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バトシーラー日記

あまり知られていない様々な真実の知識をお届けします


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近現代日本という暗黒社会Part1


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第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」 - 井原医師会

 【日本という怪しいシステムに関する一見解】(初稿1999.10.29)
 ※ 筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。
  一体それはどこから来るのだろうか?。小さい島国で飽くことなく続いた権力闘
  争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。
   そして現在、政財官トライアングル(=権力階級)は資本主義と社会主義を極
  めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、操作)をもって国民を
  飼い馴らしている。いまや日本は権力階級の「私物国家」に成り果てており、殆
  んどの国民が惰眠を貪っているあいだに、徐々に構築された巨大なピラミッド型
  の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が民主主義の萌芽さえ阻んでいる。
   まさに「国民の命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪
  しいシステム」の本質を分析してみた。
    ( 『潜在能力』とは社会の枠組みの中で、今その人が持っている所得や資産
     で将来何ができるかという可能性のことである。詳しくはアマルティア・
     セン著『不平等の再検討』を参照)

 ※ 日本の「戦争被害受忍論」(最高裁判所 昭和62年6月26日 第二小法廷判決)
   戦争犠牲ないし戦争損害は、国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民の
  ひとしく受忍しなければならなかったところ(戦争受忍義務)であって、これに
  対する補償は憲法の全く予想しないところというべきである。(奥田博子氏著
  『原爆の記憶』、慶應義塾大学出版会、p.73)

 ※ 昭和天皇の在位が半世紀に達した1975(昭和50)年10月、天皇ははじめてーー
  また唯一ともなったーー公式の記者会見を皇居内で行なっている。日本記者クラ
  ブ理事長が代表質問に立ち、前月の訪米に際しての印象などの問答が済んだのち、
  ロンドン・タイムズの中村浩二記者が立って関連質問をした。
    記者:「天皇陛下ホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な
       戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を
       感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、
       陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられ
       ますかおうかがいいたします」。
    天皇:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研
       究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題については
       お答えが出来かねます」。(朝日新聞、1975年11月1日)
                  (後藤正治氏著『清冽中央公論社、p.155)

 ※ 「日本」
   何と言う不思議な国であろう。
  歴史的結果としての日本は、世界のなかできわだった異国というべき国だった。
  国際社会や一国が置かれた環境など、いっさい顧慮しない伝統をもち、さらには、
  外国を顧慮しないということが正義であるというまでにいびつになっている。外
  国を顧慮することは、腰抜けであり、ときには国を売った者としてしか見られな
  い。その点、ロシアのほうが、まだしも物の常識とただの人情が政治の世界に通
  用する社会であった。   (司馬遼太郎氏著『菜の花の沖<六>』より引用)

 ※ この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望がない。
                (村上龍氏著『希望の国エクソダス』より引用)

 ※ 国家の詐術を鶴見さんは、アメリカによる原爆投下にみる。
   「原爆はなぜ落とされたか。それも二つも。公式にはアメりカ兵の被害を少な
  くするためとされている。しかし、それはウソだ。当時の日本に連合艦隊はなく、
  兵器を作る工場もない。米軍幹部は大統領に原爆投下の必要はないと進言もして
  いた」
   投下の主な理由は二つあるという。「一つは、原爆開発の膨大な予算を出した
  議会に対し、原爆の効果を示したかったから。つまりカネのためなんだ。そして
   2個の原爆は種類が異なっていた。二つとも落として科学的に確かめようという
  のが第2の理由。人間のつくる科学には残虐性が含まれているんだ」。
   このウソをアメリカ政府はいつまでつき続けるのか、と鶴見さんは問う。「ア
  メリカという国家がなくなるまででしょう」。
   いちどきに何十万もの人を殺す原爆ができて、国家はより有害なものになった、
  という。「日本はそのことにいまだに気づかず、世界一の金持国である米国の懐
  に抱かれてしまい、安心しちゃっている。すさまじいことですよ」。
  (『戦後60年を生きる 鶴見俊輔の心』朝日新聞朝刊 2005年11月25日号 p.21)

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              【この国の戦争とは】

              <幸徳秋水の非戦論>
    日清戦争は仁義の師だとか、膺懲の軍だとか、よほど立派な名義であっ
   た。しかもこれがために我国民は何ほどの利益恩沢に浴したのであるか、
   数千の無邪気なる百姓の子、労働者の子は、命を鋒鏑(刀と矢、武器)に
   落として、多くの子を失うの父母、夫を失うの妻を生じて、しかして齏
   (もたら)しえたり、伊藤博文大勲位侯爵、陸軍将校の腐敗、御用商人
   の暴富である。(『日本人』第192号。190.3.8.5)
     (山室信一氏著『憲法9条の思想水脈』朝日新聞出版、pp.148-149)

          <日本軍の自分たちの兵士に対する残虐性>
    日本の軍隊の伝統には独特な要素があった。例えば、ドイツ軍では「敵を
   殺せ」とまず命じられたが、日本軍は殺すこと以上に死ぬことの大切さを説
   いた。この日本軍の自分たちの兵士に対する残虐性は、19世紀後半の近代化
   の初期段階においてすでに顕著に現れている。1872年に発令された海陸軍刑
   律は、戦闘において降伏、逃亡する者を死刑に処すると定めた。もちろん良
   心的兵役拒否などは問題外であった。軍規律や上官の命令に背くものは、そ
   の場で射殺することが許されていた。さらに、江戸時代の「罪五代におよび
   罰五族にわる(ママ)」という、罪人と血縁・婚姻関係にある者すべてを処
   罰する原則と同様に、一兵士の軍規違反は、その兵士のみならず、彼の家族
   や親類にまで影響をおよぼすと恐れられていた。個人の責任を血族全体に科
   し、兵士個人に社会的な圧力をかけることで、結果的に規律を厳守させてい
   たのである。この制度によって、兵士の親の反対を押さえつけ、兵士による
   逸脱行為はもちろんのこと、いかなる規律違反も未然に防止できたのである。
   さらに、警察国家化が急激に進むにつれて、1940年代までに、国家の政策に
   批判的な著名な知識人や指導者が次々と検挙・投獄され、国家に反する意見
   を公にすることは極めて困難になった。
           (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.7-8)
    結局において、軍法会議から裁判の通知はおけないが、憲兵隊から死刑に
   なった、つまり死亡したということを知らされ、それによって死亡通知を書
   いた。裁判を省略されているという疑いが濃厚である。つまり、”略式処刑”
   というものは無かったとは言えないように思われるのである。判決書(ほか
   一切の訴訟記録)は存在しないうえにに前科通知もなされた形跡がない。本
   人が事実適法な裁判を受けたとする証拠はない。
        (NHK取材班・北博昭氏著『戦場の軍法会議NHK出版、p.180)

         <日本の軍隊:兵士の人格と生命の完全な無視>
    自発性を持たない兵士を、近代的な散開戦術の中で戦闘に駆り立てるため
   には、命令にたいする絶対服従を強制する以外にはなかった。世界各国の軍
   隊に比べても、とくにきびしい規律と教育によって、絶対服従が習性になる
   まで訓練し、強制的に前線に向かわせようとしたのである。そのためには、
   平時から兵営内で、厳しい規律と苛酷な懲罰によって兵士に絶対服従を強制
   した。それは兵士に自分の頭で考える余裕を与えず、命令に機械的に服従す
   る習慣をつけさせるまで行なわれた。兵営内の内務班生活での非合理な習慣
   や私的制裁もそのためであった。「真空地帯」と呼ばれるような軍隊内での
   兵士の地位も、こうした絶対服従の強制のあらわれであった。このような兵
   士の人格の完全な無視が、日本軍隊の特色の一つである。すなわち厳しい規
   律と苛酷な懲罰によって、どんな命令にたいしても絶対に服従することを強
   制したのである。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、pp.4-5)
            ****************************
    兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に極端に欠けていたのが日本軍隊
   の特徴であった。圧倒的勝利に終った日清戦争をみてみると、日本陸軍の戦
   死、戦傷死者はわずか1417名に過ぎないのに、病死者はその10倍近くの11894
   名に達している。・・・これは軍陣衛生にたいする配慮が不足し、兵士に苛
   酷劣悪な衛生状態を強いた結果である。
    日清戦争では悪疫疾病に兵士を乾したが、日露戦争の場合は兵士を肉弾と
   して戦い、膨大な犠牲を出した。火力装備の劣る日本軍は、白兵突撃に頼る
   ばかりで、ロシア軍の砲弾の集中と、機関銃の斉射になぎ倒された。・・・
   旅順だけでなく、遼陽や奉天の会戦でも、日本軍は肉弾突撃をくりかえし、
   莫大な犠牲を払ってようやく勝利を得ている。・・・
    日露戦争後の日本軍は、科学技術の進歩、兵器の発達による殺傷威力の増
   大にもかかわらず、白兵突撃万能主義を堅持し、精神力こそ勝利の最大要素
   だと主張しつづけた。その点では第一次世界大戦の教訓も学ばなかった。兵
   士の生命の軽視を土台にした白兵突撃と精神主義の強調が、アジア太平洋戦
   争における大きな犠牲につながるのである。
    兵士の生命の軽視がもっとも極端に現れたのが、補給の無視であった。兵
   士の健康と生命を維持するために欠かせないのが、兵粘線の確保であり、補
   給、輸送の維持である。ところが精神主義を強調する日本軍には、補給、輸
   送についての配慮が乏しかった。「武士は食わねど高楊子」とか、「糧を敵
   に借る」という言葉が常用されたが、それは補給、輸送を無視して作戦を強
   行することになるのである。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書
   店、pp.10-11)

            <権力は弱みをついて脅すのだ>
   「天皇のために戦争に征ったという人もいるが、それは言葉のはずみであっ
  て関係ないですね。それより、戦争を忌避したり、もし不始末でもしでかした
  ら、戸籍簿に赤線が引かれると教えられたので、そのほうが心配でしたね。自
  分の責任で、家族の者が非国民と呼ばれ、いわゆる村八分にあってはいけんと、
  まず家族のことを考えました」(戦艦『大和』の乗員表専之助氏の述懐)
         (辺見じゅん氏著『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.276)

             <戦争は権力のオモチャだ>
   国家権力は国民に対する暴力装置であり、その性格は佞奸邪知。その行動原則
  は国民をして強制的、徹底的に情報・言論・行動・経済の国家統制の完遂を目論
  むことである。従って異論や権力に不都合な論評や様々な活動は抹殺、粛清され
  る。畢竟、国家権力とは、国民を蹂躙・愚弄・篭絡する「嘘と虚飾の体系」にほ
  かならないということになる。
   さらに言えば「戦争」は権力に群がる化物どものオモチャである。犠牲者は全
  てその対極に位置するおとなしい清廉で無辜の民。私たちは決して戦争を仕掛け
  てはならないことを永遠に肝に銘じておかなければならない。(筆者)

               <戦争は起きる>
   誰しも戦争には反対のはずである。だが、戦争は起きる。現に、今も世界のあ
  ちこちで起こっている。日本もまた戦争という魔物に呑みこまれないともかぎら
  ない。そのときは必ず、戦争を合理化する人間がまず現れる。それが大きな渦と
  なったとき、もはや抗す術はなくなってしまう。
           (辺見じゅん氏著『戦場から届いた遺書』文春文庫、p.13)

               <人間の屑と国賊
   人間の屑とは、命といっしょに個人の自由を言われるままに国家に差し出して
  しまう輩である。国賊とは、勝ち目のない戦いに国と民を駆り立てる壮士風の愚
  者にほかならない。(丸山健二氏著『虹よ、冒涜の虹よ<下>』新潮文庫、p46)

               <軍人はバカだ>(古山高麗雄
   軍人はバカだからです。勉強はできますよ。紙の上の戦争は研究していますよ。
  だけど人間によっぽど欠陥があったんですよ。(保阪正康氏著『昭和の空白を読
  み解く』講談社文庫、p.93)   

               <軽蔑する人たちは>(吉本隆明
   ぼくの軽蔑する人たちは戦争がこやうと平和がこやうといつも無傷なのだ。
      (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.618からの孫引き)

        <戦争を扇動するのは>(ヴォーヴナルグ
   戦争を扇動するのは悪徳の人で、実際に戦うのは美徳の人だ。
   (辻原登氏著『許されざるもの<上>』毎日新聞社、p.276)

              <非情な国家権力を弾劾する>(鶴彬)
          手と足をもいだ丸太にしてかへし
          コウリャンの実りへ戦車と靴の鋲
          胎内の動きを知るころ骨がつき
    鶴彬:本名喜多一二(かつじ)、M42生、プロレタリア・リアリズム「川柳」
   作家の先頭に立って軍国主義体制に抵抗。S12.12.3に治安維持法違反の容疑
   で逮捕された。留置場内で赤痢にかかり豊多摩病院に隔離され、S13.9.14未明
   にベッドに手錠をくくりつけられたまま獄死した。(荘子邦雄氏著『人間と
   戦争』朝日新聞出版、pp.280-282より)

           <内村鑑三「戦争廃止論」(1903年6月)>
   「余は日露非開戦論者であるばかりでない、戦争絶対的廃止論者である。戦争
  は人間を殺すことである、しこうして人を殺すことは大罪悪である、しこうして
  大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない」
             (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、p.209)

           <戦争をなくす国にせなあかん>
  そういえばぼく、ハルビンで日本人が人民裁判にかかってるのを見ました。警察
 署長とか、特務機関の人がつかまってね。この人民裁判は、それに参加した人民が
 もう、”タース(殺せ)!”の一言ですよ。この人間はこういうことをしたから
 ”タース”人民裁判とはそんなものです。どっちにしたって、勝ったものが負けた
 ものを裁くのに、言い訳も何もない。だから戦争に負けた国の人間はあわれだ。自
 分たちがあわれな目に遭うてきたから、こんど、よその国をあわれな目に遭わせて
 いいと、そういうことは成り立たないから、ぼくらは日本を戦争をなくす国にせな
 あかん、と思う。(藤山寛美氏著『あほかいな』日本図書センター、p.81)

          <戦争は大資本家や大地主の金儲けのため>
   恥ずかしいことだが、今までおれは戦争は台風のように自然に起こるものだと
  ばかり思っていたが、とんでもないことだった。戦争は大資本家や大地主の金儲
  けのためだったのだ。直接の仕掛人は軍隊だが、彼らはそのうしろで巧妙に糸を
  引いていたのだ。表面では「聖戦」だの「東洋平和のため」などともっともらし
  いことを言いながら、その実、戦争は願ってもない金儲けの手段だったのだ。そ
  う言われれば、おれの乗っていた武蔵の場合にも、それがそのまま当てはまる。
   武蔵は三菱重工業株式会社長崎造船所でつくった艦だが、むろんあれだけの大
  艦だから、請け負った三菱はきっとしこたま儲けたにちがいない。おそらく儲け
  すぎて笑いがとまらなかったろう。しかもそれをつくった三菱の資本家たちは誰
  一人その武蔵に乗り組みはしなかった。それに乗せられたのは、たいていがおれ
  のような貧乏人の兵隊たちだったのだ。そしてその大半は武蔵と運命を共にした
  が、おれたちがシブヤン海で悪戦苦闘している間、三菱の資本家たちは何をして
  いたのか。おそらくやわらかな回転椅子にふかぶかと腰を沈めて葉巻でもふかし
  ながらつぎの金儲けでも考えていたのに違いない。
        (渡辺清氏著『砕かれた神』(岩波現代文庫)、p.247-248より)

    ◎儲けてゆくのはかれらだ。死んでゆくのはわれわれだ。
    (阿部浩己・鵜飼哲森巣博氏著『戦争の克服』集英社新書、p.198より)
    ◎「尻ぬぐいをするのはいつでもイワンだ」(ロシアの諺、戦争を始めるの
     は資本家やファシストだが、尻ぬぐいをさせられるのは無名の兵隊だ)。
            (高杉一郎氏著『極光のかげに』岩波文庫、p.83より)

         <華族や政府の高位・高官は自己安全に狂奔していた>
   「金持や政財界で、死んだ人がいますか。憲兵特高とつながりのあった有力
  者たちには、情報が流れている。長岡では、空襲のまえに避難勧告の伝単が多量
  にまかれていた。それなのに、一般の市民にはすこしもつたえられていない。神
  風が吹く、日本はかならず勝つ。こんなバカな宣伝をして市民を愚弄していたん
  じゃありませんか。そんな人たちはみな、捕虜収容所のほうへ逃げて助かってい
  るんだ。子供をもつ母親たちは、子供を抱きかかえたまま、死んだんじゃありま
  せんか。いまだに忘れられません。・・・」(長岡市、新保和雄氏の話より)
                 (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.93)

              <ひっ殺してゆけと言った>
   私の連隊である戦車第一連隊は戦争の末期、満州から連隊ごと帰ってきて、北
  関東にいた。東京湾相模湾に敵が上陸すれば出撃する任務をもたされていたが
  、もし敵が上陸したとして、「われわれが急ぎ南下する、そこへ東京都民が大八
  車に家財を積んで北へ逃げてくる。途中交通が混雑する。この場合はどうすれば
  よろしいのでありますか」と質問すると、大本営からきた少佐参謀が、「軍の作
  戦が先行する。国家のためである。ひっ殺してゆけ」といった。
               (司馬遼太郎氏著『歴史の中の日本』他より引用)

          <今後2千万人の日本人を殺す覚悟で・・・>
   会談中に大西軍令部次長が入室し、甚だ緊張した態度で雨総長に対し、米国の
  回答が満足であるとか不満足であるとか云ふのは事の末であつて根本は大元帥陛
  下が軍に対し信任を有せられないのである、それで陛下に対し斯く斯くの方法で
  勝利を得ると云ふ案を上奏した上にて御再考を仰ぐ必要がありますと述べ、更に
  今後二千万の日本人を殺す覚悟でこれを特攻として用ふれば決して負けはせぬと
  述べたが、流石に両総長も之れには一語を発しないので、次長は自分に対し外務
  大臣はどう考へられますと開いて来たので、自分は勝つことさえ確かなら何人も
  「ポツダム」宣言の如きものを受諾しようとは思はぬ筈だ、唯勝ち得るかどうか
  が問題だと云つて皆を残して外務省に赴いた。そこに集つて居た各公館からの電
  報及放送記録など見て益々切迫して来た状勢に目を通した上帰宅したが、途中車
  中で二千万の日本人を殺した所が総て機械や砲火の餉食とするに過ぎない、頑張
  り甲斐があるなら何んな苦難も忍ぶに差支へないが竹槍や拿弓では仕方がない、
  軍人が近代戦の特質を了解せぬのは余り烈しい、最早一日も遷延を許さぬ所迄来
  たから明日は首相の考案通り決定に導くことがどうしても必要だと感じた。
  (昭和20年8月13日、最高戦争指導会議でのできごとを東郷茂徳が日記に残してお
  り、上記引用は保阪正康氏著『<敗戦>と日本人』ちくま文庫、p.242-243より)

               <「散華」(さんげ)>
   「散華」とは四箇法要という複雑な仏教法義の一部として、仏を賞賛する意味
  で華をまき散らす事を指す。軍はこの語の意味を本来の意味とは全く懸け離れた
  ものに変え、戦死を「(桜の)花のように散る」ことであると美化するために利
  用したのである。 (大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店より)

              <政府によって「殺された」>
   戦争の最大の皮肉は、若者たちが最期の瞬間が近づくにつれて、ますます愛国
  心を失ってゆくという事実である。入隊後の基地での生活を通じて、日本の軍国
  主義の真相を目のあたりにした若者たちは、情熱も気力も失いながら、もうどう
  しようもなく、死に突入して行った。
           (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.35-36)
   隊員やその遺族が証言するように、彼らは政府によって「殺された」のである。
             (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.49)
  **********************************************************************
            【対米従属への訣別のために】

   保守ナショナリストの間にも、対米従属状態への不満がないわけではない。し
  かし彼らの多くは、日米安保体制への抗議を回避し、「アメリカ人」や「白人」
  への反感という代償行為に流れてしまっている。彼らのもう一つの代償行為は、
  改憲自衛隊増強の主張、そして歴史問題や靖国神社、国旗・国歌といったシン
  ボルの政治だが、これもアジア諸地域の反発を招き、さらに対米従属を引きおこ
  す結果となる。・・・アジア諸国の対日賠償要求をアメリカの政治力に頼って回
  避した時点から、日本の対米従属状態は決定的となったのである。
   さらに保守勢力の代償行為は、対米関係をも悪化させる。アメリカの世論には、
  日本の軍事大国化を懸念する声が強い。・・・さらに複雑なのは、対米軍事協力
  法案であるガイドライン関連法は、自衛隊幹部すら「要するに我々を米軍の荷物
  運びや基地警備など、使役に出す法律」だと認めているにもかかわらず、「日本
  の軍事大国化の徴候」として報道する米メディアが少なくなかったことである。
  そのため、第九条の改正はアメリカ政府の意向に沿っているにもかかわらず、米
  欧のメディア関係者の間では、「第九条を変えるとなれば、米欧メディアの激し
  い反応は確実」という観測が存在する。
   すなわち、対米従属への不満から改憲自衛隊増強、あるいは歴史問題などに
  代償行為を求めれば求めるほど、アジア諸国から反発を買い、欧米の世論を刺激
  し、アメリカ政府への従属をいっそう深めるという悪循環が発生する。この悪循
  環を打破するには、アメリカ政府への従属状態から逃れてもアジアで独自行動が
  可能であるように、アジア諸地域との信頼関係を醸成してゆくしかない。その場
  合、第九条と対アジア戦後補償は、信頼醸成の有力な方法となるだろう。
          (小熊英二氏著氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.820)

  **********************************************************************
     【『超帝国主義国家アメリカの内幕』(国際収支赤字の克服戦略)】

   この新たな帝国主義国家資本主義形態が目新しいのは、経済的余剰を吸い上
  げるのが国家自体だということだ。今日のドル本位制を通じて国際収支による搾
  取を推進するのは中央銀行であって、民間企業ではない。この金融的基軸通貨
  国主義を真の超帝国主義に変えるのは、すべての国ではなく一国だけに与えられ
  た赤字垂れ流しの特権である。信用創造の中心国の中央銀行(と、その外交官が
  支配する国際的通貨機関)のみが、他の衛星国の資産や輸出品を買い取るための
  信用を創造できるのだ。
   一方、この型の帝国主義は、資本主義に特有なものではない。ソビエト・ロシ
  アは、仲間の COMECON 諸国を搾取するために、貿易、投資、金融のル-ルをつ
  かさどる機関に支配権を行使していた。ルーブルの非交換性という条件のもとに
  、貿易の価格決定および支払システムを支配することで、ロシアは、アメリカが
  非交換性のドルを発行して仲間の資本主義国を搾取したのと同じく、中央ヨーロ
  ッパの経済的余剰を自分の懐に入れていた。ロシアが自国にきわめて都合のいい
  やり方で衛星国との貿易条件を決めていたのも、アメリカが第三世界に対して行
  っていたのと同じだった。ちがうのは、ロシアが燃料や原料を、アメリカが穀物
  やハイテク製品を輸出していたことぐらいである。戦術の集合として理論的に見
  れば、国家資本主義帝国主義と官僚社会主義的なそれとは、政府間的な手段に
  頼るという点で互いに似通っている。アメリカと同じくソビエト・ロシアも自ら
  の同盟国をカで威圧したのである。
   ヤコブ・ブルクハルトは一世紀前にこう述べた。「国家は、政治や戦争、その
  他の大義、そして”進歩”のために負債を背負い込む・・・未来がその関係を永
  遠に尊んでくれると仮定するわけだ。商人や会社経営者から信用をいかにして食
  い物にするかを学んだ国家は、破綻に追いやれるものならやってみろと国民に挑
  戦する。あらゆるペテン師と並んで、国家は今やペテン師の最たるものとなって
  いる」。(マイケル・ハドソン『超帝国主義国家アメリカの内幕』広津倫子訳、
  徳間書店、pp59-60)
  **********************************************************************


1.歴史的考察
 (★:背景、◎:スローガン等、■:動き、☆:国民性・国民意識、※:注釈)

 ※国家あるいは権力者にとって、民(平民)の命なぞ考慮に値しないという精神
  は今も昔も変わらなく、時にはあからさまに、時には潜在して続いていること
  を、我々は決して忘れてはならない。

   ◎軍人勅諭「世論に惑わず政治に拘らず、只々一途に己が本文の忠節を守り、
    義は山獄よりも重く、死は鴻毛より軽しと覚悟せよ」、「下級のものは上
    官の命を承ること実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」(明治15年、山
    県有朋)
   ◎教育勅語天皇の尊厳、臣民の忠誠」「義勇公に奉ずべし」等(明治23年)
         -------------------------------------------
  ★天皇の「統帥大権」:旧憲法第十一条:「天皇は陸海軍を統帥す」
    この統帥大権は行政権の範疇外のものとなっており行政府とは別個に、天皇
    直接隷属する統帥部がそれを管掌する仕組みだった。
   ※統帥部:参謀本部(陸軍)と軍令部(海軍)であり、そのそれぞれの長官たる
        参謀総長および軍令部総長天皇の陸軍または海軍に対する統帥権
        行使をそれぞれ輔翼(ほよく)した。
    (ちなみに輔弼(ほひつ):各国務大臣天皇行政権行使を輔佐すること) 
   ※ここにおいて行政府(=軍政、陸軍省海軍省)と統帥部(参謀本部、軍令部)
    は、いずれも天皇に直属する並立の独立機関であった。(「統帥権の独立」)
  ★天皇の「編成大権」:旧憲法第十二条:「天皇は陸海軍の編成及常備兵額を定む」
   ※当時はこの条文を拡大解釈(?)し、軍の編制、装備、兵力量(統帥と軍政との
   「混成事項」)については、一般的には行政府(内閣=軍政)に帰属すべき一般
    行政権の範疇外に属するとみなされることが多かった。これにより統帥部は常
    に行政府(内閣=軍政)に口を出し、混成事項の決定に干渉し、この決定は閣議
    に付議する必要はなく内閣総理大臣に報告するだけという慣習があった。
                (以上、瀬島龍三『大東亜戦争の実相』より引用)
   ※統帥権の行使及びその結果に関しては議会において責任を負はず、議会は軍の
    統帥指揮並びに之が結果に関し質問を提起し、弁明を求め、又はこれを糾弾し、
    論難するの権利を有せず。(陸大で教えられた『統帥参考』より。保阪正康
    著書『あの戦争は何だったのか』新潮新書、p.25)
  ★参謀総長の「帷幄上奏権」
     欽定憲法体制の下では、内閣の承認抜きに、軍事上の決定んいついて天皇
    裁可を求める権限が参謀総長には、認められていた。この権限は、軍は内閣、
    議会の指示を受けず、また責任も負わず、軍の最高指揮権および命令権をもつ
    天皇に直属するとする天皇統帥権独立に由来するものであった。
  ★天皇制国家は、天皇の「神聖不可侵」を原則とし、天皇の責任を問うことができ
   ない「君主無答責」の建前をとっていた。すべての行為は指揮命令系統にもとづ
   くものとしながら、最高責任者である天皇は責任を問われないという無責任きわ
   まりない体系であった。つまり責任はすべて指揮官にありながら、最高指揮官で
   ある天皇に責任はないという矛盾にみちた原理に立っていたのである。
             (藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、p.13)

  ※敗戦(昭和20年)までの「天皇制」は、それを利用した軍部や軍属属僚にとって
   は国民に対する「暴力機関」だったと公言しても、言い過ぎではないと筆者は思
   うのである。
          【天皇イデオロギーの二面性】(久野収
    (群小思想家のひとりにすぎない)久野収も、戦前の天皇制イデオロギ
   ー体系を宗教になぞらえて説明している。それは、天皇イデオロギー
   二側面を仏教の顕教密教に見立てたもので、確かに巧みな譬喩であり、
   今に至るまで一種の定説と化している。
   1956年の『現代日本の思想』(岩波新書)が、顕教密教という譬喩の出て
   くる最も初期の著作である。・・(中略)・・。少し長くなるが、次に引
   用してみよう。
    「天皇は、国民全体にむかってこそ、絶対的権威、絶対的主体としてあ
   らわれ、初等・中等の国民教育、特に軍隊教育は、天皇のこの性格を国民
   の中に徹底的にしみこませ、ほとんど国民の第二の天性に仕あげるほど強
   力に作用した。
   しかし、天皇の側近や周囲の輔弼機関からみれば、天皇の権威はむしろ
   シンボル的・名目的権威であり、天皇の実質的権力は、機関の担当者がほ
   とんど全面的に分割し、代行するシステムが作りだされた。
   注目すべきは、天皇の棒威と権力が、『顕教』と『密教』、通俗的と高
   等的の二様に解釈され、この二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、伊藤
   〔博文〕の作った明治日本の国家がなりたっていたことである。顕教とは
   、天皇を無限の権威と権力を持つ絶対君主とみる解釈のシステム、密教t
   は天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる
   解釈のシステムである。はっきりいえば、国民全体には、天皇を絶対君主
   として信奉させ、この国民エネルギーを国政に動員した上で、国政を運用
   する秘訣としては、立憲君主説、すなわち天皇国家最高機関説を採用する
   という仕方である」
    要するに、戦前の天皇制は一般国民には、神のごとき絶対的権威として
   現れ、国政の枢要を担う高学歴エリート層には、単なる制度・機関にすぎ
   なかった、ということである。顕教密教とは、日本では空海が明確化した
   仏教上の教理概念で、広く衆生にも理解されるように顕らかに説かれたの
   が顕教、真理が理解できる者にのみ密かに説かれたのが密教、という区分
   である。天皇性にも同じ二側面が観察でき、尋常小学校卒業程度の大多数
   の国民には、顕教として天皇は神であると教え、高等教育を受けるエリー
   トには、密教として、天皇は神ならぬ単なる機関にすぎないと教える。こ
   れが天皇イデオロギーの狡知である、と久野収は言うのだ。
    久野収の見事な説明に、私は異論を唱える必要を感じない。というのは、
   天皇イデオロギーの二面制については、顕教密教という言葉こそ使って
   いないものの、戦前に教育を受けた多くの人がそう認識しているからであ
   る。しかも、久野のような”革新的”な人ばかりでなく、”保守的”な人
   も同じようにそう認識している。(呉智英氏著『危険な思想家』メディア
   ワークス、pp.160-161)

         -------------------------------------------
   ◎【富国強兵・殖産興業への道】
     徳川時代のものと隔絶して作られた新しい無私無謬の「官僚制度」の主導の
    もとで近代工業社会への三つの施策が推進されていった。
              (この三つの制度はだいたい昭和16年頃に完成した)。
     1.資本蓄積:銀行制度、郵便貯金制度
      ※国民の持つ金を吸い上げる制度
     2.全国同一規格の統一大市場の形成(規格大量生産を目指す)
      ※輸送と情報の統一:郵便、鉄道、海運、教育の統一。近代的度量衡
                (メートル法)を採用
     3.人材育成:大量生産現場で働くための、辛抱強さ・協調性・共通の知識
           と技能の保持。この三条件を備えた人材育成が目論まれた。
      ※独創性や個性のない人材を育成するための教育制度が作られていった。
   ◎選挙権について
      国会に国民を代表する衆議院を置き、地租15円以上の納税者45万人、
     全人口の約1%に選挙権を与えた。これを手始めに普通選挙の推進が始まり
     普通選挙法(1925年)を経て政党政治は躍進した(1905より~1930頃まで)
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    ●明治30年(1897年)、日本が金本位制を導入(松方正義)したとき金0.75g
     を1円とした。(2009.3.31日、金1g=3100円、円/ドル=97円。1円は2009年
     の2325円に相当)
    ●北清事変義和団事件)(1900年6月)
      義和拳と白蓮教の流れをくむ義和団が「扶清滅洋」をスローガンに清国
     を侵略・分割した各帝国に半旗を翻し、1900年6月には日本とドイツの外
     交官を殺害した。大軍を送ることができたのはロシアと日本(イギリスは
     ボーア戦争で、アメリカはフィリピンで紛争をかかえて忙しかった)のみ
     で、結局義和団は鎮圧され、西太后と光諸帝は都落ちして逃げた。
      この戦争で日本は連合軍の2/3にあたる22000人の兵士を派遣し、初めて
     アジアに関する国際問題で欧米列強と共同歩調を取った。
            (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.65-68)
    ●従軍記者光永星郎が”電報通信社”(現『電通』)を設立
    ●石油時代の幕開け(1901年1月10日)
      アメリカ、テキサス州ボーモント郊外のスピンドルトップという小さな
     丘から原油の大量の噴出(ハミル兄弟の快挙)
        (ポール・ロバーツ『石油の終焉』久保恵美子訳、光文社、p.58)
    ・ロックフェラー医学研究所設立(1901年1月)
    ●現代サウジアラビアの成立(1902年)
      クウェートに亡命していたサウード家のアブドゥルアジーズによるリャ
     ード奪還。この第三次サウード王朝がアラビア半島の大半を平定し1932年
      9月にサウジアラビア王国と名前を変えた。
              (保阪修司氏著『サウジアラビア岩波新書、p.10)
    ●1903年ヘンリー・フォードがガソリン・エンジンを搭載したモデルAを導入
      エネルギーの主役は徐々に石炭から石油に変わりつつあった。
     (スタンダード・オイル(ロック・フェラー所有)、ロイヤル・ダッチ・
      シェル、ブリティシュ・ペトロリアムなどが有名)
               <世界の石油需要>
             ・1900年   50万バレル/年
             ・1915年  125万バレル/年
             ・1929年  400万バレル/年
    ●福沢諭吉没(明治34年(1901)2月3日、脳出血、享年66歳)
       「宇宙の間に我地球の存在するは大海に浮べる芥子の一粒と云ふも
      中々おろかなり。吾々の名づけて人間と称する動物は、此芥子粒の上
      に生れ又死するものにして、生れて其生るる所以を知らず、死して其
      死する所以を知らず、由て来る所を知らず、去て往く所を知らず、五、
      六尺の身体僅かに百年の寿命も得難し、塵の如く埃の如く、溜水(た
      まりみず)に浮沈する孑孑(ぼうふら)の如し」
               (岳真也氏著『福沢諭吉(3)』、作品社、p.403)
    ●奥村五百子が近衛篤麿の後援を得て”愛国婦人会”を結成。(1901年2月)
       ”愛国婦人会”は1937年には会員数338万6000人と公称されたが、
     1942年には大政翼賛会の下部組織の”大日本婦人会”に統合された。
     (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.71-73)
    ●日英同盟が成立(1902年1月)
      これによってイギリスは清国に、日本は満州を含む清国と韓国に対し
     て特殊権益をもつことを相互に承認し、一国が交戦した場合には他の国
     は中立を保って他国の参戦防止に努めること、またもし第三国が参戦し
     た場合には締約国は参戦して同盟国を援助することとなりました。この
     ことは、日露が交戦した場合にも、露仏同盟を結んでいるフランスの参
     戦を抑える効果をもち、またイギリスでの戦費調達のための外債募集が
     可能となったことを意味しています。
              (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、p.98)
    ●ライト兄弟、飛行機で世界初飛行。(1903年、明治36年12月17日)
    ●第二インターナショナル(1904年8月)
      また、1904年8月、オランダのアムステルダムで開催された第二インタ
     ーナショナル(国際社会主義者大会)第6回大会に出席した片山潜は、ロ
     シア代表プレハーノフとともに副議長に選出され、ともに自国政府の戦争
     に反対する非戦の握手をかわしました。大会では、つづいてフランス代表
     から提出された「日露戦争反対決議案」を満場一致で可決しています。こ
     うした世界各国の社会主義者との交流については、『平民新聞』に「日露
     社会党の握手」、「万国社会党大会」などの記事によって詳細に報告され
     ていました。
      置かれた状況の違いによって手段もまた異ならざるをえなかったにせよ、
     日露戦争の時代、日露両国の社会主義者によって、反戦・非戦活動のため
     の連帯の声が交わされていたのです。そして、本格化しはじめた日本の社
     会主義運動が、貧富の格差是正と生産手段の公有という本来の目的と並ん
     で、戦争に反対する非戦・反戦運動として展開せざるをえなかったのは、
     戦場に送られて死を強制され、しかも戦費の負担を強いられるなど、戦争
     の災厄を最も過酷な形で押し付けられるのが労働者と農民であったことか
     らすれば必然的なことであったのです。
      (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.180-181)
    ●東清鉄道(チタ==ウラジオストク)経由のシベリア鉄道が全通
     (1904年9月)し、日本軍の作戦展開の大きな脅威となった。
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   ◎明治の医師養成制度
      明治36年までは医師になるには、大学の医学部を卒業するほかに、医術
     開業試験を直接受験するという制度があった。済生学舎はその受験のため
     の医学校だった。しかしこの学校は専門学校令公布とともに明治36年突然
     閉校になった。(帝大閥の牛耳る医学界において済生学舎出は徹底的に差
     別されていた。野口英世はその顕著な一例)
            (浅田次郎氏著『壬生義士伝』、文藝春秋、pp.112-115)
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  ☆気がついたときは戦争になっていた。
     こうして主戦論の浸透は、事実以上にロシアに対する脅威感をあおり、
    同時に政府を「恐露病」と罵倒することになります。原敬によれば、こう
    した批判にさらされた政府もまた「少数の論者を除くのほかは、内心戦争
    を好まずして、しかして実際には戦争の日々近寄るもののごとし」(『原
    敬日記』1904年2月5日)という自制のきかない状況に自らも落ち込んでい
    く様子を率直に告白しています。原はまた表面的には開戦論が世論を指導
    していたようにみえて実態とは異なっていたことを「我国民の多数は戦争
    を欲せざりしは事実なり。政府が最初七博士をして露国討伐論を唱えしめ、
    また対露同志会などを組織せしめて頻りに強硬論を唱えしめたるは、かく
    してもって露国を威圧し、因てもって日露協商を成立せしめんと企てたる
    も、意外にも開戦に至らざるをえざる行掛を生じたるもののごとし。...
    しかして一般国民、なかんづく実業者は最も戦争を厭うも、表面これを唱
    うる勇気なし。かくのごとき次第にて国民心ならずも戦争に馴致せしもの
    なり」(『原敬日記』1904年2月1言日)と観察していました。
     ここには、戦争に踏み込むときの、自分でも望んでもいないにもかかわ
    らず、制御しきれないままに、流されていって取り返しがつかなくなると
    いう心理過程が示されているのではないでしょうか。そして、このように
    自らが決断したという明確な自覚もないままに、戦争がいつの間にか近寄
    ってきて、「気がついたときには戦争になっていた」という思いのなかで、
    多くの日本人は日露戦争を迎え、さらにその後も同じような雰囲気のなか
    で「流されるように」いくつかの事変と戦争へと突入していくことになり
    ます。(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.108-109)

1905年(明治38年):日露戦争(国家存亡の戦い、1904.2.8~1905.9.5)
    日本の背後ににはイギリス、アメリカ、ロシアの背後にドイツ、フランス
   のある帝国主義戦争であり、その餌食となったのは朝鮮や中国であった。
            (藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、p.8)
   ※日露戦争の歴史的意味
      この一連の過程、すなわち日本が韓国保護国化の権利を獲得するため
     に、アメリカとはフィリピン、イギリスとはインドなどの植民地支配と
     を、その対象国の意志とは全く無関係に交換条件として決定した過程に
     こそ、日露戦争の歴史的意味が示されています。また、ポーツマス条約
     においても遼東半島の租借権などを、これまた主権をもっていたはずの
     清国の意志とは無関係に、ロシアから譲渡させましたが、清国に中立を
     宣言させたのも、この講和条件に関与させないためでした。しかも、日
     本は日露開戦直後、清国に対して「戦争の終局において毫も大清国の土
     地を占領するの意志なき」(『日本外交文書』日露戦争I、第690号文書)
     旨を通告していたのですから、これにも違約します。
       (以上、山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.130-131)
            ・日本連合艦隊が旅順港外のロシア艦隊攻撃(1904.2.8)
            ・ロシアに宣戦布告(1904.2.10)
            ・第二回旅順港閉鎖作戦(1904.3.27):広瀬武夫戦死
            ・乃木希典遼東半島上陸(1904.6.6)
            ・旅順のロシア軍要塞攻撃開始(1904.7.26)
            ・遼陽会戦(1904.8.25)
            ・徴兵令改正、後備兵役10年に延長(1904.9.28)
            ・沙河会戦始まる(1904.10.9)
            ・児玉源太郎参謀総長、第三軍司令部到着(1904.12.1)
            ・第三軍、203高地を占領(1904.12.5)
            ・旅順のロシア艦隊壊滅(1904.12.15)
            ・奉天会戦奉天占領(1905.3.1~3.10)
            ・日本海海戦(1905.5.27)
            ・黒海戦艦ポチョムキンの反乱(1905.6.27)
            ・樺太ロシア軍降伏(1905.7.31)
            ・ポーツマス講和条約締結(1905.9.5)
            ・日露講和条約批准(1905.10.14)
                   ****************
            ・第二次日韓協約(1905.11.17)
              韓国では乙巳(ウルサ)条約といい、これに賛成した
             大臣たちは5人は乙巳五賊(ウルサオジョク)と言われ
             て今でも非難されている。(この項、山室信一氏著『日
             露戦争の世紀』岩波新書、p.132より)
   ※日露戦争後の人種問題
      日露戦争後において人種問題が現実的な意味をもったのは、ドイツより
     もアメリカやオーストラリアなどでした。日露戦後の対日感情の悪化と日
     本の興隆に対する恐怖心が、アメリカの日本人移民への攻撃に利用されま
     す。早くも1906年にはカリフォルニアでの日本人学童の入学拒否や州議会
     での日本移民制限決議などの動きが出、1924年の日本人労働者の低賃金と
     ストを理由とする日本人排斥移民法の成立へと至ります。また、地理的に
     近接しているために日本からの脅威を強く感じていたオーストラリアでは、
     日露戦後に首相ディーキンによって「北太平洋黄色人種」への不信が表
     明され、白豪主義による黄色人種の締め出し政策が採られました。さらに、
     ニュージーランド南アフリカでも日本人移民が禁止され、カナダでも入
     国が制限されることになっていきました。
      こうして黄禍論という明確な表明はされなくとも、人種的な偏見が政策
     に反映されたのも20世紀の特徴のひとつでした。太平洋戦争は、「鬼畜」
     や「黄色で野蛮な小牧い猿」と相互が痛罵しあうことで戦意を高めながら
     戦われた人種戦争となりましたが、その戦争に至るまでにも、人種的偏見
     による紛議が陰に陽に積み重なってきていたわけです。
      しかし、そうであったからこそ、日本は同じ黄色人種のアジア諸民族と
     も距離をとるような外交政策を採らざるをえなくなります。なぜなら、日
     露戦争での勝利は、日本が必死で否定していた欧米とアジアとの対立とい
     う構図をさらに浮きあがらせる結果となったため、日本は黄禍論を否定す
     るためにも外交的にはアジアと意識的に距離をとり、欧米との協調路線を
     とらざるをえないというディレンマに陥ったからです。そして、欧米との
     同盟や協定などに従ってアジア諸民族の独立運動を抑圧し、「アジアの公
     敵」とみなされていきました。
      しかしながら、1930年代以降の中国への進攻によって、欧米との敵対が
     避けられなくなったとき、日本は再び「黄色人種の指導者」「アジアの盟
     主」として自らを位置づけ、植民地からの欧米追放を訴えて、「大東亜戦
     争」を戦うための名目とせざるをえなかったのです。
       (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.153-154)
       -------------------------------------------------------------
                 <余談:千人針>
        愛国婦人会(奥村五百子、1901年2月)などの活動として知
       られる千人針の風習が本格化したのは、日靂戦争の時からでし
       た。千人針は千人結びともいい、出征兵士の武運長久を祈るた
       めに、白木綿の布に千人の女性が赤糸で一針ずつ縫って千個の
       縫玉を作って贈るものでした。これは「虎は千里往って、千里
       還る」との故事からうまれ、寅年生まれの女性に年齢の数を縫
       ってもらえばさらに効果があるといわれました。赤い糸そのも
       のにも災厄をよける意味がこめられていたと思われます。昭和
       になると五銭と十銭の穴あき硬貨をかがりつけて「死線(四銭)
       を越えて、苦戦(九銭)を免れる」という語呂合わせで無事を
       祈りました。
        危難にむかう人のために、多くの人が力を合わせて無事や幸
       運の祈願をこめるものとして、千という字は象徴的意味をもち
       ました。古来長寿の動物とされた鶴が千羽そろったものがこと
       さら吉兆とされたことに由来する千羽鶴もそのひとつであり、
       第二次世界大戦後には病気平癒や平和を祈って折られるように
       なりました。
        (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.73-74)

  ★【国家が命を翻弄した時代】:軍神(?)乃木希典による命の無駄使い。
            (100万人の日本兵動員、死者約12万人といわれる)
      <茂沢祐作『ある歩兵の日露戦争従軍日記』草思社、p.168より>
        ・・・糧食の給与を受けることが出来ないので、この次の
       兵站部へ行くことを急いで、午前八時頃に舎を出かけ三道溝
       の糧餉部へ行ったが、ここは取次所で分配出来ぬとにべもな
       くはねつけられ、仕方なくなく吸足(びっこ)を引きずった。
       ・・・稷台沖まで来たら糧餉部があったから給与を願ったら、
       酔顔紅を呈した主計殿と計手殿がおられて、糧食物はやられ
       ぬが米だけなら渡してやろうとの仰せありがたく、同連隊の
       兵三名分一升八合の精米を受領証を出してもらい受け、敬礼
       して事務室を出たが、その時にカマスに入った精肉と、食卓
       の上のビフテキ、何だか知らぬが箱入りの缶詰をたくさん見
       た。あれは何にするのであろう。飾っておくのかしらん。一
       同が今日六里ばかりの行軍に疲れたので、舎を求めて夕食を
       食べるとすぐに寝た。
      (筆者注:戦場では、ごまめの一兵卒はいつも空腹で使い捨て
           なのである)。
  ☆国民性・国民意識:「勤勉」・「努力」・「忍耐」
  (この頃は、あるいは強制的に作られたかも知れないが、自己を律する高邁な意識
   があった)。
    ●日露講和会議ポーツマス):米大統領ルーズベルトの好意ある斡旋
       1.旅順と大連の租借権の取得
       2.南満州鉄道の入手
       3.樺太の南半分の獲得
      (明治38年9月5日調印、10月16日批准して公布)
           ---------------------------------  
      ※ (日本の)調子狂いは、ここからはじまった。大群衆の叫びは、
        平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、
        戦争を継続せよ、と叫んだ。「国民新聞」(社長は徳富蘇峰)を
        除く各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。ついに日比谷公園
        で開かれた全国大会は、参集するもの三万といわれた。かれらは
        暴徒化し、警察署二、交番二一九、教会一三、民家五三を焼き、
        一時は無政府状態におちいった。政府はついに戒厳令を布かざる
        をえなくなったほどであった。
          (司馬遼太郎氏著『この国のかたち<一>』より引用)
           ---------------------------------  

    ●第二次日韓条約(韓国保護条約、1905年8月22日、明治38年):日韓併合
       京城漢城)の日本の韓国統監府(初代統監、伊藤博文)がおかれたが
      これに伴い、韓国の各地で激しい反日運動が起こった。
     ※日本は自らの独立を守ることを、近代のとば口で自らに誓った。その誓い
      は、道義的には、他者の独立もまた尊重するべきものでなければならない
      はずである。だが、日本はその道義を破った。・・・「道義」を踏みにじ
      らなければ生きて行けない、という自覚を、日本は近代の中で身につけて
      しまった。(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
     ※内村鑑三日露戦争より余が受けし利益」
       日露戦争直後の1905年11月、内村は「日露戦争より余が受けし利益」
      という演説において、「日清戦争はその名は東洋平和のためでありまし
      た。然るにこの戦争は更に大なる日露戦争を生みました。日露戦争も東
      洋平和のためでありました。然しこれまた更に更に大なる東洋平和のた
      めの戦争を生むのであろうと思います。戦争は飽き足らざる野獣であり
      ます。彼は人間の血を飲めば飲むほど、更に多く飲まんと欲するもので
      あります」と述べて、「東洋平和のため」という名目による主戦論のさ
      らなる肥大化を懸念します。
       その後の歴史の推移を知っている私たちには、この予言は的確な洞察
      を含んだものとして響きますが、日露戦勝に歓喜していた当時の日本人
      の多くにとっては、内村の指摘など単なる空言にすぎなかったのでしょ
      う。なぜなら、戦勝の意義や戦争というものの本質とは何か、を省みる
      よりも、勝利によって勝ち得た韓国や南満州における権益をいかに維持
      し、拡大していくか、のほうがはるかに切実な「現実問題」として現れ
      てきていたからです。
       そして、統治する空間が拡大したことは、その先により広い空間の獲
      得を要求することになります。しかも、それは山県有朋の主権戦と利益
      線の議論がそうであったように、けっして植民地獲得のための拡張とし
      てではなく、あくまでも自国防衛のためとして正当化されます。日露戦
      争の開戦にあたって「自個生存の権利のために戦うなり。満州守らざれ
      ば朝鮮守らず、朝鮮守らざれば帝国守らざればなり」(「宣戦の大詔を
      捧読す」1904年2月)として、それを自存のための戦争と唱えた徳富蘇峰
      は、韓国を併合すると、つぎには「日本の防衛は、朝鮮においてし、朝
      鮮の防衛は南満洲においてし、南清洲の防衛は内蒙古においてす」(「
      満蒙経営1913年)として、清洲から内蒙古への拡張を主張します。そし
      て、中国の主権回復運動にさらされると、「満蒙は日本の生命線」とし
      て死守することが日本生存のための唯一の道とされ、それが1931年の満
      州事変を引きおこし、満洲国を作るとそれを守るために華北を越え、さ
      らに中国全土へと戦線を拡張していかざるをえない、という間断なき戦
      争の連鎖を引きおこしていったのです。そして、いったん領土拡張が自
      己目的化してしまえば、それがなんのためなのか、という意味を問い直
      すことさえできなくなります。
       (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.206-207)
    ・数々の王族や文豪を苦しめた梅毒の病原体(スピロヘータ・パリダ--->トレ
     ポネーマ・パリドゥム)が発見された。(シャウデン、ホフマン、シュル
     ツェ)(1905年5月24日)

1906年(明治39年) 
       ■「医師法」制定。
         第8条:「医師は医師会を設立することを得、医師会に関する
              規程は内務大臣之を定む」
       ■各府県に医師会が相次いで誕生。

  ★ロシアも日本も互いに仮想敵国として軍備や軍事施設を充実し、日本は徐々に
   軍事主導国家に変貌していった。
     ※ 明治40年(1907年)の国家予算は6億3500万円で、そのうち陸軍関係は
      1億1100万円、海軍関係は8200万円で、軍事費比率は31%に達していた。
      明治40年代からは、日本の軍事費比率はつねに30%以上になった。
          (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より引用)

    ・世界最初の軍用機ライト・ミリタリー・フライヤーが作られた。
                             (1908年、明治41年)
    ・ワッセルマンが梅毒の血清反応による診断法(ワッセルマン反応)を確立
    ●イギリスが海軍全艦の動力源を石炭から石油に切り替えた。(1908年)
      ドイツに対抗するためで、原油資源のないイギリスにとっては大きな賭
     けだった。これ以来イギリスは中東からの石油の安定供給のため、地中海
     に海軍を配備した。・・・中東ではヨーロッパやアメリカの外交官が、石
     油をもっと入手しやすくするため一部の国境を変更した。こうした国境改
     定がとくに盛んだった時期に、フランスのある外交官は、いみじくもこう
     発言した。「石油を制する者、世界を制す」。
     (ポール・ロバーツ『石油の終焉』久保恵美子訳、光文社、pp.68-69)

1907年(明治40年)
  ★「帝国国防方針」策定。同時に精神主義・精神教育の徹底
     さて、陸軍は日露講和を「やや長期なる休戦」と考えて再度の日露戦争
    想定し、海軍は満洲をめぐる対立からアメリカを仮想敵国とした大建艦計画
    をたてていました。これに基づいて1907年、初めて策定されたのが「帝国国
    防方針」です。そこでは「一旦有事の日に当たりては、島帝国内において作
    戦するがごとき国防を取るを許さず、必ずや海外において攻勢を取るに在ら
    ざれば我が国防を全うする能わず」として、それまでの防衛型の守備方針か
    ら外征型の前方進出方針へと転換しました。そして、「将来の敵と想定すべ
    きものは露国を第一とし、米、独、仏の諸国これに次ぐ」と仮想敵国を明示
    しました。つまり、日露戦勝によって「第一等国」となったということは、
    世界最強の国家にも匹敵できる軍備を備えることと考えられたのです。しか
    し、軍備の拡張とともに政府が留意したのは、次なる戦争を遂行していくた
    めの国民をいかに形成していくかという問題でした。
     その国民形成のためには現行の教育体制では「道徳および国民教育の基礎
    を作り、国民の生活に必要なる普通教育の知識・技能を得せしめんこと頗る
    困難」として、1908年から義務教育年限を4年から6年に延長しましたが、こ
    の体制は1947年に義務教育9年制になるまで続きます。また、日露戦争中の
    1904年4月から小学校教科書は、文部省が著作権をもつ国定教科書になり、忠
    君愛国や滅私奉公を軸とした臣民の育成が図られました。
     さらに、日露戦争から得た戦訓として、いかに軍備の拡張を図るにしても
    日本の国力では消耗戦に耐えられない以上、これを精神力で補うしかないと
    いう方針が採られます。1908年の『軍隊内務書改正理由書』には、「未来の
    戦闘においても吾人は、とうてい敵に対して優勢の兵力を向くること能わざ
    るべし。兵器、器具、材料また常に敵に比して精鋭を期すること能わず。吾
    人はいずれの戦場においても寡少の兵力と劣等の兵器とをもって無理押しに
    戦捷の光栄を獲得せざるべからず。これを吾人平素の覚悟とするにおいて、
    精神教育の必要なること一層の深大を加えたること明らかなり」とあります
    ように、精神教育によって「物質的威力を凌駕する」という日本軍隊の特徴
    がうまれてきます。この精袖教育が、1882年の『軍人勅論』で強調された「
    死は鴻毛(鴻の羽毛、きわめて軽いことのたとえ)よりも軽しと覚悟せよ」
    という天皇の命令と接合して、兵士は「一銭五厘」の郵便料金の召集令状
    赤紙)でいくらでも召集できるという使い捨ての思想となるとともに、軍隊
    内での私的制裁が日常化し、さらには捕虜などに対するビンタ(平手打ち)
    などの虐待をうむ土壌となったのです。
     こうして、日露戦争で砲弾の補給不足に悩んだ陸軍は、火力が補充できな
    い場合においても刀、銃剣などによって敵を斬り、突き刺して戦う白兵戦を
    重視する方針をとります。
     (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.212-213)

1909年(明治42年):この年までに日本の主要鉄道網が完成
      この時期をきっかけとして日本資本主義が商品経済の支配網を全国のす
     みずみまで作り上げ、自給自足をたてまえの古い部落組織をつき崩しはじ
     めた。

    ・伊藤博文がハルピンの駅頭で強烈な反日主義者安重根に暗殺される。
                           (1909年、明治42年10月)
    ●渋沢栄一(1840~1931)の偉業(明治42年に古稀を迎えた)
      「金銭資産は、仕事の滓である。滓をできるだけ多く貯えようと
      するものはいたずらに糞土のかさねを築いているだけである」。

        明治四十二年六月、古稀を迎えた栄一は、第一銀行、東京貯蓄
       銀行、東京銀行集会所などもっとも関係の深いものをのぞき、こ
       れまで関係していた企業から退任することを発表した。
        取締役会長として在任したもの。
        東京瓦斯会社、東京石川島造船所、東京人造肥料会社、帝国ホ
       テル、東京製綱会社、東京帽子会社、日本煉瓦製造会社、磐城炭
       鉱会社、三重紡績会社、日韓瓦斯会社。
        取締役として在任したもの。
       大日本麦酒会社、日本郵船会社、東京海上保険会社、高等演芸場、
       日清汽船会社、東明火災保険会社。
        監査役として在任したもの。
        日本興業銀行、十勝開墾会社、浅野セメント会社、沖商会、汽
       車製造会社。
        相談役として在任したもの。
        北越鉄道会社、大阪紡績会社、浦賀船渠会社、京都織物会社、
       広島水力電気会社、函館船渠会社、日本醍酸製造会社、小樽木材
       会社、中央製紙会社、東亜製粉会社、日英銀行、萬歳生命保険会
       社、名古屋瓦斯会社、營口水道電気会社、明治製糖会社、京都電
       気会社、東海倉庫会社、東京毛織会社、大日本塩業会社、日新生
       命保険会社、品川白煉瓦会社、韓国倉庫会社、日本皮革会社、木
       曽興業会社、帝国ヘット会社、二十銀行、大日本遠洋漁業会社、
       帝国商業銀行、七十七銀行
        顧問として在任したもの。
        日本醤油会社、石狩石炭会社、東洋硝子会社。
        この外に、京釜鉄道会社清算人、日活火災保険会社創立委員長、
       大船渡築港会社創立委員長、東武煉瓦創立委員長、日英水力会社
       創立委員長、韓国興業会社監督創立委員長などの役職を辞任した。
       これらの諸事業のほか、関係を絶った小企業の数はおびただしか
       った。
       (津本陽氏『小説渋沢栄一<下> 虹を見ていた』NHK出版、p.305)

  ★歩兵重視の肉弾攻撃の強要。死を恐れぬ精神力の鍛錬。
     ※ 歩兵操典(明治40年11月)の綱領第3項より
        「攻撃精神は忠君愛国の至誠と献身殉国も大節とより発する
        精華なり。武技之に依りて精を致し、教練之に依りて光を放
        ち、戦闘之に依りて捷を奏す、蓋し勝敗の数は必ずしも兵力
        の多寡に依らず、精練にして且攻撃精神に富める軍隊は毎に
        寡を以て衆を破ることを得るものなり」
          (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より孫引き)

1910年(明治43年)
  ★帝国在郷軍人会創設
    日露戦争前後から各地につくられはじめた予・後備兵と町村有志の親睦団
   体であった尚武会や軍人会、軍人共励会などを統合する全国統一組織として、
   陸軍省の指導下に1910年、帝国在郷軍人会が創設されます。在郷軍人会は「
   軍隊と国民とを結合する最も善良なる連鎖となる」ことを目的に掲げ、郷土
   の名誉という観念をより所にして、軍人精神の鍛錬と軍事知識の増進によっ
   て戦時動員を準備します。また、会員の相互扶助、軍人遺族の救護などの活
   動を進めました。当初は陸軍のみの組織でしたが、1914年からは海軍を含む
   ことになり、以後、国民思想の統制にも積極的に関与していきます。そして、
   1935年の天皇機関説事件においては機関説撲滅運動や国体明徽運動を展開し、
   満洲への武装移民の送出にも積極的に関与していきます。1936年には在郷軍
   人会令が公布されて、戦時下の国民の動員と統合の主体としての役割を担い
   ましたが、それは日露戦後から進められてきた義務教育-ー青年会ー-徴兵
   ー-在郷軍人会を通じて全土を兵営とし、軍隊内の秩序を社会にもちこんで
   国民を「良兵良民」として、生涯にわたって管理していく体制をつくること
   に他なりませんでした。
    そして、1941年1月に東條英機陸相によって示達された「戦陣訓」で、「恥
   を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思い、愈々奮励してその期待に答う
   べし。生きて虜囚の辱を受けず。死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と説か
   れたように、良兵とは、捕虜となることを恥として、戦って死ぬことを厭わ
   ない兵士のこととされました。それを内面化するために郷党や家門に対する
   「恥」を常に意識させる必要があったのです。
    (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.214-215)

    ●韓国併合(1910年、明治43年8月):朝鮮統督府設置(初代統督、寺内正毅
      韓国に対する統治方法の問題点(奥宮正武氏『大東亜戦争』より)
       1.日本政府は、併合と同時に、それまでの韓国の領土の名称を朝鮮と
        改めてしまった。
       2.日本の国家神道朝鮮人に強制した。そして、京城の中心部にある
        高台に朝鮮神宮を建立した。
       3.日本語の学習を義務づけ、韓国語による教育を制限した。
       4.朝鮮人を「皇民化」するとの意図のもとに、彼らの姓名を日本式
        の姓名の改めさせた。
      ( 5.昭和13年朝鮮人より志願兵募集。昭和19年朝鮮でも徴兵制施行)。
           ---------------------------------  
    ・「大逆事件」(1910年、明治43年):幸徳秋水、管野須賀子らによる明治
                      天皇暗殺未遂事件
       (ただしこの事件は当時の政府が無政府主義者社会主義者、またそ
      の同調者、さらに自由・平等・博愛といった思想を根絶するためにしく
      んだ国家犯罪だったことが明らかになっている)。これより日本の社会
      主義運動はきびしい冬の時代を強いられることとなった。
    ・中国辛亥革命勃発(武漢にて、1911年(明治44年)10月10日)
       翌年(明治45年)中華民国成立。孫文は臨時大総統に選出されたが、
      実権は袁世凱が握っており、孫文は約1か月後に辞任した。
      ※ 日本の中央政府は、常に孫文らの「理想」に対して冷淡であり、む
       しろ孫文らに対抗する地に足のついた「現実的」な勢力を応援した。
       辛亥革命に対しては清朝を支持し、その後は袁世凱を支持した。袁の
       死後は北方軍閥の段祺瑞を尊重した(福田和也氏著『地ひらく』文藝
       春秋より)。
        (注:袁世凱西太后首席軍事顧問で、西太后死後の当時は隠居
       中だったが、改めて権力掌握のチャンスを掴んだ(S. シーグレーブ
       『宋王朝』田畑光永訳、サイマル出版会、p.169))。
    ・マリー・キュリーラジウムの単離に成功(1911年)。
    ・駆梅剤(砒素剤=サルバルサン)が初めて人体に試された。

1912年(明治45年、大正元年):明治天皇崩御
    ・孫文中華民国の臨時大統領に就任(前記、1912年1月1日、南京)
      「三民主義」(民族・民主・民生)
    ・清国滅亡(1912年2月)とともに、満州所在の陸軍部隊の動きが活発さと
     怪しさを増していった。(「このまま満州に居座り続けようではないか」)
    ・袁世凱中華民国大統領に当選(1913年、大正2年10月16日)。
      清帝退位強制、国民党解散、国会停止など傍若無人の独裁。
      (--->孫文日本へ亡命、1914年孫文が東京で「中華革命党」を結成)
    ・アメリカで中央銀行設立を決定。世界の仲間入りを果たす。
    ・ロックフェラー財団創立(1913年)

 ***********************  明治から大正へ  **************************

  ★【大正デモクラシー
    ※大正デモクラシーとは(日露戦争の戦後体制に関して考察)
      文明国をアピールするためには、戦中(日露戦争)においても言論の
     自由を露骨に抑庄することはできませんでしたが、この事件(1905年9月
     の日比谷焼き打ち事件。国民の政治に対する意識や行動の高まりと、そ
     れを利用しての政府による統制強化)を通じて治安妨害を理由とする新聞
     ・雑誌の発行停止権が内務大臣に与えられることになり、全国で29誌紙が
     延べ39回にわたって発行停止の処分を受けました。こうして内務省保安局
     がメディアの生殺与奪の権を握ることとなり、また、死者17名を出した一
     連の焼打ち事件をうけて、1908年刑法において集団による抗議行動も「騒
     擾罪」として重罰化されました。日露戦争という国家目標を終えた政府の
     次の課題が戦時体制から戦後経営体制に向けての再編であったとき、この
     事件は内務省主導の治安体制の強化にとって、このうえないきっかけと正
     当化根拠を与えることになったのです。
      日露戦争中にもかかわらず、影響力をもった社会主義思想は、戦後こう
     して整えられた言論統制、治安維持の体制によって窒息させられていき、
     ついに1910年の大逆事件というフレームアップに至り、社会主義運動のみ
     ならず言論・結社・集会の自由そのものが「冬の時代」に入っていくこと
     になります。大正デモクラシーとは、こうした治安体制の中で閉塞状況に
     あった諸権利を獲得するための民主主義的改革要求の運動と思潮だったの
     です。(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.156-156)

    ■普通選挙への流れの促進(吉野作造民本主義憲政の常道を説く)
      立憲君主制の概念が定着<--(敵対関係)-->Nationalist・右翼団体
    ■さらに大正時代は社会問題・社会運動・社会主義が話題の中心でもあった。
    ■大正は「婦人」の時代でもあった。(関川夏央氏『白樺たちの大正』より)
       人々の意識は「日本人」から、「男」と「女」のジェソダーの別へと向
      けられ、女性の自己主張がはじまった。第二の波は第一次大戦好況によっ
      てもたらされた。そこに「主婦」と「勤労女性」という区分けが新たに生
      じたのは、好況と人々の会社員化によって「中流」意識が日本人に芽生え
      たからであった。
       その背景には女性のための中等教育の著しい普及があった。
       大正二年に高等女学校数は全国で二古十四校、生徒数は六万八千人であ
      った。それが大正8年には274校、10万3000人となり、大正10年には417校、
      15万5000人に急増した。さらに大正15年には663校、29万7000人に達した。
       大正年間に学校数で三倍強、生徒数で四倍強となったのである。
       「大正時代のいわゆる『新しい女』を産み出した基盤は、この中等教育
      の機会に恵まれた新中間層の女性群であった。彼女らは良妻賢母主義の美
      名のもとに、家父長制への隷属を強いられていた従来の家庭文化のあり方
      に疑問を抱き、社会的活動の可能性を模索しはじめる。男性文化に従属し、
      その一段下位に置かれていた女性文化の復権を要求しはじめる。婦人の家
      庭からの解放を説き、女性の社会的進出と婦人参政権の獲得を繰返し取り
      上げた『婦人公論』が、そのオピニオン・リーダーであったことはいうま
      でもない」(「大正後期通俗小説の展開」前田愛、『近代読者の成立』)

    ※大正デモクラシーの時代は、日本の近代に短く咲いたあだ花でしかな
     かった。言論の自由は、時の政府が適当と認めたものに限っての自由
     であり、軍国主義の靴音とともに言論弾圧の時代へと入ってゆく。
                (『司馬遼太郎が語る雑誌言論100年』より)
    ※大正後半期から昭和初期頃までは栄養学がブームになっており素人もビタ
     ミンや酵素ということばを盛んにつかい、食物の成分を気にていた。
     まるで平成10年代の日本のようである。いつの時代も平和ボケた時代の人
     々はこうなのだろうか。(筆者私見)

  ★【人間の狡猾さと残忍さが浮き彫りにされる時代の到来】
    ・「シーメンス事件」:大掛かりな収賄事件(大正3年摘発)
               (検事総長平沼騏一郎、主任検事:小原直)
       日本帝国海軍上層部と、大手貿易会社<三井物産>、およびドイツ
      最大の電機企業コンツェルンシーメンス>と、イギリスの武器製造
      会社<ヴィッカース>が関わった疑獄事件。
       ここに登場するワルどもは、シーメンス東京支社のヘルマン(証拠
      隠滅、贈賄)、ロイター通信社のプーレーとブランデル(贓物故買、
      恐喝)、松本和中将(当時約41万円の収賄)、沢崎寛猛大佐(収賄)、
      藤井光五郎少将(収賄)、山本条太郎など三井物産関係者(文書変造
      行使、贈賄)どもである。(後半部は、三好徹氏著『政・財腐蝕の
      100年』講談社、pp.23-24より)
       平沼騏一郎(岡山・津山藩)は薩摩閥の海軍(斎藤実海軍大臣ら)
      や三井財閥の逆襲をこわがって適当なところで撤退した。(三好徹
      著『政・財腐蝕の100年』講談社、pp.192-198より)

1914年(大正3年):第一次世界大戦勃発(7月28日~1918年(大正7年)11月11日)
      ※セルビア vs [オーストリアハンガリー + ロシア(スラブ系)]
         サラエボ事件セルビア vs オーストリア(1914.6)
       ドイツ  vs  フランス(ロシアの同盟国):植民地モロッコ争奪
       ドイツ  vs  ベルギー(ドイツの入国を拒否)
       ドイツ  vs  イギリス(ベルギーの同盟国):建艦競争
       ドイツ  vs  日本(イギリスの同盟国)
      ※三国協商:イギリス・フランス・ロシア (後で + イタリア)
             <世界の結果:3王朝の崩壊>
          1. ロシア:ロマノフ朝崩壊:ロシア革命(1917.11)
          2. ドイツ:ホーエンツォレルン朝崩壊--->ワイマール共和国
          3. オーストリア:ハプスブルグ帝国崩壊
    ●日本の対応(火事場どろぼうに匹適)など
      1.ドイツに宣戦布告し、山東半島(当時、ドイツの租借地)の青島と
       その付近を攻略(大正3年8月23日~11月7日)。
      2.日英同盟がありながら、英国を主とする連合国に武力をもってする
       協力を十分にしなかった。(--->日英同盟破棄(1921年))
      3.フランスから欧州戦線への陸軍部隊派遣要請があったが拒否。
      4.シベリア出兵のさいに、日本と米英の間で意見の相違があった。
      5.こうして米英というアングロサクソンの国との緊密な関係がなくな
       り、日本が世界から孤立せざるを得なくなった。

   ※第一次世界大戦日本の好景気を呼び、「戦争恐るるべからず」という風潮を
    呼ぶ。
      ☆国民:「戦争は儲かる」(■大戦景気=戦争バブル)
      ☆軍人:「ロシア・ドイツ恐るるに足らず」
      ☆政府:「欧米の独善を排す」(近衛内閣)

   ※石橋湛山の慧眼(第一次世界大戦とその後の日本への警告)
      此問題に対する吾輩の立場は明白なり。亜細亜大陸に領土を拡張すべか
     らず、満州も宜く早きにおよんで之れを放棄すべし、とは是れ吾輩の宿論
     なり。更に新たに支那山東省の一角に領土を獲得する如きは、害悪に害悪
     を重ね、危険に危険を加うるもの、断じて反対せざるを得ざる所なり。
                (『東洋経済新報』大正3年11月15日号「社説」)
      而して青島割取に由って、我が国の収穫するものは何ぞと云えば、支那
     人の燃ゆるが如き反感と、列強の嫉悪を買うあるのみ。其の結果、吾輩の
     前号に論ぜし如く、我が国際関係を険悪に導き、其の必要に応ぜんが為め
     に、我が国は、軍備の拡張に次ぐに拡張を以ってせざるべからず。
                   (同上、大正3年11月25日号「社説」)
          (加藤徹氏著『漢文力』中央公論新社、pp.10-11より孫引き)

   ※通貨膨脹、物価高騰、生活費昂上となり、国民全体の収入が増えた。
       ■歳入:7億3000万円(大正3年)----->20億8000万円(大正11年)
        第一次世界大戦が終わってからは、歳入は減り続け、昭和2年の
        金融恐慌に至る。(昭和5年において国債(公債)残高60億円)
        (-->昭和5年、蔵相井上準之助は緊縮財政、金解禁を推進)
   ※第一次大戦後の日本は、農業国から準工業国へと変質しつつあった。農民の
    占める割合は50%を切った。

  ★【国家存亡の戦いから、侵略戦争へ。狂気の政府と軍人の台頭】
          --------------------
    ・対華二十一か条要求(1915年、大正4年1月、第二次大隈内閣-->袁世凱) 
       (「『軍閥抬頭』序曲」(若槻礼次郎))
      ※孫文の日本への期待が裏切られた。
      ※中国の排日運動激化の一大転機となった。

    ●世界における本格的な毒ガス戦のはじまり(1915.4.22)
      ベルギーの町、イーブル付近の塹濠で好適な風が吹くのを待っていた
     ドイツ軍は、午後5時30分から大量の塩素ガスをフランス・アルジェリア
     軍に向けて放射しはじめた。
            (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.1)

    ・1915年に初めて初歩的な戦闘機が戦場に投入され、ドイツと連合国が大空
     の支配権をもって争った。

    ・<フセイン・マクマホン書簡>(1914~1916)
       イギリスはアラブ人に対して、独立アラブ国家創設を約束したが、誠
      実にそれを履行しようとはしなかった。あろうことかイギリスはフランス
      との密約<サイクス・ピコ協定>によって、オスマン帝国のアラブ地域を
      両国で分割支配することを意図していた。
          --------------------<余談>--------------------
           1083年から1099年までのパレスチナはセルジュク・
         トルコが支配した。1099年からは十字軍が各地を支配し、
         その状態が、十字軍がサラディンに敗れる1291年まで続
         いた。パレスチナ人には十字軍の末裔だと主張する者が
         多いが、文化的にはアラブ文化が支配的だった。大多数
         を占めるアラブ人はパレスチナ人と呼ばれた。少数派の
         ユダヤ教徒ユダヤとは呼ばれず、レヴァント人のつけ
         た「イスラエル人」という名称でユダヤ教徒であること
         が示された。
          次いでオスマン・トルコがパレスチナを征服し、1517
         年以後この地を支配したが、1918年にロレンス大佐(「
         アラビアのロレンス」)率いるアラブ人の英雄的な戦い
         によって、パレスチナから駆逐された。ロレンスはロイ
         ド=ジョージを首班とする自国政府に騙され、アラブ人
         は「三枚舌」外交で騙された。まれに見る権謀術数やあ
         からさまな欺瞞を経て、結局はトルコの支配から、国際
         連盟によるイギリスの委任統治に変わっただけだった。
          パレスチナにはさまざまな民族が住んでいて、フェニ
         キア人、シリアから来たアルメニア人、アンモン人、モ
         アブ人、そしてアラブ系のナバテア人が入り交じってい
         た。ローマに征服された当時のパレスチナには、十分に
         発達した、それとわかる部族国家が31あった。
         (ジョン・コールマン博士『石油の戦争とパレスチナ
                   闇』太田龍監訳、成甲書房、p103)
          -------------------------------------------------

    ●近代ヤクザ山口組誕生(1915年、大正4年)
      ヤクザは光彩陸離として下層民の先頭に立つ。
           (宮崎学氏著『近代ヤクザ肯定論』筑摩書房、p.40)
    ●筑豊の吉田磯吉は福岡全県区から衆議院議員に当選、中央政界に進出。
      憲政会(のちの民政党)の院外団(政党のゲバルト部隊=「羽織ゴロ」
     「政治ゴロ」=「ハカマ屋」)のまとめ役となり、この結果ヤクザが
     院外団をまとめることによって、政党政治と民間暴力の癒着が始まった。
             (宮崎学氏著『近代ヤクザ肯定論』筑摩書房、p.44)

1916年(大正5年)~1918年(大正7年)
       ■「大日本医師会」誕生(会長:北里柴三郎
       ・理化学研究所創設(1917年、大正6年)
       ・大正6年4月20日の総選挙で憲政会(加藤高明)は政友会(原敬
        に敗れた。第一党の座は政友会に移り、これ以後10年間憲政会は
        第二党に甘んじた。--->
       ●日本最初の本格的政党内閣として原敬総裁の政友会内閣の誕生
                  (1918年、大正7年 (---> 1921年原敬暗殺))
          --------------------
    ・1916年、アメリカ・ニューヨーク市でポリオが大流行。8900人のうち
     2400人が亡くなった。(スティーヴン D. レヴィット、スティーヴン J.
     ダブナー『超ヤバい経済学』望月衛訳、東洋経済新聞社、p.183)
    ・ロシア革命(1917年、大正6年):レーニン登場
    ・張作霖、北京政府に対し満州の独立を宣言。
      日本政府は満州において張作霖を支援。
    ・アメリカがドイツに対して宣戦布告(1917年4月6日)。
    ・金輸出禁止(大正6年、1917年9月)

    ●内務省が阿片製造を四社に限定(これまでは星製薬一社に限定されていた)
       星製薬株式会社、株式会社ラヂウム商会(-->武田薬品)、三共株式会社
      大日本製薬株式会社(星製薬株式会社は1915年から阿片製造をしていた)
       なお平成の現在、武田薬品三共製薬、大日本製薬の3者が特権的に
      モルヒネを製造し莫大な利益をあげているはずである。
        (倉橋正直氏著『日本の阿片戦略 隠された国家犯罪』より)
    ・英国バルフォア外相が英シオニスト会長ロスチャイルド卿にユダヤ人国家
     建設を約束(第一次世界大戦中のイギリスの中東地域占領。ユダヤ人と先
     住のアラブ系パレスチナ人との紛争の始まり)
            --------------------------------
            <バルフォア宣言>(1917年11月2日)
       イギリス政府がパレスチナユダヤ人国家の創設を宣言したもの
      とされているがこれは当時のイギリスの外務大臣だったアーサー・
      バルフォアのライオネル・ロスチャイルド卿宛の書簡だったという。

        イギリス政府は、パレスチナユダヤのための民族郷土
       を建設することに賛成し、この目的の達成を容易にするた
       め、最善の努力を払うものである。ただし、パレスチナ
       現住する非ユダヤ人民の市民的・宗教的権利、および他の
       諸国におけるユダヤの享受する諸権利と政治的地位が損な
       われるようなことは許されない旨、明確に了解される。
       (ジョン・コールマン博士『石油の戦争とパレスチナの闇』
                 太田龍監訳、成甲書房、pp117-118)
            --------------------------------

    ・石井・ランシング協定調印(中国での機会均等、門戸解放、日本の特殊
     地位の承認など)
    ●シベリア出兵(1918年、大正7年8月2日):満州が再び脚光を浴びはじめた。
    ●「米騒動」(大正7.8.3~)
      米の買い占めで米価が高騰(一升(1.5kg)10銭(T3)-->34銭(T7.6)-->
     45銭(T7.7))、富山県の海岸地帯にはじまった「米騒動」が全国に広がっ
     た。寺内内閣はこの鎮圧のために軍隊を出動させたために総辞職に追い込
     まれた。(--->原敬(賊軍かつ平民だった:閨閥のはじまり)内閣の成立、
     大正7年9月25日。薩長主流の藩閥政治の終焉)
    ●朝日新聞への弾圧(白虹事件):政客のような記者の否定、政府の反対
      勢力としての新聞の役割の終わり(大正7年12月8日)
          (詳細は、関川夏央氏『白樺たちの大正』173-198頁を参照)
          ------------------------------------
    ・戦闘爆撃機登場。飛行機による近接航空支援の確立(1917~1918年)
          ------------------------------------
    ●第一次世界大戦終結(1918年11月)
       800万人以上が死亡(ロシア:180万人、フランス:140万人など)
      主戦場となったフランスの繊維産業は壊滅的打撃をうけた。
       イギリス、フランス、ドイツの金総保有量は戦争が終わったときは
      わずか20億ドル程度にすぎなかった。
    ・スペイン風邪(インフルエンザ、H1N1)の猛威(1918~1919年)
       世界で2500万人以上(4000万人ともいう)が死亡。日本では2300万人
      が罹患し38万人余り(これも一説びは約15万人)が死亡。近代演劇の
      旗手、島村抱月(47歳)もこのインフルエンザで死亡した。
    ●ワイマール共和国成立(1918年11月9日
                   --->1933年ヒトラー独裁体制により終焉)
       社会民主党のフィリップ・シャイデマンが共和国成立を宣言した。こ
      れにより1919-1933年までドイツは14年間のマルクス主義制度(ワイマ
      ール共和制)下にあった。しかしこの体制は腐敗、頽廃、犯罪の蔓延な
      どで大きく混乱・荒廃し、ナチ党・ヒトラーの台頭を加速した。

1919年(大正8年)
  ★ 労働者の目覚め、労働運動の芽生え。
    ・神戸川崎造船所で8時間労働と賃上げを要求してストライキ
    ・コミンテルン第三インターナショナル)結成
       レーニン主導のもと、ロシア共産党を中心に各国の共産党を糾合。
         (ただし、ロシアの方針転換にともない1943年解散)
         --------------------------------------
    ・「三・一事件(3月1日)」:朝鮮半島京城平壌・義州で一斉に争乱が
       起こった。独立を願う朝鮮民族運動。日本は弾圧し死者1200人以上。
    ・「北京五・四運動(5月4日)」:アジア的専制制度(家族制度=儒教
                    の打倒運動
      ※ 五・四運動は外国勢カを標的にしたばかりでなく、外国と結びつく
       中国人すべてをも標的にした。これは中国革命における新しい要素で
       あり、商工業者や秘密結社を不安にした。租界内あるいはその周辺の
       邸宅で、安全かつ快適に暮らしている上海の資本家の立場からは、革
       命は邪道に入ってゆくように見え、彼らの生活と中国経済に対する支
       配力を脅かすように見えた。
        北京における学生運動の指導者の一人は穏健な知識分子で、名前は
       陳独秀(チエントウシウ)、北京大学文学院の院長〔文学部長〕で、
       そこの図書館では毛沢東が働いていた。陳は北京大学にいた二年間で
       中国の先進的知識分子のリーダーとなり、雑誌『毎週評論』を舞台に、
       革命的左翼の新思想を広めた。この雑誌は可能な限り多くの読者を獲
       得するために、日常的な口語文で書かれていた。五・四運動が北京で
       勃発したとき、彼は衰世凱を弾劾するパンフレットを発行し、そのた
       め三カ月間の投獄と拷問を味わった。釈放後、彼は大学の職を辞して
       上海に移った。そして1919年秋には、そこで若い無政府主義者、社会
       主義者、マルクス主義者たちの中心にいた。・・・
        上海における、陳独秀と彼の無害かつ動揺しがちな知識分子のグル
       ープは、レーニンおよびマルクスの教義は現下の中国の情勢に適合す
       るものであり、それを実践するためには、中国に共産党を創立しなけ
       ればならないと決定した。共産主義インターナショナルの代表、グレ
       ゴリー・ヴォイチンスキーが討論に加わったことが、彼らがこの結論
       に到達するのにあずかって力があったのは明らかである。
        陳独秀の大学在職時代の同僚や学生たちの援助で、中国各地にマル
       クス・レーニン主義の研究グループが組織された。湖南省省都
       長沙でこの組織にあたったのが、若き日の毛沢東であった。
     (S. シーグレーブ『宋王朝』田畑光永訳、サイマル出版会、pp.213-214)
    ●ベルサイユ講和条約(1919年6月28日)
      オスマントルコ帝国は細かく解体され、ソヴィエト連邦が国際的に承認
     された。敗戦国ドイツのは巨額の戦争賠償金が課せられた。
    ・ドイツにおいて民主主義的社会主義を唱え、ドイツ共産党を離れた
     ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが暗殺された。
    ・この頃ドイツはハイパーインフレに見舞われていた。
      (--->有能な財政家、ヒャルマー・ホラース・グリーリー・シャハトに
         より1920年代初頭に終結)
    ●最初の陸軍特務機関(対外情報機関)設置(1919年)
       ウラジオストクハバロフスク、ブラゴベシチェンスク、ニコラエフ
      スク、吉林、ハルピン、チタ、イルクーツク、オムスクなど極東ロシア
      地域に設置。(小谷賢氏著『日本軍のインテリジェンス』講談社選書
      メチエ、p.42)
         --------------------------------------
    ・武者小路実篤はこの年の年初に「新しき村」を宮崎県日向の山奥に建設
     することを決めた。 (関川夏央氏『白樺たちの大正』より)

1920年(大正9年)
       ■国際連盟に日本は常任理事国として参加。日本はいちおう軍事大国
        となった。(その実、内情は火の車)
  ★日本は表向きの好況で投機熱が煽られていた。しかし内実は戦争関係の不自然な
   政府の支出と戦時中の浪費性向と熟慮の停止からおきた好景気の外観でしかなか
   った。案の定大正9年3月15日から株式市場は大暴落し不況は全国に始まりだした。
                     (城山三郎氏著『男子の本懐』より)

    ・大正バブルの崩壊=戦後恐慌(大正9年3~4月)
    ・官営八幡製鉄所ストライキ発生、溶鉱炉の停止。
    ・上野公演で最初のメーデーが開かれた。
    ・労働争議や労働者のデモンストレーションは各地で頻発するようになった。
      ※資本家と労働者の葛藤(原敬内閣はこれを放置していると見られた)
        「今日の世界に於いて、尚ほ階級専制を主級する者、西には
        露国の過激派政府の『ニコライ、レニン』あり、東には我原
        総理大臣あり。(拍手起り『ノウノウ』と呼び其他発言する
        者多く、議場騒然)。若し私は此・・・(『懲罰々々』と呼
        び其他発言する者多し)、終わりまで御聴きなさい。其提げ
        て立つ所の階級が『レニン』は労働階級である。原首相は寧
        ろ資本家階級であると云うことは違うけれども、倶に民本主
        義の大精神を失うことは同じである。(拍手起り『ノウノウ』
        と呼ぶものあり、議場騒然)」(永井柳太郎の演説より)

    ●「米騒動」:米価高騰に対する群衆の反乱(全国500箇所以上での暴動)
    ●原敬内閣(第43回議会)での軍需費の大幅な増大(一般歳出の半分)。

    ・日本で初めて国勢調査が実施される(1920年7月、大正9年)。
      東京市の人口:217万人(--->1932年、昭和7年、575万人)
    ・学歴志向の高揚
       大学生+高等専門学校生数の増加 : 86000人(T10)-->126000人(T14)
       中学+高等女学+実業学校生の増加:445000人(T10)-->744000人(T14)
          --------------------------------------
    ●インドの天才数学者ラマヌジャンが32歳で病死(1920.4.27)
    ・中国共産党発足(1921年7月、大正10年)
       コミンテルンの支持。しかしコミンテルンは中国革命の中心的担い手
      は国民党であるとして、中国共産党に対して国民党との連合戦線をはる
      よう求めた。(--->「第一次国共合作」(1924.1)へ)
    ・ワシントン会議(1921~22年、大正10~11年)
      この会議は大幅な軍縮を提案したが、同時に日英同盟破棄につながった。
          (アメリカ中心の日本封じ込め体制)
    ・ムッソリーニの台頭(1922年、大正11年)
    ●イーライリリー社、はじめての産業規模でのインスリン生産を始める
     (1922年6月、大正11年)。ただしインスリンで助かるかそれが裏目に出る
     かは紙一重の差だった。純度と力価の問題が残っていた。
    ・ドイツの戦後インフレ
       4.2マルク/ドル(戦前)-->8(1918年)-->62.5(1921年)
       -->6000(1922年)-->15000(1923年、初頭)-->15万(1923年、夏)
       -->4.2レンテンマルク(戦前に比して1兆分の1になった1923年11月)
          --------------------------------------
    ●「バーデン・バーデンの盟約」(1921年、大正10年10月27日)
      永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次がドイツ南部の温泉地バーデン・バー
     デンのホテルで深夜まで話し込んだ。今ではなかば伝説と化している「盟
     約」とは、(1)長州閥専横人事の刷新、(2)軍制改革(軍備改編、総動員体
     制の確立)の大目標に向けて同志を結集すること。
     (--->「一夕会」--->満州事変へ(注:戦後に岡村寧次が語ったこと))
    ・原敬暗殺(1921年、大正10年11月4日)
    ・大隈重信没(1922年、大正11年1月10日)
    ●山県有朋病死(1922年、大正11年2月9日)
       陸軍内部の出身地閥による派閥闘争の終焉
    ●全国水平社の創立宣言(1922年、大正11年3月2日):京都岡崎公会堂
      松本治一郎、西光万吉、阪本清一郎、米田富、山田孝野次郎、
      柴田啓蔵ら

1923年(大正12年)
    ●関東大震災(大正12年9月1日午前11時58分44秒):日本の工業力への大打
     撃。死者・行方不明者10万5千余人。被災者300万人、被害総額55億円(GDP
     の半分)。(東京市長:後藤新平
              -----------------------------
       そのうち、私たちは空地を出て、歩き始めました。誰かが歩き出した
      ら、みんなゾロゾロと歩き出しただけで、誰も行先があるわけではあり
      ません。亀戸天神に近づく頃、避難民の群は大きく膨れ上って、私たち
      は、道幅一杯の長い行列になってノロノロと流れて行きました。みんな
      黙っています。しかし、時々、行列の中から、見失った家族の名前を呼
      ぶ叫びが聞こえます。私たちも、思い出したように、妹や弟の名前を呼
      びました。けれども、あの空地にいた時、柳島尋常小学校の子供たちは
      みんな焼け死んだ、と誰かが言っていましたので、もう諦めていました。
      感情が鈍くなっていたというのでしょうか、悲しみを鋭く感じるのでな
      く、自分というものの全体が悲しみであるような気分でした。家族の名
      前を呼ぶ声が途絶えると、行列の中から、時々、ウォーという大きな坤
      き声のようなものが起ります。それを聞くと、私の身体の奥の方から、
      思わず、ウォーという坤き声が出てしまいます。その夜は、東武鉄道
      線路の枕木に坐って、燃え続ける東京の真赤な空をボンヤリと眺めてい
      ました。(清水幾太郎ら『手記・関東大震災』1975より)
       (野田正彰氏著『災害救援』岩波新書、p.4)
              -----------------------------
     ※後藤新平の復興計画(チャールズ・ピアーズの協力)
       1) 遷都すべからず。
       2) 復興に30億円(2011年換算では175兆円)を要すべし。
       3) 欧米最新の都市計画を採用採用して我が国にふさわしい新都を
         造営せざるべからず。
       4) 新都市計画実施のためには地主に対し断固たる態度を取らざる
         べからず。(『文藝春秋』2011年6月号、pp.96-97)
     ※蔵相井上準之助は国内初のモラトリアム(9月7日、支払猶予令)を公布
      した。東京は廃墟と化し、景気は益々後退。大量の不良債権が発生。
       政府は「震災手形」を発行し、それを政府保証で日銀に割り引いて
      引き取らせることで、結果的に不良債権をごまかし続けることになった
      (大正12年9月27日、日銀震災手形割引損失補償令を公布)。この時の
      日銀の手形の再割り引きは4億3000万円に上った。
     ※震災手形:関東大震災により、特に建築、土木、不動産関係の手形が
           紙クズ同然になったが、政府はそれを「震災手形」化して
           とりあえず急場を凌いだ。しかし悪徳業者は、震災以前の
           不良債権まで「震災手形」に紛れ込ませ、市中の不良債券
           を日銀に引き受けさせることになった。結局これによる赤
           字財政は、後々まで悪い影響を残すことになった。
     ※流言飛語の飛び交うなかで、多数の在日朝鮮人が虐殺され、社会運動
      家の大杉栄伊藤野枝、橘宗一(6歳)が憲兵隊(甘粕正彦大尉ら)に
      よって惨殺された(大杉事件(9.16))。大正デモクラシーの終焉を象徴
      する事件だった。(「一致行動」のみに長けていて「個人性格」を持っ
      てない「集団」(大衆)の登場)
              -----------------------------
        例えば警察は、東京下町の住民を本所被服廠跡の一方所に誘導し
       たため、集まった4万の群衆の衣服に火が移り、3万8000人が焼死し
       た。東京市内の死者は6万といわれているので、その6割をこえる人
       々は警察の強権的な誘導によって死んだことになる。
        また、「朝鮮人来襲」の流言を拡げたのも警察であった。震災の
       翌日、9月2日、政府は米騒動のときでさえとらなかった戒厳令(こ
       の場合は行政戒厳)を施行し、五万の軍隊で「朝鮮人来襲」にそな
       えた。警察の呼びかけによって、青年団在郷軍人、消防隊などを
       軸として自警団が組織され、彼らは各地でーーただし火災被害の少
       ない地域でーー朝鮮人を惨殺していった。殺された朝鮮人は、政府
       の発表では231人とされているが、実数は10倍を越えるといわれて
       いる。ほかにも、多くの中国人が殺された。このような官民一体の
       大量虐殺の情勢のなかで、多くの社会主義者や無政府主義者が殺害
       されていった。大杉栄伊藤野枝らも東京憲兵隊の甘粕正彦大尉に
       「国家の害毒」として殺されたのである。しかも、官憲と自警団に
       よる犯罪は詳しく調べられることはなく、責任を問われることもほ
       とんどなかった。(野田正彰氏著『災害救援』岩波新書、pp.2-3)
              -----------------------------
     ※伝染病の流行(吉村昭氏『関東大震災』文春文庫、p.246)
        災害地の衛生状態は最悪だったが、その具体的なあらわれとして、
       伝染病の流行が見られた。
        震災直後には、東京府一帯に赤痢が大流行して2619名の患者を出し
       、それが衰えた後、腸チフスが猖獗をきわめた。その罹病者は4675名
       にのぼり、中でも北豊島郡などでは9、10月の2カ月間に700余名の発
       病者が出た。
        その他、パラチフス、猩紅熱、ジフテリア、流行性脳膜炎、天然痘
       がそれぞれ流行し、伝染病患者は総計14364名という平年の2倍以上の
       数に達し、死者1827名を数えた。
     ※見事な学生の羅災者救援
        さらに学生たちは、「東京羅災者情報局」を作った。今でいう、情
       報ネットワーク作りである。彼らは東京市と協力し、全市にわたる避
       難者名簿を精力的に作成し、尋ね人探しを容易にした。全市および隣
       接町村に散っているすべての傷病者収容所を訪ね、その氏名、住所リ
       ストを作った。区役所と警察を歩き、死亡者名簿を作成した。また、
       歩いて調べた正確な焼失区域地図を作って、新聞を通して公表したの
       である。9月2日には戒厳令が布かれ、地方の人が東京に入ることは難
       しく、親族の安否を尋ねることもできなかった。学生の作ったデータ
       は、人々の不安をやわらげたのだった。
        末弘教授は、「平素動(やや)ともすれば世の中の老人達から、私
       事と享楽とにのみ没頭せるものゝ如くに罵られ勝ちであった現代の学
       生が、今回の不幸を機として一致協力文字通り。寝食をすら忘れて公
       共の為めに活動努力し、以て相当の成績を挙げることが出来たことは、
       平素学生の「弁護人」たる私としては此上もない嬉しいことである」
       と書いている。阪神間の大学教授で末弘教授と同じ思いを今回持った
       人もいるであろう。
        72年前の権威的な社会でのこと、民衆の自立の力は弱く、学生の救
       援活動はきわめてエリート的である。それにしても、避難民の自治を
       促し、警察やマスコミが今日やっている情報センターとしての機能を
       はたしていったことに、私は感心する。学生たちの救護活動から、3
       カ月後に東京帝大セツルメント(会長は末弘厳太郎)が作られ、2年
       後の東京本所における活動に発展していく。
        私たちはこんなボランティアの歴史があったことをすっかり忘れて
       いる。昭和の全体主義があり、戦争があり、敗戦から経済復興、そし
       て富裕な80年代社会へ移りゆく間に、新しい出来事の記憶は、それ以
       前の人々の反応の記憶をかき消してしまったのである。
        (野田正彰氏著『災害救援』岩波新書、pp.72-73)
    ●大杉事件(大正12年9月16日)
       憲兵分隊甘粕正彦が、社会主義無政府主義者大杉栄と妻伊藤野枝
      甥の橘宗一(6歳)を絞殺の上、空井戸に放り投げた。まことに残虐な行
      為だった。
      (付録:大杉栄に同調していた無政府主義者(新聞『労働運動』同人)
          和田久太郎、村木源次郎、山鹿泰治、岩佐作太郎、水沼辰夫、
          和田栄太郎、近藤憲二ら)
             --------------------------------------
            【大杉栄『生の闘争』の中の『鎖工場』より】
          おれは再びおれのまわりを見た。
          ほとんど怠けものばかりだ。鎖を造ることと、それを自分の
         からだに巻きつけることだけには、すなわち他人の脳髄によっ
         て左右せられることだけには、せっせと働いているが、自分の
         脳髄によって自分を働かしているものは、ほとんど皆無である。
         こんなやつらをいくら大勢集めたって、何の飛躍ができよう、
         何の創造ができよう。
          おれはもう衆愚には絶望した。
          おれの希望はただおれの上にかかった。自我の能力と権威と
         を自覚し、多少の自己革命を経、さらに自己拡大のために奮斗
         努力する、極小の少数者の上にのみかかった。
          おれたちは、おれたちの胃の腑の鍵を握っているやつに向か
         って、そいつらの意のままにできあがったこの工場の組織や制
         度に向かって、野獣のようにぶつっかってゆかなければならぬ。
                (松下竜一氏著『ルイズ』講談社、p.95より)
             --------------------------------------
        夜、芝生や鳥小屋に寝ていると、大勢の兵隊が隊伍を組んで帰つ
       て来ます。尋ねてみると、東京の焼跡から帰つて来た、と言います。
       私が驚いたのは、洗面所のようなところで、その兵隊たちが銃剣の
       血を洗つていることです。誰を殺したのか、と聞いてみると、得意
       気に、朝鮮人さ、と言います。私は腰が抜けるほど驚きました。朝
       鮮人騒ぎは噂に聞いていましたが、兵隊が大威張りで朝鮮人を殺す
       とは夢にも思つていませんでした。……
        ……軍隊とは、一体、何をするものなのか。何のために存在する
       のか。そういう疑問の前に立たされた私は、今度は、大杉栄一家が
       甘粕という軍人の手で殺されたことを知りました。……私は、判ら
       ないながら、大杉栄の著書を読んでいたのです。著書の全部は理解
       出来ませんでしたが、彼が深く人間を愛し正義を貴んでいたことは
       知つていました。人間を愛し、正義を貴ぶ。細かいことが判らなく
       ても、私には、それだけでよかつたのです。それが大切だつたので
       す。その大杉栄が、妻子と共に殺されたのです。殺したのが軍人な
       のです。軍隊なのです。日本の軍隊は私の先生を殺したのです。軍
       隊とは何であるか。それは、私の先生を殺すものである。それは、
       私の先生を殺すために存在する。……(野田正彰氏著『災害救援』
       岩波新書、p.5)
       ------------------------------------------------------------
    ●トルコ共和国が正式に誕生(1923.10.29、PM8:30)
      大統領選挙では "トルコの父" ケマル・パシャケマル・アタチュルク
     がトルコ共和国初代大統領に選出された。--->カリフ制の廃止。政教分離
     の確立。
    ●虎ノ門事件(1923年12月27日):難波大助が摂政宮(後の昭和天皇)を
     ステッキ銃で狙撃。
    ●レーニン死亡(1924(大正13)年1月21日)
    ●憲政会(加藤高明)第一党に復帰(大正13年5月10日、第15回衆院選挙)
        --->加藤高明内閣(護憲三派(憲政会・政友会・革新倶楽部)内閣)
          成立(大正13年6月9日)
           斎藤隆夫(憲政会)の5年来の夢であった普選法案(衆議院
          議員選挙法改正法律案)が陽の目をみることになった。
           --------------------------------------
    ・1924年はインド独立運動史にとって記念すべき年だった。
       1. ヴィール・サルバルカル(ブラーミン出身の文民政治家)の帰国
       2. マハトマ・ガンジーの釈放
          不可触民解放についてはガンジーはあくまでも表面的な保護
         者でしかなく、何ら彼らの現実を変える事が出来なかった。ア
         ンベードカルは不可触民解放の現実的指導者であり、二人は互
         いの力量を認めながらも激しく対立した。
       3. ビームラーオ・アンベードカル(インド不可触民解放の父)が政
        治の表面に姿を表わす。
       (ダナンジャイ・キール『アンベードカルの生涯』山際素男訳、
        光文社新書より)

1925年(大正14年):ラジオ放送開始
       ■「治安維持法」(日本を戦争に向かわせることになる大悪法)成立
                  (内務大臣:若槻礼次郎、大正14年3月19日)
         治安維持法は思想弾圧のための法律で最高刑は死刑。昭和16年に
        全面改正され、取り締まり範囲の拡大、予防拘禁まで採用された。
                    -----------
        ※第一条「国体もしくは政体を変革し又は私有財産制度を否認する
        ことを目的」として結社を組織したり、これに加入したものは十年
        以下の懲役か禁錮に処する。
                   ●●「国体」とは●●
            当時の憲法の基本秩序である天皇主権と資本主義経
           秩序をいう。(長谷部恭男氏著『憲法とは何か』岩波新
           書、p.23)
                    -----------
        ※星島二郎の反対演説
          「反動内閣が天下を取りまして、此の条文を楯に取ってもし言
         論を圧迫し、結社を圧迫するならばーー私が仮に当局者となって
         やるならば此法案の一条でもって、日本の大部分の結社を踏み潰
         すことが出来る」と警告した。
         (結局、同法は衆議院では246対10人の大差で可決された。反対者
         のなかには星島のほかに、尾崎行雄、坂東幸太郎の二名ののちに
         同交会のメンバーとなる議員の名が見られる。このときの星島の
         危惧が現実のものになるには、それからあまり時間はかからなか
         った)。(楠精一郎氏著『大政翼賛会に抗した40人』朝日新聞社
          pp.57-58)
       ■「普通選挙法」成立(大正14年3月29日--->5月5日公布)
             (上記2法はセットで成立していた)

    ●孫文死亡(北京にて、肝臓癌、1925年3月12日、59歳)
      いわゆる「大アジア主義」演説(於神戸 1924年11月28日)
         「・・・あなたがた日本民族は、西方覇道の手先となるか、それ
         とも、東方王道の干城となるか、それは日本国民が慎重におえら
         びになればよいことです」。
           資本主義=重財而徳軽
           共産主義=重物而軽人
           亜州主義=重人並重徳(=アジア主義
      (孫文は、この演説のなかで井伊直弼安政条約を結んだ1858年から
       明治27年(安政不平等条約解消)までの36年間の日本が、欧米の
       植民地であって独立国ではなかったと規定した)
    ●日本がイスタンブールに大使館を設置(1925年3月)
      トルコとの外交関係成立。日本としては10番目、アジア地域でははじ
     めての大使館であった。初代大使は小幡酉吉。「日土貿易協会」も設立
     され初代理事長は山田寅次郎
    ・イギリスが1ポンド=4.86ドルで金本位制に復帰(1925年4月)
       当時の大蔵大臣はウインストン・チャーチルだった。イギリスはこの
      後、コスト高の炭坑業界にはじまり、失業者続出の大不況に見舞われる
      ことになる。
    ・フランスのフラン大暴落
       1ドル=5.4フラン(1918年)-->11フラン(1918年)-->49フラン(1926)
    ●5・30事件(1925年5月30日)
       日本資本の内外綿紡績工場の争議中に日本人監督が組合指導者の一人
      を射殺し十数人を負傷させたことに端を発した大惨事。これをきっかけ
      の中国全土に反帝国主義運動が拡大。
    ・大正天皇崩御(48歳、大正14年12月25日)
        --->昭和(「百姓昭明、協和万邦」、昭和元年は1週間のみ)
          -------------------------------------
    ・南京に国民政府誕生、北京へ向かい北伐開始(1926.7)。満州張作霖
     との軋轢。(--->山東出兵(1927.5))
      ※北伐:各地の軍閥を攻撃して帰順させようとした。
       ○国民党左派(宋慶齢):武漢を目指して北西へ進軍
       ○国民党右派(蒋介石):南昌、上海に向けて進軍
    ・1926年11月、国民党左派が武漢を攻略、国民政府は武漢に移転。
          -------------------------------------
    ●若槻内閣誕生(大正15年1月30日)--->●田中義一内閣への変遷
       議会構成は憲政会165・政友会161・政友本党87の議席数(政友会は
      犬養総裁の革新倶楽部を吸収)。この内閣は朴烈怪写事件・金融恐慌
      など激しい政争。経済的混乱で倒れ(1927年、昭和2年)、田中義一
      内閣という久しぶりの政友会内閣ができた(1927年、昭和2年4月)。

 ***********************  大正から昭和へ  **************************

 ※ 「大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが杖をポンとたたいたの
  ではないでしょうか。その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、
  戦略、あるいは国内の締めつけ、これらは全部変な、いびつなものでした。
   この魔法はどこからきたのでしょうか。魔法の森からノモンハンが現れ、中国
  侵略も現れ、太平洋戦争も現れた。世界中の国々を相手に戦争をするということ
  になりました。・・・
   国というものを博打場の賭けの対象にするひとびとがいました。そういう滑稽
  な意味での勇ましい人間ほど、愛国者を気取っていた。そういうことがパターン
  になっていたのではないか。魔法の森の、魔法使いに魔法をかけられてしまった
  ひとびとの心理だったのではないか。・・・あんなばかな戦争をやった人間が
  不思議でならないのです」(司馬遼太郎氏『雑談「昭和」への道』より)

 ※ 「参謀」
  という、得体の知れぬ権能を持った者たちが、愛国的に自己肥大し、謀略を企ん
  では国家に追認させてきたのが、昭和前期国家の大きな特徴だったといっていい。
              (司馬遼太郎氏、『この国のかたち<一>』より)

1927年(昭和2年)から1939年(昭和14年、第二次世界大戦勃発)まで
    【日本の政治経済の激動時代:20世紀末~21世紀を考える試金石の時代】
     ●政友会と民政党(憲政会と政友本党の合流;1927.6)という二大政党
      政治が始まった。
     ★首相:田中義一(政友会)、昭和2~4年(政友会217・民政党216)
  ★徴兵制について(以下、清水寛氏著『日本帝国陸軍精神障害兵士』不二出版
   より抜粋引用、pp.22-63)
   徴兵令・明治6年(1873)-->新徴兵令・明治22年(1889)-->兵役法・昭和2年(1927)
   1. 「徴兵令」時代
      国家武装の具として、一般兵役義務(「必任義務」)として国民皆兵を
     掲げようとした。(免役要件は士族階級・有産階級に有利)。
   2. 新「徴兵令」時代
      徴兵要員を確保するため主として免役条項の整理改定。日清・日露戦争
     への大兵力動員とその後の侵略戦争が可能となった。
   3. 「兵役法」時代(徴兵令全文改正)
      国家全体を軍事化するという徹底した必任義務としての徴兵制
      動員兵力総数
       ・昭和 6年(1931)=満州事変:27万8000人
       ・昭和12年(1937)=日中戦争開始翌年:130万人超
       ・昭和16年(1941)=大東亜戦争突入:240万人超
       ・昭和20年(1946)=敗戦:716万5000人(当時満17歳以上45歳以下の
        日本国籍を有する男子は約1740万人)
      このほか特別志願兵令や特別志願兵制度によって朝鮮と台湾で「志願」
     という名の実質的強制徴兵が(植民地で)行われた。
     -----------------------------------------------------------------
        <孤高の政治家、斎藤隆夫氏の発言より(昭和3年)>
     さなきだに近時国民思想の流れ行く有様を見ると、一方には極端なる
    左傾思想があると共に、他の一方には極端なる右傾思想があり、而して
    是等思想は悉く其向う所は違っているけれども、何れも政党政治とは相
    容れない思想であって、彼らは大なる眼光を張って、政党内閣の行動を
    眺めて居る。
     若し一朝、政党内閣が国民の期待を裏切り、国民の攻撃に遭うて挫折
    するが如き事があるならば、其時こそ彼等は決河の勢(決潰した堤防を
    河水が流れ出す勢い)を以て我政治界に侵入して政治界を撹乱し、彼等
    の理想を一部でも行おうと待設けて居るのである。故に、今日は政党内
    閣の試験時代であると共に、政治界に取っては最も大切なる時である。
    ・・・ 
     我々が政党政治の運用を誤れる現内閣を糾弾せんとするのは、決して
    微々たる一内閣の存廃を争うが如き小問題ではなくて、実に将来に於け
    る政党内閣の運命延いて憲法政治の運命に関する大問題である事を記憶
    せられたいのであります。
     (松本健一氏著『評伝 斎藤隆夫』、東洋経済、p234-235より引用)

       ■田中義一(政友会)内閣は長州・陸軍閥田中義一を首相に戴き、
        内務大臣は司法次官・検事総長出身の鈴木喜三郎とした、政党内
        閣とは縁もゆかりもない、実質的には官僚・軍閥内閣であった。
        (松本健一氏著『評伝 斎藤隆夫』より引用)
       ※現内閣(田中内閣)は政党内閣の本領を全然没却して、党利党略
        の為めに、国家民衆の利益を犠牲に供して憚らねものである。
                      (昭和3年、斎藤隆夫(民政党))
           -----------------------------------------------------
             <幻の「田中上奏文」:日本語原文は存在しない>
          1927年、日本政府の首相、将軍の田中[義一]は天皇への
         覚書の中で次のように述べた。「明治天皇の遺訓により、我々
         の第一歩は台湾征服であり、第二歩は朝鮮を獲得すべきことに
         あった(これはすでに実現した)。今は、満洲、モンゴル、中
         国の征服という第三の歩をすすめなければならない。これが達
         成されれば、我々の足は残りのアジアすべてに及ぶであろう」。
          (シーシキン他『ノモンハンの戦い』田中克彦訳、岩波現代
           文庫、pp.7-11)
          -----------------------------------------------------
                 <蒋緯国の追憶(1990.5)>
          本来なら、あのころの中国と日本は友好的であるべきでした。
         それなのに日本は、中国の領土を日本のものとし、そこを前面
         の歩哨に押したてて日本自体の国防の安全地帯にしようとした
         のです。ロシアの南下をくい止めるために共に連合して助けあ
         って対抗しなければならなかったのにですよ。なぜこうならな
         かったかを見ていけば、あのころのお国の田中義一内閣がもっ
         とも大きな誤ちを犯したということになる。彼の内閣のときか
         ら中国を侵略し、共産中国をつくる元となる役割を果たしたと
         いっていいでしょう。私は田中首相が中国を攻めてきたという
         言い方はしませんが、彼の戦略が間違っていたとの断定はして
         もいいでしょう。お国の誤りは第二段階(蒋緯国:いつ誰と協
         力し、いつ拡張するのか、つまり生存を賭けた戦いを行うのか、
         どのように拡張したら効果があがるのかを考えること)の失敗
         だったということです。(保阪正康氏著『昭和の空白を読み解
         く』講談社文庫、p.71)

       ■「健康保険法」施行。医療保険における診療報酬の支払いとレセプト
         の審査は、基本的には地域医師会の仕事だった。
       ※診療報酬はこの時より昭和17年度(医療国家統制開始)までは、
        政管健保の診療報酬は政府と日本医師会の診療契約に基づいて人頭
        割り請負方式で支払われた。また組合健保の診療報酬は、個々の組合
        と医師会との契約で決められた。

    ・震災手形損失補償公債法案、震災手形前後処理法案(震災手形二法)の審議
      経営難に陥っていた鈴木商店とメインバンクの台湾銀行救済目的
    ●金融恐慌:莫大な不良債権の顕在化。 銀行は続々と破綻。 
       鈴木商店川崎造船所の経営難の表面化。台湾銀行破綻。大阪の近江
      銀行の支払い停止と閉鎖。
       4月21日にモラトリアムの緊急勅令(--->5月10日)。

        -----◇日本のマルクス主義の崩壊(現実的破綻)◇-----
       ■「三・一五」事件:共産党一斉検挙(昭和3年、1928.3.15)
         これによりプロレタリア文化運動は壊滅に瀕した。
         (橋浦泰雄ら「ナップ」(全日本無産者芸術連盟)を結成)
         (昭和4年4月16日にも再び残った共産党の大物が一斉検挙され
         た。つまり戦争に反対する勢力が、治安維持法違反ということ
         で、田中義一内閣の時に一斉に監獄に入れられた)。
       ■これに続く1930年代はコミンテルン共産主義運動の国際組織)の
        強い統制下(共産主義共産党の不乖謬性)で、プロレタリア文化
        運動は柔軟さを失い瓦解して行くのであった。
                (一例:マルクス主義理論家福本和夫の失脚)
       ※共産主義は極度に体系的な理論であり、それが神格化されてしまい、
        日本において具体的現実によって検証される機会を喪失していった。
       ※「集団転向」(昭和4年)
        共産党指導者たちの集団転向とその声明文は国家主義と戦争肯定の
        思想を謳っており、日本の大陸侵略への口実を与え、戦争合理化の
        根拠ともなった。
       ※河上肇『獄中独話』(昭和8年)
        共産主義の実践の断念を声明。しかしその理想と理論への確信は微
        動もしないこともまた明白に述べている。
          ---------------------------------------------------
    ・(余談)第一回日本オープン(旧程ケ谷コース)開催
       この当時はゴルフは特権階級の占有物で、軍艦成金赤星弥之助の六男
      赤星六郎が優勝。赤星六郎は唯一のアマチュアのチャンピオンだった。
    ・アメリカ、バージニア州で最高裁が断種措置を許可した。(1927年)
          ---------------------------------------------------
    ・1927年3月21日蒋介石(右派)の部下の白崇禧将軍の北伐軍が上海郊外の
     龍華に到着。これを機に上海の労働者は一斉蜂起し、3月23日上海は労働者
     の管理下に入った。(ソ連スターリンの強力な指導があった)
    ・汪兆銘宋慶齢とともに左派、孫文後継)が武漢国民政府首席に就任
    ●蒋介石反共クー・デタ(1927年4月12日):反共列強の歓迎があった。
      「青幇(チンパン)」(上海やくざ集団、ボスは杜月笙)と蒋介石
     関係についてはスターリング・シーグレイブ『宋王朝』(田畑光永訳、
     サイマル出版会)を参照。これにより第一次国共合作が崩壊。
    ●蒋介石(「青幇」の殺し屋?)が南京に国民政府樹立(1927年4月18日)
       蒋介石は政権基盤維持のための資金調達に関しては、脅し、ゆすり、
      たかり、強制没収、誘拐身代金強奪など悪の限りを尽くした。また
      南京政権に反目する指導者(北洋軍閥ー段祺瑞・張作霖系譜)や作家
      などを冷酷非常に葬り去った。(--->「北伐」へ)
    ・1927年7月14日、宋慶齢孫文未亡人)は蒋介石と絶縁。同時に兄弟・姉妹
     の宋一族とも決別した。(宋一族の宋子文蒋介石の(脅しによる強制的
     な)資金源。すでに武漢国民政府の汪兆銘蒋介石側に立っていた)。
    ・宋慶齢蒋介石夫人宋美齢の姉。その生涯を通じてソ連のスパイだったこ
     とは、現代においても秘匿されている。(ユン・チアン『マオ<上>』講
     談社、p.237)
    ・1927年11月ソ連スターリントロツキーら反対派を除名。スターリン
     この後中国革命支援を止めてしまった。
    ・1927年12月1日、蒋介石宋美齢と結婚。
    ・アメリカ、ウォール街の株価が急上昇。1924年末から1928年初頭にかけて
     2倍になっていた。
     (--->1928年8月に頂点--->公定歩合6%に引き上げをきっかけに世界恐慌
    ・エルネスト・チェ・ゲバラ誕生(1928年6月14日~1967年10月9日戦死)
          ---------------------------------------------------
    ●初めての「普通選挙法」による総選挙(1928年、昭和3年2月20日)
      革新、無産政党が躍進。ただしこの動きは満州事変に向かう軍事的な動
     きが後戻りできないまでに始まっており、田中義一内閣は労農党関係の団
     体に解散命令をだしたり、共産党への大弾圧を行い、昭和3年7月には「特
     高」までも設置した。

    ●張作霖爆殺事件(関東軍参謀河本代作大佐ら、1928年、昭和3年6月4日)
       昭和陸軍の体質があからさまに発揮された重大な事件であった。
       つまり昭和の日本は早くも権力の空隙をあらわにしていた。どこに
      権力があり、だれが責任をとるのかという指導力の核心が分裂してし
      まっているがために、当事者能力を欠いていた。(福田和也氏著『地ひ
      らく』文藝春秋より)
       この事件は政治家と陸軍の総意でもみ消され、首相田中義一は孤立し
      てしまっていた(--->天皇激怒-->田中義一辞職-->田中急死-->宇垣一
      成(=昭和陸軍=長州閥)のはじまり)。
       この張作霖爆殺事件処理のゴタゴタは「沈黙の天皇」(半藤一利氏著
      『昭和史 1926->1945』平凡社、p46)をつくりあげ、陸軍が横暴を極め
      るようになってしまった。
       これにより張作霖の息子、張学良は反日政策をとるようになった。
       張学良軍20万、関東軍14000の対峙。
      (石原莞爾板垣征四郎、河本大作、花谷正らの身勝手な満蒙政策の
       具現化。--->柳条湖事件(1931年、昭和6年9月18日)--->満州事変へ)
    ※<関東軍とは>
       関東州(遼東半島の南端部で満州地方の南端、軍港旅順と貿易港大連
      などを擁した)と南満州鉄道満鉄附属地(拓務省関東庁管轄)を警備
      するために設けられたのが関東軍である。1935年8月頃からは満鉄総裁・
      副総裁人事、満州電々などの人事を蹂躙し、さらには満州国の人事や組
      織へも傍若無人に介入しはじめた。(古川隆久氏著『あるエリート官僚
      の昭和秘史』芙蓉書房出版、p.76などより)
    ※張作霖爆殺は日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から
     最近明らかになったことは、実際にはスターリンの命令でナウム・エイ
     ティンゴン(トロツキー暗殺に関与)が計画し、日本軍の仕業にみせかけ
     たものだという。(ユン・チアン『マオ<上>』講談社、p.301)
    ・奉天軍閥の張学良が国民党に帰順、蒋介石が北京占領をもって北伐を完了。
     全中国を概ね統一(昭和3年、1928年10月10日)。
       「宋王朝」:宋子文蒋介石資金源だった。「宋家」のルーツにつ
      いてはスターリング・シーグレイブ『宋王朝』(田畑光永訳、サイマル
      出版会)を参照(「宋」はもともとは「韓」だったという)。
    ●不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約、パリ条約)の締結(1928年8月)
      不戦条約は国際連盟第5回総会(1924)においてフランスが提案し採択
     された「国際間紛争の平和的解決のための保障協定(ジュネーヴ平和議定
     書)」の思想を踏まえて作られたもので、1928.8月に日本を含め15か国が
     調印した。条約は1929.9月に発効し1938年までに64か国が締結することに
     なった。しかしこの条約は自衛権に基づく武力行使についての定義や解釈
     が曖昧で、結局日本が自衛権を拡張解釈して満州事変(1931年)を起こし
     有名無実のものとなってしまった。そして遂に日本は国際連盟脱退(1933
     年)に行き着くのであった。

               --------------------
  ★『大学は出たけれど』(昭和4年、小津安二郎監督の映画)が世相を物語る。
     ※林芙美子『十年間』より(満州は有識無産・失業青年の受け皿)
       大学を出ても職業への部門は閉ざされ、知己はなく、何等の進歩性も
      ない世界が広がり、青年は涙を忘れ、一日だけの怠惰に日を過ごしてゐ
      たと云いっていゝ。民衆からは力強い正義感と云ふものが忘れられ、信
      念と云ふものが希薄だったやうに私は思ふのだ。迷える若人たちは何か
      を探し求めてゐた様子だった。ーー思想や土地や人間や職業を・・・
          (川本三郎氏著『林芙美子の昭和』、新書館より孫引き引用)
               --------------------
    ●「一夕会」の誕生(昭和4年、1929年5月19日)
       午後六時富士見軒にて発会。集るもの大佐、中佐、少佐級で一夕会と
      命名された。
       会合は、毎月一回を標準として行なわれ、だいたいにおいて、討議よ
      りも懇親を深め、会員の団結を鞏固にするというのが目的のようであっ
      た。会員を重要なポストにつかせ、それぞれの職域で上司を補佐して会
      の意図するところを実現せるよう、お互に協力しようとするにあった。
      それにこの一夕は、先に結成されていた同人会、もしくは双葉会と称し
      ていたものと、国策研究会(木曜会・無名会)といわれた会との大同団
      結であったことも注目すべきである。
       ところでこの一夕は、第一回の会合で重大な申合せを行なっている。
      『満州事変(一)』(稲葉正夫)によると、
       (イ)陸軍の人事を刷新して諸政策を強く進めること
       (ロ)荒木、真崎、林の三将軍をもりたてながら正しい陸軍を建て直
          すこと
      という二点である。一夕会のメンバーは次のとおり。
       十四期、小川恒三郎。十五期、河本大作、山岡重厚。十六期、永田鉄
      山、小畑敏四郎、岡村寧次、小笠原数夫、磯谷廉介、板垣征四郎、土肥
      原賢二。十七期、東条英機、渡久雄、工藤義雄、飯田貞固。十八期、山
      下奉文、岡部直三郎、中野直。二十期、橋本群、草場辰巳、七田一郎。
      二十一期、石原莞爾、横山勇。二十二期、本多政材、北野憲造、村上啓
      作、鈴木率道、鈴木貞一。二十三期、清水規矩、岡田資、根本博。二十
      四期、沼田多稼蔵、土橋勇逸。二十五期、下山琢磨、武藤章、田中新一。
               (高橋正衛氏著『二・二六事件中公新書、p.145)

    ●ヒトラーが28歳のハインリヒ・ヒムラーをSS(Schutzstaffel:ナチ親衛隊)
     帝国指導者に任命した。
      (ジョージ H. ステイン『武装SS興亡史』吉本貴美子訳、学研、p.23)
    ●世界大恐慌(1929年~、昭和4年10月24日)
       :ニューヨーク株価の大暴落。「暗黒の木曜日
     ※ アンドルー・メロン(当時の財務長官、大富豪)のフーヴァーへの助言
        「労働者、株式、農場主、不動産などの一切を整理し・・体制
         から腐敗を一掃するのです」
     ※ ラッセル・レフィングウェル(モルガン商会)
        「救済策はこうです。チッカーを見守り、ラジオを聴き、密造
         のジンを飲み、ジャズのリズムに合わせて踊るのを人々にやめ
         させるのです。・・そして、倹約と労働を旨とする古い経済と
         繁栄に戻ることです」
     ※ 1931年に合衆国の金準備が減りはじめたとき、卸売り物価は24%下回
       っており、失業率は15%を越え、3000もの銀行が倒産していた。
       (1929年9月4日以降の暴落からルーズベルト政権が発足してニュー
       ディール政策を始める1933年までの間にアメリカ全国で約6000の銀
       行が倒産。540億ドルあったアメリカのマネーサプライは405億ドル
       と25%が吹っ飛んだ(徳川家広『バブルの興亡』講談社、p.92))
     ※ 1931年5月11日、オーストリア、ウィーンの銀行、クレディット・アン
       シュタルト倒産(ラルフ・ホートリー:「恐慌の激しい発作を、世界
       中の金融の中心地に伝染させた」)
     ※ ローズベルトの爆弾発言(J・M・ケインズが支持、1933年7月3日)
        「金との厳密な関係を回復させることによって、為替レートを安定
         させようという努力は、いわゆる国際的な金融業者の古臭い狂信
         であり、安定した為替レートは正しく見える誤信である」
      (P・バーンスタイン『ゴールド』鈴木主税訳、日本経済新聞社より)
               --------------------

       ■小選挙区性の提案:「カネのかからぬ選挙」「政情の安定」を理由
        ※小選挙区性に対する尾崎行雄の批判
           「選挙区は小さいほど金がかかるのであり、小党を出られなく
          して議席の多数が大政党に集中すれば、政情は一見安定するよう
          に見えるが、多数が無理を通すことになる。選挙費用の節約と政
          情の安定を理由とする小選挙区性の提案は、そのあまりのバカバ
          カしさに抱腹絶倒の外はない」
        ※「民主主義の数理」
             (小林良彰氏論文、数学セミナー、1999年10月号、P8)
           かなり単純化したモデルであるが小選挙区制と多数決民主主義
          の矛盾を数学的に指摘している。結論として曰く、・・・
            1.多数決民主主義に基づいて小選挙区で決定を行うと、小選
             挙区で議員を選ぶ時と、国会で議決するときの合計2回多数
             決を行う事になる。多数決を二回重ねれば51%の51%、すな
             わち26%の有権者の意見が全体を支配することになる。小選
             挙区制度は民主主義における多数決原理を根本から否定し
             かねない選挙制度である。
            2.定数1の小選挙区性下で行われる選挙における候補者が選挙
             に勝とうとする限り、すなわち得票差最大化行動を取る限
             り、候補者の政策は同じものになる。つまり小選挙区制に
             おいては政策によって選挙が争われることはない。このた
             め我々有権者は形式的選択権を与えられても実質的選択権
             を剥奪されてしまっているということになる。
            3.因に、比例代表制においては、多数決を国会の議決の時に
             一回しか使わないため、多数決民主主義をそのまま反映す
             る。
          --------------------
       ■このころ浜口雄幸内閣の金解禁政策(昭和5年1月11日)が裏目に出
        て、日本は経済不況のどん底にあった(--->満州開発が切望されて
        いた)。
          ・為替相場の乱高下--->その操作と悪用。
             円レートが実勢より高く設定されており輸出不振
          ・緊縮財政に伴うデフレ経済の推進(円レート維持)
          ・求人数激減(資本家と労働者の対立、労働争議
          ●金解禁政策とは金を自由に輸出することができる金輸出解禁
           政策で、金本位制復帰のための措置。世界恐慌金本位制
           よって発生し伝播したという結論がでている。
           (高橋洋一氏著『恐慌は日本の大チャンス』講談社、p.151)

        # 昭和5年は昭和恐慌の年だ。翌年の6年にはGNPは、昭和4年に比
         べて18%のマイナス、個人消費は17%のマイナスという目を被うよ
         うな惨憺たる不況だ。雇用者数は18%も減り、農産物価格は、20%
         以上も下がった。町には失業者があふれ、失業率は20%を越した。
          農村の小作農は、4割ぐらいに達する小作料を負担していた上
         に、農産物価格が暴落したので、生活に困り、欠食児童と娘の身
         売りが激増した。こうした農村の貧しさに怒り狂った青年将校は、
         テロに走って、政府要人を暗殺した。若いインテリは、小作農争
         議、労働争議を指導し、社会主義運動にのめり込んでいった。
                (竹内宏氏著『父が子に語る昭和経済史』より)
        # 昭和5年日本最初のトーキー映画が上映された。日本での第一作
         は田中絹代主演の『マダムと女房』で昭和6年だった。
                     (徳川夢声夢声自伝』講談社文庫) 
        # <金本位制度(金輸出を認める(=金解禁)制度)について>
           金本位制は、その国の紙幣通貨を金との互換性によって保証
          するものである。それゆえに通貨の信用度はきわめて高いが、
          同時に通貨発行量が、国家の保有する金の量によって決められ
          てしまう。金本位制をとる国家間の貿易では、輸出競争力のな
          い国の金が、強い国へと流入していくことになり、結果として
          国内の通貨供給量がどんどん収縮してゆく。金本位制は、経済
          的な体力を必要とする厳しい経済体制である。

       ■昭和5年1月11日の金輸出解禁後、半年もたたないうちに2億円余りの
        金が流出した。この額は、解禁のために英米と結んだ借款の額にほぼ
        等しいものであった。生糸、綿糸といった主要輸出品の価格が1/3ま
        で暴落した。デフレは緊縮を上回って加速し、労働者の解雇、賃下げ
        が一般化し、労働争議が頻発した。失業者は300万人に及び、率にして
        およそ20%を遥かに越えた。 

       ■経済の大混乱、政治の混迷は軍部を活気付かせてしまった。
        農村の困窮、米価や繭価の下落、婦女子の身売り、欠食児童増加
        (全国20万人)などが社会問題化し、不満が堆積していた。

       ■海軍練習航空隊予科練習生制度の創設(昭和5年5月29日)
          昭和5年5月29日に教育制度改正があり、勅令により、海軍練習
         航空隊令が制定され予科練習生制度が創設された。(鳥越注:地
         方や農村の貧しいが有能な人材を集めて訓練し、戦争に駆り出そ
         うという腹づもりだったのであろうか)。
        ・乙種予科練習生:S5.5.29創設、S5.6.1第一期生入隊
        ・甲種予科練習生:S12.5.18創設、S12.9.1第一期生入隊
        ・丙種予科練習生:S12.10.1創設・入隊
        ・乙種予科練習生(特):S17.12.7創設、S18.4.1第一期生入隊
         (倉町秋次『豫科練外史<1>』教育図書研究会、1984年、p.82)

       ■青年将校運動の原点となった「桜会」結成(昭和5年9月末)
         橋本欣五郎中佐:参謀本部第二部第四班(ロシア班)
            「国家改造を以て終局の目的とし之がため要すれば武力
           を行使するも辞せず」
         桜会趣意書:
           塾々(つらつら)帝国の現状を見るに・・・高級為政者の
          悖徳(はいとく)行為、政党の腐敗、大衆に無理解なる資本
          家・華族、国家の将来を思わず国民思想の頽廃を誘導する言
          論機関、農村の荒廃、失業、不景気、各種思想団体の進出、
          縻爛(びらん)文化の躍進的台頭、学生の愛国心の欠如、官
          公吏の自己保存主義等々邦家のため寔(まこと)に寒心に堪
          へざる事象の堆積なり。然るにこれを正道に導くべき事責を
          負ふ政権に何等之を解決すべき政策の見るべきものなく・・
             (秦郁彦氏著『昭和史の謎を追う<上>』より引用)

                --------------------
       ・ガンジーのダンディ行進(1930年3月)
           3月12日マハトマ・ガンジーが解放運動の大号令をかけて、
         インド国中を不服従闘争で満たし400kmの道を徒歩で行進しダン
         ディの浜辺で海水から塩を作りイギリス独占の塩専売法を破っ
         た。(第二次不服従運動開始)
       ・インド「被抑圧階級第一回会議」開催(1930年8月8日 ナグプール)
          不可触民解放の父、アンベードカルはダンディ行進を批判しつ
         つもインド独立(スワラージ)と不可触民自らの向上・自立を叫
         んだ。
         (ダナンジャイ・キール『アンベードカルの生涯』山際素男訳、
          光文社新書より)
                --------------------

       ●ロンドン軍縮条約締結(1930年、昭和5年4月22日)
             (首相:浜口雄幸外相幣原喜重郎
          軍閥と結託した政友会(犬養毅鳩山一郎ら)は、この軍縮
         条約締結を「統帥権干犯」だと非難し、民政党内閣を葬ろうと
         した。・・・それは結論的にいえば政党政治を自己否定し、そ
         の責任内閣制から独立した聖域に軍部=統帥権をおくものだった。
          さらにロンドン軍縮条約締結前後のゴタゴタで海軍の良識派
         だった山梨勝之進や掘悌吉らがいなくなり、強硬派のアホども
         (加藤寛治、末次信正ら)が主流となり、対米強行路線へと動
         き出した。

          <「統帥権干犯」="魔法の杖"(司馬遼太郎氏、前述)>
          軍の問題はすべて統帥権に関する問題であり、首相であろう
         と誰であろうと他の者は一切口だし出来ない、口だしすれば干
         犯になる(半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p46)

          ※鳩山一郎の大ボケ演説(昭和5年4月25日、衆議院演説)
             政府が軍令部長の意見を無視し、杏軍令部長
            意見に友して国防計画を決定したという其政治上
            の責任に付て疑を質したいと思うのであります。
            軍令部長の意見を無視したと言いますのは、回訓
            案を決定する閣議開催の前に当って、軍令部長
            呼んで之に同意を求めたと云う其事実から云うの
            であリます。・・・陸海軍統帥の大権は天皇の惟
            幄に依って行われて、それには(海軍の)軍令部
            長或は(陸軍の)参謀総長が参画をLて、国家の
            統治の大権は天皇の政務に依って行われて、而し
            てそれには内閣が輔弼の責任に任ずる。即ち一般
            の政務之に対する統治の大権に付ては内閣が責任
            を持ちますけれども、軍の統制に閑しての輔弼機
            関は内閣ではなくて軍令部長又は参謀総長が直接
            の輔弼の機関であると云うことは、今日では異論
            がない。……然らば、政府が軍令部長の意見に反
            し、或は之を無視して国防計画に変更を加えたと
            いうことは、洵に大胆な措置と言わなくてはなら
            ない。国防計画を立てると云うことは、軍令部長
            又は参謀総長と云う直接の輔弼の機関が茲にある
            のである。其統帥権の作用に付て直接の機関が茲
            にあるに拘らず、其意見を蹂躙して輔弼の責任の
            無いーー輔弼の機関でないものが飛び出して来て、
            之を変更したと云うことは、全く乱暴であると言
            わなくてはならぬ。・・・
            (松本健一氏著『評伝 斎藤隆夫』、p238より引用)
              ---------------------------------------
       ・満州への定住者19万人(昭和5年発行、馬郡健太郎著『大支那案内』)
       ・牧口常三郎創価教育学会を発足させた(1930年、昭和5年)。
          同時に刊行した『創価教育学体系』(全4巻)の第一巻には柳田
         國男、新渡戸稲造らが序文を寄せ、創価教育学支援会のメンバー
         だった犬養毅(政友会総裁)が題字を揮毫した。
                --------------------
          牧口:「所詮宗教革命によって心の根底から立て直さなければ、
             一切人事の混乱は永久に治すべからず」。(島田裕巳
         著作『創価学会新潮新書、pp.31-32)
       ・台湾、霧社事件(1930年、昭和5年10月)
         高砂族抗日暴動。日本軍が抗日派の約500人を大量虐殺した。
         (柳本通彦氏著『台湾・霧社に生きる』(現代書館)などを参照)
       ・中国国民党は、国民会議において、基本的外国政策を決定し、その
        中で関税権の回収、治外法権の回収、最終的には租借地や鉄道など
        全てを回収することを謳った。(昭和6年5月)
                 --------------------

  ★政党は、外からは、「経済失政への不満」と「国家改造運動」に包囲され、内
   からも「腐敗と堕落」により墓穴を掘っていった。
    (首相:斎藤実(S7~9)-->岡田啓介(S9~11)-->広田弘毅(S11~12)-->林銑十
     郎 (S12)-->近衛文麿(S12~14、第1次)-->平沼麒一郎(S14)-->阿部信行(S14
     ~15)-->米内光政(S15.1.16~S15.7.16)-->近衛文麿(S15~16、第2~3次)
     -->東条英機(S16~19)-->小磯国昭(S19~20)-->鈴木貫太郎(S20)-->東久邇
     宮稔彦(S20)-->幣原喜重郎(S20~21))

    ※ 昭和7年(1932)から11年(1936)にかけて、非政党エリートの力は、
     信用を失った政党の政権復帰を阻むことができるほど強大になっていた。
     政党は相対立するエリートの主張や彼らの野心の調整機関として機能で
     きなくなり、権力は官僚と軍部の手に急速に移っていったのである。
      しかし、その結果、今度は調整者不在下で生じる軍部や官僚の内部で
     の不和や分裂そのものが、内閣の一貫した政策の立案やその履行上の重
     大な妨げとなってきた。
      (ゴードン・M・バーガー著『大政翼賛会』、坂野閏治訳、山川出版社

       ----------◇当時の資本主義日本の状況◇----------
    在野の経済評論家高橋亀吉は、『資本主義日本の現在の流れとその帰趨』(昭
   和4年1月号、「中央公論」に掲載)で当時の資本主義日本の腐敗堕落を分析して、
   その流れの行く先を鋭く指摘した。以下一部を抜粋するが、当時の政界財界の大
   デタラメの様子がよくわかる。しかも70年経た現在と酷似していることに注目。

    さて、いまわが資本主義の現状をみるに、大略、次の四点を結目として、
   その生産力は多かれ少なかれ萎縮し、あるいは退歩しつつあることを発見する。
     (1)営利行為の反生産化
     (2)資本権力の反生産化
     (3)資本家階級による資本の食い潰し
     (4)資本家階級の腐敗堕落
    いったい、資本主義制度の原動力たる営利行為は、はじめ、生産力の増進と
   いうベルトを通じてつねに働らいていたものであった。・・・しかるに、わが
   資本主義のようやく成熟するや、資本家は、生産力増進というがごとき努力を
   要するベルトによる代わりに、あるいは資本力による独占、あるいは政治的諸
   特権等、楽に金儲けのできる他のベルトを利用して、その営利行為を逞うする
   にいたった。・・・しからば、いうところの政治的特権に出る営利行為の追求
   とは、そもそもいかなる方法による営利行為であるか。試みに、その重なる手
   段を例示せばじつに左(注:原文は縦書き)のごときものがある。
     (イ)保護関税の引き上げによる利得。
     (ロ)「国家事業」その他の名によって補助金を得ることによる利得。
     (ハ)「財界救済」ないしは「国家事業」救済等の名による利得。
     (ニ)鉄道、鉱山、水力電気、電気供給路線、ガス等の特許、国有土地およ
       び林野の払い下げ、国営事業の請負、用地買上げ、等々による「利権」
       ないし「特権」による利得。
     (ホ)国産品奨励その他の名により、高価にて政府買上げの特約による利得。
     (ヘ)低金利資金貸下げの名による利得。
     (ト)預金部資金貸付けの名による同資金食荒らしによる利得。
     (チ)特種銀行の貸出という名による資金の濫用による利得。
     (リ)米価調節その他による利得。
     (ヌ)税金免除、脱税看過、課税軽減、その他による利得。
    その他、細かな点をあげれば際限もない。右の中、多くは説明なくともその
   意味を理解していただくに難くないと思うが、・・・(ハ)についてはたんに最
   近のことのみをあげるも、震災手形関係二億七百万円、台湾銀行および日銀特
   融関係七億円、という巨額を国民の負担で貸し付け(事実においてはその過半
   をくれてやったわけ)、なお、この外にも預金部の金数千万円が同様に濫費せ
   られ、・・・(ホ)の代表的のものとしては、わが兵器、造艦、その他の軍需品
    、国有鉄道の車両、機関車等の注文のごときである。 (ヘ)および(ト)にいた
   っては政界の「伏魔殿」として有名であって、・・・(チ)に至っては、台湾、
   朝鮮両銀行の大不始末が何よりも雄弁であるが、このほか、多少の程度の差は
   あるが、他の特種銀行も同じく食い荒らされている。たとえば坪十銭くらいで
   買った荒地数百町歩が、坪一円くらいの担保で某々銀行より貸し出され、それ
   が選挙費になれりというがごとき、・・・また、地方農工銀行がつねに政争の
   具に供せられているごとき、いずれもその片鱗である。・・・
    以上のごとく、資本主義そのものは、その営利行程その他において、その生
   産力の抑圧、減耗、退化をもたらしつつある。その結果はいうまでもなく資本
   主義的発展の行き詰まりであり、その衰弱であり、大衆の生活難加重であり、
   資本主義に対する積極的否定運動の勃興である。・・・
    (-->この風潮は昭和の初め頃の資本主義の否定・修正から社会主義運動の
                          発展につながっていった)。
       
       ------◇政界財界腐敗への痛烈な反応と軍部の台頭◇------
    ・浜口雄幸首相が凶弾に倒れる。(1930年、昭和5年11月14日-->昭和6年死亡)
       浜口雄幸首相は軍縮について海軍の統帥部の強硬な反対を押しきり、
      昭和5年4月、ロンドン海軍軍縮条約に調印し右翼や野党(政友会)に
      「統帥権干犯」として糾弾されていた。以後昭和史は滅亡に向かう。
                   (北一輝の扇動、佐郷屋留雄の凶行)
      ※北一輝日本改造法案大綱』(大正8年刊)より
        「国民は生活不安に襲われており、西欧諸国の破壊の実例に学ぼうと
       している。財政・政治・軍事権力を握っている者は、皇権にかくれてそ
       の不正な利益を維持しようと努力している。われわれは全国民の大同団
       結を実現して、天皇にその大権の発動を求め、天皇を奉じて国家改造の
       根底を完成しなければならぬ」。
    ・民間右翼は、政党政治打倒をかかげ、軍部独裁政権こそが日本の舵取りに
     ふさわしいと主張するようになった。

    ●満州事変(1931年、昭和6年9月18日~昭和8年5月塘沽(タンクー)
          停戦協定)
             ("毎日新聞後援・関東軍主催・満州戦争")
        -------------------------------------------------------
        日本の新聞は一度だって戦争を未然に防いだことはなかった。
       事実上戦争の推進役でしかなかったわけで、いまも本質的には変
       わっていない。それはなぜなのかと自問したほうがいい。報道企
       業を単に主観的な社会運動的側面から見るだけでなく、市場原理
       のなかでの狡猾な営利企業という実相からも見ていかないと。前
       者はもともと幻想だったのですが、きょうびはその幻想や矜持も
       薄れて、営利性がとてもつよくなっています。そうした営利指向
       も権力ヘの批判カを削ぎ、戦争めく風景に鈍感になることとつな
       がっている。(辺見庸『抵抗論』毎日新聞社、2004年、p.157)
        -------------------------------------------------------

      ※柳条湖事件:午後10時20分、奉天郊外の柳条湖で関東軍の指揮下にあ
       る独立守備隊の将校が満鉄線を爆破。これを中国軍(張学良)の攻撃
       と詐称し、板垣は独断で独立守備隊第二大隊と第二十九連隊(川島正
       大尉、河本末守中尉)に、北大営の中国軍奉天城を攻撃するように
       命じた。(田中隆吉はS46.2月の東京裁判にむけてのウールワースの
       非公式尋問において、この事件が関東軍の仕業であることを明言し
       た。しかし正式な尋問においては明言を避けた)。
      ※満州国独立承認、日満議定書締結。
      ※この満州事変は日本の破滅への途における画期的転機だった。
        首謀者:関東軍高級参謀板垣征四郎大佐、次級参謀石原莞爾中佐
            (陸軍参謀本部作戦部長建川美次は黙認した)
      ※錦州爆撃:石原莞爾の独断による錦州張学良軍爆撃--->国際連盟に対
            する挑戦。(1931年、昭和6年10月8日)
      ※この事件頃より軍部にファシズムが台頭。
        中央の命令を無視した関東軍の動きと、それに呼応した朝鮮軍(司令
       官林銑十郎中将)の動きに対して、時の首相、若槻礼次郎やその他の
       閣僚はただただ驚くばかりであった。しかも所要の戦費の追認までした
       のであった(責任者たちの厳罰はなかった)。満州事変政党政治にも
       とづく責任内閣制も幣原の国際協調政策も一気に吹き飛ばしてしまっ
       た。
      ※民間右翼と陸軍の将校たちが一気に結びついた。

    ●軍部によるクー・デタ計画(昭和6年(1931年)、三月事件、十月事件)
       とくに十月事件は、民間右翼(大川周明北一輝井上日召ら)と陸
      海軍青年将校・中堅将校が図った大掛かりなクー・デタ(未遂)事件。
       これらの首謀者(「桜会」=橋本欽五郎ら)は軽い判決で、事件そのも
      のは闇に葬り去られた。(北一輝国家社会主義者:「資本家と政治家
      に対決する兵士と農民の結合」)
                ***********************
       「三月事件は、小磯(国昭・陸軍省軍務局長)、建川(美次・参謀本
      部第二部長)、二宮(治重・参謀次長)、橋本(欣五郎・中佐)、重藤
      (千秋・中佐)など陸軍の一部が、宇垣(一成)陸相を担いで政権を奪
      取するために企てた陰謀でした」。また同事件に民間から呼応した人物
      として右翼の大川周明の役割も強調した。(東京裁判にむけてのサケッ
      トによる木戸幸一への尋問より)(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道
      <上>』講談社、p.123)
            ----------------------------------
    ・中国共産党は1931年(昭和6年)11月7日、江西省瑞金で第一会全国ソビエ
     ト代表者大会を開いて、中華ソビエト共和国臨時政府を成立させた。(中
     国共産党蒋介石の対立激化)。毛沢東はモスクワにより首長に任命され
     「中央執行委員会首席」という肩書きを与えた。但し紅軍のトップは朱徳
     だった。さらに上海から周恩来が党書記として赴任し最高権力を与えられ
     た。周恩来はモスクワで訓練されたプロ集団を使って、卓越した行政能力
     と粛清という恐怖のもとで共産党による統治を確立した。
         (ユン・チアン『マオ<上>』講談社、pp.180-185)
            ----------------------------------

  ★ 若槻内閣総辞職(昭和6年(1931年)12月11日)
      若槻内閣総辞職は、浜口雄幸幣原喜重郎的政策、つまりは国際連盟
     ワシントン条約的国際秩序に対する協調政策が、完全に歴史の舞台から姿
     を消したことを意味した。--->挙国一致的連立内閣構想--->大政翼賛へ。
               (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
  ★ 犬養毅内閣(昭和6年12月)は発足と同時に金輸出再禁止(大蔵大臣、高橋是
   清)を行った。浜口雄幸井上準之助の二年半にわたる苦労は水の泡と消えた。
   そしてこれ以後の日本経済は果てしないインフレへと転げ込んでいった。
    犬養毅内閣はまた、戦前最後の政党内閣となってしまった。「憲政の神様」
   が幕引役とは、まことに歴史の皮肉としかいいようがない。(5・15事件:海軍
   将校を中心とするクー・デタ未遂事件。昭和7年5月15日)

    ●桜田門事件:李奉昌(リポンチャン)が桜田門外の警視庁正面玄関付近で
     昭和天皇の乗った馬車に手榴弾を投げた。
    ●第一次上海事変(1932年、昭和7年1月28日)
       日本軍の謀略で田中隆吉中佐と愛人川島芳子が組んで仕掛けた事変。
             (半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p92)
       この軍事衝突は日中関係において必然だった。中国側の抗日意識・ナ
      ショナリズムは、遅かれ早かれ、日本と対決せざるをえないものだった
      し、日本側もまた、大陸から手を引く意思がない以上、それをさけるこ
      とができなかったのである。投入戦力約5万人、戦死者3000人余りに達
      したが、日本側が得たものは何もなかった。英国は徐々に中国支援へと
      傾いていった。     (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
     ※『肉弾三勇士』(1932年、昭和7年2月22日)
        江下武二、北川丞、作江伊之助の3名の一等兵は、爆薬を詰めた
       長さ3mの竹製の破壊筒を持って上海近郊の中国防護線の鉄条網に突っ
       込み、このため陸軍の進軍が可能となった。(大貫恵美子氏著『ねじ
       曲げられた桜』岩波書店)これは後に「散華」とか「軍神」という
       歪められた実質のないまやかしの美辞麗句と共に、日本人全員が見習
       うべき国への犠牲の最高の模範という美談・武勇談として軍に大いに
       利用され、日本人の心に刻み込まれた。(ただし、彼らの命は導火線
       の長さをわざと短くしたことで、意図的に犠牲にされていた)。

        注釈:「散華」(さんげ)とは四箇法要という複雑な仏教法義の
           一部として、仏を賞賛する意味で華をまき散らす事を指す。
           軍はこの語の意味を本来の意味とは全く懸け離れたものに
           変え、戦死を「(桜の)花のように散る」ことであると美
           化するために利用したのである。(大貫恵美子氏著『ねじ
           曲げられた桜』岩波書店

    ●「血盟団事件」(首謀者:国家主義者(民間右翼)、井上日召
        1.井上準之助蔵相の暗殺(1932年、昭和7年2月9日)       
         ※浜口、井上は民生党内閣において通貨価値守護の義務感を捨てず、
          不評だった緊縮財政を敢えて推進していた。これはまた肥大する
          軍事予算を圧縮する意図もあった。
             <井上準之助蔵相の政策(緊縮財政、金解禁など)>
            イ.昭和5年度以降、一般会計で新規公債を計上しない。
            ロ.特別会計での新規公債計上を半分以下にする。
            ハ.ドイツ賠償金600万円以上を全て国債償還に充当。
            ニ.「金解禁」(金本位制への復帰)
                これまでの金輸出禁止(金本位制度一時停止
               (大正6年~昭和5年))を解除し金本位制への復帰。
               (緊縮財政、消費節約、輸入抑制と一体で施行)。
                この「金解禁」は当時の日本にとっては円を大幅
               に切り上げることになるが、国内経済の体質改善の
               ために敢えて行った。これはまた国内不採算企業に
               市場からの撤退を強いた。
                     *****************
               ※日本の「グローバル化」。
                 結局、このために日本は1929に始まった世界恐
                慌に巻き込まれ、日本は昭和恐慌となり第不況に
                見舞われた。大胆な構造改革は”凶”となった。
               ※関東大震災後、復旧為に外国からたくさんの
                物資を購入したため、海外貯蓄の金が減少した。
                すると日本の金の価値が徐々に下落し、大正12
                年の49$50/100円が大正13年末には38$50/100円
                と円が下落してしまった。この為替相場の激落
                で国民は金輸出禁止の影響を痛感した。
               ※レート換算で円を払うより金の現物支払いが有利
               ※当時の緊満財政、公債発行、国民の浪費状態、
                輸入超過状態、物価高騰、高い生活費、為替相場
                低落の状態で金輸出禁止を解除(金解禁=金本位制
                への復帰)すると、ますます輸入超過が助長され、
                外貨準備高は底をつき、日本は激しい財政破綻
                招来する恐れあり。(金本位制は、この当時のグ
                ローバルスタンダードだった)
            ホ.財政の整理緊縮、国民の消費節約、勤倹力行の奨励。

        2.団琢磨(三井合名理事長)を狙撃(1932年、昭和7年3月5日)
           金融恐慌時代には必ず自国通貨を守ろうという運動がある。
          しかしその裏で秘かに自国通貨を売りまくって、為替差益を稼
          ごうとする卑しい人間が存在する。それは概ね裕福な財閥、大
          富豪、上流階級の人間だろう。団琢磨の暗殺の背景に三井物産
          の「円売りドル買い」があった。
         ※四元義隆(当時東大生、三幸建設工業社長)
           「あのころの政党は、財閥からカネをもらって癒着し、ご都
          合主義の政治を行っていた。この国をどうするのか。そんな大
          事なことに知恵が回らず、日本を駄目にした。これではいかん、
          (と決起した)ということだった」。

  ★ 浜口雄幸井上準之助の死後、軍部の横暴と圧力(テロの恐怖)によって政党
   が実権を失い、日本は転落の一途を辿った。

    ●「満州国建国宣言」(東三省=吉林省黒龍江省遼寧省
       日本政府と関東軍土肥原賢二ら)によりごり押し独立(1932年、
      昭和7年3月1日)。中華民国からの独立、五族協和・王道楽土(なんの
      こっちゃ?)を謳う。東京では(二葉会-->)一夕会系の中堅幕僚らの
      支持。昭和9年愛新覚羅溥儀は皇帝になり、帝政に改組された。 
                      (--->「満州は日本の生命線」)

      ※ 満州国建国は昭和陸軍の軍人たちに軍事力が人造国家をつくりあげ
       ることが可能だという錯覚を与えた。その錯覚を 「理想」と考えてい
       たわけである。これが明治期の軍人たちとは根本から異なる心理を生
       んだ。つまり軍事は国家の威信と安寧のために存在するのではなく、
       他国を植民地支配する有力な武器と信じたのである。その対象に一貫
       して中国を選んだのである。
             (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より引用)
      ※ 因に日満と中国国民党の間では、昭和8年5月31日の塘沽(タンクー)
       停戦協定(関東軍中国軍の間で締結、満州国の存在を黙認させる協
       定)から昭和12年7月の廬溝橋事件までの4年2か月の間、一切の戦闘行
       為はなかった。
      ※ たしかに当時の満州国は発展しつつあった。だがその手法は、満州
       協和会といった民間日本人や、満州人、中国人、在満朝鮮人らを徹底
       して排除した、陸軍統制派と新官僚とによってなされたものだった。
       つまり、<二キ三スケ>という無知無能連中(東条英機満州国
       務長官星野直樹南満州鉄道総裁松岡洋右日本産業鮎川義介、産業
       部長岸信介)に牛耳られていた。残念ながらこの盤石になりつつあっ
       た満州は、石原莞爾の目指したものではなかった。
                  (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
            -------------------------------------
    ・オタワ会議(昭和7年7月):自由貿易帝国主義からの撤退
       イギリス帝国がその自治領や植民地を特恵待遇にして経済を守ると
      いう、植民地ブロック経済スターリング・ブロック)を採用。(次
      いでフランス、アメリカも同様の措置をとった)

    ・リットン調査団満州踏査(昭和7年2月~8月、10月に報告)
        ○柳条湖事件は日本の戦闘行為を正当化しない。
        ○満州国は現地民の自発的建国運動によって樹立されたもの
         ではない。
                <解決策提示>
           1. 日中双方の利益と両立すること
           2. シビエトの利益に対する考慮が払われていること
           3. 現存の、諸外国との条約との一致
           4. 満州における日本の利益の承認
           5. 日中両国間における新条約関係の成立
           6. 将来における紛争解決への有効な規定
           7. 満州の自治
           8. 内治および防衛のための保障
           9. 日中両国間の経済提携の促進
           10. 中国の近代化のための国際的協力
         (子細にみれば、日本に不利なものでは、けっしてない)
                   (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
            -------------------------------------

    ●五・一五事件(1932年、昭和7年5月15日(日)):犬養首相(政友会)射殺
       海軍士官と陸軍士官学校候補生、それに橘孝三郎農本主義団体が
      加わっての凶行。彼等のスローガンは政党政治打倒、満州国の承認、
      軍部独裁国家樹立といった点にあったが、この事件は図らずも国民の
      同情を集めた。これにより政党政治(内閣)の終焉が明らかとなった。
       (統帥権の干犯をたてに民政党内閣を攻撃し、それによって政党政治
      の自滅へと道を開いた犬養は、みずから軍人の独走の前に身をさらさな
      ければならなくなってしまった)。
       橘孝三郎を除く全ての犯人は昭和15年(1940年)末までに釈放された。
     ※橘孝三郎:昭和5年(1930)に「愛郷塾(自覚的農村勤労学校)愛郷塾」)
       を創立したトルストイ(農民生活の気高さを賛美したロシア貴族)
       信奉者。
       <以下(ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・増田修
        代訳、刀水書房、pp.59-60)より>
        第一次大戦によって西洋文明の崩壊がはっきりした、と橘は語った。
        「われわれはナショナリズムに回帰し、完璧な国家社会を要望する
       国家社会主義計画経済原理に立って、日本を再編成しなければなら
       ないのだ」、と彼は説いた。「マルクス主義が救済策を提供すること
       はあり得ない。マルクスが考察したのは工業化ずみの国家であるのに
       反して、日本は小独立農民の国家である。農民を犠牲にして工業によ
       って豊かになったイギリスを模倣するという誤ちを近代日本はおかし
       てしまったが、日本は農民の国なのであって、金本位制で利潤を都市
       に流出する資本主義は、その農民の国を破壊しっつあるのだ」。
        その当時の事態をこと細かく説明するのはむずかしくないが、救済
       策ということになると、このトルストイの旧使徒は理想に燃えて幻影
       を追ったのであった。「日本はその個人主義的な産業文明を一掃して、
       ふたたび独立自営農民の国にならなければならない」と彼は語った。
       「対外進出と国内革新は同時に進められねばならない。満州馬賊
       大した問題ではない。日本が打倒しなければならないのは、アメリカ
       と国際連盟なのだ。・・・国民は金権政治家の道具と化した腐敗した
       議会から解放されなければならない。・・・「われわれが求めている
       のは、自治農村共同体社会にもとづいた代議組織である」。
                   ++++++++++++++++   
      首謀者古賀中尉:
        「五・一五事件は、犬養首相と一人の警官の死のほかに、いった
        い何をもたらしたのだろうか。まず、国家改造運動の真意が、公
        判を通じて国民の前に明らかになった。血盟団の評価も変った。
        国賊と呼ばれた小沼正義や菱沼五郎らも、国士と呼ばれるに至っ
        た。
         この逆転の流れがなければ、二・二六事件は起らなかったので
        はないか、と私は思っている。私たちの抱いた信念はたしかに歴
        史の流れに転機をもたらした」(立花隆氏「日本中を右傾化させ
        た五・一五事件と神兵隊事件」文藝春秋 2002;9月特別号:433ペー
        ジより引用)

      ※青年将校運動は浅薄であると同時に狂暴であり、その浅薄さがその
       持つよこしまな力をつつみ隠していたのである。街頭演説に訴える
       精神とは違った色に染められてはいるが、質的には変わるところの
       ない、未熟で偏狭な精神の持ち主である青年将校は、陸海空軍を通
       じて蔓延していた精神構造の典型であった。
       (ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・増田修代訳、
       刀水書房、pp.45-46)
         +++++++++++++++++++++++++++++++++++++
      ※以下、陸軍参謀本部刊行『統帥参考』より
         (以下、司馬遼太郎氏著『この国のかたち<一>』より孫引き)
   
        「統帥権」: ・・・之ヲ以テ、統帥権ノ本質ハ力ニシテ、其
              作用ハ超法規的ナリ。
               従テ、統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ、議会
              ニ於テ責任ヲ負ハズ。議会ハ軍ノ統帥・指揮並之
              ガ結果ニ関シ、質問ヲ提起シ、弁明ヲ求メ、又ハ
              之ヲ批評シ、論難スルノ権利ヲ有セズ。
       「非常大権」: 兵権ヲ行使スル機関ハ、軍事上必要ナル限度ニ
              於テ、直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得ルハ憲法
              三十一條ノ認ムル所ナリ。         

      ※昭和初年、陸軍の参謀本部が秘かに編んだ『統帥綱領』『統帥参考』
       にあっては、その条項をてこに統帥権三権に優越させ、"統帥国家"
       を考えた。つまり別国をつくろうとし、げんにやりとげた。
         +++++++++++++++++++++++++++++++++++++

  ★五・一五事件事件前後の”日本の変調のはじまり”について
     「五・一五事件」では、海軍士官と陸軍士官候補生、農民有志らにより
    首相の犬養毅が惨殺された。にも拘らず、当時の一般世論は加害者に同情
    的な声を多く寄せていた。
     年若い彼らが、法廷で「自分たちは犠牲となるのも覚悟の上、農民を貧
    しさから解放し、日本を天皇親政の国家にしたいがために立ち上がった」
    と涙ながらに訴えると、多くの国民から減刑嘆願運動さえ起こつた。マス
    コミもそれを煽り立て、「動機が正しければ、道理に反することも仕方な
    い」というような論調が出来上がっていった。日本国中に一種異様な空気
    が生まれていったのである。
     どうしてそんな異様な空気が生まれていったのか、当時の世相を顧みて
    みると、その理由の一端が窺える。
     第一次世界大戦の戦後恐慌で株価が暴落、取り付け騒ぎが起き、支払い
    を停止する銀行も現れていた。追い討ちをかけるように、大正十二年には
    関東大震災が襲う。国民生活の疲弊は深刻化していたのだ。昭和に入ると、
    世界恐慌の波を受けて経済基盤の弱い日本は、たちまち混乱状態になった。
     「五・一五事件」の前年には満州事変が起きていた。関東軍は何の承認
    もないまま勝手に満蒙地域に兵を進め、満州国を建国した。中国の提訴に
    より、リットン調査団がやって来て、満州国からの撤退などを要求するも、
    日本はこれを拒否。昭和八年には国際連盟を脱退してしまう……。
     だが、これら軍の暴走、国際ルールを無視した傍若無人ぶりにも、国民
    は快哉を叫んでいたのである。
     戦後政治の立役者となった吉田茂は、この頃の日本を称して「変調をき
    たしていった時代」と評していた。確かに、後世の我々から見れば、日本
    全体が常軌を逸していた時代と見えよう。
     またちょうどこの頃、象徴的な社会問題が世間を騒がせていた。憲法学
    者、美濃部達吉による「天皇機関説」問題だ。天皇を国家の機関と見る美
    濃部の学説を、貴族院菊池武夫議員が「不敬」に当ると指摘したのであ
    る。
     しかし、天皇機関説は言ってみれば、学問上では当たり前の認識として
    捉えられていた。天皇自身が、側近に「美濃部の理論でいいではないか」
    と洩らしていたほどであった。しかし、それが通じないほどヒステリック
    な社会状況になっていたのである。
     天皇機関説は、貴族院に引き続き衆議院でも「国体に反する」と決議さ
    れた。文部省は、以後、この説を採る学者たちを教壇から一掃してしまう。
    続いて文部省は、それに代わって「国体明徽論」を徹底して指導するよう
    各学校に通達したのであった。「天皇は国家の一機関」なのではなく、「
    天皇があって国家がある」とする説である。
    (さらに「国体明徽論」は、「天皇神権説」へとエスカレートしていった)。
     ・・・この時代、狂信的に「天皇親政」を信奉する軍人、右翼が多く台
    頭してきたのであった。
     「天皇親政」信奉者の彼らは、軍の統帥部と内閣に付託している二つの
    「大権」を、本来持つべき天皇に還すべきである、と主張した。天皇自身
    が直接、軍事、政治を指導し、自ら大命降下してくれる「親政」を望んだ
    のである。「二・二六事件」を起こした青年将校たちも、そうした論の忠
    実な一派であった。(保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書
    pp.57-60より)

  ★ 民政党の経済政策の破綻。政友会の大陸積極策とその帰結としての満州事変
   政党政治の帰趨はもとより、内外の情勢の逼迫が政党政治の存続を困難にして
   いた(政党政治の自己崩壊)。

    ●海軍大将斉藤実の「挙国一致内閣」(昭和7年5月22日~昭和9年7月)の成立
      政党政治の終焉の象徴(政党内閣・政党政治・議会政治の機能不全)
      ※ 1932年(昭和7年)以降の数年間は、国策の遂行に必要な専門知識を
       保持すると自負する官僚と軍部エリートの優越性が、大幅に認められる
       に至った点で特徴的である。この結果軍部の政治支配の増大をもたらし
       、ひいては日本軍国主義の確立をもたらした。
          <大衆の政治参加の問題:官僚の画策>
          1.鎮圧による支配(内務省警保局)
          2.既存の選挙過程の「浄化」
             地方の名望家と政党の連携を弱体化させるような施策
             (「選挙粛清運動」、後藤文夫、丸山鶴吉ら)
          3.政治的異端分子を「粛清」選挙運動に吸収
             敵対する側の一方(社会大衆党)を支持吸収して既成
             政党の弱体化を図った。

      ※ 軍部も政党も1930年代には共通のジレンマに直面した。日本の安全
       保障に不可欠と判断される軍事的、経済的政策を実行するためには、
       全国の資源を軍事と重工業に集中しなければならなかった。そのため
       には、陸軍が非常に関心をもっていた貧困化した農民の利益や、政党
       が多くの場合その利害の代表であった地方の農業・商工業団体の利益
       を犠牲にしなければならなかった。結局のところ陸軍も政党もその政
       策決定においては、国民の生活水準よりも国防の方を重視した。
        この選択は1945年の不幸な結果をもたらしただけでなく、戦時中の
       国民生活に大きな影響を与えた。それにもかかわらず、政党は支配集
       団の一員としての使命感から、一貫して軍事的膨脹主義を支持した。
       政党のこのような政策は誤ちであり不賢明なものであったことは後に
       明らかになった。
       (ゴードン・M・バーガー著『大政翼賛会』、坂野閏治訳、山川出版社
         +++++++++++++++++++++++++++++++++++++
    ●熱海事件(第3次共産党検挙)(1932年、昭和7年10月30日)
      風間委員長以下、中央地方の幹部は軒並み逮捕され共産党は事実上壊滅
     状態となった。(松村(M)はスパイだった)

  ▼▼▼▼▼ 昭和十年代は人間の顔をした悪魔が日本を支配した ▼▼▼▼▼
  ▼▼▼▼▼ 多くの国民は無知に埋没し、悪魔は国民を蹂躙した ▼▼▼▼▼

  ★【軍部におけるファシズムの顕在化とその台頭】
     (昭和陸軍には戦術はあっても、哲学も世界観も何一つなかった)
    ※ファシストが何よりも非であるのは、一部少数のものが暴力を行使して、
     国民多数の意思を蹂躙することにある。
    ※ファシズムとは社会学的な発想に基づく政治体制である。(福田和也氏)
      ファシズムは社会を「束ねる」事を目指したことにおいて、ほぼデュケ
     ルムの問題意識と重なると云うことができるだろう。ファシズムの様々な
     政策や運動行為、つまり国家意識の強調、人種的排他差別、指導者のカリ
     スマ性の演出にはじまり、大きな儀式的なイベント、徹底した福祉政策、
     官僚性をはじめとする硬直した統治機構に対する攻撃、国民的なレジャー、
     レクレーションの推進などのすべてが、戦争やナショナリズムの高揚とい
     う目的のために編成されたのではなく、むしろ拡散され、形骸化してしま
     った社会の求心性を高めるために構成されていると見るべきだろう。
      ファシズムが成功したのは、第一次大戦において敗れたドイツや、王政
     が瓦解したスペイン、王政と議会とバチカンに政治権力が分散し、その分
     裂が大戦後昂進するばかりだったイタリアといった社会の枠組み崩壊した
     り、激しい亀裂に見舞われた社会においてばかりであった。
     (デュケルム(フランス社会学中興の祖)の考え
        近代社会が大衆化するにしたがって社会がその求心力を失い、
       社会を構成する成員が帰属意識と共通感覚を失って浮遊しはじめる
       ーーいわゆるアノミー現象が起こる。デュケルムはこうして拡散し
       た社会を改めて「凝集」する事を社会学の任務とした。(福田和也
       氏著『地ひらく』文藝春秋))
    ※日本政治研究会(時局新聞社)の見解
      「日本ファシズムは、国家機関のファショ化の過程として進展しつつ
     ある。政党形態をとってゐるファシズム運動は、この国家機関のファシ
     ョ化を側面から刺激するために動員されてゐるだけである。同じく官僚
     機構内部に地位を占めながら、かかるファショ化を急速に実現せんとす
     る強硬派と、漸進的にスローモーションで実現してゆく漸進派とのヘゲ
     モニー争奪は、満州事変以後の政局をながれる主要潮流をなしてゐる。
     そして後者が国家機関における主要支配勢力として政権を握り続けてゐ
     る」。(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、p.16)
     ------------------------------------------------------------------
    ※労働運動と左翼および彼らの活動の源泉である民主主義の行き過ぎを弾圧
     するファシスト流の極端なナショナリズムは、米英両政府と産業界及び多
     くのエリートの見解ではファシズムは、一般には、むしろ好意的に見られ
     ていた。
        ファシズムへの支持は直ちに表明された。イタリアでファシスト
       政権が誕生し、それによって議会制度が速やかに崩壊させられ、労
       働運動及び野党が暴力的に弾圧されると、ヘンリー・フレッチャ
       大使はその政権誕生を称える見解を表明し、以後はそれがイタリア
       を始めとする地域に対するアメリカの政策を導く前提となった。イ
       タリアは明白な選択を迫られている、と彼は国務省宛に書いた。
       「ムッソリーニファシズム」か、「ジオリッティと社会主義」か。
       ジオリッティはイタリアのリベラリズムの指導的人物だった。10年
       後の1937年にも、国務省はまだファシズムを中道勢力と見なし続け、
       彼らが「成功しなければ、今度は幻滅した中流階級に後押しされて、
       大衆が再び左翼に目を向けるだろう」と考えていたのだ。同年、イ
       タリア駐在の米大使ウイリアム・フィリップスは「大衆の置かれた
       状況を改善しようとするムッソリーニの努力にいたく感動し」、
       ファシストの見解に賛成すべき「多くの証拠」を見出し、「国民の
       福利がその主たる目的である限り、彼らは真の民主主義を体現して
       いる」と述べた。フィリップスは、ムッソリーニの実績は「驚異的
       で、常に人を驚かし続ける」と考え、「人間としての偉大な資質」
       を称えた。国務省はそれに強く賛同し、やはりムッソリーニがエチ
       オピアで成し遂げた「偉大な」功績を称え、ファシズムが「混乱状
       態に秩序を取り戻し、放埓さに規律を与え、破綻に解決策を見出し
       た」と賞賛した。1939年にも、ローズヴェルトはイタリアのファシ
       ズムを「まだ実験的な段階にあるが、世界にとってきわめて重要」
       と見ていた。
        1938年に、ローズヴェルトとその側近サムナー・ウェルズは、
       チェコスロヴアキアを解体したヒトラーミュンヘン協定を承認し
       た。前述したように、ウェルズはこの協定が「正義と法に基づいた
       新たな世界秩序を、諸国が打ち立てる機会を提供した」と感じてい
       た。ナチの中道派が主導的な役割を演じる世界である。1941年4月、
       ジョージ・ケナンはベルリンの大使館からこう書き送った。ドイツ
       の指導者たちは「自国の支配下で他民族が苦しむのを見ること」を
       望んではいず、「新たな臣民が彼らの保護下で満足しているかどう
       かを気遣」って「重大な妥協」を図り、好ましい結果を生み出して
       いる、と。
        産業界も、ヨーロッパのファシズに関しては非常な熱意を示した。
       ファシスト政権下のイタリアは投資で沸きかえり、「イタリア人は
       自ら脱イタリア化している」と、フォーチュン誌は1934年に断言し
       た。ヒトラ-が頭角を現した後、ドイツでも似たような理由から投
       資ブームが起こった。企業活動に相応しい安定した情勢が生まれ、
       「大衆」の脅威は封じ込められた。1939年に戦争が勃発するまで、
       イギリスはそれに輪をかけてヒトラ-を支持していた、とスコット
       ・ニュ-トンは書いている。それはイギリスとドイツの工業と商業
       及び金融の提携関係に深く根ざした理由からであり、力を増す民衆
       の民主主義的な圧力を前にして、「イギリスの支配者層がとった自
       衛策」だった。(ノーム・チョムスキー『覇権か、生存か』
                    鈴木主税訳、集英社新書、pp.98-99)