バトシーラー日記

あまり知られていない様々な真実の知識をお届けします


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純正愛国者だった玄洋社の資料


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環 vol.60 〈特集〉「明治」を問い直す (学芸総合誌・季刊『環 歴史・環境・文明』) 単行本 ? 2015/1/25

出版社からのコメント
東日本大震災とそれに伴う福島第一原発の爆発事故から約三年半。直後の対応のみならず、その後の政府のあり方を見ても、経済成長を価値観の軸とする戦後日本社会をそのまま継続することが、もはや限界に達し、さまざまな綻びを見せ始めていることが露呈してきている。
今この時点において、日本という国家の針路を根本的に軌道修正するには、これまでの国家のあり方の延長線上にある弥縫策に終始するのではなく、もう一度この国を土台から造り直すほどの覚悟が必要なのではないか。
本特集では、そうした問題意識に立ち、近代国家形成の“成功”に向けて転がり始めた「坂の上の雲」の明治像から敢えて距離をとり、国家をまさに生みだそうとする端緒において、沸々と滾る混沌のなかで、普遍的な「公」をも志向した、潜在する「明治」を描いてみたい。
国家という制度の維持・再生産に安住することなく、国家の創成を純粋に志向した人々の精神とは何だったのか。それを問うことで、「官」に回収される以前の「公」のありようも立ち現れてくるのではないか。そしてそれは、「私」に偏した現代社会の閉塞を突破するための、一条の光を投げかけてくれるにちがいない。

登録情報
単行本: 400ページ
出版社: 藤原書店 (2015/1/25)


番組紹介
放送時間 毎月第1・第3日曜日19:00-19:55
出演者 孫文/永淵 幸利
梅屋庄吉/二橋 康浩
宮崎滔天/山下 晶
頭山満/矢山 治
平岡浩太郎/美和 哲三
宋慶齢/渡辺 美穂  他
1911年、孫文を中心人物として起こされた「辛亥革命」。
この革命に、たくさんの日本人、それも九州の人たちが関わっていたことをご存知でしょうか?
この番組は、そんな中国の王朝時代を終焉させ、共和制を確立させた「辛亥革命」に命をかけた孫文
九州人の物語をラジオドラマとしてお送りしてまいります。


筑前玄洋社 その1
director (2012年10月10日 00:27) | コメント(4)
 孫文辛亥革命を助けた九州人ー。
 10月21日(日)の第2章では長崎出身の梅屋庄吉。11月4日(日)放送は、熊本県荒尾宮崎滔天が語りとなります。

 というわけで、第4章担当しました高野龍也です。

 梅屋庄吉宮崎滔天はそれぞれ、地元では見直されたり、ずっと尊敬され語り継がれるような存在なのです。

 第1章から登場し、第4章、第5章を中心にして登場する頭山満を中心とする玄洋社は、残念ながら、歴史に埋もれています。

 頭山満は、孫文の葬式にまで列席し、日中が戦争状態になったときは、孫文の後継者である蒋介石から日中講和の仲介も依頼されるなど、中華民国と長い付き合いをしました。

 玄洋社は、明治から昭和初期にかけて、政界・財界に多大な影響力があったとされています。

 第二次大戦後、GHQは「日本の国家主義帝国主義のうちで最も先鋭な一派」ということで玄洋社を解散させます。
 このことがもとで、玄洋社は「どうにも怖い一派」というイメージが残り、玄洋社の荒仕事や力仕事ばかりが喧伝されるようになっているようです。

 でも、調べれば調べるほど、玄洋社にはいろいろな顔があることがわかってきます。
 
 司馬遼太郎先生は「竜馬がゆく」の中で、海援隊のことを、商業だけではなく、教育や思想の啓蒙、政党でもありメディアでもあった、という具合に、多彩な側面と後世への影響力を高く評価していますが、玄洋社もそれに匹敵するのでは? と感じるほど。

 玄洋社の前身向陽社は向陽義塾という学校を設立し、それが後の県立修猷館高校に。
 玄洋社が発刊した「福陵新報」という新聞は、西日本新聞の源流に。
 玄洋社から輩出した主な著名人は、川上音二郎杉山茂丸明石元二郎中野正剛緒方竹虎中村天風広田弘毅などなど。安川敬一郎、夢野久作なども、玄洋社と密接な関係がありました。

 「玄洋社あるある」のごく一部を書きだしただけですが、多彩すぎて玄洋社のなんたるかがもう説明しにくい...。
 ですが、日本の近代化とか、福岡の発展にものすごく寄与していることはわかっていただけるのではないかと思います。知らないうちに、ボクたちも玄洋社の影響や恩恵を受けているのではないかと思います。

 ボクもまだまだ玄洋社に関しては勉強中です。
 また近いうちに、玄洋社について何か書きたいと思います。

 それでは!
 
 

カテゴリ: 玄洋社チーム, 高野龍也
コメント(4)
大塚和彦 | 2012年10月10日 20:46 | 返信
現在、第5章を録音中。というテスト送信です。
匿名 | 2012年10月11日 16:45 | 返信
わーい!書き込めた。
筑紫弾左衛門 | 2012年10月12日 16:44 | 返信
玄洋社については、「右翼」というマイナスイメージが先行していますが、それは悲しい事です。
福岡市発展の父・進藤一馬も玄洋社です。
玄洋社の源流を辿れば、福岡士族・興志塾・筑前勤王党・亀井一族・貝原益軒にまで思想的系譜がつながると思っています。
こうした歴史は非常に大切で、汚名のまま語られるのは筑前人として非常に悲しい次第です。
そうした汚名を晴らすような作品を期待しています。
匿名 | 2012年10月31日 00:14 | 返信
筑紫弾佐衛門さん
実は、玄洋社の名誉回復は、福岡・九州の企業名士の願いでもあります。
薩長のように政治を執る側にあれば、それは桜田門外も生麦事件も、正当性を持ってテロとは一線引かれますが、近いところにあっても玄洋社は、日本政治の黎明期に振るった豪腕ぶりから、簡単に「右翼」と片付けられてしまいます。
しかし、そのような括りだけでは、中江兆民大杉栄を気に入って親しくしていた理由は見えてきません。
彼らは政府の強権と戦っていたことを見、その時代に生き残った侍の姿として読まなければ、玄洋社を知ることにはならないですね。

 

玄洋社・封印された実像』の反響

日本図書館協会選定図書
2010年10月27日選定


朝日新聞全国版
夕刊 1面 2012/03/14
【ニッポン人・脈・記】孫文がいた
⑨ 玄洋社 飾りなき友人
石瀧豊美(62)は、自分の親戚にあたる医師で儒
学者の高場乱が私塾で頭山を教えていたことを
知り、玄洋社の研究を始めた。 藤原秀人
アマゾン
 カスタマーレビュー 2012/03/08
おすすめ度
★ やはりこの程度の本しか出せないのだろうか・・・
大和魂
月刊 中国図書
 内山書店 2012/01/01
274号
【二〇一一年読書アンケート】
単なる右翼ではなく、愛国心国家主義にかかわ
る多面的な主張を内包しているというのが著者の
主張のようで、私も賛成だ。 田所竹彦
会報 明治維新史学会だより 2011/05/01
15号
「受贈図書」で紹介されました。
週刊読書人 2011/03/11
2880号
学術思想】 「実像」に迫る粘り強さ
 ―丹念な史料調査をもとに― 《玄洋社》について論ずる際には、まづ目を通して
おくべき一冊であらう。 金子宗徳
週刊文春 2011/03/10
【文春図書館】
私の読書日記 大學、玄洋社、明治の東京 この研究を一読して感じるのは、玄洋社というのは
思想・信条を一にする近代的・西洋的思想集団で
はまったくなく、人と人との直接的なかかわりから
生まれた非常にゆるやかな(ある意味極めて日本
的な)集団であったということだ。 鹿島茂
中部財界
 中部財界社 2011/02/01 54巻2号 【注文の多い本のレストラン】
玄洋社周囲の人物を描いた歴史小説を導入に、
膨大な国内外の史料を用い、何故そのような誤
解が起きたのか、その偏見がいかに的はずれな
ものかを論証していく著者には、並々ならぬ気迫
を感じる。
軍事史
 軍事史学会編集
 錦正社発行 2010/12/01 46巻3号
「会員消息」で紹介されました。
玄洋
 (社)玄洋社記念館 2011/01/01
108号
《自著紹介》 『玄洋社・封印された実像』を刊行して 敗戦にともなう、GHQの解散指令がなければ、
現在も玄洋社は人材を輩出し続けたにちがい
ないことでしょう。
石瀧豊美
晴耕雨読と書評 2010/12/29
歴史の改竄 ★アマゾン・カスタマーレビュー(下欄引用)を
 評価したもの。格付け(秀逸)の格付け(秀逸)。 以下のブックレビューは秀逸だと思う。
 →改竄された歴史を糺す。/Amazon
東京新聞 2010/12/19
【読書】
BOOKナビ ノンフィクション 地の利を生かす 積年の研究を集大成すべく刊行され、地の利を
生かした取材記事や資料を満載している。特に
玄洋社をめぐる考察は日本近代史への重要な
問題提示である。
佐藤幹夫
中日新聞
りべらしおん
 ―研究所ニュース―
 (社)福岡県人権研究所 2010/12/13
43号
「会員の本の紹介」で取り上げられました。
熊本日日新聞 2010/12/12
【読書】各地の本
 ※下に同じ。〈 〉内あり。
岐阜新聞 2010/12/05
【読書】各地の本
中國新聞 2010/12/02
【文化】本
広報すえ
 福岡県糟屋郡須恵町 2010/12/-
521号
【図書館だより】 「町立図書館の12月の推薦図書」で
紹介されています。
大阪日日新聞 2010/11/29
【読書】各地の本 右翼のレッテル
……
反中央権力的だったことや、自由主義な側面も
あったこと、また社員の思想や職業もさまざま
だったことなどを挙げ、地域の「ゆるやかな結
合」だったことを示していく。〈地方の視点から
歴史を問い直す労作だ。〉
 ※山梨日日新聞新潟日報は〈 〉内なし。
神戸新聞 2010/11/28
【読書】地方の本 右翼のレッテル疑問視
 
山梨日日新聞 【読書】新刊紹介
河北新報 【読書】新刊抄>各地の本
新潟日報 【読書】各地の本
日本海新聞 【読書】各地の本 右翼のレッテル
宮崎日日新聞 【読書】各地の本
秋田さきがけ 【読書】各地の本
日本経済新聞 2010/11/28
【読書】
本書は長年にわたって玄洋社を研究してきた
著者の集大成で、巻末には630人にも及ぶ
社員名簿が付されている。
図書新聞 2010/11/27
2991号
学術玄洋社の実像を追跡し
その歴史的意味を問い直す
 ―四〇年近くにおよぶ著者のライフワークの集大成 玄洋社の歴史的対象化という作業は、戦後
民主主義の歴史化、歴史的対象化の作業と
不可分なのである。
(O)
出版ニュース 2010/11/21
2227号
【ブックガイド】
頭山満を司令塔として韓国の親日政治家・金
玉均と交際し、中国革命の志士・孫文の支援と
革命へ参加を果たした有名無名の人々の姿
と、その運動史を明らかにする。巻末には玄洋
社社員名簿等も収録。
さるさる日記 - 発熱電気兎冷却法
試論 2010/11/19
■2010/11/19 (金) 23:02:25
玄洋社 封印された実像』
昨日今日とで石瀧豊美『玄洋社 封印された実
像』海鳥社、2010年10月)を読んだ。……資料
を基にするという基本的なことがどれだけ大事
か。また一方向から見るでなく資料や他意見の
すり合わせが大事か。そういうことが分かる
本。
とにかくだな、右翼だからと一まとめにして駄目
だとか、調べもきちんとしないでイメージだけで
非難するとか、そんなのバカのすることだし腹
が立つっての。よい本でした。
mao_memo
2010/11/18
玄洋社・封じられた実像』
抄録電子版への
ツイートレビューまとめ
本書の書き下ろし「まえがき」を読むだけでも、
実態としての玄洋社が過剰に「過大評価」され
てきたことの真相が透けて見えるのだ。手垢の
ついたGHQによる規定「超国家主義団体」への
烙印は最新の評伝をもってしても大きく変化し
たとは思えない状況がある。
ニュースの備忘録
 配置転換で取材記者→校閲
 記者のトホホ日記。 2010/11/18
石瀧豊美さんの「玄洋社 封印された
実像」増補決定版のツイートまとめ 今日は@mao3mao3 が九州電書会から初めて
電子書籍化した「玄洋社・封印された実像」(石
瀧豊美著)を書評する。
西日本新聞 2010/11/14
本と人
【本と批評】 「玄洋社~封印された実像」を書いた
 石瀧豊美さん 孫文が導いた1911年の辛亥革命から来年で
100年を迎えるのを機に、歴史の闇に消えた
玄洋社に、再びスポットライトをあてた。
稲田二郎
読売新聞西部本社版
夕刊 2010/11/02
ブックマーク
【文化】
最新の評伝などでもなお国家主義的団体と
短絡されている事例を引きながら……
(和)
週刊金曜日 2010/10/29
821号
無名人語録
 342回
玄洋社については最近調べの行き届いた本が
出版されている。
永六輔
読書日記
 本を読んで感じたこと、思ったこ
と、などなど、心にうつりゆくよし
なしごとを綴っています。 2010/10/20
玄洋社・封印された実像』
石瀧豊美 著、海鳥社
この著者が間違いを指摘した箇所、批判された
研究者は反論する義務が有ると思うが、誰も反
論できないだろう。なぜならば、間違った歴史
的事実を日本国民に教えてきたのを、いまさら
間違いですとは言えないから。
佐々木昇
アマゾン
 カスタマーレビュー 2010/10/20
おすすめ度
★★★★★ 改竄された歴史を糺す。 本書は日本の敗戦後にGHQから解散させられ
玄洋社の実像に迫るものである。……
その欧米の犠牲者である玄洋社の実像に迫っ
たものとしてこの一冊は秀逸である。
浦辺登
おきらくごくらく
 赤穂事件・森家・日本史等に関する
雑記です。 2010/10/14
石瀧豊美『玄洋社-封印された実像-』
時の流れの中で
 「教育・社会・人生」ノート 2010/10/10
玄洋社-封印された実像』(石瀧豊美)
本書のように,地域史・民衆史の視点から掘り
起こして史実を再認識する石瀧先生の姿勢が
私は好きだ。その姿勢が部落史研究にも貫徹
していて,だから史実が内包している隠された
真実を描き出せるのだと思っている。

 

頭山満が登場する中国映画があった!
2006/02/22
コロムビアミュージックエンタテインメント】より
 DVD化
【松竹ホームビデオ】より
 ’87金鶏賞最優秀賞9部門独占受賞
  珠江電影制片公司作品
  製作 孫長城・監督 丁蔭楠
 日本側出演者
  宮崎寅蔵……大和田伸也
  宮崎夫人……中野良子
  頭山満……中谷一郎 

 

回り道 玄洋社
2014年11月22日 | 歴史を尋ねる
 玄洋社(げんようしゃ、1881年 - 1946年)は、旧福岡藩(黒田藩)士が中心となって、1881年(明治14年)に結成されたアジア主義を抱く政治団体。日本の敗戦に伴い1946年(昭和21年)、GHQは「日本の国家主義帝国主義のうちで最も気違いじみた一派」として解散を命令したとウキペディアにある。「日本史辞典」では、政治結社と定義され、右翼の源流と位置付けられ、侵略主義のレッテルが貼られている。ここではレッテルに拘らず、戦前の歴史に名前をのぞかせる玄洋社を調べてみたい。但し昭和20年6月の福岡大空襲で玄洋社は灰になった。また21年連合軍総司令部玄洋社に解散命令をだし、財産・文書も没収された。従って関係蔵書・史料類の多くが失われた。そんな中で石瀧豊美氏は「玄洋社 封印された実像」を出版している。

 自由民権運動は、既述の通り、明治6年征韓論決裂による西郷隆盛板垣退助江藤新平ら5参議の下野に端を発している。板垣・江藤らが7年1月、民撰議院設立建白書を提出したことを画期とし、天賦人権論・参政権の主張を武器に有司専制(官僚独裁)反対の運動として、当初西南地域の士族たちの間に燃え広がった、一大反政府運動であった。福岡の民権運動は、8年2月全国組織愛国社の結成大会に、士族を代表して武部小四郎と越智彦四郎の2人が参加したことから始まる。明治13年国会開設請願運動に先鞭をつけた福岡は、高知・岡山と並んで憲政発祥の地と誇りうる歴史を持っている、と。玄洋社誕生の母体となった向陽社は、民権運動のメッカ・高知の立志社をしのぐと評価された。向陽社が「民権伸長・国権回復」を掲げて広く社員を募集すると、「壮士輩」の入社同盟が相次いだという。国権回復とは、安政以来の不平等条約の撤廃を指している。玄洋社起こるー頭山満が土佐に行って自由民権の新武器を発見すると、これに依って藩閥政府と戦うの決意をして福岡に帰り、向陽義塾を改めて政社組織として、玄海の怒涛天を擣(う)つの勢いに則って名を玄洋社と命じ、新たに活躍の準備を整えた。時に明治12年、頭山が25歳の時であった。明治時代の筑豊は石炭一色、当時は進歩と活力の象徴であった。玄洋社筑豊と北海道に広大な鉱区を所有し、莫大な利益が玄洋社の活動をまかなった。石炭成金の潤沢な資金孫文の中国革命支援に充てられたことは有名らしい。

 福岡の民権運動を石瀧氏は筑前民権運動と命名しているが、向陽社、共愛会、玄洋社が、土佐派の中央集権的発想に対し地方分権重視の立場で独自に活動し、自由党結成にも加わらず九州改進党を立ち上げた。玄洋社は九州改進党に参加を見合わせたが、明治15年朝鮮に壬午軍乱が起きると、玄洋社の平岡浩太郎は西郷軍生き残り野村忍助と義勇軍計画を推し進め渡韓したが、すでに交渉は終わっていた。義勇軍本体は平岡が率い、野村は政府代表団に属し、いざとなれば全権井上馨を斬る覚悟だったという。無茶な計画であったが、この時期を境に、玄洋社は朝鮮・中国をめぐる情勢に危機感を深める。朝鮮の亡命革命家金玉鈞との交渉も始まる。明治18年、自由党大阪事件が摘発されたが、玄洋社員も同様事件を計画中であった。密偵の動きに不審を抱いた頭山満が自重論を唱えて発覚を免れた。玄洋社は明治17年上海に設置された東洋学館にも関係し、館務に最も尽力したのは玄洋社の大内義瑛あった。後の日清貿易研究所や東亜同文書院の先駆とする見方がある。参画した人物は、自由民権運動の錚々たる顔ぶれを含んでいた。もともと資金不足の東洋学館であり、上海の中江兆民からは金送れの催促がしきりにあり、頭山満がそれに応えてかなりの金額を送ったという話も伝えられている。

 玄洋社が関わった有名な事件としては、明治22年の大隈重信爆殺未遂事件がある。当時外務大臣だった大隈の改正案は関係各国に対しかなり妥協的であり、国民的反対運動がたちまち全国を覆った。しかし、剛毅な大隈は決して自案を曲げなかったため、玄洋社社員の来島恒喜が大隈に爆弾を投擲し、自身もその場で咽喉を斬って自決した。事件で大隈は右足を失いながらも、尚自説を貫く決意であったが、政府は方針を急転し、大隈は辞職したため、この妥協的改正案は見送られることとなった。玄洋社の社員らが掲げた有名なスローガンには「大アジア主義」(孫文の神戸演説に語源があるとされる)がある。彼らは、朝鮮の親日開花運動家金玉均や朴泳孝、インドの独立運動家ラース・ビハーリー・ボースらを庇護し、アメリカと独立戦争を戦うフィリピンのアギナルドへは武器と義兵を送ろうとした。また、明治28年には朝鮮の閔妃事件にも二人の玄洋社員が関わっている。


汎モンゴル主義モンゴル語:Нармай Монгол、英語:Pan-Mongolism)は、モンゴル人が居住するモンゴル国南モンゴル(中国の内モンゴル自治区)、ロシアのブリヤート共和国を統合し、大モンゴルを再興しようとする思想。

an-Mongolism

モンゴル国において、南モンゴル中華人民共和国内モンゴル自治区)とブリヤートブリヤート共和国)との統合を主張する思想。


18 世紀ブリヤート人の汎モンゴル観念における仏教的要素

 

ツォンゴール. B. ナツァグドルジ はじめに モンゴル人の世界の住人であったブリヤートは、1727 年に、全く異なる文化的伝統を持つロシア帝国支配下に入った。このブリヤート達が、このような自分達には異質な帝国において自分の状況をどう理解していたか、また清朝支配下に入った他のモンゴル人をどう見ていたか、という問題がある。本報告では、モンゴル国立文書館の新史料を用いて、これら諸問題に対するいくつかの回答を試みたい。 1.1. 主僧ダムバダルジャー・ザヤエフと清朝との交渉(1759-1765)について 露清間の国境策定が行われた後も、新たな清・ジュンガル戦争が勃発すると、雍正帝はハルハ王公から任命する副将軍(ма. aisilara jiyanggiy?n; мо. tusalaγ?i jangjun)職を設けた。その中の 1 人に、多羅額?(ма. doroi efu)ダンザンドルジ(мо.danjindorji)がいた。彼は 1688 年の露清戦争でハルハの軍を率いたシディシリ・バートル・ホンタイジの子であった。ダンザンドルジの子ドルジセブデン(мо. dorjisebden)は、怡親王胤祥の第四女を娶った。この 2 人から生まれたのがサンザイドルジ(мо.sangjaidorji)であった。北京の皇宮で教育を受けた彼も皇女を娶った。 1756 年、更迭されたトゥシェート・ハン・ヤムピルドルジの代わりに、サンザイドルジが副将軍の任に就いた。チングンジャブの反乱の際に、モンゴル人をロシア皇帝の臣民として受け入れてもらうことについて、ロシア帝国の国境官憲と 2 世ジェブツンダムバ・ホトクトをはじめとするハルハ王公達の交渉が行われた。この交渉を企てた者達はサンザイドルジを親清派として恐れ、彼のいないところで交渉を進めようとした。 1765 年初頭のウリヤスタイ定辺左副将軍ツェングンジャブの上奏では、公式にキャフタ貿易を中止したにも関わらず、サンザイドルジが対露貿易を継続していた、と報告された。乾隆帝はサンザイドルジを更迭し、彼の王号を剥奪し、北京に軟禁した。この事件の過程において、ロシアのブリヤートに関連するある事件が明るみに出た。1765 年 7 月、サンザイドルジは北京に送られる前に、フレーに派遣されていた理藩院官僚のハラチン貝子フトゥリンガ(ма.h?turingga)1に、清朝臣民として 200 人のブリヤートを受け入れることに関して、ブリヤートの僧ツォルジ・シレート・ダムバダルジャーと交渉していることを伝達した。これについて史料には、乾隆 24 年(1759 年)6 月にハムバ・ラマ・シャグダル2を連れてロシアの准将3と交渉を持ったサンザイドルジがキャフタにいた際に、ガブジ・ツォルジ・ダムバダルジャーが来てシャグダルと会見したこと、昨年秋にニルバ・ソドバ4がハル 1ハラチン旗ザサグ。ベイセ。額?。理藩院官僚を務めていた。2フレーのハムバ・ラマ。サンザイドルジの近親であり、フレーのハムバ・ノモン・ハン・ ジャムバルドルジの兄であった。 3ヤコビ・ヴァルフォロメイ・ヴァレンチノヴィチ(1693-1769)。1740-68 年にセレンゲの 准将、司令官。国境関係諸事を管轄した。1756 年に、ロシア臣民としての受け入れに関してモンゴル王公と交渉を行った。 4アバガド・ツォンゴルの出身。ダムバダルジャーの兄ザサ・ザヤエフの長男である。
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2013/11/23中央ユーラシア歴史文化研究所研究会報告要旨 2ハの?倫の僧チョイドグのところに来て「宗教と教義の国に帰したいと以前あなたに言った。我ら 2 人の兄弟には思いは一つである」という兄の言葉をハムバ・ラマに伝えるよう言ったこと等が記されている5。フトゥリンガに呼ばれたソドバは、自分がダムバダルジャーの甥、ツォンゴル・オトクのザイサンの子であること、ダムバダルジャーは露清関係の悪化に鑑み、ツォンゴル・オトクが清朝臣民として受け入れてもらえるよう要望を出した場合の清朝の動きを調べるよう派遣されたこと等を述べた。ダムバダルジャーがこう決意した理由について、史料には「以前は我らのオトクでは子を僧に出すことを自分の希望によって決めていたのに、近年ロシア人は我々の希望で僧を出すことを禁止している。前の僧が老いれば、我らの宗教はなくなってしまう」6とある。 フトゥリンガは、彼らが本当に清朝に帰順したいならば皇帝は受け入れるであろうという保証と共にソドバを送り返した。その一方で、今後の指示を仰ぐべく、皇帝へ上奏文を送った。乾隆 30 年 8 月 19 日の皇帝の上諭には、「ダムバダルジャーらが人を送ってこないならばそのままにしておき、人が派遣されて来た場合には、皇帝は帰順者を受け入れるということを伝えるよう」とある7。しかし、この問題に関するこれ以上の情報は、現在のところ発見できていない。 1.2. ブリヤートの最初のバンディダ・ハムバ・ラマ・ダムバダルジャー・ザヤエフ ダムバダルジャー・ザヤエフは、ブリヤートの著名な教養ある僧であり、仏教の振興に努めた。彼は、ツォクト・ホンタイジの孫、オキンの支配下にあったツォンゴルの出である。1689 年にロシア帝国に帰順したツォンゴル達は、ジュンガルの脅威からロシア帝国に帰順した他のモンゴルと異なり、清朝支配から逃れようとしたのである 8 。オキンは、ロシア皇帝への忠誠に対して、ザバイカル・ブリヤートの主タイシの称号をロシア皇帝から授与され、ホリ・ブリヤートをもその支配下に入れた 9 。オキンの長男で跡継ぎのロブサンは露清国境策定に関与した 10 。これらの人々により、ロシア帝国セレンゲ及びシルカ河流域で地歩を固めることができたのである。 5 МУ?ТА, М-1, Д-1, хн-2843, л.466 МУ?ТА, М-1, Д-1, хн-2843, л.467 Фонд исторических документов, Институт Истории АНМ. Д-1, хн-118.8 Б.Нацагдорж. К проблеме этногенеза цонголов. // ActaMongolica. Volume 6. с.323-339. Улаанбаатар, 2006. 9 Русско-китайские отношения в XVII веке. 1725-1727. Том II. Москва, 1990. с.59210 Русско-китайские отношения в XVIII веке. Документы и материалы. 1727-1729. Том III. Москва, 2006. с.470
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2013/11/23中央ユーラシア歴史文化研究所研究会報告要旨 3 ツォクト・ホンタイジ(キヤド ヤスのボルジギン オボグ) ↓ホントゴル サフラク(アバガ ヤスのイフ=バヨード オボグ) ↓ ↓タイシャ・オキン(息子 8 人) 長男ザヤ(息子 8 人娘 1 人) ↓ ↓ ↓8 男ツァガーン-娘 三男ザサ 五男ツォルジ・ダムバダルジャー↓ ↓ (1711-1776) ↓ ↓タイシャ・ブニ ニルバ・ソドバ(1770 年没)(1772 年没) タイシ・ブニ・ツァガーノフの時代に、彼らは清朝に帰順すべく、国境の官憲と交渉を持っていた。彼らが清朝に帰順せんとした理由は上述の通りである。ブリヤートに広まった北の仏教は、ダムバダルジャーの言葉によれば、「消失」の危機にあることが明らかになったのである。ダムバダルジャーが考慮していたのは、1752 年 4 月 28 日付のイルクーツク郡庁の指令であった。これは、僧の人数を 181 人以上にすることを禁じたものである 11 。モスクワは、ヤサクを払う者から出る僧の数が増えないようにしようと努めていたのである。上述の事件の 1 年前、1764 年にサンザイドルジとチェウダ 12 は、ロシアのヤサク支払者を清朝に如何に引き付けるかに関する報告を連名で皇帝に上奏していた 13 。サンザイドルジが、セレンゲの准将との会見にシャグダルを帯同したのは偶然ではなかったのである。 これらの交渉は、ツォンゴルのタイシと主僧の日常的なロシアに対する忠実な奉仕の中で行われていた。ダムバダルジャーが言った脅威は深刻な危機であるゆえに、彼らはロシア皇帝に忠誠を示しつつ、密かに清朝と交渉を持ったのである。 また、全ての過程が、禁じられたロシアとの貿易を行っていたサンザイドルジ事件の調査と歩を一にしていた。サンザイドルジの周囲が皆、この違法事件に告発されているのである。その中には、ダムバダルジャーと交渉したハムバ・ラマ・シャグダルもいた。1765年秋、シャグダルはジョスト盟ハラチン旗のシレート・ジョー寺院へ派遣された 14 。これら全てにダムバダルジャーの決意が影響していたのである。 2. 一般のブリヤート仏教徒の立場 仏教信仰に対する一般のブリヤートの姿勢は如何なるものであったのか。文書館の庫倫?事大臣のフォンドには、ロシアからの帰順者に関する情報を記した史料が多く所蔵されている。 2.1. ジャムツォ事件(1777 年) 乾隆 42 年 3 月 7 日付の皇帝への上奏において、サンザイドルジは、シャンゾドバ・ダム 11 Г.Н.Румянцев. Архив засак-ламы Галсан Гомбоева. Улан-Удэ, 1959. с.15.12満洲官僚でサンザイドルジの顧問。13 МУ?ТА, М-1, Д-1, хн-223, л.14-22. 14 МУ?ТА, М-1, Д-1, хн-231, л.621-625
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2013/11/23中央ユーラシア歴史文化研究所研究会報告要旨 4チョイ・ラブジョイが来てあるブリヤートの逃亡者について述べたことを記している。この逃亡者はハラ河のシャビナル長だと称した。尋問に対してこの逃亡者は、ホリ・ブリヤート出身であること、名前がジャムツォで 29 歳であること、イルクーツク総督の徴兵指令によってオナガチという人の息子の代わりに兵役に送られたこと、兵役を受けた若者は髪を切られてバイカル湖に浸されて首に十字架をかけられたこと、自分は仏教徒であるため兵役にはいられずに仏教の師トンガラグ・シレート・シラブ、ブリヤート官吏リンツェイ・タイシらの言葉によって逃亡してきたこと等を述べた15。この報告の草稿版には、彼の師シラブが洗礼を受けても仏教を忘れぬよう戒を授けたこと、一昨年(1775 年)の 8 月に逃亡したこと、タイシや師と相談して「ゲゲーンの国」に行くよう命じられたこと等が記されている16。サンザイドルジは皇帝に、彼がハルハの遊牧に慣れたため、彼を引き渡さぬよう主張した17。皇帝は、3 月 25 日の上諭において、信用できる人を付けてジャムツォを北京に送るよう命じた18。 2.2. ポンツァグ事件(1778 年) 乾隆 43 年(1778 年)10 月 28 日、サンザイドルジは東部 2 アイマグの?倫の長であるエリンチンドルジとゴンチグツェレンから、クダリ?倫で捕縛された 2 人のブリヤート逃亡者に関する書簡を受け取った。その書簡には、彼らがヒロクの地に住むポンツァグとその妻ツェツェグであること、ロシアにおける増税から逃れてきたこと、偉大なるハンに帰順してゲゲーンに礼拝するために来たこと等が記されていた19。?倫の長は彼らをフレーに送付するよう命じた。10 月 28 日、彼ら 2 人はフレーで、官吏レブ、筆帖式ユンシャン、バダクシャンによって再び取り調べられた。その後、サンザイドルジは 2 人を北京に送るよう皇帝に要請した。当時、露清関係が悪化し、キャフタ貿易が停止されていたためである 20 。 この取り調べから、ポンツァグがアシバガト(ма.asibagat)・オトク出身であること、ロシア人がブリヤートの 1 家庭から年に銀貨 2.5 を徴収していることなどが分かる。フレーの支配者たちは、キャフタ貿易中止後のロシア人とブリヤートの関係に興味を持っていたようである。ポンツァグの供述では、ブリヤートの状況は悪くなり、多くの者が食料の資金を持たないとのことであった 21 。半年後の 3 月に、サンザイドルジは皇帝に、彼らを北京に送るよう裁可を要請した。 地方官と異なり、首都の官僚は非ロシア人のロシア帝国臣民によくない印象を抱いていたことが、以下の史料からわかる。そこには、「お前はロシア臣民なのになぜロシアの服を着ないのか?-これにポンツァグが答えるには、ブリヤートはロシア辺境で遊牧しています。ロシア人は我らブリヤートには拡大できず、私たちはロシアのことを知りません。我らブリヤートは皆モンゴル人です」と記されている22。これにも関わらず、北京の官吏は彼らを、従前のロシアからの逃亡者と同様に扱った。史料には「ポンツァグとその妻はロシ 15 МУ?ТА, M-1, Д-1, хн-324, л.10-13 16 МУ?ТА, М-1, Д-1, хн-2940, л.3 17 МУ?ТА, M-1, Д-1, хн-324, л.1318 МУ?ТА, M-1, Д-1, хн-324, л.1519 МУ?ТА, М-1, Д-1, хн-330, л.391-39320 Курц Г.Б. Русско-китайские сношения в XVI, XVII и XVIII столетиях. Харьков, 1929. с.31921 МУ?ТА, М-1 , Д-1, хн-333, л.292-29822 МУ?ТА, М-1, Д-1, хн-3036, л.12
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2013/11/23中央ユーラシア歴史文化研究所研究会報告要旨 5ア臣民である。以前、ジャムツォをロシア人の例に従って処置した。ロシア人の例に従い、彼らを四川の成都に送るべきである」23とある。結局、乾隆帝の上諭によって、乾隆 44 年(1779 年)5 月 19 日に 2 人は成都に送られた。以上の経緯から、上述のジャムツォとこのポンツァグが、八旗に編入され、家奴とされたことが分かる。ブリヤートの逃亡者が遠く中国内地に送られた理由は、ロシア側から逃亡者の隠ぺいを追究されないようにするためであろうと推測される。 ジャムツォ、ポンツァグの供述では、清朝統治下のモンゴルがゲゲーン(ジェブツンダムバ・ホトクト)の住む土地であり、それゆえ仏教が広まっている、と強調されていた。彼らは 2 人供ブリヤートの中でも下層の出身であるから、彼らの主張は一般のブリヤートの考えを反映したものであろう。 3. モンゴル性の要素としてのブリヤートにおける仏教 ハルハ部の代表者達が 16 世紀以降仏教徒になっていったのに対して、ロシア帝国支配下に入ったザバイカル地域では、仏教よりもシャマニズムの信奉者の方が多かった。しかし、仏教は宗教学的にはシャマニズムよりも発展し、これがブリヤートがロシアへの同化に対抗するのに助けとなった。このことが、1727 年以降、モスクワのキリスト教化政策に対してブリヤートで仏教が普及、発展した大きな理由の 1 つであろう。このことは、ブリヤートが洗礼を受けたブリヤートを「ロシア人になった(мо. oros boluγsan)」と表現することによく表れている。逆に、仏教徒である人はモンゴル人として規定される。 つまり、ブリヤートは、モンゴルの仏教の主たるジェブツンダムバ・ホトクトを信仰している限りにおいて、自分をモンゴル人であると見なしていたことになる。また、清朝もこれと同様に見ていた。 ブリヤートは仏教を、モンゴルのアイデンティティに関わる要素として知覚していた。また、それは清朝支配下に入ったモンゴル人も同様であった。ブリヤートは「ロシア人になる」ことを望まず、仏教を選択した。仏教は、彼らの「モンゴル性」を強固なものにするのである。 おわりに ロシア帝国は 18 世紀初頭にバイカル地域に地歩を固め、清朝との国境を策定した。これは、現地のモンゴル及びツングース系の人々の皇帝に対する忠誠の賜物であった。1689 年の条約の一項目には、ロシア当局は洗礼を強要しない、というものがあった。彼らは洗礼をロシア化と同一に見ていたのである。それゆえ、同化に対抗して、ブリヤートの支配階層は、意図的に仏教を選択し、結果として仏教の普及に協力した。清朝支配下の隣のモンゴル人が仏教徒であったため、ブリヤートにとっても仏教は彼らの「モンゴル性」を示すものになった。かくして、宗教的指導層が、仏教信仰に対するロシア当局からの脅威を感じた時には、清朝皇帝の庇護を求めようとしたのである。