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バトシーラー日記

あまり知られていない様々な真実の知識をお届けします


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全時代を通しての日本の外国化の歴史Part1


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日本国は、不思議な国です。その不思議を、不思議と思わないひとが多くいることも、更に不思議です。この不思議な国ニッポンで暮らすには、その不思議さを知らないほうが、暮らし易いからなのでしょうか。
しかし、本当の日本国の歴史を知りたいと、図書館や書店に赴いて、日本史書を開くと、そこには「古事記」と「日本書紀」を「記紀」と表示してして、その「記紀」から引用した文章を、日本国の初代天皇は、672年即位の天武天皇であるのに、紀元前660年に即位した神武天皇から671年即位の弘文天皇までが日本列島で活躍する、想像力を駆使して創作された、古代日本史物語を目にするのです。
この「古事記」と「日本書紀」の成り立ちの誤解は、江戸中期の国学者本居宣長が、「日本書紀」を「唐ごころ」により書かれた偽書であるとし、日本列島の真の歴史は「やまとことば」で記述されたとする「古事記」にあると誤解し、1778年から1798年の20年をかけて、「古事記伝」を著したからです。その「古事記伝」が、日本列島史を、更に、複雑にしてしまったのです。
その本居宣長が日本列島古来からの「言葉」と信じた「やまとことば」とは、ウラル語系突厥語の文法に、先住民族アイヌ語ポリネシア語、タミル語、古代朝鮮語高句麗百済新羅語)、漢語などの単語を重ね合わせて作られた「万国語」(万葉語)であったのです。
この「古事記伝」を利用したのが、明治革命で復活した藤原氏近衛家)です。その明治革命で復活した藤原氏は、本居宣長が否定した「日本書紀」を創作した結社組織の流れにあったのです。その藤原氏による「日本書紀」の創作目的のひとつが、藤原氏の祖である中臣鎌足の歴史的登場だったのです。そして、藤原氏の祖は、神代の昔から日本列島に存在していたとするために、ギリシャ神話を基に「天磐戸物語」を創作して、藤原氏の祖神天児屋根命を発明するのです。
日本書紀」創作の目的は、南インドから南九州の坊津に渡来した藤原氏の出自を隠蔽するためだったのです。紀元一世紀に、その南インドには、ユダヤ教ヨシュア派の教会が存在していたのです。
古代より、南インドから日本列島に渡来した民族が存在していたことは、「アゼ」「ウネ」など水田稲作用語として使われていたタミル語が、南インドの言語であることで証明できます。更に、戦国時代のイエズス会は、南インドを侵略(布教)基地として、日本列島の南九州の坊津・種子島に渡来していたのです。そのように、古来から南九州は、東シナ海黒潮が流れ着くため、インド洋の南海との航海交易の地であったのです。
その日本列島史を改竄した「日本書紀」を暴くために、812年秦氏末裔の多人長が著したのが「古事記」であったのです。
日本書紀」を講義することを生業としていた、秦氏末裔の多人長が、794年秦氏の支配地山背国を乗っ取り、平安京とした唐傀儡の百済桓武天皇一族が、百済聖王が仏像・経論を538年に献じたとしたり、そして、神武天皇などの架空の天皇を「日本書記」に登場させるために「神武紀」などを創作したり、仏教を興隆したとする厩戸皇子を「聖徳太子」としたり、「日本書記」に記述がない朝鮮半島の「白鳳年号」を持ち込んだりして、藤原日本列島史を更に改竄しているのを危惧して、その「改竄日本書記」を否定するために著したのが「古事記」であるのです。
平安時代、亡命百済貴族により改竄された「平安版日本書記」では、親百済新羅を基本として、朝鮮半島百済史を素材として、日本列島史物語が改竄されていたのです。そして、系図一巻が紛失してしまうのです。現存する「日本書記」は、720年製ではなく、平安時代製であるのです。このことも、日本列島史を複雑にしている要因のひとつです。
そのような「平安版日本書記」にある百済系政権の歴史を否定する文章は、正論として語れません。そこで、多人長は、「日本書記」の講釈師であったので、「日本書記」が朝鮮半島史や中国史を引用改竄して創作されていたことを知っていたので、その「日本書記」の「ある一書に曰く」の箇所での改竄箇所を際立たせるために、例えば、継体天皇の享年を「日本書記」では「82歳」とするところを、「43歳」としたりして、後世のひと達に、「古事記」を「日本書記」の黙示録として示したのです。この「日本書記」を告発する「古事記」の黙示録の技術は、「旧約聖書」を告発した「ヨハネの黙示録」でも使われていたのです。
ユダヤ民族とイスラエル民族とは、同じ民族ではなく、異なる出自と異なる神を祀る別々の民族です。ユダヤ民族の出自は、メソポタミアのウルで、唯一神ヤハヴェを祀ります。それに対して、イスラエル民族の出自は、ヒッタイト帝国で、太陽神バアルと雄牛を祀る多神教であるのです。
藤原氏秦氏突厥民族も、異なる神を祀っていたのです。藤原氏は、仏(ほとけ)ではなく、ユダヤ教儀式に酷似した中臣神道の神です。それに対して、秦氏は太陽神ミトラで、突厥民族は北極星(太一)です。
そのユダヤ民族は、イスラエル民族の歴史を乗っ取るために「旧約聖書」を創作したのは、藤原氏秦氏突厥民族の歴史を乗っ取るために「日本書記」を創作したのと、動機は同じです。
そして、ユダヤ教ヨシュア派から派生して、392年ローマ帝国の国教となったローマ・キリスト教は、ローマ帝国内で崇拝されていたミトラ教の地下神殿を破壊しただけではなく、そのミトラ教の儀式を、ローマ・キリスト教に取り込むことにより、ミトラ教を歴史上抹殺してしまったのです。
それと同じに、藤原氏は、漢訳仏教により、秦氏のミトラ神を、「弥勒菩薩」として、ミトラ教を抹殺したのです、そして、突厥民族が祀る北極星(太一)を、ユーラシアで復活した突厥軍団の援助により、672年亡命百済近江政権を倒した天武天皇が、伊勢に突厥民族の神である北極星(太一)を祀るために建てた「道教の観」を、奈良時代藤原氏は、その道教の観を破壊して、その跡に、「神宮」を建て、その北極星(太一)の神を抹殺するために、太陽神の「天照大神」を発明するわけです。
太陽神は、世界のどの国でも「男神」です。しかし、その太陽神である天照大神は、悪役のスサノウ(新羅の皇子)の姉(女神)であるのです。それは、天照大神天児屋根命を登場させるための「天磐戸物語」の種本では、巫女デメテルが裸踊りで活躍するギリシャ神話では、その物語の主人公が、めったに笑わない「女王」だったからです。
そして、イスラエル民族の歴史を乗っ取ったユダヤ民族は、イスラエル民族を歴史上抹殺するために、アッシリアと混血したとして、不可蝕賎民サマリア人の蔑称を発明するわけです。
このことと同じように、日本列島での秦氏突厥民族の歴史を乗っ取った藤原氏と亡命百済貴族は、それらの肉食する騎馬民族末裔を、漢訳仏教と中臣神道の「穢れ思想」により、第一百済王朝の平安時代では不可蝕賎民「施陀羅」とし、そして、第二百済王朝の北条鎌倉時代では、穢れが多いの意味で「穢多」の民族差別語を発明して、歴史上の抹殺を試みるのです。
この「秦氏突厥民族」対「藤原氏・亡命百済貴族」の興亡が、日本列島史の流れの基本であるのです。
日本列島に古墳築造の技術を持ち込んだのは、西アジアから高句麗を経て、朝鮮半島を南下して、九州にたどり着いた民族です。その民族は、先住民を友好的に取り込むために、きらびやかな巨大前方後円墳をデザインし、先住民族をその作業者として雇うことにより、支配下においていたのです。前方後円墳は、墓ではないのです。
その根拠として、埋葬者の存在が確認されない、巨大前方後円墳が多くあるからです。それに対して、小規模の円墳や方墳には、豪華な装飾品とともに馬具や鉄剣などか、棺とともに埋葬されているのです。更に、その巨大前方後円墳を築くには、数十年も建設期間がかかるのです。寿命が短い古代では、生前のその数十年前に、豪族と言えども、巨大前方後円墳の墓など築くはずはないのです。
そして、日本列島の飛鳥ヤマトを、始めて軍事的に支配したのは、ユーラシアを支配下に置いた突厥軍団で、東ローマ帝国との馬絹交易のため、日本列島の絹を求めて527年渡来した、日本語の祖を持ち込んだ、チュルク系突厥民族であったのです。それ以前の日本列島では、高句麗百済・古代新羅などの周辺諸国の部族・民族が、それぞれのコロニーを形成して暮らしていたのです。
そして、その突厥民族と秦氏が支配していた飛鳥ヤマトを、645年壊滅したのが、唐進駐軍と中臣族軍であったのです。
このような視点で、「日本書記」の飛鳥大和時代物語を読めば、藤原氏が「何」を隠蔽したのかが黙示されます。古代日本列島史の謎解きは、物部氏が「秦氏」で、蘇我氏が「突厥民族」であることが分かれば、完成です。

「神輿の黙示録」では、敗者の視点から日本列島史を眺めたので、勝者である藤原氏、亡命百済貴族、そして、漢訳仏教には不都合が多かったと思います。それは、表の歴史は勝者の物語であるから、敗者は歴史を公の場で語ることができなかったからです。その敗者の代弁として、「神輿の眼」に写った物語を記述したのが「神輿の黙示録」です。
神輿の歴史は不思議です。それは、奈良時代の752年、東大寺大仏開眼供養の式典で、宇佐八幡の氏人が、退位した聖武天皇と娘孝謙天皇を祀るために担いだ「神輿・シンヨ」が、神輿のルーツと云われています。
その神輿は、平安時代になると、比叡山の僧兵が日吉山王の神輿を担ぎ、敵対する興福寺や朝廷に威圧をかける「政争道具」として利用されていくのです。それは、その神輿は穢れていると信じられていたので、誰もがその神輿を恐れていたからです。平安時代の神輿は政争の道具で、明治時代からのお祭りで、氏子が神を祀るためのものではなかったのです。
では、比叡山に敵対する興福寺も、その神輿を威圧道具として利用したかと言えば、そうではなく、春日明神の、榊に鏡を付けて神体に擬した、神木を奉じて比叡山や朝廷を威圧していたのです。
その亡命百済貴族の神を祀る比叡山の「穢れた神輿」と、藤原氏の氏寺である興福寺の「ミトラ神の神木」との戦いの謎は、奈良の大仏にあったのです。
奈良の大仏とは、奈良盆地にあった巨大古墳を破壊して整地した跡に平城京を遷都し、その都に唐進駐軍が駐屯している時代、反藤原氏聖武天皇が、都の北の山背国を前線基地としている、飛鳥ヤマトを追われた秦氏突厥帝国残党軍を支援するために、表向きは仏像として、秦氏が祀るミトラ教の太陽神を像として鋳造したものであるのです。
その根拠は、その神像の名前が、遍照鬼であったからです。遍照鬼の「遍照」とは、太陽のことで、「鬼」とは、漢訳仏教の敵神のことであるからです。今日に伝わる奈良の大仏の別名のビルシャナブツの命名は、平安時代錬金術空海がおこなったものです。そして、遍照鬼の首は、855年に漢訳仏教徒により落とされ、太陽神像の首は挿げ替えられて、今日の巻き毛の大仏様となっているのです。ですから、遍照鬼像の顔が、どのようなものであったかは、想像の域をでないのですが、仏像ではなく、奈良時代では太陽神であったことは確かです。
その反藤原氏聖武天皇は、興福寺を見下ろす高台に、その遍照鬼を鋳造すると、その威光により、藤原氏の子弟が不思議な病で死去していたのです。それは、前政権の前方後円墳を破壊したため、その怨霊の祟りと信じられていたのですが、その実態は、神像を鋳造した時の鉱毒中毒死であったのです。
平安時代になると、この怨霊事件を知っている比叡山の僧兵は、その藤原氏を祟った怨霊を神輿に封印して、藤原氏の氏寺の興福寺を脅す道具としたのです。
それに対して、興福寺は、比叡山の日吉山王の神の歴史を利用して、榊に鏡の神体の神木で脅すのです。
比叡山は、794年以前では、山背国を支配した秦氏の雄牛を屠り太陽神ミトラを祀る祭祀場であったのです。その比叡山は、唐進駐軍の後ろ盾により、亡命百済貴族出自の桓武天皇が支配すると、788年仏寺の延暦寺を創建とし、秦氏の神であるミトラ神を「魔多羅神」として貶め、そのミトラ神の歴史を抹殺するために、中国山東半島の土着の神シャンワンを導入して、「山王神」とするのです。
平安時代、このことを知っている興福寺では、太陽神ミトラの象徴として鏡を付けた大木を、比叡山の神輿に対抗して、脅しの道具としていたのです。
では、古墳時代飛鳥時代)に、岩手県以南に巨大前方後円墳を築造していた古代エジプトの土木建設技術を持つ者達は、平安時代古墳破壊時期に、どこに消えてしまったのでしょうか。藤原日本史では、その頃現れたとするのが、漂白する芸能民です。その芸能民とは、何者なのでしょうか。
平安時代は、怨霊の跋扈する時代で、飛鳥ヤマト時代の道教は、平安時代には陰陽道として生き残っていたのです。では、漢訳仏教に弥勒菩薩として取り込まれてしまったミトラ教景教)は、どのようにして生き延びていたのでしょうか。
平安時代ミトラ教は、比叡山の漢訳仏教組織により宿神の魔多羅神として貶められ、古墳を破壊した跡に創られた神社(モリ)で、ひっそりと暮らしていたのです。しかし、桓武天皇の実弟早良皇子や、騎馬民族天武天皇の最後の血筋である井上皇后の、桓武天皇による謀殺結果の怨霊が、貴族や庶民には、平安京を祟っていると信じられたため、前政権の支配者であった騎馬民族末裔の陸奥国捕虜の蝦夷を、怨霊鎮めの武芸者として、蕨手刀を改良して祭祀道具の「日本刀」を発明して、平安王朝は利用したのです。
そして、その飛鳥ヤマトの武人末裔の蝦夷が、武士となり、飛鳥ヤマト時代では、古代エジプトの土木建築技術を持つ秦氏の支配地であった、古代新羅花郎騎士団の基地があった河内地域に勢力を増し、武家源氏を名乗るのです。
平安末期、その古代新羅花郎騎士団末裔の武芸者が変身した「源氏武士」が、アラブ系「平家」を倒し、1192年騎馬民族国の鎌倉幕府を拓くのですが、百済系サムライの「平氏」である北条氏の陰謀により、1219年源氏三代は滅亡し、「平氏」の女棟梁北条政子により百済系政権の北条鎌倉時代となるわけです。これが、第二百済王朝です。
北条鎌倉幕府のサムライによる、源氏武士抹殺組織の六波羅探題により、源氏武士は「源氏狩り」にあい、そのため、北条鎌倉幕府に従わない源氏武士は、山奥の禁足地に逃げ込むのです。山奥の「平家落武者部落」とは、実は、「源氏落武者部落」であったのです。
その禁足地は、やがて全国の源氏武士残党のネットワーク地点となり、その禁足地に各種技術者が集まることにより、同業者組合の「座」が興るのです。その禁足地の「座」では、漂白する芸能民の座も開かれるのです。
中世ヨーロッパでのギルドが、北条鎌倉時代には存在していたのです。そこで、武術が長けた元源氏武士が、北条鎌倉幕府や漢訳仏教組織による「座」攻撃のトラブルを、祭祀道具である「日本刀」による武芸で仕切る、「役座」となるわけです。役座の祖は騎馬民族であるため、反漢訳仏教の「仏」に対して、漢訳仏教の敵である道教の「神農様」を祀ったのです。中国北魏での「仏教と道教」の戦いが、日本列島にも持ち込まれていたのです。
1841年(天保12年)清水の次郎長が、同業者の博徒に重症を負わせて、その追っ手から逃れるため、騎馬民族徳川家康の元支配地であった三河に逃げた時、旅費がなかったため、東海道の藤川宿の親分に「仁義」を切ったのが、博徒による仁義の歴史の始まりです。
では、その「仁義」の挨拶の儀式は、博徒が初めではないのならば、どこから来たのかといえば、それは、渡り職人(漂白の芸能民)が、各地域のギルド(同業者)の親方を尋ねて、旅の旅費や宿泊を願う時の挨拶であったのです。
この渡り職人の全国組織があったからこそ、日本全国の土木建設は短期間に施工されていたのです。例えば、城といえば、堀をめぐらした石垣の上に仏閣を築き、その上に天守閣をのせた建物を想像しますが、その現在に伝わる城の歴史的流れは、飛鳥ヤマト時代の朝鮮式山城→奈良・平安時代の仏閣砦→鎌倉・室町時代の平城→戦国時代の1576年イエズス会傀儡の織田信長が、ヨーロッパの城築造思想を基に安土城を創建したのが、現在の石垣の上に築かれた天守閣のある城の始まりであるのです。
戦国末期、このデウスの神が宿る天主閣(後に天守閣となる)のある織田信長式の城形式が、国を挙げての戦国時代だというのに、短期間に全国で建設されていたのは、古墳時代飛鳥時代古代エジプトの土木建設技術で巨大前方後円墳を築いていた職人集団末裔の、石組技術や深堀を築く技術を持つ、渡り職人の全国的ネットワークがあったからです。
その渡り職人が、博徒と関係があったことは、博徒香具師(ヤシ)といわれていることで分かるのです。博徒の蔑称のヤシとは、江戸時代では「矢師」と云われていたのですが、その本字は、「野士」で、百済系の北条鎌倉時代に、「源氏狩り」で野に下った、新羅系の「源氏武士」であったのです。
北条鎌倉時代、源氏狩りにあった源氏武士は、生き残るために身分を隠し、禁足地での座のバザール(高市・タカマチ)で、薬売りや抜歯などの外科手術などにより生計を立てていたのです。それは、「源氏武士」は、騎馬民族末裔であったので、創薬や外科手術に長けていたからです。大阪の道修町や北陸の富山に創薬業者が多く暮らすのは、それらの地は、古代から騎馬民族が暮らす地であったからです。それらの地では、天照大神ではなく、神農様が祀られていることで、騎馬民族の地であったことが証明できます。
正統役座が祀る神様は、藤原氏奈良時代に発明した「天照大神」ではなく、「神農様」であるのですが、その神農様は、「薬草の神様」であるのです。現在の薬学部の生徒が、神農様を祀りますが、その意味を知らないひとも多く居るようですが、役座が神農様を祀るのは、その祖が騎馬民族の武士であったからです。
1590年藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により、騎馬民族末裔の徳川家康が関東の湿地帯(穢れ地→穢土→エド)に追放されると、徳川家康は、配下の産鉄民族末裔の金山衆や秦氏末裔の古代エジプトの土木建築技術者達により、巨大前方後円墳ではなく、海抜2.5mの岬に造られた大田道灌の砦を、神田掘りの残土により埋め、海抜10mの小山を築き、そこに「エド城」を築くのです。そして、徳川家康は、藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉の壊滅を意図して、ローマ帝国軍式幅広の一直線道路を、エドから小田原に向けて敷設するのです。
徳川家康は、その騎馬軍団のための軍事道路の各地点に、軍馬の補給地である駅舎の「宿場」を設けるのです。この騎馬軍団が迅速に移動するために、街道の各地に軍事施設を設置した軍事思想は、五世紀から六世紀にかけて、ユーラシアから東海(トンヘ・日本海)を渡海して日本海沿岸に渡来した突厥帝国軍団が、飛鳥ヤマトに軍事都市を築き、隋や唐の軍団が、朝鮮半島から北九州、そして、河内へ進軍することを防ぐために設けた、軍事資材補給地の「ミヤケ」を築いたのと同じです。
徳川家康は、その宿場の治安維持を「役座」に任せたのです。その宿場の維持・管理費は無料で「役座」におこなわせるため、日没後に、博打・売春の営業を公認したのです。元々、この博打・売春・高利貸しは、「役座」のオリジナルビジネスではなく、それは、日本列島に645年に中国製武器の長刀で武装した僧兵と供に渡来した漢訳仏教のビジネスであったのです。
それは、博打でのチップを「テラセン・寺銭」と言うことから理解できます。治外法権の仏寺では、仏を祀る傍ら、そのような「悪業」もおこなっていたのです。
宿場を武力で護る「役座」は、漂白する渡世人ではないので、仁義など切る必要はなかったのです。江戸初期に、役座が仕切る宿場を、仁義を切って訪ね歩いたのは、平安時代比叡山の祭祀場を追われた、漂白する芸能民達であったのです。
芸能民と役座の祖は、飛鳥ヤマト支配者の末裔で騎馬民族の同族であったので、漂白する芸能民は、旅先の宿場の「役座」の親分に、仁義を切って、旅費や宿泊を願っていたのです。
それが、1623年徳川三代目将軍家光の時代になると、宿場を治安維持していた、新羅系武士の流れにある「役座」は、漂白する渡世人となってしまうのです。それは、徳川家光には、百済の血が流れていたからです。
亡命百済貴族末裔は、663年母国百済を滅ぼしたのが、新羅であることを忘れていなかったのです。この徳川三代目将軍から、騎馬民族国のエドではなく、漢訳仏教思想による第三百済王朝が始まるのです。
1651年第三百済王朝を支配する「サムライ」により、騎馬民族末裔の「源氏武士」残党を抹殺するために仕掛けられた、由比正雪の乱により、騎馬民族支配のエド時代が終わり、京都文化の江戸時代となって、騎馬民族は漢訳仏教思想により、賎民「穢多」「皮多」などの蔑称で貶められて行くのです。
飛鳥ヤマトを支配した突厥民族と秦氏末裔は、第三百済王朝の江戸時代に、賎民と貶められるのですが、長吏頭弾左衛門により、北関東に騎馬民族末裔による「風の王国」を経営して、明治革命まで生き延びて行ったのです。しかし、その明治革命では、、、、、、、。