決定のみで公布、施行された時代
      があったのだ。
    ・「満州開拓青少年義勇軍」計画(1939年、昭和14年4月29日)
    ・日本軍重慶を無差別爆撃(昭和14年5月):近代戦の最も恐るべき実例が
      アメリカの雑誌『ライフ』で提供され、アメリカ市民は大きな衝撃をう
      けた。以来アメリカの世論は大きく動いた。
    ・「梅機関」設置(1939年、昭和14年5月)
       王兆銘を上海に迎えるため、参謀本部の影佐禎昭大佐によって設置
      された。この「梅機関」は中野学校卒業生や憲兵隊を招いて上海で本
      格的なインテリジェンス活動を行った。(小谷賢氏著『日本軍のイン
      テリジェンス』講談社選書メチエ、p.61)

    ●ノモンハン事件(1939年、昭和14年5~9月):制空権の重要性を証明
        この敗戦を堺に日本は南方進出を決定。
       関東軍、服部・辻らの暴走で、「元亀天正の装備」の下にソ連の近代
      陸軍と対戦させられた兵士約18000人の戦没者を数えた。中には責任を
      押しつけられて自殺させられた部隊長もあった。
       (「元亀天正の装備」については司馬遼太郎氏著『この国のかたち
                               <一>』を参照)
         
      # 第一戦の将兵がおのれの名誉と軍紀の名のもとに、秀才参謀たち
       の起案した無謀な計画に従わされて、勇敢に戦い死んでいった・・。 
                 (半藤一利氏著『ノモンハンの夏』より引用)
            <特に”ハルハ河渡河作戦”の無謀さ>
             (師団長園部和一郎中将の親書より)
          「・・・小生がハルハ河渡河作戦を非常に無謀と思ったのは、
          第一、上司のこの作戦はゆきあたりばったり、寸毫も計画的
         らしきところのなき感を深くしたこと。
          第二、敵は基地に近く我は遠く、敵は準備完全、我はでたら
         めなるように思われ、
          第三、敵は装備優良、我はまったく裸体なり。
          第四、作戦地の関係上、ノモンハノンの敵は大敵なり。
          要するに敵を知らず己れを知らず、決して軽侮すべからざる
         大敵を軽侮しているように思われ、もしこの必敗の条件をもっ
         て渡河、敵地に乗りこむか、これこそ一大事なりと愚考致した
         る次第なり」 (津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.278)

      # ソ連・モンゴル軍の情報混乱作戦
        計画の中で、また準備処置の中で特別の位置を占めていたのは、
       敵に、我が軍が防衛態勢に移っているかのような印象を与えるた
       めに、情報を混乱させる問題である。このため、各部隊には、
       「防衛線に立つ兵士の手引き書」が配られた。構築された防衛施
       設についての嘘の状況報告と技術物資の質問表とが手渡された。
       全軍の移動は夜間にだけ行われた。待機位置に集結される戦事の
       騒音は、夜間爆撃機と小銃・機関銃掃射の騒音によってかき消さ
       れた。日本軍には、我が諸部隊によって、前線中央部が強化され
       つつあるかのような印象を与えるために、前線中央でだけラジオ
       放送が行われた。前線に到着した強力な音を立てる放送所は、く
       い打ちの擬音を放送して、あたかも、大防衛陣地の工事をやって
       いるかのように見せかけた。日本兵には戦車の騒音に慣れっこに
       させるために、襲撃前の10~12日間は、消音装置をはずした自動
       車何台かが前線に沿って絶えまなく往復した。こうした方策すべ
       ては極めて効果的であることが明らかになった。日本軍司令部は、
       我が軍の企図をはかりかねて、全く誤解に陥ってしまった。
             ---------------------------------
          ソ・モ軍はこのように工事や戦車の悪日を放送した
         のみならず、「レコードやジャズの音」をひびかせ
         (田中誠一「陣中日記」)、あるいは「日本軍の兵隊
         の皆さん、馬鹿な戦争はやめて内地の親兄弟、妻子の
         いるところへ帰りなさい。馬鹿な戦争をして何になる
         のですか。命あっての物種、将校は商売だ」などと戦
         線離脱をすすめる放送を「1日数十回放送した」とい
         う。(山下義高「ノモンハンに生きた私の記録」)
             ---------------------------------
       (シーシキン他『ノモンハンの戦い』田中克彦訳、岩波現代文庫
        pp.49-50)

      # 信じられないようなことだが、陸軍にあっては「戦車は戦車で
        ある以上、敵の戦車と等質である。防御力も攻撃力も同じである」
        とされ、この不思議な仮定に対し、参謀本部の総長といえども疑問
        を抱かなかった。現場の部隊も同様であり、この子供でもわかる
        単純なことに疑問を抱くことは、暗黙の禁忌であった。戦車戦術の
        教本も実際の運用も、そういうフィクションの上に成立していたの
        である。じつに昭和前期の日本はおかしな国であった。
                  (司馬遼太郎氏著『歴史と視点』より引用)

      # 幼年学校、陸士、陸大を通じての大秀才であった辻政信の、ソ連
       の戦力に対する偵察が、実に杜撰きわまりないものであった事実は、
       何を意味するものであるのか。
        頭脳に片々たる知識を詰めこむことを重視するばかりで、現実を
       正確に観察する人間学の訓練を受けなかった秀才が、組織社会の遊
       泳術ばかりに長じていても、実戦において眼前の状況に対応するに
       は歯車が噛みあわず、空転することになる。
        辻参謀は根拠なく軽視したソ連軍機械化部隊と戦闘をはじめるま
       で、自分が陸軍部内遊泳の才を持っているだけで、用兵の感覚など
       という段階ではなく、近代戦についての知識がまったくといってい
       いほど欠落していることに気づいていなかった。
        日露戦争からわずか二十三年を経ただけで、日本陸軍は大組織の
       内部に閉じこもり、派閥抗争をもっぱらとする、政治家のような官
       僚的軍人を産みだしていたのである。
        時代遅れの武装をしていた中国国民軍、中共軍を相手に戦闘して
       いるあいだに、日本軍も時代遅れになった。歩兵戦闘において世界
       に比類ない威力を備えているので、いかなる近代兵器を備えた敵国
       の軍隊にも、消耗を怖れることなく肉弾で突っこめば勝利できると
       いう錯覚を、いつのまにか抱くようになっていたのである。
                (津本陽氏『八月の砲声』講談社、pp.276-277)

      # 鈍感で想像力の貧困な、無能きわまりない将官たちが、無数の若
       い将兵を血の海のなかでのたうちまわらせて死なせるような、無責
       任かつ残酷きわまりない命令を濫発している有様を想像すれば、鳥
       肌が立つ。
        彼らを操っているのは、無益の戦闘をすることによって、国軍の
       中枢に成りあがってゆこうと考えている、非情きわまりない参謀で
       あった。
        罪もない若者たちの命を、国家に捧げさせるのであれば、なぜ負
       けるときまっているような無理な作戦をたて、恬として恥じるとこ
       ろがないのか。作戦をたてる者は、戦場で動かす兵隊を、将棋の駒
       としか思っていないのかと、残酷きわまりない彼らの胸中を疑わざ
       るをえない。 (津本陽氏『八月の砲声』講談社、pp.288-289)

      # ・・・(筆者注:ノモンハン惨敗、日本軍潰滅敗走のなかで)
        辻参謀はいきなり司令部壕から飛び出し、某中尉以下約40名の前
       に立ちふさがる。将兵の瞳孔は恐怖のために拡大しているようであ
       った。辻は右第一線全滅と報告する彼らを、大喝した。       
        「何が全滅だ。お前たちが生きてるじゃないか。旅団長、連隊長、
       軍旗を見捨てて、それでも日本の軍人かっ」
        潰走してきた兵は辻参謀に詫び、彼の命令に従い、背嚢を下し、
       手榴弾をポケットに入れて前線に戻ってゆく。
                  (津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.452)

      # 停戦協定(昭和14年9月14日)あと、ノモンハンの惨敗の責任隠し
       のため、自決すべき理由の全くない3人の部隊長が自決させられた。
        歩兵第72連隊長酒井美喜雄大佐、第23師団捜索支隊長井置栄一
       中佐(部下の無駄死にを防いだ)、長谷部理叡大佐(陣地撤退)の
        3名だった。 (津本陽氏『八月の砲声』講談社、pp.488-490)

      # 日本防衛軍全軍総指揮官、第23歩兵師団長小松原の卑怯さ
        はじめに忘れないうちに----一つ、特徴的なエピソードを述べて
       おきたい。こ頃、我々は、関東軍(すなわち、事実上、仝満洲戦線
       の)司令官植田将軍が、ハルハ河事件との関係で解任されたという、
       驚くべきニュースを受けとった。ところが、それにすぐそれに続い
       て、ハルハ河で全滅した第六軍団司令官小松原将軍が勲章を受けと
       った。何勲章だったか、青銅の鷲〔鷲はナチス・ドイツの勲章〕だ
       ったか、黒いトビだったかの。その頃の日本配層の心理のある特性
       を考えに入れなければ、この知らせは、ほんとに謎のようなものだ。
        小松原将軍は、かれの部隊が我が軍の包囲網によって閉じられた
       その次の日、この包囲網から脱け出して後方へ、満洲へと飛び去っ
       た。捕虜となった将校たちが証言していたころによると、表向きは、
       満洲の奥へとさらに前進して行く我が軍に反撃を準備するたであっ
       たかもしれないが、じつは、単に自分が助かるためだったようだ。
                    ・・・
        小松原は、ハルハ河で壊滅した後、ほとんど手中には何もなく、
       大急ぎでかき集められるだけの兵を集めた。すなわち鉄道大隊2個、
       若干のバルガ騎兵、包囲から脱出したどれかの連隊の残党、独立警
       察連隊ーーこれらの手勢をもって、我が軍からかなり離れたところ
       に防禦線を敷いた。たぶんその頃の実際の力関係を考えてであろう
       が、それはとても防御とは呼ぺぬ、名ばかりの防禦であった。・・
        かくもわずかな兵力をもって、何倍もの優勢な敵に抗した「見事
       な防禦」という満洲国境の物語は、東京ではもしかして、すこぶる
       英雄的に見えたかもしれないが、麾下の二個師団を、むざむざ絶滅
       の包囲の中に投げ込んだこのへまな将軍は、本当ならば、日本の誠
       実の概念からすれば、突然勲章など受けとるかわりに、腹切りをす
       べきだったのだ。・・・はっきりしていることは、日本軍部という
       ものは、その特有の精神構造からして、誰が率いる部隊であれ、無
       防備の前線を目の前にして、あえて国境を越えようとしないとか、
       他国の領土に突進したりしないなどということは考えもしないだろ
       う。もしそんなことが考えられないとすれば、誰かがソビエト・モ
       ンゴル軍を阻止したとしなければならなかった。その時点で、それ
       をやれたとしたら警察隊と鉄道隊員を率いた小松原将軍だけだった。
        一見して説明のつかない、ハルハ河における日本軍司令官の軍功
       のものがたりはこのように見える。(シーシキン他『ノモンハン
       戦い』田中克彦訳、岩波現代文庫、pp.157-159)

      # 「戦後の辻参謀(元陸軍大佐、辻政信)は狂いもしなければ
        死にもしなかった。いや、戦犯からのがれるための逃亡生活
        が終わると・・・、立候補して国家の選良となっていた。
        議員会館の一室ではじめて対面したとき、およそ現実の人の
        世には存在することはないとずっと考えていた『絶対悪』が、
        背広姿でふわふわとしたソファに坐っているのを眼前に見る
        の想いを抱いたものであった。・・・それからもう何十年も
        たった。この間、多くの書を読みながらぽつぽつと調べてきた。
         そうしているうちに、いまさらの如くに、もっと底が深くて
        幅のある、ケタはずれに大きい『絶対悪』が二十世紀前半を
        動かしていることに、いやでも気づかせられた。彼らにあって
        は、正義はおのれだけにあり、自分たちと同じ精神をもって
        いるものが人間であり、他を犠牲にする資格があり、この精神
        をもっていないものは獣にひとしく、他の犠牲にならねばなら
        ないのである。・・・およそ何のために戦ったのかわからない
        ノモンハン事件は、これら非人間的な悪の巨人たちの政治的な
        都合によって拡大し、敵味方にわかれ多くの人々が死に、あっ
        さりと収束した。・・・」
               (半藤一利氏著『ノモンハンの夏』より引用)

      ※この事件での貴重な戦訓(制空権の重要性)が生かされることなく
       大東亜戦争が指導された。過去に学ばない無知無能の関東軍であっ
       た。

    ・独ソ不可侵条約締結(1939年、昭和14年8月28日)
       (--->第二次世界大戦へ)
       日本では対ソ戦の有利な戦いを練るために、ドイツと軍事同盟を結ぼ
      うかと盛んに議論している最中に、ヒトラースターリンが手を結んで
      いた。
       ----------------<スターリンの実像を垣間見る>--------------
        同志諸君!
         十月革命の偉大なる大義は無惨にも裏切られてしまった…
        何百万もの罪なき人民が投獄され、いつ自分の番が回ってくる
        か知るよしもない…同志諸君は知らないのか。スターリン一味
        はまんまと極右(ファシスト)クーデターをやってのけたのだ! 
         社会主義はもはや新聞の紙面に残っているだけだ。だが、そ
        の新聞も絶望的なほど嘘にくるまれている。スターリンは真の
        社会主義を激しく憎悪するがゆえに、ヒトラームッソリーニ
        と同じになった。己の権力を守るためなら国家を破壊し、残忍
        なドイツ・ファシズムの格好の餉食にしてしまうのだ…・。
         この国の労働者たち(プロレタリアート)はかつてツアーと
        資本家どもの権力を打ち倒した。ファシストの独裁者とその一
        味も打倒できるはずだ。
         社会主義を目指す闘いの日、メイデーよ、永遠なれ!
                          反ファシスト労働者党
        (マーク・ブキャナン『複雑な世界、単純な法則』阪本芳久訳
                              草思社、p.252 )
       -------------------------------------------------------------
     ※モロトフ・リッペントロップ秘密協定
       この独ソ不可侵条約締結の際にスターリンの側近のソ連外相モロトフ
      とナチス・ドイツの外相リッペントロップの間に結ばれた秘密協定で、
      ポーランド分割、沿バルト三国エストニアラトビアリトアニア
      とモルダビアをソ連に割譲することなどが取り決められていた。この
      中にはスターリンヒトラーの醜悪極まりない政策がはっきりとみてと
      れる。(佐藤優氏著『自壊する帝国』新潮社、pp.153-155)
      
    ・「朝鮮戸籍令改正」(1939年、昭和14年12月26日)
       日本人として暮らす朝鮮人に「創氏改名」を強制
    ・創価教育学会が教育団体から宗教団体(現世利益を強調)へと性格を変
     えるようになった(--->勢力拡大)。

   ★第二次世界大戦勃発(1939年、昭和14年9月1日)
      1939年9月1日ドイツが突然ポーランドに進駐。その後約1年あまりの間に
     ドイツはヨーロッパの中央部を殆ど制圧しイギリス・フランスとの戦いに
     入った。

     ※われわれはヒトラームッソリーニを欧米人なみにののしっているがその
      ヒトラームッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本
      というもののおろかしさを考えたことがあるのだろうか。
               (司馬遼太郎氏著『歴史の中の日本』他より引用)
    ●ヒトラー「T4作戦」を命令(1939年10月)
      戦争遂行に不用と思われる、知恵遅れ・精神障害者をガス殺によって
     安楽死させた。(荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、p.141)
    ●アメリカが原爆開発に着手(1939年、昭和14年10月)
      「ウラン諮問委員会」を設置した。

    ●「創氏改名」(1939年11月)
       朝鮮民事令改正の名目で「創氏改名」が公布された(翌年2月実施)。
      ※ 「おい日本の兵隊、イルボンサラミ(日本人)、あんたたちは、
       何の権利があって私たちの伝統的に何百年も続いた朝鮮、朴の名
       前を、変な日本名の木村に切り替え使わせているのか!!」
        木村上等兵の朝鮮名は、朴(パク)といった。しかし、1940年
        2月から実施された創氏改名によって、朝鮮人に日本式の氏を新
       しく創り、名乗らせることを事実上強要したのである。同年8月ま
       での半年で、全世帯の8割、322万人が創氏した。儒教を重んじる
       朝鮮では、家をとても大切にする。創氏改名は、何百年も続いて
       きた自分の家系、祖先を否定される屈辱的な行為だった。
        呆然とするトウタの前で、母親はまくし立てた。
        「これは日本人が、朝鮮人を同じ人間と思っていなかったから
       だろう。バカにしているからだ!!」
        何か言おうとすると、口を利くのも汚らわしいという表情でト
       ウタを睨んだ。
        「バカ者、なんで来た!! 絶対に許さない」
        母親はドアをバンと思い切り閉め、それきり出てこなかった。
               (神田昌典氏著『人生の旋律』講談社、p.59)

    ●日本軍の毒ガス散布の一例(1939年、昭和14年12月16日)
      尾崎信明少尉の回想記より(嘔吐性ガス『あか』を散布)
       かくて〔敵陣は〕完全に煙に包まれたのである。四五本の赤筒もなく
      なった。やがて「突っ込め!」と抜刀、着剣...。しかし、壕の所まで行
      って私は一瞬とまどった。壕の中には敵があっちこっち、よりかかるよ
      うにしてうなだれている。こんなことだったら苦労して攻撃する必要も
      なかったのではないか、と錯覚さえしそうな状景だった。しかし、次の
      瞬間「そうだ、煙にやられているんだ。とどめを刺さなきゃ」と、右手
      の軍刀を横にして心臓部めがけて...。グーイと動いた、分厚い綿入れを
      着ており、刀ごと持って行かれそうな感触。「みんなとどめを刺せ!」
      (中略)遂に敵は全員玉砕と相成った。
           (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.86-87)

1940年(昭和15年)から1945年(昭和20年、大東亜戦争終結)まで
     「大東亜戦争」:1941年12月10日に大本営政府連絡会議で、
             「支那事変を含め 大東亜戦争と呼称す」と
             決めた。
   ★第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの攻勢(1940年最初の半年)
      ドイツ機甲師団とそれを率いるグデーリアンの活躍。
      ナチス・ドイツがノルウェーデンマークを占領(4月)、西部戦線での
     戦端を開き(5月)フランス(ダンケルク撤退)、オランダ、ベルギー
     ルクセンブルクに進攻。パリ陥落(6月24日)。イギリスの苦境。

     ※これらの欧州大戦は、日本の指導者たちの目には、日本の東南アジア
      進出を正当化し「東亜新秩序」から「大東亜共栄圏」拡大構想推進の
      千載一遇のチャンスと見えた。またアメリカが対日全面禁輸の措置に
      でるまえに東南アジアの資源を確保する必要があった。
             **********     **********
     ※さてサケットの尋問は、「木戸日記」の記述に沿って、日本の南部仏
      印進駐、独ソ戦開始をめぐる問題をへて、1941年7月2日の御前会議へ
      とたどりつく。この御前会議は、陸海軍の方針を基本的に受け入れた
      「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」を原案どおりに決定したもので、
      その核心は要するに、第一に南進政策の実現のためには「対英米戦を
      辞せず」の方針を、第二に「独『ソ』戦争の推移帝国の為め有利に進
      展せば武力を行使して北方問題を解決」するとの方針を、最高国策と
      して決定したことにあった。つまり対米兵戦と対ソ戦をどちらでも行
      うよう準備するという「南北併進」政策が国家意思として設定された
      のである。(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社,p.136)

    ・日米通商航海条約破棄(昭和15年1月26日)
       日本は軍事用を主とする物資の入手が困難となった。それによる不利を
      補うため、日本は資源の豊富な仏領インドシナに注目。フランスとの軋轢
      を生んだ(北部仏印への強行進駐(S15.9.23),南部仏印へ進駐(S16.7.28))
    ・南京に汪兆銘政府成立(昭和15年3月30日)
       日本が蒋介石と決別したあと、いちるの和平への望みをもって王兆銘を
      かつぎだし、国民政府の正統であることを誇示するように青天白日旗を戴
      いて成立させた。
       この政府は陸軍中央部に巣食っていた中国蔑視の考えに、日中和平論者
      の影佐禎昭参謀本部第八課長らが抵抗するかたちで作られたが、基盤は明
      らかに脆弱だった。また王兆銘自らも行動原則や行動理念のない言行不一
      致の政治家だった。
    ・満州への定住者約86万人(昭和15年)

    ・日本がウラン爆弾に「ニ号研究」として取り組みはじめた。(昭和15年3月)
       しかしこの研究は、日本ではあまりにも課題山積で荒唐無稽の試みに近
      かった。(海軍の原爆研究は「F研究」とよばれ昭和15年8月に始まった
      が、戦状逼迫にてたち切れとなった。昭和天皇の強い嫌悪もあった)。
    ・天才的暗号解読家のフリードマンは、数学的正攻法で97式印字機の模造機
     を作成、日本外務省電報を悉く解読した。このとき以来日本の外交機密は
     アメリカへ筒抜けになった(1940年夏)。また日本海軍の戦略暗号も1942年
     春に破られた。

   ★無謀な戦争に最後まで反対していた米内光政海相海軍次官山本五十六中将、
    軍務局局長井上成美少将、教育局長高木惣吉衆議院議員斎藤隆夫氏の名前
    を忘れないでおきたい。
       ※井上成美
         「軍人の本分は国民を守ることにある。そして将たる者は、部下を
         大勢死なせてまで戦果を求めるべきでない」
            (加野厚志氏著『反骨の海軍大将 井上成美』より)
          協力しあって最後の最後まで戦争早期終結を望んでいた海軍大臣
         米内光政とは、「最後に護るべきもの」が違ったため、袂を分かっ
         た。
       ※斎藤隆夫(立憲民政党代議士、兵庫県但馬選挙区)
          (昭和15年2月2日、第75帝国議会、午後3時~4時30分 
                   『支那事変の処理方針に関する質問演説』)
         「一たび戦争が起こりましたならば、最早問題は正邪曲直の争い
        ではない。徹頭徹尾力の争いであります。強弱の争いである。強者
        が弱者を征服する。これが戦争である。・・・弱肉強食の修羅道
        向かって猛進する、これが即ち人類の歴史であり、奪うことの出来
        ない現実であるのであります。この現実を無視してただいたずらに
        聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道
        義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくのごとき雲をつかむ
        ような文字を並べたてて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百
        年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死
        してもその罪を滅ぼすことはできない。・・」
          (『20世紀、どんな時代だったのか』(戦争編、日本の戦争)
                 読売新聞社編より引用)(当時、米内光政内閣)
         斎藤隆夫:「いまのままでは世間は闇だよ。おれの演説を議会速
              記録から削除するような秘密主義で、どこに文明国の
              政治があるか。政府も政府なら議員も議員だ。わけも
              わからずギャーギャー騒いでおる。日本国中に真の政
              治家は一人もいやしないよ。滑稽じゃないか、みんな
              後ろ鉢巻きで騒いでおるよ」 (むのたけじ氏著『戦
              争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、p.22)
       ※山本五十六
         (当時第二航空戦隊、航空参謀、奥宮正武少佐の述懐より)
         「そのすぐれた見識から、米英との戦争には絶対反対し、それが
         いれられなくなると国家の将来を知りながらも、こんどは国家の
         運命を双肩に担って立たなければならなかった大将の心事は、私
         ごときが筆紙に尽くすことは、とうていできないことである」
         (星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督 伊藤整一』より)

   ★米内内閣の成立と終焉(昭和15年1月16日~昭和15年7月16日)
     米内内閣は、在職半年、終始陸軍ファッショの倒閣運動の矢面に立たされ、
    ついにそのボイコットに、支え得ずして倒れた。そこには、阿部内閣の退陣
    の際、陸軍の内閣を期待していたことが裏切られたため、陸軍を感情的にし
    たことも争えないが、それはむろん主な理由ではなく、欧州におけるドイツ
    の一時的な成功に幻惑され、いわゆる東亜新秩序を、一気に実現しようとす
    るファッショ的風潮が、一時に堰を切って流れ出していたと見るべきであろ
    う。ともあれ、一方に陸軍、他方に近衛・木戸・平沼ラインの猛烈な攻撃を
    うけながら、終始中道を見失わないですすみ、滔流を隻手をもってせきとめ
    ていた米内内閣が退陣するや、たちまちにして三国同盟が成立し、太平洋戦
    争突入の足場をつくって行くのである。(実松譲著『米内光政正伝』光人社
    p.206)

   ★第二次近衛内閣成立(昭和15年7月22日):日本史上最低最悪の内閣だった
     陸相 東条英機
     海相 吉田善吾:日独伊三国軍事同盟締結に反対なるも病弱・疲労困憊で
            役立たず。(-->後任及川古志郎)
     外相 松岡洋右:名誉欲が強く権謀術数に長けた専断拙速猪突猛進の危険
            人物・釣針のように曲がったペテン師
            ---------------------------------------
      組閣五日後の七月二十七日、新内閣と大本営との連絡会議がひらかれ、
     そこで「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」が決定された。その結果
     近衛は、(1) 支那事変の徹底遂行、(2) 南方武力進出、という二大冒険
     を敢えてせざるを得なくなった。そもそも、この「時局処理要綱」は、
     陸軍がいわゆる”ヒトラーのバスに乗りおくれるな”と叫んで政戦両略
     の大転換を行なったその根拠として作成したものであり、米内内閣末期
     の七月三日、参謀本部陸軍省の首脳会議で決定したのであった。この
     要綱には、対英一戦の覚悟のもとに、武力を媒介として南方への勢力進
     出を試みようとする陸軍の考え方が反映していた。また外交政策の面で
     は枢軸提携を強化し、さらにソ連とも協調して旧秩序勢力と対決する方
     針も打ち出されていたのである。
      この「時局処理要綱」の内容は、いうまでもなく日本の針路に画期的
     な影響を与えるものである。だから、こうした重大な国策ーー国家の運
     命に超重大な影響を及ぼすーーは、わが国の生死の問題として超真剣に
     取り扱うべきであり、長い時間をかけて検討し、熟慮に熟慮を重ねても
     慎重にすぎることはなかったのだ。にもかかわらず、近衛内閣は成立早
     々、わずか三時間の論議で大本営のお供えものを鵜呑みにしてしまった。
     それは軽率以上のものであり、そこに日本の悲運が胚胎していたのであ
     る。思えば、まことに腑甲斐のない”挙国”内閣のスタートであった。
              (実松譲著『米内光政正伝』光人社、pp.211-212)
            ---------------------------------------
    ●日本軍が北部仏印に進駐(昭和15年9月23日)
       富永恭次佐藤賢了軍紀違反による横暴。
      昭和陸軍"三大下剋上事件"の一つ。(他は満州事変ノモンハン事件
    ●●●●●「日独伊三国軍事同盟」締結(昭和15年9月27日)●●●●●
       ※これがくだらない大東亜戦争へのノー・リターン・ポイントだった。
       ※近衛内閣、松岡洋右外相の電撃的(国家の暴走)締結。
          松岡洋右は日独伊にソ連を含めた四国軍事同盟締結を目論
         でいたが、ヒトラーソ連の対立が根強く、実現ははじめか
         ら不可能であった。またヒトラーは三国軍事同盟を、対ソ作
         戦の礎石と考えていた。
       ※過去、平沼・阿部・米内の三内閣はこの締結を躊躇して倒れていた。      
        (当時、陸(海)軍は陸(海)軍大臣を辞職させ、その後任候補を
         差し出すことを拒否してその内閣を総辞職に追い込んだり、新内閣
         の陸(海)軍相候補を差し出すことを拒否して内閣成立を阻止した
         りすることができた。総理大臣は法的に全く無力であった)。
                   <米内光政の名言>
           「同盟を結んで我に何の利ありや。ドイツの為火中の栗を拾
          うに過ぎざるべし」
           「ヒトラームッソリーニは、どっちへ転んだところで一代
          身上だ。二千年の歴史を持つ我が皇室がそれと運命を共になさ
          るというなら、言語道断の沙汰である」
           「ジリ貧を避けようとしてドカ貧になる怖れあり」
           「バスに乗りおくれるなというが、故障しそうなバスには乗
          りおくれた方がよろしい」
            (阿川弘之氏著『大人の見識』新潮新書、p.123))
       ※近衛の失策(近衛は日本を戦争に向かわせた重大な犯罪人)
         三国同盟に反対していた吉田善吾海軍大臣山本五十六米内光政
        ・井上成美の海軍英米協調・反戦トリオの流れをくむ)を神経衰弱に
        して辞任させ、後任に戦争好きの及川古志郎を海軍大臣に推薦した。
             (『小倉庫次侍従日記』(文藝春秋2007年4月号)より)
    ・関東軍情報部発足:柳田元三少将(小谷賢氏著『日本軍のインテリジェン
     ス』講談社選書メチエ、p.43)。対ソ諜報活動が中心。
    ●日本軍の中国に対する熾烈な毒ガス攻撃と効力試験(1940年8月以降)
          (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.111-132)
    ●日本軍の中国に対するペスト攻撃(状況証拠のみしかないが・・・)
      ・1940.10.4 :淅江省ツーシンへ。腺ペスト蔓延が24日続き21名死亡。
      ・1940.10.27:淅江省寧波(ニンポー)へ。34日続き100名死亡。
      ・1940.11.28:淅江省金華(キンホウ)へ。
      ・1941.11.4 :湖南省常徳(チャントウ)へ。11歳少女が腺ペスト発症
      (エド・レジス氏著『悪魔の生物学』、柴田恭子訳、河出書房新書より)
    ●「三光政策(作戦)」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)
       南京大虐殺が、日本軍の組織的犯罪であるとされるのは、捕虜の大量
      殺害があるからだが、それ以上に、一般民衆にたいする虐殺として問題
      なのは三光作戦である。中国共産党とその軍隊である八路軍が、日本軍
      の戦線の背後に浸透して解放区、遊撃区を作り上げたのにたいして、日
      本軍とくに華北の北支那方面軍は、1941年ごろから大規模な治安粛正作
      戦を行なった。これは日本軍自らが、燼滅掃蕩作戦(焼きつくし、滅ぼ
      しつくす作戦)と名づけたことでも示されるように、抗日根拠地を徹底
      的に破壊焼却し、無人化する作戦であった。実際に北支那方面軍は、広
      大な無人地帯を作ることを作戦目的に掲げている。中国側はこれを「三
      光政策」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)と呼んだのであ
      る。三光作戦は、南京大虐殺のような衝撃的な事件ではないが、長期間
      にわたり、広大な地域で展開されたので、虐殺の被害者数もはるかに多
      くなっている。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、
      pp.18-19)
          ---------------------------------------------
    ・1940年11月、大統領選挙に勝利したルーズベルトは本格的に対中支援の具体
     化に乗り出した。
    ・1941年3月、中国とアメリカとの間に武器貸与協定が結ばれる。
    ●1941年6月頃、ヒトラーが捕虜収容所における大量殺害を命じた (荒井信一
     氏著『戦争責任論』岩波書店、p.141)。
      ただし、パーベル・ポリヤーン『二つの独裁の犠牲者』(原書房)には
      ”最終解決”がヒトラーにより口頭でヒムラーとハイドリヒに下達された
     とされている。またこの指令自体は「バルバロッサ計画」の有機的な一部
     で1941年3月13日付けの「特別な分野のための指示」に、またSS(親衛隊)
     と陸軍との相互関係・相互協力を規定した1941年4月28日付の最高司令部と
     帝国保安本部(RSHA)との特別協定に大雑把にかかれていたという。
     (パーベル・ポリヤーン『二つの独裁の犠牲者』長勢了治訳(原書房
      p.102)
          ---------------------------------------------

   ★「大政翼賛」への道(1940年後半は日本がひたすら堕落してゆく時代だった)
       ■全政党が解党、日本から政党が消えた。(昭和15年8月15日)
          1940年1月中旬に米内内閣組閣時、既成政党所属の多数の
         議員と小会派所属の議員は、こぞって自分たちの党を解散して、
         陸軍と協力して新しい大衆政党を結成しようという雰囲気に満
         ちあふれていた。(既成政党の内部分裂と小政党乱立が背景)
         ※新体制促進同志会
            個人主義・民主主義・議員内閣・多数決原理・自由主義
           ・社会主義を弾劾して報国倫理の確立と指導原理の信奉を
           要求した。
         ※ただし、政党の正式解散後にもその指導者たちの影響力は一
          貫して存続した。つまり彼等は戦争中にも、非政党エリート
          や右翼や政党内反主流派などの攻撃から身を守り、終戦時に
          は国政に参加する準備が出来上がっていた。これは戦中政治
          の際立った特徴である。
       ■新体制準備会(1940年、昭和15年8月28日、近衛内閣)
         「 世界情勢に即応しつつ能く支那事変の処理を完遂する
          と共に、進んで世界新秩序の建設に指導的役割を果たす
          ためには、国家国民の総力を最高度に発揮して、この大
          事業に集中し、如何なる事態が発生するとも、独自の立
          場において迅速果敢、且つ有効適切にこれを対処し得る
          よう、高度国防国家の体制を整えねばならぬ。而して
          高度国防国家の基礎は、強力なる国家体制にあるのであ
          って、ここに政治、経済、教育、文化等あらゆる国家国
          民生活の領域における新体制確立の要請があるのである。
           ・・・今我国が、かくの如き強力なる国内新体制を確
          立し得るや否やは、正に国運興隆の成否を決定するもの
          と言わねばならぬ」
           ( 詳しくは、ゴードン・M・バーガー著『大政翼賛会
              、坂野閏治訳、山川出版社、211~221ページ参照)
        ※ただし、この近衛の新政治体制への熱意は、支那事変早期解決
         が絶望となって以来、戦時経済統制体制に世論を統一し、皇室
         と国家に対する国民の一体感を強め、体制エリートの諸集団が
         戦時動員に不可欠と考えたいかなる政策をも遂行するための手
         段として、新体制を発展させることだけになった。

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          ★希代の政治家、斎藤隆夫氏の(近衛文麿への)非難(1)★

           帝国憲法は日本臣民に向って結社の自由を許して居る。
          此の由由は何ものの力を以てするも剥奪することは出来な
          い。政党は此の難攻不落の城壁を有し、其の背後には政民
          両党共に三百余万の党員を控え、更に其の背後には国民も
          亦之を監視して居る。凡そ政治上に於て是れ程強い力はな
          く、政党は実に此の強い力を握って居る。尚其の上に此の
          戦争は前記幕末維新の戦争の如く、戦えば江戸を焦土と化
          し、多数の人命、財産を損する如きものではなく、是とは
          全然反対に、憲法上に与えられたる全国民の自由擁護を目
          的とする堂々たる戦争である。
           然るに此の政治上の戦いに当たりて、政民両党は何をな
          したか。戦えば必ず勝つ。而も其目的は国民の自由を擁護
          すべき堂々たる聖戦であるに拘らず、敢然起って戦うの意
          気なく、却って降伏に後れぎらんことを惧れて六十年の歴
          史をなげうち、国民の失望を無視して我れ先きにと政党の
          解消を急ぐに至りては、世界文明国に其の類例を見ざる醜
          態である。
            ---------------------------------------------
 
       ■大政翼賛会発足(1940年、昭和15年10月12日発会式)
          政党が解消されて、戦争にたいする異論(反対論)が完全に
         封じられてしまった。
        ※「近衛の構想の新体制」は「政治性」が取り除かれ、それに伴
         う近衛の変節とともに、国民精神動員運動を主軸とする運動に
         変化して発展することになった。そこで新体制準備会で用意さ
         れていた「中核体」(総理大臣への顧問組織であり、職能・文
         化組織推進機関)は『大政翼賛会』、国民運動は「大政翼賛運
         動」と呼ばれるようになった。
        ※「国民の歌」としての指定
         『海行かば水づく屍山行かば草むす屍大君の辺にこそ死なめ
                              かえりみはせじ』
        ※陸軍は翼賛会の地方活動を支配するために、「中核体」が持つ
         可能性に大きな期待をかけていた。また海軍も他の諸集団(例
         えば日本青年党(橋本欣五郎)、東方会(中野正剛)、青年団
         ・壮年団(後藤隆之助)、産業組合(有馬頼寧))も大政翼賛
         運動の中心的存在になることを熱望した。(内務官僚と名望家
         の反発)
        ※内務省は翼賛会府県支部の設立にあたって、知事の優越的役割
         を確保した。さらに内務省は町村にその官僚的支配を伸張し翼
         賛会下部組織の確立によって部落会や町内会の指導権を確保し
         ようと躍起になった。(陸軍と内務省の衝突)
        ※翼賛会議会局への参加を拒否したのは、鳩山派と社会大衆党
         民派のみであった。
        ※大政翼賛会は内閣・議会・軍部の関係に何の変化ももたらさな
         かった。これは大政翼賛会に関して最も驚くべき点である。

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          ★希代の政治家、斎藤隆夫氏の(近衛文麿への)非難(2)★

            次は大政翼賛会である。浅薄なる革新論から出発して、
           理論も実際も全く辻褄の合わざる翼賛会を設立し、軍事
           多端なる此の時代に多額の国費を投じて無職の浪人を収
           容し、国家の実際には何等の実益なき空宣伝をなして、
           国民を瞞着して居るのが今日の翼賛会であるが、之を設
           立したる発起人は疑いもなく近衛公である。其の他のこ
           とは言うに忍びないが、元来皇室に次ぐべき門閥に生れ、
           世の中の苦労を嘗めた経験を有せない貴公子が自己の能
           力を顧みず、一部の野心家等に取巻かれて国勢燮理(治
           める)の大任に当るなど、実に思わぎるの甚だしきもの
           である。是が為に国を誤り実毒をのこす。其の罪は極め
           て大なるものがある。
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          ★軍隊というのはカルト教団
               (古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社
            あのみじめな思いは憶えています。軍隊では、人は人
           間として扱われません。そこには権力者が決めた階級が
           あるだけで、戦後は、人権がどうの差別がどうのと言う
           ようになりましたが、そんなことを言ったら軍隊は成り
           立たない。福沢論吉は、天は人の上に人を作らず、人の
           下に人を作らず、と言いましたが、とんでもない、わが
           国の権力者は天ではないから、人の上に人を作り、人の
           下に人を作りました。
            彼らは天皇を現人神と思うように国民を教育し、指導
           しました。その言説に背く者は、不敬不忠の者、非国民
           として罰しました。
            階級や差別のない社会や国家はありません。天皇が日
           本のトップの人であることは、それはそれでよく、私は
           いわゆる天皇制を支持する国民の一人です。けれども、
           アラヒトガミだの、天皇の赤子だのというのを押しつけ
           られるとうんざりします。・・・
            軍隊というのは、人間の価値を階級以上に考えること
           がなく、そうすることで組織を維持し、アラヒトガミだ
           のセキシだのというカルト教団の教義のような考え方で
           国民を統制して、陸海軍の最高幹部が天皇という絶対神
           の名のもとにオノレの栄達を求めた大組織でした。(p80)
                 ・・・
            あのころ(鳥越注:昭和10年代)のわが国はカルト教
           団のようなものでした。あの虚偽と狂信には、順応でき
           ませんでした。思い出すだに情けなくなります。自分の
           国を神国と言う、世界に冠たる日本と言う。いざという
           ときには、神国だから、元寇のときのように神風が吹く
           と言う。アラヒトガミだの、天皇の赤子だのと言う。祖
           国のために一命を捧げた人の英霊だの、醜の御楯だのと
           言う。今も、戦没者は、国を護るために命を捧げた英霊
           といわれている。
            しかし、何が神国ですか、世界に冠たる、ですか。神
           風ですか。カルト教団の信者でもなければ、こんな馬鹿
           げたことは言いませんよ。・・・
            戦前(鳥越注:大東亜戦争前)は、軍人や政府のお偉
           方が、狂信と出世のために多数の国民を殺して、国を護
           るための死ということにした。日本の中国侵略がなぜ御
           国を護ることになるのかは説明できないし、説明しない。
           そこにあるのは上意下達だけで、それに反発する者は、
           非国民なのです。
            やむにやまれぬ大和魂、などと言いますやなにが、やむ
           にやまれぬ、ですか。軍人の軍人による軍人のための美化
           語、あるいは偽善語が、国民を統御し、誘導し、叱咤する
           ためにやたらに作られ、使われました。八紘一字などとい
           う言葉もそうです。中国に侵略して、なにが八紘一宇です
           か。統計をとったわけではありませんから、その数や比率
           はわかりませんが、心では苦々しく思いながら調子を合わ
           せていた人も少なくなかったと思われますしかし、すすん
           であのカルト教団のお先棒を担いで、私のような者を非国
           民と呼び、排除した同胞の方が、おそらくは多かったので
           はないか、と思われます。(p106)

   ★1941年(昭和16年)、大東亜戦争(太平洋戦争)勃発にいたるまで
    ・東条英機が軍内に「戦陣訓」を発する(下記、昭和16年1月8日)。
      ※ 東条は一国を指導する器ではなかった。それどころか関東軍参謀長
       すらもまともに務まらない資質しかもっていなかった。卑しく臆病で
       嫉妬心が強く、権威主義的な男であった。

                     戦陣訓
                      序
           夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を發揮し、攻
          むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、
          敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる虞なり。
          されば戦陣に臨む者は、深く皇國の使命を體し、堅く
          皇軍の道義を持し、皇國の威徳を四海に宣揚せんこと
          を期せざるべからず。
           惟ふに軍人精紳の根本義は、畏くも軍人に賜はりた
          る勅論に炳乎として明かなり。而して戦闘茲に訓練等
          に關し準據すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられ
          たり。然るに戦陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象
          に捉はれて大本を逸し、時に共の行動軍人の本分に戻
          るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。乃
          ち既往の経験に鑑み、常に戦陣に於て勅論を仰ぎて之
          が服行の完璧を期せむが為、具體的行動の憑據を示し、
          以て皇軍道義の昂揚を圖らんとす。是戦陣訓の本旨と
          する所なり。
                  「第七 死生観」
           死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生
          死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の
          力を盡くし、従容として悠久の大義に生くることを悦
          びとすべし。
                  「第八 名を惜しむ」
           恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ愈々
          奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受け
          ず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

      ※ 死を恐れるな、従容として死に赴く者は大義に生きることを喜び
       とすべきである、というのであった。日本軍の兵士は、「大義に生
       きる」という死生観を理想としたのである。しかしここでつけ加え
       ておかなければならないのは、陸軍の上層部や指導部に属していた
       者のほうがこのような死生観をもっていなかったということだ。た
       とえば、この戦陣訓を軍内に示達した当の東條英機は、戦争が終わ
       ったときも責任をとって自決していないし、あろうことか昭和二十
       年九月十一日にGHQ連合国軍稔司令部)の将校が逮捕にきたときに
       あわてて自決(未遂)を試みている。東條のこの自決未遂は二重の
       意味で醜態であった。・・・(中略)・・・
        「名を惜しむ」にあるのは、捕虜になって屈辱を受けるようなこ
       とがあってはならない、生を惜しんでのみっともない死に方はその
       恥をのこすことになるという教えであり、故郷や家族の面子を考え
       るようにとの威圧を含んでいた。これもまた兵士たちには強要して
       いながら、指導部にいた軍人たちのなかには虜囚の辱めを受けるど
       ころか、敗戦後はGHQにすり寄り、その戦史部に身を置き、食うや
       食わずにいる日本人の生活のなかで並み外れた優雅な生活をすごし
       た中堅幕僚たちもいた。
        戦陣訓の内容は、兵士には強要されたが指導部は別格であるとい
       うのが、昭和陸軍の実態でもあった。私は、太平洋戦争は日本社会
       を兵舎に仕立てあげて戦われてきたと考えているが、その伝でいう
       なら、この戦陣訓は兵士だけでなく国民にも強要された軍事指導者
       に都合のいい〈臣民の道〉であった。(保阪正康氏著『昭和史の教
       訓』朝日新書、pp.199-203より抜粋)

    ・新聞紙等掲載制限令公布(昭和16年1月11日)
    ・日ソ中立条約締結(昭和16年4月13日)
       これによりソビエトは実質的には満州国を承認。スターリンの中国軽
      視は毛沢東スターリンへの不信感を高めた。さらにアメリカも強い不
      快感を持ち、ソビエトとの経済交流を中止し、ルーズベルト重慶政府
      (蒋介石)へP-40戦闘機100機を提供した。
    ・米大統領が国家非常事態宣言、アメリカが臨戦態勢に入る。(昭和16年5月)
    ●独ソ戦開始(昭和16年6月22日)
       独ソ戦日ソ中立条約のみならず、日独伊三国同盟の意義すらも、
      根本的に打ち砕くものであった。
    ・日本は関東軍特種演習(関特演)の名の下に約70万人の大軍を満州に集結
     (昭和16年7月2日)。
    ●●●●● 日本軍が南部仏印に進駐(昭和16年7月28日)●●●●●
       軍事的には無血占領であったが、政治的には陸軍の見通しの甘さが浮
      き彫りになっただけで、ここですでに敗戦なのだった。また日米開戦の
      「ポイント・オブ・ノーリターン」を形成したといえるだろう。
     ※太平洋の平和維持について、一縷の望みを託していた日米間の国交を調
      整するという両国政府の交渉を、文字通り暗礁に乗り上げさせ、交渉の
      前途をすっかり暗くさせてしまった(実松譲著『米内光政正伝』光人社
       p.86)
     ※『仏印進魅の第一の目的は、仏印におけるわが諸目的を達成するにある。
      第二の目的は、国際情勢がこれに適する場合、仏印を基地として迅速な
      行動を開始するにある。仏印占領後の次の計画は蘭印に対する最後通告
      の発送である。シンガポール占領には、海軍が主な役割りを担当する。
      ……われわれは航空部隊と潜水部隊をもって、断固として英米軍事力を
      粉砕する。近く仏印に進験する兵力は第二十五軍である』(筆者注:広
      東在駐の日本総領事が日本陸軍から得た「仏印進駐計画」の詳細な情報
      を外務省に暗号で送ったが、ことごとく解読されていた)
                ・・・(中略)・・・
       こうして、米国はわが方の”平和進駐”の真意を事前に察知すること
      が出来、その報復措置などについて、あらかじめ準備を進めたのであっ
       た。
       すなわち、アメリカは、二十六日、日本の在米資産を凍結し、イギリ
      スもオランダもアメリカにならって同じ措置をとった。またこの日マッ
      カーサー将軍を司令官とする極東軍部隊が編成された。こうして日本を
      取り巻くA・B・C・D(米・英・中国・オランダ)包囲陣というものが、
      現実に完成されることになった。さらに8月1日、アメリカはかねてから
      準備していた石油の日本への輸出禁止をもって、日本軍の南部仏印進駐
      に報復したのだ。
       石油が得られないならば、日本の海軍は絵に描いたモチと化するであ
      ろうし、大陸軍もまた、”裸の兵隊”となり兼ねないであろう。武力を
      もって南方の石油を手に入れない限り、わが国は立往生することになり、
      相手の言うままに屈するよりほかにない。”この際、打って出るほかな
      し”の考えとなった。こうして、南部仏印進駐→対日全面禁輸→対米戦
      というレールが敷かれたのである。(実松譲著『米内光政正伝』光人社
       pp.90-91)
    ●アメリカ対日石油輸出全面禁止、在米の日本資産凍結(昭和16年8月1日)
              <軍令部総長永野修身の上奏>
         こうした禁輸措置のあとに、南部仏印進駐の主導者たちは
        すっかり混乱している。軍令部総長永野修身は、アメリカ
        が石油禁輸にふみきる日(八月一日)の前日に、天皇に対米
        政策について恐るべき内容を伝えている。
         「国交調整が不可能になり、石油の供給源を失う事態とな
        れば、二年の貯蔵量しかない。戦争となれば一年半で消費し
        つくすから、むしろ、この際打って出るほかはない」と上奏
        しているのだ。天皇木戸幸一に対して、「つまり捨鉢の戦
        争をするということで、まことに危険だ」と慨嘆している。
            (保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、p.215)
    ●中国、宜昌にて日本軍が大量の毒ガス攻撃(昭和16年10月7日~11日)
       催涙ガス(クロロピクリン、クロロアセトフェノン)、嘔吐性ガス
      (アダムサイト)、イペリット、ルイサイト、青酸ガス、ホスゲンなど
      を使った悪魔どもの悪あがきのヤケクソ攻撃だった。
          (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.134-144)
    ●大本営政府連絡会議(「御前会議」での追認、昭和16年10月4日)
       近衛文麿が内閣を投げ出した。
       近衛文麿:「軍人はそんなに戦争が好きなら、勝手にやればいい」。
       (保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、p.85より)
    ●「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」(昭和16年11月16日、大本営政府
     連絡会議、石井秋穂・藤井茂原案):戦争終結への発想はお粗末な現実認
     識とともに無責任で他力本願(ドイツ・イタリア頼み)だった。
        一 方針(略)
        二 日独伊三国協力シテ先ツ英ノ屈伏ヲ図ル
          (一)帝国ハ左ノ諸方策ヲ執ル
            (イ)濠洲印度二対シ政略及通商破壊等ノ手段二依り
               英本国トノ連鎖ヲ遮断シ其ノ離反ヲ策ス
            (ロ)「ビルマ」ノ独立ヲ促進シ其ノ成果ヲ利導シテ
               印度ノ独立ヲ刺戟ス
          (二)独伊ヲシテ左ノ諸方策ヲ執ラシムルニ勉ム
            (イ)近東、北阿、「スエズ」作戦ヲ実施スルト共ニ
               印度二対シ施策ヲ行フ
            (ロ)対英封鎖ヲ強化ス
            (ハ)情勢之ヲ許スニ至ラハ英本土上陸作戦ヲ実施ス
          (三)三国ハ協力シテ左ノ諸方策ヲ執ル
            (イ)印度洋ヲ通スル三国間ノ連絡提携二勉ム
            (ロ)海上作戦ヲ強化ス
            (ハ)占領地資源ノ対英流出ヲ禁絶ス
        三 日独伊ハ協力シテ対英措置卜並行シテ米ノ戦意ヲ喪失セシ
          ムルニ勉ム
          (一)帝国ハ左ノ諸方策ヲ執ル
            (イ)比島ノ取扱ハ差シ当り現政権ヲ存続セシムルコ
               トトシ戦争終末促進二資スル如ク考慮ス
            (ロ)対米通商破壊戦ヲ徹底ス
            (ハ)支那及南洋資源ノ対米流出ヲ禁絶ス
            (ニ)対米宣伝謀略ヲ強化ス
                其ノ重点ヲ米海軍主力ノ極東ヘノ誘致竝米極
               東政策ノ反省卜日米戦無意義指摘ニ置キ米国輿
               論ノ厭戦誘致二導ク
            (ホ)米濠関係ノ離隔ヲ図ル
          (二)独伊ヲシテ左ノ諸方策ヲ執ラシムルニ勉ム
            (イ)大西洋及印度洋方面ニ於ケル対米海上攻勢ヲ強
               化ス
            (ロ)中南米ニ対スル軍事、経済、政治的攻勢ヲ強化ス
           (保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.226-227)
    ●東条内閣成立(昭和16年10月18日、木戸幸一の推薦、第三次近衛内閣総辞
     職(10月16日))
       「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」
      よくもこんな発想ができたものだ。悪魔の内閣としか表現のしようがな
      い。
       ※中島昇大尉(BC級戦犯、死刑判決)の述懐(昭和21年6月)
         「捕虜になると国賊扱いにする日本国家のあり方が、外国捕虜の
         残虐へと発展したのではないでしょうか。捕虜の虐待は日本民族
         全体の責任なのですから個人に罪をかぶせるのはまちがっていま
         せんか。・・・私は国家を恨んで死んで行きます」
      ----------------------------------------------------------
    ・陸海軍大臣の任務(瀬島龍三『大東亜戦争の実相』より)
      1.国の行政全般の議に参画する国務大臣
      2.陸海軍省の主管大臣
      3.「編成大権」に関する天皇の輔佐役
      4.大本営の構成員
    ・「国民学校令」:国家による教育統制の完成。ナチスのフォルクスシューレ
             をそのまま真似た勅令
      ----------------------------------------------------------
    ●通称「ハル・ノート」(平和解決要綱)が日本側に手渡された。
                            (昭和16年11月26日)
       中国や南方地方からの全面撤退、蒋介石政府の承認、汪兆銘政府の
      不承認、三国同盟の形骸化が主たる項目で昭和に入っての日本の歴史を
      全て白紙に戻すという内容だった。(--->日米開戦へ)
    ●昭和16年12月1日、この年5回目の御前会議(日米開戦の正式決定)
       「日米交渉を続けながら、戦備も整える。しかし11月29日までに交渉
      が不成立なら、開戦を決意する。その際、武力発動は12月初頭とする」。
       東条英機「一死奉公」の羅列:東条にとっては、国家とは連隊や師団
      と同じであり、国民は兵舎にいる兵士と同じだった。
    ●大東亜戦争(太平洋戦争)開戦
     (昭和16年(1941)12月8日午前3時25分:ホノルル7日午前7時55分、ワシン
      トン7日午後1時25分)
       当時日本政府の視線は、戦争の日米戦争としての側面に集中したが、
      世論のレベルではむしろ日本の対アジア侵略の側面があらためて強調さ
      れた。開戦そのものについても、戦争が真珠湾攻撃によってではなく、
      タイ、マレー半島への日本陸軍の無警告による先制攻撃で始まったこと
      に注意が向けられた。時間的にも真珠湾で空襲の始きる午前3時25分(
      日本時間)より1時間以上早い午前2時15分に日本陸軍俺美支隊がマレー
      半島(英領)コタバルに上陸し、激戦を始めていた。また真珠湾空襲開
      始のほぼ30分後手前4時)から日本軍がタイの各地に続々と進攻、上陸
      を行い、タイ領マレー半島でも地上戦闘がタイ軍との間で行われた。
             (荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、pp.128-129)

         ************************************************
       ※重松譲(当時ワシントン駐在武官(海軍))の証言
         「あのバカな戦の原因はどこにあるか。それは陸軍がゴリ
        押しして結んだ三国同盟にある。さらに南部仏印進駐にある。
         私は、日本が三国同盟を結んだ時、アメリカにいたのだが、
        アメリカ人が不倶戴天の敵に思っているヒトラーにすり寄っ
        た日本を、いかに軽蔑したか、よくわかった。その日本がア
        メリカと外交交渉をしたところで、まとまるわけはなかった
        んだ」
         「陸軍にはつねに政策だけがあった。軍備はそのために利
        用されただけだ」
          (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より孫引き)
         ************************************************
       ※「木戸日記」の存在
         ともかく提出された日記は、天皇を頂点とした昭和政治史
        の中枢を検証する第一級の政治資料であった。法廷では、検
        察側の天皇免責の方針によって、天皇の言動に関する記述は、
        いっさい活用されなかった。しかし素直に日記を読めば、太
        平洋戦争開戦にいたる道は、天皇と、木戸など天皇側近の主
        体的決断という要因を入れなければ、歴史的に説明がつかな
        いことは明らかだ。
        (粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、p.113)

       ※腰ぬけ知識人だらけの国
          戦中の知識人の多くは、飢えと暴力が支配する状況下で、自分
         の身を守るために、迎合や密告、裏切りなどに手を染めた。積極
         的に戦争賛美に加担しなかったとしても、ほとんどすべての知識
         人は、戦争への抗議を公言する勇気を欠いていた。
          こうした記憶は、「主体性」を求める戦後思想のバネになった
         と同時に、強い自己嫌悪と悔恨を残した。たとえば、法政大学教
         授だった本多顕彰は、戦中をこう回想している。

           それにしても、あのころ、われわれ大学教授は、どうしてあ
          んなにまで腰ぬけだったのであろう。なかには、緒戦の戦果に
          狂喜しているというような単純な教授もいたし、神国日本の威
          力と正しさを信じてうたがわない教授もいるにはいた。……け
          れども、われわれの仲間には戦争の謳歌者はそうたくさんには
          いなかったはずである。だのに、われわれは、学園を軍靴が蹂
          躙するにまかせた。……〔軍による〕査察の日の、大学教授の
          みじめな姿はどうだったろう。自分の学生が突きとばされ、け
          られても、抗議一ついえず、ただお追従笑いでそれを眺めるだ
          けではなかったか。……
           ……心の底で戦争を否定しながら、教壇では、尽忠報国を説
          く。それが学者の道だったろうか。真理を愛するものは、かな
          らず、それとはべつの道をあゆまねばならなかったはずである。
          真に国をおもい、真に人間を愛し、いや、もっとも手ぢかにい
          る学生を真に愛する道は、べつにあったはずである。……反戦
          を結集する知恵も、反戦を叫ぶ勇気も、ともに欠けていたこと
          が、われわれを不幸にし、終生の悔いをのこしたのである。

          こうした「悔恨」を告白していたのは、本多だけではなかった。
          南原繁は、学徒出陣で大学を去っていった学生たちを回想しな
          がら、こう述べている。「私は彼らに『国の命を拒んでも各自
          の良心に従って行動し給え』とは言い兼ねた。いな、敢えて言
          わなかった。もし、それを言うならば、みずから先に、起って
          国家の戦争政策に対して批判すべきべきであった筈である。私
          は自分が怯懦で、勇気の足りなかったことを反省すると同時に、
          今日に至るまで、なおそうした態度の当否について迷うのであ
          る」。
          (小熊英二氏著氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.177-178)

       ※         「歴史的意思の欠落」
         日本は真に戦争か和平かの論議を論議を行ったといえるだろうか。
        ・・・日本がアメリカとの戦争で「軍事的勝利」をおさめるとはどう
        いう事態をさすのか。その事態を指導者たちはどう予測していたのだ
        ろうか。まさかホワイトハウス日章旗を立てることが「勝利」を意
        味するわけではあるまい。・・・実際に戦争の結末をどう考えていた
        かを示す文書は、真珠湾に行きつくまでのプロセスでは見当たらない
        。・・・強いていえば、11月15日の大本営政府連絡会議で決まった
        「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」というのがこれにあたる。
        ・・・日本は極東のアメリカ、イギリスの根拠地を覆滅して自存自衛
        体勢を確立し、そのうえで蒋介石政府を屈服させるといい、イギリス
        はドイツとイタリアで制圧してもらい、孤立したアメリカが「継戦の
        意思なし」といったときが、この戦争の終わるときだという。
         この腹案を読んだとき、私は、あまりの見通しの甘さに目を回し
        た。ここに流れている思想は、すでて相手の意思にかかっているから
        だ。あるいは、軍事的に制圧地域を広げれば、相手は屈服するとの思
        いこみだけがある。
         日本がアジアに「自存自衛体勢を確立」するというが、それは具体
        的にどういうことだろうか。自存自衛体勢を確立したときとは一体ど
        ういうときか。アメリカ、イギリスがそれを認めず、半永久的に戦い
        を挑んできたならば日本はどう対応するつもりだろうか。蒋介石政府
        を屈服させるというが、これはどのような事態をさすのだろうか。ド
        イツとイタリアにイギリスを制圧してもらうという他力本願の、その
        前提となるのはどのようなことをいうのだろうか。しかし、最大の問
        題はアメリカが「継戦の意思なし」という、そのことは当のアメリカ
        政府と国民のまさに意思にかかっているということではないか。・・
         私は、こういうあいまいなかたちで戦争に入っていった指導者の責
        任は重いと思う。こんなかたちで戦争終結を考えていたから、3年8か
        月余の戦争も最後には日本のみが「継戦」にこだわり、軍事指導者の
        面子のみで戦うことになったのではないかと思えてならないのだ。
         ・・・真珠湾に行きつくまでに、日本側にはあまりにも拙劣な政策
        決定のプロセスがある。・・・戦争という選択肢を選ぶなら、もっと
        高踏的に、もっと歴史的な意義をもって戦ってほしかったと思わざる
        をえない。(筆者注:保阪正康氏はこのあと戦争の「歴史的意思」
        を概観している。まことに明晰で説得力のある考察だが、長くなる
        ので略す。読者各自ぜひ通読されたい)
         (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より引用、334ページ~)

       ※そしてもう一つ押さえておかなければならないことがある。
          実は、本当に太平洋戦争開戦に熱心だったのは、海軍だったとい
         うことである。
          そこには、「ワシントン軍縮条約」体制のトラウマがあった。
          1922(大正11)年、ワシントン会議において軍艦の保有比率の大
         枠をアメリカ5、イギリス5、日本3、と決められてしまった。その
         反発が海軍の中でずっと燻り続け、やがてアメリカ、イギリスを仮
         想敵国と見なしていったのである。昭和9年に加藤寛治海軍大将ら
         の画策で、ワシントン条約の単独破棄を強引に決めて、その後、一
         気に「大艦巨砲」主義の道を突き進んでいく経緯があった。対米英
         戦は、海軍の基本的な存在理由となっていた。
          またその後も、海軍の主流には対米英強硬論者が占めていく。特
         に昭和初年代に、ちょうど陸軍で「統制派」が幅を利かせていった
         頃、海軍でも同じように、中堅クラスの幹部に多く対米英好戦派が
         就いていったのだ。「三国同盟」に反対した米内光政山本五十六
         、井上成美などは、むしろ少数派であった。
          私が見るところ、海軍での一番の首謀者は、海軍省軍務局にいた
         石川信吾や岡敬純、あるいは軍令部作戦課にいた富岡定俊、神重徳
         といった辺りの軍官僚たちだと思う。
          特に軍務局第二課長の石川は、まだ軍縮条約が守られていた昭和
          8年に、「次期軍縮対策私見」なる意見書で「アメリカはアジア太
         平洋への侵攻作戦を着々と進めている。イギリス、ソ連も、陰に陽
         にアメリカを支援している。それに対抗し、侵略の意図を不可能に
         するには、日本は軍縮条約から脱退し、兵力の均等を図ることが絶
         対条件」と説いていた。いわば対米英強硬論の急先鋒であった。ま
         た弁が立ち、松岡洋右など政治家とも懇意とするなど顔が広かっ
         た。その分、裏工作も達者であった。
          そして他の岡、富岡、神も、同じようにやり手の過激な強硬論者
         であった。
          昭和15年12月、及川古志郎海相の下、海軍内に軍令、軍政の垣根
         を外して横断的に集まれる、「海軍国防政策委員会」というものが
         作られた。会は4つに分けられており、「第一委員会」が政策、戦
         争指導の方針を、「第二委員会」は軍備、「第三委員会」は国民指
         導、「第四委員会」は情報を担当するとされた。以後、海軍内での
         政策決定は、この「海軍国防政策委員会」が牛耳っていくことにな
         る。中でも「第一委員会」が絶大な力を持つようになつていった。
          この「第一委員会」のリーダーの役を担っていたのが、石川と富
         岡の二人であった。「第一委員会」が、巧妙に対米英戦に持ってい
         くよう画策していたのである。・・・(保阪正康氏著『あの戦争は
         何だったのか』新潮新書、pp.87-88より)

   ★大東亜戦争勃発(太平洋戦争、昭和16(1941).12.8~20年(1945).8.15)
       ※開戦の原動力となった中心的悪魔ども
         近衛文麿(東条の前の無責任首相)
         東条英機木戸幸一(「銀座の与太者」)、東条を首相に推薦)
           #東条英機の与太弁
              ・「戦争が終わるとは平和になったとき」
              ・「畢竟戦争とは精神力の戦いである。負けたと思っ
                たときが負けである」
             (筆者注:H14年から5年の長きに亘って首相の座にあり
              日本をさらにボロボロにした、小泉某によく似ている
              ではないか)。
           #木戸幸一(「銀座の与太者」)のやったこと
              アメリカとの戦争を回避しようとする願い、その試み
             を木戸はすべて潰しました。「国策遂行要領」から対米
             戦争の準備、決意を取り除こうとする、水野修身の望み
             を、内大臣の木戸は素知らぬ顔で通しました。対米外交
             交渉の基本方針の画定に秩父宮を参画させようとした高
             松宮の願いを、木戸は巧みに葬りました。陸軍大臣と中
             国撤兵の是非をめぐって総辞職した近衛文麿を、木戸は
             再度、首相に選ぼうとは露ほども考えませんでした。最
             後に山本五十六の参内したいという切願を木戸は容赦な
             く阻止し、平和を選ぶことができたであろう最後の機会
             を踏みにじりました。
              いったい、木戸幸一はどういうことを考えて、戦争を
             選んだのでしょう。(鳥居民氏著『山本五十六の乾坤一
             一擲』文藝春秋、pp.242-274)
         -----------------------------------------------------------
         陸軍省軍務局(武藤章(局長)、佐藤賢了(軍事課長))
         陸軍参謀本部(田中新一)
         星野直樹(東条内閣書記官長)
         岡敬純・長野修身(海軍)
         石原広一郎(民間、南進運動に積極的)
        (粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、pp.224-230)
       ※「大東亜の地域」:おおむねビルマ以東、北はバイカル湖以東の
         東アジア大陸、並びにおおむね東経180度以西すなわちマーシャル
         群島以西の西太平洋海域を示しインド、豪州は含まれない。
         また「大東亜戦争」とは、単に大東亜の地域において戦われる
         戦争という意味合いのものに過ぎなかった。
                    (瀬島龍三『大東亜戦争の実相』より)
              (筆者注:まったく、何と言う言い逃れであろうか)
                 
       ■官僚化した軍部が彼我の国民の命を無駄に費やした戦争
          日本陸軍は(1)その8割が旧式機で構成されている戦闘機隊を
         主力とし(2)一度も実践に投入したことがない新型戦闘機に頼っ
         て、欧米の航空先進国の空軍に立ち向かった。
        ※「陸軍は(わずかに)隼40機で、対英、米戦争につっ走った」
              (三野正洋氏著『日本軍の小失敗の研究』より)
       ■陸軍と海軍のばかばかしい対立(ほんの一部を紹介)
        ・20ミリ機関砲の弾丸が、規格が違っていて共用できない。
        ・空軍が独立せず。(陸軍航空部隊、海軍航空部隊)
        ・海軍向け、陸軍向け戦闘機。スロットル・レバーの操作が真反対
        ・ドイツの航空機用エンジン(ベンツ社、DB601型)のライセンス
         料の二重払い。同じエンジンを別々の独立した会社に依頼。
        ・陸軍の高射砲、海軍の高角砲
        ・陸軍の"センチ"、海軍の"サンチ"("サンチ"はフランス流?)
              (三野正洋氏著『日本軍の小失敗の研究』より)
       ■バカバカしい、教育といえぬ兵隊教育
          「行きあたりばったり」とか「どろなわ」とかいった言葉が
         ある。しかし、以上の状態は、そういう言葉では到底表現しき
         れない、何とも奇妙な状態である。なぜこういう状態を現出し
         たのか、どうしてこれほど現実性が無視できるのか、これだけ
         は何としても理解できなかった。そしてそれが一種の言うに言
         われぬ「腹立たしさ」の原因であった。
          第二次世界大戦の主要交戦国には、みな、実に強烈な性格を
         もつ指導者がいた。ルーズヴェルトチャーチルスターリン
         蒋介石ヒトラーーたとえ彼らが、その判断を誤ろうと方針を
         間違えようと、また常識人であろうと狂的人物であろうと、少
         なくともそこには、優秀なスタッフに命じて厳密な総合的計画
         を数案つくらせ、自らの決断でその一つを採択して実行に移さ
         す一人物がいたわけである。
          確かに計画には齟齬があり、判断にはあやまりはあったであ
         ろう、しかし、いかなる文献を調べてみても、戦争をはじめて
         二年近くたってから「ア号教育」(筆者注:対米戦教育)をは
         じめたが、何を教えてよいやらだれにも的確にはわからない、
         などというアホウな話は出てこない。確かにこれは、考えられ
         ぬほど奇妙なことなのだ。だが、それでは一体なぜそういう事
         態を現出したかになると、私はまだ納得いく説明を聞いていな
         いー-確かに、非難だけは、戦争直後から、あきあきするほど
         聞かされたがー-。 (山本七平氏著『一下級将校のみた帝国
         陸軍』文春文庫、pp.44-45)
       ■後方思想(兵站、補給)の完全なる欠乏
         日本軍内部:「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」
                 *******************
          兵站や補給のシステムがまず確立したうえで、戦闘を行うという
         のが本来の意味だろうが、初めに戦闘ありき、兵站や補給はその次
         というのでは、大本営で作戦指導にあたる参謀たちは、兵士を人間
         とみなしていないということであった。戦備品と捉えていたという
         ことになるだろう。実際に、日本軍の戦闘はしだいに兵士を人間扱
         いにしない作戦にと変わっていったのだ。
            (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より引用)

        ※そもそも大東亜戦争について日本軍部の食糧方針は、”現地自給”
         だった。熱帯ジャングルの豊かさという、今日までつづくひとりよ
         がりの妄想があったのだろう。土地の農民さえ、戦争が始まると、
         商品として作っていた甘蔗やタバコを止めて、自分のための食品作
         物に切り換えている。
          食糧が問題であることにうすうす気づいた将校たちが考え出した
         のは「自活自戦=永久抗戦」の戦略である。格別に新しい思想では
         ない。山へ入って田畑を耕し折あらばたたかう。つまり屯田兵であ
         る。ある司令官の指導要領は次の如く述べている。
           「自活ハ現地物資ヲ利用シ、カツ甘藷、玉萄黍ナドヲ栽培シ、
          現地自活ニ努ムルモ衛生材料、調味品等ハ後方ヨリ補給ス。ナホ
          自活ハ戦力アルモノノ戦力維持向上ヲ主眼トス」
          この作戦の虚妄なることは、実際の経過が明らかにしているが、
         なおいくつか指摘すると、作物収穫までには時がかかるが、その点
         についての配慮はいっさい見られない。「戦力アルモノ」を中心と
         する自活は、すでにコレラマラリアデング熱、栄養失調に陥っ
         た者を見捨てていくことを意味する。こうして多くの人間が死んだ
          。 (鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』朝日選書;1994:168)

        ※井門満明氏(当時兵站参謀)
             「兵站思想には戦争抑止力の意味があります。という
            のは、冷静に現実を見つめることができるからです。冷
            徹に数字の分析をして軍事を見つめることが、兵士を人
            間としてみることになり、それが日本には欠けていたと
            いうことになります」
            (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より孫引き)
       ■日本軍のやり方は、結局、一言でいえば「どっちつかずの中途半端」
        であった。それはわずかな財産にしがみついてすべてを失うケチな男
        に似ていた。中途半端は、相手を大きく傷つけ、自らも大きく傷つ
        き、得るところは何もない。結局中途半端の者には戦争の能力はない
        のだ。われわれは、前述のように、「戦争体験」も「占領統治体験」
        もなく、異民族併存社会・混血社会というのも知らなかったし、今も
        知らない。(山本七平氏著『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、
         p.95)

       ■死者約310万人:日本国民の実に1/25(しかも若者)が戦死した。
        (戦場での傷病により戦後亡くなった者を含めると500万人を越える?)
       ■「俘虜ノ待遇ニ関スル条約」への数々の違反
         1.シンガポールでの抗日華僑義勇軍約5000人の殺害
                            (1942年2月、辻政信
         2.「ラハ事件」:アンボン島侵攻作戦時豪州兵集団虐殺
                (1942年2月、責任者:畠山耕一郎)
         3.米・比軍の約8万5000人の「死の行進」(フィリピン、バターン
          半島、1942年4月。約120km。責任者:本間正晴中将(1946.4.3に
          銃殺刑に処せられる)。但し本間正晴は「穏健な人道主義者」
          とされている。文芸春秋 2007;6:119-120)
           米兵1200人、フィリピン兵16000人が死亡(虐殺、行方不明)。
         4.オランダ領インドネシアボルネオ島を主とする捕虜の虐待
         5.タイ北西部、泰緬鉄道(筆者注:ビルマへの補給を確保するた
          めタイのノンプラドックからビルマのタムビザヤ間415kmに建設
          された鉄道)建設に関する多数の捕虜の死亡(1942~1943年)。
          (連合国捕虜65000人、アジア人労働者30万人を導入。うち
          16000人が飢餓と疾病と虐待により死亡)。    
         6.その他
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           <古山高麗雄氏『断作戦』(文春文庫)pp.284-285より>
          帝国陸軍シンガポールで、何千人もの市民を虐殺したし、帝国
         海軍はマニラで、やはり何千人もの市民を虐殺した。シンガポール
         では、同市に在住する華僑の十八歳から五十歳までの男子を指定の
         場所に集めた。約二十万人を集めて、その中から、日本側の戦後の
         発表では六千人、華僑側の発表では四万人の処刑者を選んで、海岸
         に掘らせた穴に切ったり突いたりして殺した死体を蹴り込み、ある
         いはそれでは手間がかかるので、船に積んで沖に出て、数珠つなぎ
         にしたまま海に突き落とした。抗日分子を粛清するという名目で、
         無愛想な者や姓名をアルファベットで書く者などを殺したのだそう
         である。
          日本軍はシンガポールでは、同市を占領した直後にそれをした
         が、マニラでは玉砕寸前の守備隊が、女子供まで虐殺し、強姦もし
         た。アメリカの発表では、殺された市民の数は八千人である。これ
         には名目などない、狂乱の所行である。
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       # 明治38年式歩兵銃でM1カービン機関銃に歯向かった
       # 前線の下士官の一人は「これは戦争とは言えなかったな」と呟いた。

      ※日本陸軍は「機械力の不足は精神力で補うという一種華麗で粋狂な夢想」
       に酔いつづけた。
      ※太平洋戦争のベルは、肉体をもたない煙のような「上司」もしくはその
      「会議」というものが押したのである。そのベルが押されたために幾百万
       の日本人が死んだか、しかしそれを押した実質的責任者はどこにもいな
       い。東条英機という当時の首相は、単に「上司」というきわめて抽象的
       な存在にすぎないのである。
              (司馬遼太郎氏著『世に棲む日々<三>』より引用)     
      ※まったく馬鹿な戦争をしたもんだと、黒い海を見つめていた。それに
       しても腹がたつのは東京の馬鹿者たちだった。何が一億総特攻だ。これ
       が一億特攻か。話のほかだ。怒りがますます込み上げた。こうなったら
       なにがなんでも日本に帰り、横浜の日吉台の防空壕に潜んでいる連合艦
       隊の参謀たちに毒づいてやる。そうしなければ、死んでいった者どもに
       、何といってわびればいいのだ。(巡洋艦『やはぎ』、原為一艦長)

    ●開戦前の参謀本部:田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦課長、辻政信班長
               (この3人の徹底した対米開戦派に牛耳られていた)
             ※服部と辻はノモンハン大敗北の元凶。
             ※特に辻政信は「作戦の神様」と言われていた。(◎_◎)
                「我意強く、小才に長じ、いわゆるこすき男にし
               て、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注
               意すべき男なり」(山下奉文 評)
             ※服部卓四郎はおめおめと生き残って、あろうことか敗
              戦後もGHQ情報部ウィロビー将軍などと結びついて再軍
              備を画策した。性懲りのないアホウはいつの世も存在
              するものだ。
             ※このほかの腐敗卑怯狡猾悪魔軍人の典型例を掲げてお
              こう。
               荒木貞夫、真崎甚三郎、川島義之、山下奉文、福栄
               真平、富永恭次、寺内寿一、山田乙三、牟田口廉也
    ●一縷の望み:東郷茂徳外務大臣(当時、1942年元旦、外務省にて)
       「外務省職員はこぞって、早期終戦に努力せよ」
      この東郷茂徳は1948年、極東軍事裁判でA級戦犯にされ、憤慨しつつ獄中
     で亡くなった。東郷外相は、外務省によって戦犯にされたという疑いが濃厚
     なのである。

    ★[無残な結果]:真珠湾奇襲という卑怯で悪辣な行動は後に禍根を残した。
             南方戦線での兵の使い捨てと玉砕。他民族を差別・蹂躙。
            ※特殊潜航艇:潜水艦から発射する魚雷に人間を搭乗させて
                   百発百中を狙うという考えで5隻の特殊潜航
                   艇が出撃した。この悪魔の考えは後に昭和
                   18年5月頃「人間魚雷」へとさらに堕落した
                   のであった。
       ・「言論出版集会結社等臨時取締法」発布(S16.12):言論統制
       ●マレー作戦(シンガポール攻略など、S16.12.8~S17.2.15)
          司令官山下奉文ほか、西村、松井、牟田口が関わった。シンガ
         ポールは昭南島と市名を変えられ軍政が敷かれ、日本軍は住民か
         ら言葉を奪った。
         山下奉文: 「これから、お前らを天皇陛下の赤子にしてやる。
               ありがたいと思え。・・・」
             (何たる傲慢、何たる無知か。唖然として絶句しかない)
       ●比島攻略戦開始(S16.12)
          フィリピンではこの時から、レイテ沖海戦を経て敗戦までの3年
          8か月の間に約51万人の将兵、民間人が死亡した。
          フィリピンの日本軍は、住民と敵対し虐殺の行為者となってい
         た。(後半部は藤原彰氏著『餓死(うえじに)した英霊たち』
          pp.112-113より)
       ・マニラ陥落(S17.1.2)
       ・ロンドンのセント・ジェームス宮殿にドイツに国土を占領された亡
        命政府が集まり、戦争犯罪に関する連合国間の最初の国際会議が開
        催され、戦争犯罪処罰の宣言を発表(S17.1)
       ・ダグラス・マッカーサー:"I shall return."
          フィリピン、コレヒドール島(S17.5陥落)を脱出(S17.3.12)。
         後には在オーストラリアの連合軍と密接に連絡する地下ゲリラ組
         織が残った(残置諜報)。
         (ミンダナオ島ダバオには、東南アジア最大の日本人コロニーが
          あった。日本人移民がほとんど政府の力を借りずに築いた町だ
          った。戦争当時約2万人が住んでいたが戦争の被害者となった
         (鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』朝日選書;1994:165)。
       ●シンガポール占領(S17.2.15)
       ●ラングーン(イギリス領ビルマ)を占領(S17.3.8)
       ●ジャワ島に上陸(S17.3.1)しオランダ軍を降伏させた(S17.3.9)。
          日本軍は各国・地域の首都を占領すると、まもなく
         して軍政を開始しました。フィリピンは陸軍第十四軍、
         ジャワ島は第一六軍、マラヤとスマトラ島は第二五軍、
         ビルマは第一五軍がそれぞれ担当し、オランダ領ボルネ
         オやセレベス(スラウェシ)島以東の島々は、海軍が担
         当しました。日本軍は、イギリス領マラヤやオランダ領
         東インドという枠組みでもなければ、戦後独立した国家
         とも違う枠組みで、統治したのです。
          ここで勘違いをしてもらっでは困るのは、軍政と言っ
         てもそのトップが軍人であっただけということです。実
         際に行政を司った人のなかには、日本の官庁から派遣さ
         れた官僚などが多く含まれていました。また、「資源の
         獲得」に従事したのは、軍から受命した一般企業で、積
         極的に進出しました。海軍担当地域は、「未開発」地域
         が多いとみなされたことから、日本が永久確保すべき地
         域とされ、「民政」がおこなわれました。しかし、「民
         政」とは名ばかりで、陸軍に勝るとも劣らない強権的な
         「軍政」がおこなわれました。いずれも、軍人が大きな
         力をもっていましたが、官も民も積極的に協力しました。
         その意味で、軍人だけに戦争責任を押しっけるのは、問
         題があると言えます。(早瀬晋三氏著『戦争の記憶を歩
         く 東南アジアの今』岩波書店、p.9)。
       ●ドーリトル空襲:日本本土・東京が初めて空襲される(S17.4.18)
          アメリカ空母ホーネットから発進したB25が東京、名古屋、関西
         方面を初空襲。(作戦名『シャングリラ』、S18年ルーズベルト
         より命名される)。当時の防衛総司令官東久邇宮稔彦は捕虜とな
         った米人を処刑してしまった。
       ●妨害と干渉の翼賛選挙(S17.4.30、第21回総選挙)
         近衛文麿衆議院議員の任期を法律を作って1年先延ばしして選挙
        を行った(国家の方針に全員一致で賛成する翼賛議会体制の確立)。
         投票率83.1%で翼賛政治体制協議会からの推薦候補は381人(466人
        中)と80%以上が当選。非推薦候補は85人のみ。
           非推薦候補鳩山一郎:「だんだんと乱暴の干渉をきく。憲法
             は実質的に破壊さる。選挙にして選挙に非らず。当局は
             蓮月尼の歌でもよく味へ。
               討つ人も討たるる人も心せよ おなじ御国の御民なら
               ずや」
           (清永聡氏著『気骨の判決』新潮新書、p.40)
       ・早川忠氏(筆者の親友早川芳文君の父君、T15.11.5生~H8.1.11病没)
        乙種第18期飛行予科練習生(1476名)として、土浦海軍航空隊に入
        隊。16歳(S17.5.1)(倉町秋次『豫科練外史<4>』教育図書研究
        会、1991年、p.286)
       ・珊瑚海海戦(MO作戦、S17.5.7~8)
          空母空母の初めての激突。翔鶴航行不能、ヨークタウン大破、
         祥鳳とレキシントン沈没で痛み分け。日本の侵攻作戦はここまで。
       ●ミッドウェー海戦での惨敗(S17.6.5)
          正規空母四隻、重巡一隻を喪失。優秀なパイロットと整備員を
         失う。密閉型格納庫方式の採用が空母の命取りになった。さらに
         航空機損失322機、失った兵員3500名に達する壊滅的敗北を喫した。
          (作戦の責任者は順調に昇進した。お笑い種である)。
          澤地久枝氏著『滄海よ眠れ(-)』(文春文庫)によれば、淵田(美
         津雄)戦史(淵田・奥宮共著『ミッドウェー』)の中の「運命の五
         分間」説が大ウソであって、現実は艦隊司令部の”敵空母出現せ
         ず”の思い込みからきた作戦ミスだった。淵田は中佐であり海軍指
         揮官であり、事実までねじ曲げる軍隊の恐ろしさが、ここにも首を
         だしている。
       ●服部卓四郎と辻政信の独断による最悪のポート・モレスビー陸路
        攻略の無謀さ(S17.7.18-S18.1.1)
         標高4073mのスタンレー山を越えてニューギニア北岸のブナから
        ポート・モレスビーをめざすという行程は実際距離340kmの陸路進
        行で無謀極まりない作戦だとわかっていたが、田中-服部-辻という
        相変わらずのバカ参謀どもにより独断で行われ、飢餓地獄で終わっ
        た。辻はここでも責任を問われなかった。(藤原彰氏著『餓死(う
        えじに) した英霊たち』青木書店、pp.37-43)
                  -----------------------
         「食糧の欠乏は、的弾以上の徹底的損害を我が軍に与えるよう
         になってきた。私の大隊の将兵もみんな飢餓で体力を消耗しき
         ってしまい、頬は落ち髪は伸び放題となり、眼球は深く凹んで
         底に異様な光が残った。そして顎はとび出し、首は一握りほど
         に細り、気力なく足を引きずってよぼよぼと歩き、着ているも
         のは破れ、裸足で棒のようにやせた腕に飯盒をぶらさげ、草を
         摘み水を汲んで歩く姿はどこにも二、三十才の年齢は見られず、
         老いさらばえた乞食といった様子だった。・・・この栄養失調
         の衰弱した体に一たび下痢が始まりマラリアがあたまをもたげ
         ると、血便を下し、40度前後の高熱に襲われ・・・発病までは
         一粒の米でも貪り食った者が、今度は戦友の心づくしの粥すら
         欲しないようになり、水ばかり飲んで喘いでいるのだった。
         ・・・患者はたいてい1週間も発熱を続けると脳症を起こして
         うわごとを言い始め、嘘のように脆く、ちょうど晩秋の落葉の
         ようにあっけなく死んだ。・・・(結局)7割は病死だった」
                     (小岩井第二大隊長の回想録より)
         (藤原彰氏著『餓死(うえじに) した英霊たち』青木書店、
          pp.45-46)