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バトシーラー日記

あまり知られていない様々な真実の知識をお届けします


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権威が無い人たちへの犠牲で日本は瓦解する


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一方、弱者の生活に目を向け、これを中心に回る社会は経済から治安まで全ての要素が安定する。アメリカを例にして考えてみよう。

 奴隷解放以後の過ち

 アメリカの南北戦争は、奴隷解放という事業を成し遂げたが、精神的には黒人は奴隷のままだった。彼らは、ハーレムの中で惨めに暮らしていた。黒人は差別のため、まともな仕事に付けず、社会からの愛情には無縁だった。彼らに溜まった鬱積は、やがて数々の暴動や犯罪を引き起こした。その地域は腐敗した心を育て、犯罪多発という悩みをもたらした。

 これは非常にわかりやすい原因と結果である。弱い人々を虐げれば、一時は平穏でも、将来に問題を発生させる。白人社会は、力でそれを乗り切ろうとした。しかし、うまく行かないまま現在に至っている。

 もし逆に、奴隷解放以後の黒人達に、白人社会が親切を尽くしていたらどうだっただろうか。結果はまったく逆になったはずである。アメリカは今以上に繁栄し、平和で満ち足りた国になっていただろう。しかし、発言力の強い感情的な勢力のために、アメリカは棘の道を歩むことになった。

 彼らは、目の前に奴隷から解かれた黒人達が存在しているという「状況の意味」を悟らなかった。それは、神の与えた選択肢であり、「繁栄のチャンス」だったのだ。

 もし、リンカーンが生きていたら、彼はこのように述べただろうか?

 「諸君、国の繁栄の鍵は弱者救済にある。団結して内外の弱者を助けよう。」

 個人の業が国を救う

 もちろん、白人の中の親切な人々は、困った黒人達を援助していた。救われた彼らの喜びは神の知るところとなり、悪意の者が撒いた毒素を中和した。現代アメリカの繁栄は、こうした営みが支えている。

 では、古代の例を考えてみよう。

 弱者にも喜びのあったローマ

 恐ろしいばかりの殺戮を行い、地中海を震え上がらせた古代ローマにも繁栄の秘訣があった。自国民には非常に寛大であったのだ。歴代のカエサルは、民の歓心を買うことに注意を向けていたし、実際にそれは実行されていた。ローマ市民は小さい者(下層階級)でも潤っていた。

 「ローマの市民権が欲しい」

 当時の諸国民は、このように感じていただろう。公共設備、娯楽、日常の豊かな糧などは有り余るほどであり、奴隷にも余禄があった。

 当時の「奴隷」という概念は、今の解釈とはかなり違っている。それは、現代の「雇われ労働者」に近い。厳しい主人がいたにせよ、昭和初期の労働者の待遇と似ており、鎖につながれた囚人奴隷などではなかったのである。ただし、例外はある。ローマは戦争を数多く行ったが、味方になった人々には寛大だった。また、たとえ敵であっても、寝返った人々には援助を惜しまなかった。

 不満分子はいつの世にも、どこの地方にもいるが、こうした勢力ではなく、底辺で社会を支える「身内の弱者」をどう扱うかが重要なのである。ローマはこの点で賢く行動していた。

 切捨て社会の末路

 およそ歪の多い社会は、強者が弱者を見捨てる世界だろう。その社会には難儀が多く、敵も多くなる。それは、超自然の力に濁りが生じ、悪い方向へと傾くからだ。人間にはその力の流れは風のようにしか感じない。しかし、弱者を思いやらない社会は、その風に倒される。

 人に貧富の差は必ず生じる。全員を富める者にすることは決してできない。それが、社会の法則のようなものだからである。共産主義が破綻したのは、その法則を理解できなかったからだろう。貧しい者はいつの時代もどの社会にも存在し、富める者もまた同様である。  

 そうした世界の中で、人がどのように行動するかがその社会の将来を決める。強者が弱者を潤していれば、その社会は存続し、切り捨てるならそれは衰退する。ヒトラーユダヤ人排斥運動は、結局は「弱い者いじめ」だった。彼らが最初、社会の中の精神障害者や厄介者を「処分」した事実からそれが理解できる。ナチスは、弱者を自分達から切り捨てたかった。そうすれば、その民族はもっと強くなれると信じたのだ。しかし、実際それは逆の結果を生んだ。得たものは神の怒りであり、奈落への道であった。

 いつの世も、富める者が貧しい者を援助する姿は美しい。そして古今東西、そうした行動を常とする軍が勝利し、そうした国が勝ち残ってきたのである。非情の国は一時栄えても、いつしか衰退する。それは弱者切捨てが、神の最も嫌う精神態度であるからだ。

 不良債権処理としわ寄せ

 では、現在の政府の行う「金融改革」は、どのような結果を生んでいるだろうか?これは神の観点からは、「弱者切り捨て」であり、「弱い者いじめ」に見えるはずである。なぜなら企業のうち、弱い者にすべてのしわ寄せが集中しているからだ。

 中小企業は貸し剥がしによって衰弱し、実際に自殺する経営者も増加している。こうした状況が続く限り、日本の上にかかった暗雲は停滞するだろう。そしてその結果は、采配を振るった者の上に戻ってくる。彼は、神からの怒りがどんな感触であるかを、身をもって知るだろう。

 嘘をつかない政治

 「常夏の島、沖縄行き」と書かれた船が停泊している。これに、荷物を抱えた団体が乗り込んだ。しかし、心配になって前を通る船長に尋ねた。

 「この船は沖縄に行くのですね?」

 すると、彼は答えた。

 「そうです!」

 船は出航した。興奮して夜遅くまで遊んでいた人も、やがて眠りについた。しかし、真夜中過ぎに船が不自然に揺れている。それで、船員室にいる人に聞いてみた。

 「船は沖縄に向かっているのですね?」

 するとこう答えた。

 「そう聞いています。」

 「しかし、この揺れはUターンしているようですが?」

 「たぶん、浅瀬を迂回しているのでしょう。」

 それで、安心した人々は眠りについた。

 しかし、朝になってみると、海に氷が浮いている。
 乗客は仰天して走り回ったが、時すでに遅かった。
 その船は、しばらく後、北海の国に到着した。
 薄着で乗船していた乗客は、惨めだった。

 「政治家は国民に嘘をつかない」

 このような「嘘つき船長」の船に、誰が乗りたいと思うだろうか?しかし、乗る前にその心を読み抜くことは難しい。それは、その船長が堂々と嘘をつくからである。日本国民は少し前に、このような仕打ちを経験している。

 「大本営」は、最初から嘘で固めた組織だった。天皇の指揮で全ての体勢が動いている・・・と主張していたが、天皇は「イエスマン」に過ぎず、事後承諾の毎日を送っていた。この時、大陸進出も、国民教育も、外交も、将軍達が決め、行動後に結果を押しつけていた。

 垂れ流される多くの嘘を、国民は大まじめで信じていた。もしこの時、彼ら政治家に少しの良心があったなら、この国には良識が満ちていたはずである。少なくとも日本の外交は極端から極端に走る事もなく、あのような泥沼に沈むこともなかったはずである。

 しかし、勇ましい事が好きなタイプの指導者は、自分の「冒険心を満たしたい」と考える。未知の分野に憧れる。しかし、国民の目の前での「独走」は、すぐに横槍が入る。「独走」が知れると、台の上から蹴り落とされる。そこで、使われるのは「巧みな嘘」と「事後承諾」である。軍部はそれをフル活用した。そして、行く所まで行ったのだ。

 つまり、人々はそこに「独走」と「事後承諾」の政治を見いだすなら、すぐにもその道を引き返さねばならない。逆から言えば、政治家は国民を決して「騙さず」、「独走」もしてはならないという結論になる。それは、「現政府」には耳の痛い示唆であるに違いない。

 

 あの3月11日から、ほぼ1年たつ。被災者の気持ちを考慮せずに、天罰といったアホがいたが、その通り、そのアホに対する神罰であろう。それは為政者に対する神罰である。そのことに気づいただけで終わったからアホなんで、その後の被災者の支援が問題である。

 復興状況はどうだろうか?

 政府や大企業は自分たちのことしか頭になく、相変わらず弱い者いじめを止める気がないようだ。人類はじまって以来の最悪の事故を起こした企業は、責任を国家に押し付け、電気料金をあげることにしか余念がない自己保身に走っている。

 為政者は、そのような大企業の欲ボケたちに振り回されている。

 天は、死による弱者救済のために、また天災が必要となるかもしれない。

 つまり、為政者への罰は、天災となって現れるように思える。

 それは、もっと、神の声を聞きなさい、という戒めにも思われる。

 では、政治とは何なのか?

 端的にいうならば、弱者救済と強者の犠牲にあると思う。強き者は弱き者を助けるのが基本である。弱き者を助けることで、精神が磨かれるからである。

 さて、現代の日本はどうだろうか? 強者が犠牲になっているだろうか?

 大企業は多大な損害を受けている。これが天の声で罰である。

 これまで、大企業を助けるために、税金が使われてきた。銀行への公的資金救済などが代表である。挙句の末、バブル崩壊で、金融危機に陥った!

 弱き者を助けるという基本原則の逆を行っている。だから、神は、大企業から資金を取り上げるのである。基本原則を忘れた使い方をするのなら、取り上げるしかない。

 しかし、懲りない馬鹿は、失敗を隠そうと、更に詐欺に走る。

 そして、神の逆鱗に触れ、そのために、天災が起こった!

 詐欺を繰り返すなら、いっそのこと、経済体制を取り上げるしかない。人類のためにならないからである。

 天災兵器という噂もあるが、そのような兵器を使うように仕向けたのは、神の逆鱗でもある。

 懲りない馬鹿は、今度は、政府を私腹化しようとしている。政府を私腹化するのなら、神様は、今度は、国家をとりあげてしまわれるかもしれない。

 実際に、古代イスラエル王国は、とりあげられてしまった!!

 さあ、今求められているのは、神の声に耳を傾ける謙虚さである。

 そこで、またしつこく、例のサイトから引用してみる。()内は私見。

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  問題は指導者の『質』  

 もちろん、「お国の為に」という精神は、悪いものではない。
 指導者が哀れみに満ちた人であれば、問題は生じない。

 しかし今問題となっているのは、嘘と詐欺と裏切りで固めた指導者ではないか?
 彼らが、「忠実な民」を手に入れたら、何を行うだろうか?

 現在は、「そこ」が問題視されているのだ。

 立派な指導者を見れば、言われなくても民はそうした精神を育てて行くだろう。

 こんな法則がある。

 「『愛国心』は、指導者が立派であれば勝手に育つ」

 良い手本さえ示せれば、道徳を「無理」に押しつける必要はない。

 『小道具』や『小細工』を使ってでも育てる『愛国心』というのは、むしろ有害なものとなる。

 それは、「マインド・コントロール」と呼ばれる。

  繰り返される「靖国利用」

 そのようなわけで、「靖国」に対する為政者の行動は、精神を推し量る「秤」となる。

 過去に大和民族を一丸としてまとめ、奈落の底へと落とし込んだ力は、「靖国の求心力」から出ていた。現在これを、為政者が「もう一度利用しよう」と企んでいる。

 「平和憲法」を曲解し、「圧倒的世論の反対」を押し切って自衛隊イラクという戦場に派遣した政府の態度は、その腹の内を語っているではないか。

 『帝国回帰』を・・・と。

 この状況を見て、聡い人はこう叫ぶ。

 「為政者の『靖国利用』には危険な意図がある」

 (靖国神社偶像崇拝に思える。ヤハウエを祀っていないからで、伊勢神宮こそが正統だからである。)

 「無知な民を、再び誤導させるな」

権力者への抵抗や反発などの自由を求める人間の権利に対して権威主義に靡いて妨害する卑劣な輩などが先の大戦を引き起こしたことは歴史を研究すれば誰にでも明らかになる。

 このような権力に阿て弱者を虐げるような弱い者いじめの腐敗堕落した精神は一体どこからくるのか?

 自分だけは特別というような選民意識がどこかに巣食っているように思えてならない。とどのつまりエゴイズムの延長である。


本物の霊能者とニセ霊能者の見分け方
スピリチュアリズムの使命の一つに、正しい霊能者とニセ(偽)霊能者を見分けるということがあります。霊能者は本来、“霊の通路”になるという大切な役目を背負っています。その役目を通じて、いまだ霊界や霊の存在を知らない人々に、霊的な事実を伝えることができるのです。その意味で霊能者には、「神の道具」としての大きな責任が与えられています。ところが実際には、多くの霊能者が神の道具としての使命を果たすどころか、逆に神の道を妨げ、人々を正しい道から遠ざけるといった忌々(ゆゆ)しき問題を引き起こしています。

霊能は、自分自身の利益のために与えられた特権ではありません。自分の利益のために霊能を用いることは許されません。霊的な能力は、一般の人々には特別に素晴らしい能力のように思われていますが、霊能それ自体に価値があるわけではありません。それをどのように用いるかによって、霊能を持ったことの価値が決まるのです。霊能力の使い方によって「本物の霊能者」か「ニセ霊能者」か、「優れた霊の指導を受けられる霊能者」か「低級霊に支配される霊能者」かが決定されるのです。世俗的で物欲的な霊能者には、必ず低級霊が働きかけています。世間一般に霊能者として名前が知られている人々(特にテレビや本の出版などでその名前が知られるようになった人々)の大半は、低級霊に翻弄されているのが実情です。

スピリチュアリズムに導かれ霊的真理を知ることのできた私達は、ニセの霊能者を見抜いて、世間の人々が彼らに近づかないように、また騙(だま)されないように警告を発する責任を持っています。そのためには、ニセ霊能者を的確に見とおす判断力を身につけなければなりません。霊能者の善し悪しの判別は、「語る言葉の内容」「態度」「実生活」の三つの点からなされます。

次にこの三つの点から、具体的に“ニセ霊能者”の見分け方を学ぶことにしましょう。

1.語る言葉の内容から
2.態度・様子・雰囲気から
3.日頃の生活態度や、これまでの生活態度から
すでに霊能者・霊媒者としての道を歩んでいる方々へ
1.語る言葉の内容から

「罰(ばち)が当たっている」などと言う。
「霊がとり憑いている。お払いをしなければいけない」などと言う。
水子が祟(たた)っている。水子供養をしなければいけない」などと言う。
「先祖が地獄に堕ちて苦しんでいるために、子孫にいろいろな悪いことが起こっている」などと言う。
「問題の解決には、特別な先祖供養が必要である」などと言う。
「霊の障り(霊障)がある」などと言う。
「方角が悪い」「星回りが悪い」など、占いじみたことを言う。
「あなたには何か悪いこと(不吉なこと)が起こるような運命がある」とか、「このままだときっと家族の誰かが病気になる」など、不安を与えるようなことを言う。
将来について、予知じみたことを言う。
「あなたの背後霊は誰々である」などと背後霊の指摘をする。
「あなたの前世は誰々で、どんなことをしてきた」などと前世の指摘をする。
「私があなたの悪い因縁を切ってあげましょう。あなたに代わって私が祈って解決してあげましょう。私が霊障を取り除いてあげましょう」などと言う。
あまりにも霊的真理からずれたことを言う。(ex.あなたは何十回も生まれ変わっています/あなたの前世は動物でした/あなたは立派な守護霊を付けなくてはいけません)
世俗的、日常的なことを質問すると、すぐに答える。
財運、運勢、未来の出来事、恋愛・結婚運などの質問に対して、不安を与えたり、逆に有頂天にさせて喜ばせるようなことを安易に言う。
以上、リストアップしたようなことを平気で口にするような霊能者は、低級霊に憑かれていると思って間違いありません。霊能者が語る内容の間違いやいい加減さは、皆さんが「霊的真理」をしっかりと知っていれば容易に判別できるはずです。近い未来の予知とか、死んだ家族のこと、身内のことを言い当てるのは、低級霊の得意とするところです。霊能者がそうしたことを正確に言い当てたからといって、驚いたり動揺してはなりません。その程度のことは、低級霊に支配されたニセ霊能者であっても簡単にできるということを知っておくべきです。低級霊はわざと部分的に本当のことを言って地上の人間を信用させたり、また逆に不安に陥れたり、混乱させてからかったり、イタズラをしようとしたりするのです。

2.態度・様子・雰囲気から

周りの人々を威圧するような言い方をしたり、煙に巻くような言い方をする。
態度が尊大・傲慢であり、謙虚さからほど遠い。また雰囲気が高圧的で、一方的に周りの人々に命令調で話をする。
自分自身の背後霊が誰々であるとか、自分の前世は誰々で、何をしていたなどと自慢する。(その大半は作り話であるが)
今まで自分がしてきた修行を自慢する。(ex.荒行・断食行)それによって、さも自分の霊性が高いかのように誇示しようとする。
自分の答えに対して質問をされると怒りだす。「自分の言うことを無条件に信じよ」という態度を取る。
自分の感情をコントロールできず、すぐに怒ったり、絶えずイライラして落ち着かない。
言うことがコロコロと変わって、先程(以前)の話と全く矛盾したことを平気で言う。
ここに挙げたような態度・様子・雰囲気が見られる霊能者は、完全に低級霊に翻弄されていると言ってよいでしょう。そうした者には初めから近づかないようにすべきです。仰々しいお祈りをしたり、霊にお伺いを立てるなどと称して、気違いじみた読経をしたりするような霊能者も同様です。また権威付けのために特別な服装をしたり、祈祷室に多くの崇拝物・仏像・掛け軸などを並べているような霊能者の大半も、低級霊に翻弄されていると思って間違いありません。

「目を見張らせるような現象ばかり見せて“珍しがり屋”をよろこばせている霊媒は、知的にも道徳的にも低級な霊のおもちゃにされています――名前は何とでも名乗れるし、見せようと思えばどんな霊の姿でも見せられます。そうやって人間を騙してはよろこんでいるのです。」
『インペレーターの霊訓―続「霊訓」』(潮文社) p.151
「一般に予言者と称して災害や不幸を安直に予言している人間は、イカサマ師でありハッタリ屋だと思って間違いありません。」
霊媒の書―スピリチュアリズムの真髄「現象編」』(スピリチュアリズム普及会) p.267
「見栄が強く、能力も知識もないのに、あたかもあるように見せかける――それが他人のものをのぞき見する悪趣味を生むのです。この種の人間には(邪霊集団の手先にされる)危険がつきまといます。」
『インペレーターの霊訓―続「霊訓」』(潮文社) p.148
「根本的に邪悪性の強い人間には邪霊がついていますから、そのアドバイスも決して感心したものではありません。」
霊媒の書―スピリチュアリズムの真髄「現象編」』(スピリチュアリズム普及会) p.271
3.日頃の生活態度や、これまでの生活態度から

その人間の語る内容と態度から、本物の霊能者かニセ霊能者かのおおよその判断はつきます。しかし霊能者と自称する人間の中には、立派なことを語り(愛・神・霊界・永遠の生命など)、また一見人格者のように振る舞い、にこやかな態度をとる偽善的霊能者がいます。新新宗教の教祖にいるような狡猾なタイプの人間が霊能者にもいるということです。まさにペテン師とも言うべき霊能者がいるのです。

最近では霊的真理が普及し、身近な書物からも真理に触れることができるため、霊能者の在り方も以前と比べ巧妙になってきています。お世辞を連発したり、また逆に不安をかき立てるような言葉を巧みに用いて相手の心をつかんだり、霊的真理を部分的に語って相手を信用させようとします。近頃では、こうしたタイプの霊能者が多くなりました。あまりにも見え透いたニセ者では、現代には通用しないからです。従来のような単純な脅し文句やデタラメを言っていては、相手を騙すことはできません。羊の皮をかぶった狼にならなければ、霊的知識が広まりつつある日本では、相手にされないことを彼らはよく知っているのです。

会った初めからニセ者と分かるような霊能者は、さして問題はありません。簡単に見分けがつくからです。しかし今述べたように巧妙にカムフラージュされたペテン師的霊能者・詐欺師的霊能者を見抜くことは、とても厄介です。この巧妙さゆえに、実際、多くの人々は見事に騙されているのです。親切そうに人生相談にのるポーズを取りながら、結局、多額の金をせしめている霊能者がよく見られますが、彼らは、まさにこのタイプのニセ霊能者なのです。

こうしたペテン師的霊能者・詐欺師的霊能者を見抜くのは一見難しいようですが、実は次のような点を押さえていれば、それほど難しいことではありません。

ニセ霊能者・ペテン師的霊能者の見極めは、相手の日常生活の様子やこれまでの生活態度を観察することで明らかにされます。相手の生活態度を長い時間にわたって見ることです。長期間にわたっての行動こそ、その人間の“本性”を的確に表しています。その霊能者が何によって動かされているのか――金銭欲か、名誉欲か、純粋な奉仕性によるのかは、5年、10年といった単位で見ると容易に知ることができます。なかでも最も確実な判断基準となるのが「金銭」です。その霊能者がこれまでお金に対してどのような態度を取ってきたのかを、周りの人から聞くことによって、人間性の本質がはっきりと分かるのです。

一般に人間は大きく、「霊的なものを優先するタイプ」と「物質的なものを優先するタイプ」の二つに分けられます。もしある霊能者が霊能を利用して金儲けをしているとするならば、それは、その人間が霊(心)より物質的なものを優先していることを証明しています。たとえ、その霊能者が心の大切さや霊的世界のあることを語っていたとしても、その人間的本質は物質中心であることを示しています。地上の大半の人々は「肉主霊従」という物質中心・肉欲優先の状態にありますが、大部分の霊能者も同様の状態に置かれています。霊能という“神聖な道具”を物質的・肉的欲望追求のために利用していることにおいて、一般人より、さらに醜い状態に堕ちていると言えます。

最近では道徳的な教訓や、時にはスピリチュアリズムの霊的真理を語る霊能者が増えてきました。しかし、そうした人物が霊能者としての歩みを通じて、(誠実に働く一般の人々と比べて)莫大なお金を儲けているとするなら、ニセ霊能者であると判断しても間違いありません。自分の物質的本性を巧みにカムフラージュするために、霊的真理を語るとするなら、その罪は本当に重大と言わなければなりません。スピリチュアリズムの霊的真理を利用すること、それを自分の金儲けのために悪用することについては、霊界ではそれ相当の償いの道を逃れることはできません。死後は、何も知らない人々よりも、はるかに大きな償いの道を歩まざるを得なくなります。

愛の大切さを語り、真理を語りながら、結果的に普通一般の人々よりも桁(けた)外れの収入を得ているとするなら、わずか一回一時間そこそこの相談で、数万円(5万、10万円)もの金銭を要求しているとするなら、その霊能者は間違いなくニセ者と判断することができます。口先の言葉、一見謙虚に映る態度の裏に潜むニセ者の“本性”を見抜くことが必要なのです。

さらに本物の霊能者であるか、ニセ霊能者かの見分けは、その人が日常生活において自分自身を厳しく律しているかどうかという点において明らかにされます。なぜなら霊能者は普通の人以上に“低級霊”に影響されやすいため、絶えず自分の心を高める努力が必要とされるからです。しかし世間の大半の霊能者は自分に甘く、自己に厳しく臨んでいないようです。自己コントロールこそ霊能者にとっての「生命線」であることを知らずにいます。そして現実的に、道を踏み外しています。

なかには、人助けをしたいという純粋な動機から霊能者への道を歩み始めた人もいることでしょう。しかし自分を厳しく律することができないならば、いつの間にかその純粋さは失われ、物欲の虜(とりこ)となり、低級霊に翻弄されるようになってしますのです。やがて自分の意志に反して、低級霊に支配されたニセ霊能者に堕ちてしまうのです。

まともな霊能者、本当の「霊界の道具」と言える霊能者が地上においてほとんど見られないのは、こうした理由によります。“本能・肉欲”だけに翻弄されてしまっている醜い霊能者が大半と言っても過言ではありません。

繰り返しますが、ある霊能者が本物かどうか、ペテン師・詐欺師的霊能者でないかどうかの見極めは、「金銭」という物質欲の指標によって明確に判断されます。霊能力が金儲けの手段となっている場合には、その人間がいかに口先で立派なことを言っても“ニセ者”であることは明らかです。

日常生活が乱れ、飽食の限りを尽くしているといった本能剥(む)き出しの霊能者、男女関係が乱れてSEXに関するスキャンダルが絶えない霊能者、衣食住が極めて派手な霊能者も、すべて低級霊に利用されています。「水子供養が必要だ、先祖供養をしなければ幸せになれない、霊障がある、先祖の祟りだ、お守りグッズを買わなければ幸せになれない」などと煽って、その実、暴利をむさぼる霊能者は、低級霊にとっては格好の道具なのです。

本当の霊能者とは、ひたすら与えられた能力を人のために用いる人のことです。自分自身に厳しく、「霊界の道具」に徹して、自分を一切表に出さない人のことです。本物の霊能者ならば、もし目の前の人の災いが悪霊によって引き起こされているのなら、黙って取ってあげるはずです。本当にお守りグッズがその人を低級霊から守るとするなら、それをタダであげるべきなのです。

すでに霊能者・霊媒者としての道を歩んでいる方々へ

このニューズレターの目的の一つに、すでに霊能者・霊媒者として歩んでいる方々に、自己チェックを促すことがあります。それによって霊能者としての正しい姿勢を自覚し、本物の「高級霊の道具」として再出発していただきたいということです。このニューズレターによってショックを受け、恥ずかしいと思われた霊能者の方々もいらっしゃることでしょう。なかには強い自責の念にかられ、身の置き場もないように感じられた方々もいらっしゃることでしょう。「このままではいけない、このままでは自分は必ず低級霊の罠(わな)にはまってしまう、何とか今からでもやり直そう」と思えた人は幸いです。

先にも述べましたが、霊能者であるということは、それ相応の責任を負うことなのです。霊能という特別な能力を活用して、多くの人々を正しい世界へと導くことができる特権が与えられているのです。幅広く人々に奉仕する道が与えられているのです。それは霊的観点から見た時、本当に恵まれた立場を与えられたということなのです。そうした天の恵みを生かすためには、一般の人以上に、常に自分自身に厳しくあらねばなりません。霊的自己コントロールの努力が絶えず要求されます。霊能者は常に自分自身を、この世の“欲”から超越したところに置かなければなりません。あなたがもし本当に霊界の道具に徹し切ろうと思うならば、自分の利益を後回しにして、常により多くの人々のために、自分の人生と生活を捧げなければなりません。あなたの心が純粋である限り、霊界の人達は決して、あなたを飢えさせるようなことはしないはずです。

率直に言って、これまで霊能者を名乗ってきた方々の大半は、高級霊の認める霊能者のレベルには至っていませんでした。しかし今その間違いに気づき、再度ゼロからの出発をなそうと決心するならば、今日に至るまでの歩みは、すべて必要な準備であったことになります。あなたに純粋な再出発を促すための道であったことになります。もし、あなたが今後、正しい霊能者としての歩みを始めることを決意するならば、これからの人生には、予想もつかない程の多くの“貢献の場・働きの場”が与えられるようになるはずです。

「決まりきったことです。生活面で立派であればあるほど霊能も立派になります。自分の何かを犠牲にする覚悟のできていない人間にはロクな仕事はできません。」
シルバーバーチの霊訓(4)』(潮文社) p.171
「過去はもう過ぎ去ったのです。これまでに犯した間違いはお忘れになることです。皆さんは間違いを犯し、それから学ぶために地上にやって来たようなものです。過ぎ去ったことは忘れることです。大切なのは今現在です。今、人のためになることをするのです。」
シルバーバーチの霊訓(9)』(潮文社) p.193
一方、このニューズレターを読んで、反発を持たれた方々もいらっしゃることと思います。どのような考え方をするのも自由ですが、そうした態度は、高級霊からの“警告”を無視したことになります。私達は自分のなした間違いについては、結局いつかは自分自身で償わなければなりません。自分でその責任を負わなければなりません。人は騙せても決して騙すことのできない高級霊が、常に私達の心の中を見ていることを忘れてはなりません。神の慈悲を語り、真理を語れば、地上の人間を騙すことはできるでしょう。しかし決して、自分の心を欺(あざむ)きとおすことはできないのです。潜在意識の中にしまわれた“本心”は、霊界に行った時点において、すべて暴露されることになります。地上での不正は死後、必ず後悔と苦しみという形で返ってくるのです。

「相応しくないと思える人が霊的能力に恵まれていることがよくありますが、それはその人にとって必要だからであって、それを使用することによって人間的に向上することを目的として授けられているのです。」
霊媒の書―スピリチュアリズムの真髄「現象編」』(スピリチュアリズム普及会) p.201
――その霊能の使用を誤った時は、それ相当の報いがあるのでしょうか。
「倍の報いを受けます。普通の人より多くの啓発の手段を授かっているからです。目が見えるのに道を間違える人は、目の見えない人が溝に落ちるのとは別の次元の裁きを受けます。」
霊媒の書―スピリチュアリズムの真髄「現象編」』(スピリチュアリズム普及会) p.201
「万が一にも不純なるもの、不正なるもの、臆病あるいは怠惰の要素を心に宿すようなことがあれば、あるいはもし神のみに帰すべき栄光を私(わたくし)せんとする傲慢無礼を働くようなことがあれば、さらには又、俗世への迎合、高慢、不純なる動機を抱くようなことがあれば、その時は神の道具として選ばれた使命によって恩恵を受けるどころか、絶好の成長の機会を無駄にした不徳によって、大いなる害をこうむることになります。」
シルバーバーチの霊訓(11〉』(潮文社) p.40
地上は失敗から悟りを得る所です。間違いを犯してしまうのは仕方がないことです。問題は間違いに気がついた時、どのように自分を正していくか、ということなのです。金銭欲の渦巻く流れを断ち切るには、これまで作り上げてきた全てのものを、残らず捨て去るほどの勇気が必要とされます。「目をつぶって裸になる、ゼロからやり直す」――そうした大胆な決意が求められます。これまでの間違った霊能者としての歩みを正すには、それ以外の方法はないのです。時には、思い切って霊能者という立場を止めることも必要となるかも知れません。霊能者という立場にしがみつく必要などどこにもありません。自分の魂が汚され最も大切な宝を捨てることになるよりは、霊能者の立場を捨てる方がずっと賢明な生き方なのです。

「野心や我欲のために才能を悪用する者、あるいは自惚れ、独善、軽率さといった欠点によって、せっかくの霊能を台なしにしかねない者には、霊団から折あるごとに警告が発せられます。が、残念なことに、そうした霊能者ほど自分には関係ないと思うものです。」
霊媒の書―スピリチュアリズムの真髄「現象編」』(スピリチュアリズム普及会) p.202
霊媒としての仕事は(使命をもつ霊団によって)選ばれた者以外は勝手に始めてはなりません。選ばれた者ならば霊団による守護があります。そうした霊媒にかぎって安全と言えます。それも、誠実にして真摯な心がまえで“神の仕事と栄光のために”行うとの認識があって、初めて言えることです。自己中心の考え、いかなる形にせよ“小我”にとらわれることから生じる邪心――見栄、自惚れ、野心等は霊性を汚す致命的な誘惑です。」
『インペレーターの霊訓―続「霊訓」』(潮文社) p.149
もし、あなたが今後も霊能者としての立場で神のために働きたいと願うならば、次に述べることを、強く心に留めておかれるべきでしょう。まず何よりも、霊的真理をしっかり学ぶということです。なぜなら、それがあなたを低級霊から守る最大の楯となるからです。絶えず霊的真理を読み、高級霊と触れ続けることが必要です。そして次に、その真理に自分自身をそわせる謙虚な態度が必要とされます。霊能者がもし「霊界の道具」以上の立場に立とうとすれば、必ず低級霊の餌食となってしまいます。そうした“利己心・自己顕示欲”に駆られた者は、低級霊と対等に戦うことはできません。高級霊のサイドに身を置きその守護を得られた時のみ、低級霊の接近をはねのけることができるのです。そうでない限り、いつの間にか低級霊の思うままに操られるようになってしまいます。また霊能力それ自体を、特別に価値のあるものと思ってはなりません。霊能力は人々のために用いてこそ価値を持ちます。自分の利益のためにそれを用いる時、その人間は大きな負債を負うことになります。自分の傲慢な思いに負けそうな時は、あなたは思い切って霊能者の立場を止めるべきです。金銭に対する誘惑に負けそうな時は、潔く霊能者の立場を捨てるべきなのです。

霊能者には、普通の人以上に厳しい自己克己の努力が必要とされます。霊能者は普通の人以上に低級霊の働きかけを受けるからです。低級霊の働きかけをはね返すのは、あなた自身の健全な心以外にはありません。正しい霊能者の修行とは、心の修行(高い心境を保つための霊主肉従の努力・自己コントロールの努力)のことなのです。一時的な荒行や、寒中の滝行など、低級霊との戦いの現場では何一つ力を発揮しません。そうした肉体行は、その場かぎりの緊張状態をつくれば誰もができることであり、単にサイキックレベルの能力を引き出す以外の何物でもありません。

霊能者にとっての修行とは、自分の心を正して霊界の良き道具となることです。高級霊が働きかけることのできる純粋な道具になることを、常に目指すべきなのです。そうした“霊的努力”を日常的に継続することこそ本当の修行なのです。自分自身に厳しさを持てない人は、今すぐ霊能者を止めるべきなのです。

人類の霊的向上のために役立つことのできる「真の霊能者」になるためには、スピリチュアリズムの真理を学び、それを全ての指針とすることが必要とされます。本物の霊能者になるための道は、それ以外にはありません。

「大霊は霊媒自身の娯楽的趣味のために能力を授けるのではありません。ましてや低俗な野心を満足させるためではさらさらありません。あくまでも本人および同胞の霊性の発達を促進するために授けているのです。」
霊媒の書―スピリチュアリズムの真髄「現象編」』(スピリチュアリズム普及会) p.178
「一言にして言えば、霊的存在である人間が霊的影響力の流入口を開く――それが霊媒能力です。あくまで霊的な目的のために使用しなければなりません。営利目的のため、単なる好奇心の満足のため、あるいは低劣な、無意味な目的のために使用してはなりません。」
『インペレーターの霊訓―続「霊訓」』(潮文社) p.123
「生活態度が立派であれば、それだけ神の道具として立派ということです。ということは、生活態度が高度であればあるほど、内部に宿された神性がより多く発揮されていることになるのです。日常生活において発揮されている人間性そのものが霊能者としての程度を決めます。」
シルバーバーチの霊訓(4)』(潮文社) p.171

 

知的障碍者などの生まれつき障碍をお持ちの方は、障碍のある人生を通して神の子である自分を思い出し、自分の人生を創造しようとしている勇気ある存在だと私は思っています。彼らは知的に障碍があり思考することが苦手てあると私たちは考えてしまいますが、思考しないとはより感覚的に生きているということではないでしょうか。健常者と呼ばれる私たちは自分の思考によって苦しみや困難なことと呼ばれるものを創り出しています。そして感覚的、感情的に生きることはいけないことのように感じ生きています。
障碍者と呼ばれる彼らは健常者が感じるような苦しみを感じているのでしょうか?同じ場所で生活している人が同じ意識で生活しているとは限りません。異なる意識状態であることが人生にコントラストを創り、本来の自分を思い出すことに貢献してくれています。障碍者の方は思考しない分、より純粋な喜びを感じ取り、純粋に喜びを表現しています。それは健常者には恥ずかしいことと感じるような表現だろうと彼らは純粋に喜びや悲しみを表してくれます。その姿は彼らなりの精一杯の表現で力強さを与えてくれます。忘れている何かに語りかけるものがあります。
地球規模のアセンションが進めば障碍者をとり囲む関係者の意識が上昇し、波動が上昇する。喜びの波動が増えれば障碍者もそれを感じ、より純粋に喜びを受け取りまた表現できるのではないでしょうか。
私たちは一つです。繋がりあい離れることはありません。相手も私であり、彼らの中に私を発見することができます。だからこそ私のアセンションはすべてに貢献し、彼らのアセンションは私のアセンションの助けになります。
生意気ながらコメントさせていただきました。感謝。


動物や植物の世界で「生きる意味がない、無能だ」というのは無いですよね。
結局人間が作り出した「常識や枠」の中だけでフィルターをかけているだけなんだと思います。
正直私からしてみたらすごく低レベルでくだらない物差しだと思います。

発達障害 うつ病 ひきこもり ニートなどは現在「社会から逸脱した者」として捉えられている感が一般にあると思います。
ですが、そこで大切なのが個性や、その人が特有にもっているもの。
「常識」からするとそれらは不必要あるいは危険なものと思われがちですが「生き物」としてみたら、それらは大事な役割をもっています。


例えば彼ら(発達障害 うつ病 ひきこもり ニートなど)に共通すると思われる「敏感さ 繊細さ 純粋さ etc,,,」などは「生き物」として大事な要素だと思います。
それがあるからこそ「他の人の痛みや苦しみが分かる」のです。
今はそれがすぐに役に立たなくても近い将来役に立つかもしれないのです!
だからそういった大事なエッセンスを伸ばして、高めていってほしいのです。
悪い言い方をすれば、「リア充にはできない」あなたがた独自の「使命 仕事」につながると思います。
ポイントは「今はまだ使わない能力」かもしれないということです。
「今すぐじゃなきゃ意味ないじゃん!」と思い悔やんで「自殺してしまおうか」と思う人もいると思います(私がそうでした)が、もう少しだけ耐えましょう!
少なくとも2012年12/21~12/23までは(アセンションすると言われている時期です)


「意味のない生物なんていない」のです!
セミだって、たったの2週間羽ばたくために何年も土の中にこもっているではありませんか?

我々は「純粋」であるがゆえに真実が無意識にわかっているのだと思います。
リア充」はある意味「常識に洗脳された者たち」。ある意味かわいそうなんです。
「純粋な人」は現在の社会ではバカにされたりすることが多いです。
でもそういった「自分特有の個性」を信じて生きましょう!
ゴールは目の前です!
私たちは「選ばれし者」なのです。


まあ、世の中で活躍されている方をみな視たわけでないので、なんともいえませんが。

そうそう、そういえば、発達障害といわれたお子さんが、自然の精霊の魂だったことがあります。

 

昨今、人種差別問題が、浮上している。勿論、人種差別問題を放置したままでは、人類は発展も進化もできないことは確かであろう。

 そこで、人種問題を、神秘学で考えてみたい。

 人種の定義ほど曖昧なものはないだろう。現代の人種は、唯物論からきていると断言できる。姿や形、血統の法律的解釈、全ては幻といってよいだろう。神秘学で解釈すると、現代の人種の概念ほど、人種という意味をなしえないほどの、殆ど同列な意味を、差別化しているだけだという。

それは神秘学が、人類の歴史を解き明かしているからであり、人種のもともとの概念は、古代アトランティス期の人類の存在に起因するという。つまり、古代アトランティス人に対して、ようやく当てはまる概念であって、アトランティス期からみれば、現代人は、みな同種の存在だという。

それは神秘学が、精神、魂の開発、能力から、その開発や能力を目的とするために、差別化するのであって、少なくとも、所持している形態や外見の優劣を競うような代物ではないという考え方にある。

人種の問題は、魂の開発がどの段階にあるのか?でしかない。

それゆえ、古代アトランティス人からみれば、現代人の大半は、皆、第5根幹人類の古代アーリア人の末裔である。古代アーリア人が、秘儀の文化を伝えるために移住したのが、土地とともに定着し、いわば土地に根付き、飼いならされるように溶け込んで、いまの形態が出来上がったという。その土地の特色が、アーリア人にもたらされ共同作業で、いわば融合し、現代人ができたといえる。だから、現代人の場合、いま住む土地を離れて住むことは、多くの場合、人体の障害を生じるようになり、その子孫は途絶えがちになるという。

ある意味、それぐらい、土地に執着をもち、唯物的思考が身についてしまったわけである。本来、魂は何の執着ももたない、性差もなく、いわば、無や空という存在だといわれる。だからこそ、体験することができるのである。

無や空でなければ、体験することに魅力を感じることはないだろうし、魂自体が変化することはないだろう。無や空の魂が体験により、穢れてくるといってよいだろう。だから常に、この世の泥のなかで、泥の付着を、日々洗っていかなければならない。

なにより大切なことは、人間は、本来太陽の子であって、この地に暮らすのは、人生体験をして、魂を磨くことが主眼なのであり、その土地や人間に安住することではない。地球に、進化の舞台を提供してもらっている存在なのであり、実際、人間は、数千回ほど輪廻転生をしており、あるとき、ある場所に生活することは、魂の体験を積むことに意味があり、その存在に執着することではないのである。

そういうわけで、輪廻転生から考えると、本来、とるに足らない人種問題や国家問題に固執したり、地位や金銭を求めることこそ、自らのエゴを野放しにし、放縦にしている自我そのものを表し、魂の堕落を、そこに見い出すだろう。

魂の輪廻転生の法則からいえば、魂は霊を観照し、高次の自我自らが、常に向上を求めるので、堕落した要因を生じるであろう肉体には、受肉しないという。だから、1人の人間が、進化の遅れた動物の肉体に、転生することは、本来、ありえないのである。しかし、堕落した魂には、執着心が容易に生じえるので、続けて同じような肉体や、或いは進化の遅れた動物に転生することも皆無とはいえないが、それはもはや進化の法則を逸脱しているというような、いわゆる悪魔の部類に属するといわざるをえないだろう。これが悪霊の存在ともいえる。

そういう意味では、魂が、何度も進化という面で同じような人間に転生するのは、あまり好ましい状態とはいえないだろう。

だから、ある意味、現代人のなかに、異常に保守的で国家主義、あるいは人種主義というのは、魂の不健全な転生を意味するか、その行き詰まりを学習するために、転生しているともいえるだろう。

神々は、満遍なく他を自ら照らすに足る魂や、真実をあらゆる立場で捉え、自由な思考を促進させる体験を、生じるように配慮しているのである。それは、神々が、人間であったときに、自らが体験したことなのであるのだから、かって辿った道として、理解できるのである。

人間がいかに賢くあろうとしても、神々はすでにその段階を通過してきているという点において、全てが見通され、その賢さを上まわっているのである。というよりも、人間の賢さのなかに、神々の配慮が行き届いているのが真相であるようだ!


諸悪の根源は差別思想にある。ほとんどの宗教が金儲けとこの物質界の支配の道具となっているが、それも詐欺の一種で民を見下し馬鹿にした差別思想から、民衆を欺き騙すことに端を発している。

 とっくにデフォルトしているのに、税金をつかって誤魔化して、この物質界で上位に君臨しようとも、死んでしまえば最底辺の地獄に舞い戻るだけなんである。

 やっていることはインチキばかりで、嘘や詐欺で、良心をどんどん失いアホバカになっている。

 さて、自称ユダヤ人がニセモノなのは、十戒で禁止されている金貸しをやっていることでも明らかである。

 金貸しというのは十戒にも、イスラムの教えにも、キリストにも禁止されている悪魔の商売だからである。

 イスラム教では金貸しの禁止は有名で、ギャンブルでさえも禁止されているし、十戒では隣人の家を貪ってはならない、偽証してはいけない、更に盗んではいけないなどの禁止事項から、結局金貸しは、本来同等ではない人間の生命を金銭的にやりとりする人身売買につながるので、禁止されているし、キリストは神殿で金貸しをしていた連中を神殿を穢すものとして追放した。

 そういう連中は宇宙でも神界(天国)から追放されるという譬えなんである。金銭なんてものは地獄でしか通用しないものである。
 
 つまり、金銭は物質界での一種の通信手段みたいなもので、困っている人を助けるのが当然で、情報を貯めこんだりするのは厳禁というわけなんである。

 だから、東洋の価値観では金銭は不浄なものとみなされてきたが、逆に西洋では金銭は富をもたらすものと勘違いされてきたようである。その大きな勘違いは、唯物論といえるだろう。

 唯物論の申し子の西洋文明はギリシャ問題でもわかるが、いま破局を迎えつつある。振り返ってみると、西洋文明は階級差別や闘争や人殺しや戦争をもたらすもので禄でもないものだったように思われる。

 西洋文明が潰れるのは自業自得だろう。現にいまでもインチキをして人の生命をカネで買おうとしているわけなのだから。西洋文明は唯物化されたのだから、その物質が壊れるのは当然の成り行きである。

 嘘を嘘で塗り固めても嘘が益々酷くなっていくだけである。西洋人の精神はカネで買収されてしまったからである。株価などに一喜一憂して人生を台無しにする悪魔の奴隷を大量生産してきたし、性懲りもなくいまも続けようとしている。無間地獄である。

 ギリシャ問題とかけて、老婆の厚化粧ととく、そのこころは、中身がわからずに塗れば塗るほどひび割れて崩壊する。もう西洋文明は老婆の厚化粧みたいなもんであろう。

 そこで西洋文明を救うのは東洋文明しかないと思われる。東洋にはまだ精神が残っているからである。

 江戸っ子は宵越しの金をもたなかったといわれている。実際はどうだったのかはわからないが、その金銭への執着のなさが美談になっている。

 この物質界への執着のなさが、粋の文化をつくったものと思われる。

 粋は唯物論では意味不明のものだろう。というのも粋とは、恐らく「生き(いき)」であり、別名、粋(すい)ともいわれるそうだが、霊的な真実のことに思われるからである。

 そのことが、前回のラムサの話からわかる、つまり人生の意味は目的の達成にあるのではなく、達成する過程にあるという話である。

 人生での経験

 あなたが勝者やら敗者、加害者やら被害者、また愛を得た人やら愛を失った人になるのは、あなたが選択したのだから、幸せなはずである。

 私(ラムサ)は次のように教える。

 あなたが人生で選択した運命の意味は、その達成にあるのでは無く、その過程に有ることを!

 実際に達成して、学びを得たなら、既に過去に属するのだから手放しなさい。

 西洋文明はもはや過去に属するものだから手放すのが救いになるというわけなんである。使えない金融システムなど早く手放して、新しいものをつくればいい。

 金銭と生命とどちらが大切なのか? 

 小学生でもわかる答えを見失っているのが現在の西洋のアホバカタワケたちなんである。

 カネがないと生きていけない連中は、ギリシャがどうなろうが、先送りという名の真っ暗闇の地獄行きだろうが、カネがなくても生きていける人にとってはカネ儲けの道具にされずに、自己を追求する天国がくるわけである。
 
 無間地獄金融ゲームを続けたければそれも自由であるが、東洋は反発して、西洋を見下すことになるだろう。西洋が東洋を植民地支配してきたツケを返す番になるからである。

 人間同士で差別し戦い殺しあいたいのなら、そういう連中だけでやってくれ。

 カネのない米軍の下請けをやりたければ、アホバカ総理自身がやればいい。ジミンを戦場に送る法案を可決すべきである。戦争法案に賛成する者を戦場に送ろう。それが連中の希望なのだから。


前回紹介したカルト宗教と捏造の宝庫の日本会議に指南される、ジミンの首領の不正総理の知性が永遠のゼロで有名なオトモダチが、またまたヤラセなのか同士討ちなのかはわからないが、「新聞潰せ!」と原発事故並の暴走発言をかましたらしい。

 国民全体を敵にまわすジミンのような連中は「江戸しぐさ」よりも、反面教師としてモンスターのような連中の「ネトウヨしぐさ」でも監修したほうがいいのではないかと思う。言っていることとやっていることが真逆なんである。

 つまり「江戸しぐさ」とは真逆のことを「ネトウヨしぐさ」はやっているのである。

 また江戸しぐさの洗脳が巧妙なのは、道徳を前面に出しながら商標登録をして道徳を商売にしていることにある。

 「ネトウヨしぐさ」は捏造した「江戸しぐさ」で金儲けし、ネトウヨの洗脳思想の強制社会を目指すようである。極論すれば、道徳という人類共有の財産の私物化ともいえる。私の記憶が確かなら、もし、江戸しぐさが捏造でなければ、公共の福祉に反する公益の私物化であり、著作権法の侵害に相当するのではないかとも思われる。

 簡単にいえば、道徳や宗教といった個人の自由に関する権利を商売などの売買に使用するのはいかがなものか、ましてや教科書に載せて商売するのは違法であろう。それ以前に捏造を教科書に載せるのが問題だが。

 まぁ、連中の頭の中は自分たちの地位と名誉と金儲けしか頭にないのだろうから、その悪魔の正体を暴くことにする。

 そこで、連中の美辞麗句の仮面の正体を突き詰めてみるために、連中の主張に耳を傾けてみる。

 ★         ★         ★

 「江戸しぐさ」とは?
 http://www.edoshigusa.org/about/

 「江戸しぐさ」は、江戸商人のリーダーたちが築き上げた、上に立つ者の行動哲学です。

 よき商人として、いかに生きるべきかという商人道で、人間関係を円滑にするための知恵でもありました。

 江戸時代は、260年以上もの間、戦争のない平和な時代が続きました。

 その平和な安心な社会を支えたのが「江戸しぐさ」という人づきあい、共生の知恵です。

 ★         ★         ★

 以上、美辞麗句の羅列だが、ところどころに日本会議の理念と同じように矛盾がみられる。江戸時代は一般的に士農工商という身分制度があったはずだが、そもそも江戸の商人が「上に立つ者」の行動哲学を議論できたものなのか? 

 勿論公では武士が上位なので、商人の身分で議論することは当時は幕府に知れたら危険思想とみなされ、隠れて行うか、商人に限っての上に立つ者の行動哲学であるはずだから、江戸しぐさと命名するのは無理があり、江戸商人しぐさと限定すべきであろう。

 しかも、江戸時代の平和全てを、その限定された行動哲学に求める結論には、どう見ても短絡的で無理がある。そのような哲学があったとしても、第一当時の支配階級の武士たちに浸透しているはずがないからである。

 つまりインチキな虚構である。

 このインチキな虚構だと江戸は商人が治めていたという短絡的な発想になる。少なくとも武士の行動哲学でないと意味がない。そもそも江戸時代の大部分は米経済の石高制で商人が関わる貨幣経済ではないからである。

 単純明快な「江戸しぐさ」に当てはめて、人を差別しようとする目論見が露見し、この根底には差別思想がみられるのが特徴である。その特徴は、江戸しぐさを主張する連中が江戸しぐさを教えはするが、自分達で実践していないところにある。

 つまり、江戸しぐさを教えることで自分たちの地位を上げ、金儲けすることに意味をもっているのである。

 この思想は実はマルクスレーニン主義の革命思想と同じなんである。簡単にいえば、略奪を正当化する略奪思想なんである。この略奪思想が敵視するのが従来の保守の立憲主義なのである。

 一般的に、法律や法則は適用範囲があり、それを越えたり、逸脱するともはや法律でも法則でもなく、単なる破壊につながる。略奪思想は、この適用範囲を曖昧にし、制限を越えて逸脱するので、破壊論なのである。

 だから、百歩譲って、仮に「江戸しぐさ」を認めるにしても、商人に限っての話である。しかし江戸当時の商売と現代とでは物量や人口が大きく異なるので、厳密に考えれば、土台無理な話である。

 このように江戸しぐさには非現実的で、漫画的発想が垣間見られる。少なくとも道徳ではないので、いっそのことアニメか漫画で商売すべきである。

 さて、このような非現実な議論に関わっていると益々アホバカになるので、現実の差別問題についての日本史の話を前回から続けて紹介する。


ニセモノの宗教家が巷を徘徊しているので、病や死や悪だなんだと騒がしく差別している。そもそも差別こそ、唯物論の賜物であろう。

つまり、巷では、ウイルスが悪だ、病気が悪だなんだとのたまうが、いまの自分に相応しいからこそ、神様が与えてくださっているわけで、お前の生活の仕方や生き方が、ウイルスと同じだぞ、病気のようなもんだと、教えてくださっているわけで、差別し、避けるのは偽善なんである。

明治維新の武力革命を評価しているアメリカとイギリスらしい?です。明治から戦前にかけての大日本帝国には、ロスチャイルド、ジャーディン・マセソン、アヘン王サッスーン、などが背後にいたらしいです。アメリカの背後には、ロックフェラーなどがいるらしいです。明治のイギリスの外圧と戦前の天皇が、主人から戦後のアメリカと間接統治の象徴天皇という主人にかわっただけの日本のマゾな有権者と奴隷根性の日本人です。日本民族の奴隷根性と天皇制の皇室の宗教的権威は、一部の者がつくった皇国史観からみた日本人の歴史に過ぎないのです。


「モノ言えない社会は息苦しい」 ― ネトウヨが自らの自業自得を社会の狭量として嘆く笑える記事Add Starrawan60watto
数日前、ネトウヨのある所業を取り上げた記事が、twitterでちょっとした話題になった。

名誉棄損の加害者が多額の慰謝料にビビっている哀れな話だが、ネトウヨにかかれば社会の不寛容性を嘆く材料になるようだ。これは笑える。記念にお持ち帰りしたうえで、若干の所感を示す。

 

「モノ言えない社会は息苦しい」名誉毀損で訴えられたネトウヨ大学生の告白

DMMニュース 2015.01.24 08:50

http://dmm-news.com/article/911752/

(引用開始)

「ネットで書いてることをいちいち信じるヤツってホントのバカだと思うんです。僕もネトウヨをやってるけど、『誰かを釣って、叩いて、はい、おしまい』の世界。特に芸能人やマスコミ関係者、政治家がTwitterで本気になって議論もどきをして熱くなっている。それをみて楽しむこと。それだけが目的なのに……」

都内の私立大学に通う大学3年生・大澤元輝さん(仮名・21歳)はこう話す。中学時代からネットに親しんだ大澤さんは、2ちゃんねる掲示板、TwitterといったSNSに親しんできたが、最近ではもっぱらTwitterを中心にパトロールしたり、書き込んでいる。

■ターゲットを釣って祭りにすることが目的

「匿名の2ちゃんねる掲示板だと誰が参加しているのか目に見えない。でもTwitterだと実名や顔を晒してやってるのも多い。そんな連中を釣るんです。で、ボカスカに叩いて、“祭りにしちゃう。一連の流れを作ることができたらもう最高っすね!」(大澤さん)

ネトウヨ”を自称する大澤さんだが、実は政治や社会問題には何の興味も関心もないという。Twitter上では、次世代の党副代表で元航空幕僚長田母神俊雄氏を支持する発言を繰り返しているが、これは、「ファッションというか流行に乗っているだけで、本当に田母神さんを支持しているわけではない」(同)とか。

「政治家が『ネット世論で高い支持を得た』と話すのを聞くとバカだと思いますよ。あれは俺たちの責任のない書き込みで盛り上がってるだけですから」(同)

とはいえ、マスコミへの敵対心のようなものと自民党と次世代の党以外の政党への不信感は拭えないと内面を明かす。

「左翼の連中(註:この場合は自民党と次世代の党以外の各政党支持者を指す)やマスコミの奴らは、捏造で視聴率やアクセスビューを稼ぐことしか頭にない。だからこういう連中が顔出しで書き込みしていると、どこかで揚げ足取って“祭り”にしてツイートを削除させ、酷ければアカウント削除まで追い込む。ま、ゲームですよ。著名人をアカウント削除まで追い込んだ後の達成感はハンパないっすね!」(同)

大澤さんは過去、ネット上で槍玉に挙げたのは歌手・やしきたかじんさんの未亡人を取り上げた『殉愛』(幻冬舎)の著者・百田尚樹氏、ニューヨークタイムズの田淵広子記者などなど。その対象は保守論客からリベラル記者までと節操がない。Twitter上で話題になった人物の他、タレントやマスコミ関係者、女性アナなどもターゲットにする。

「著名人や政治家からTwitterでブロックされたら逆に闘志が湧いてきますね。あらかじめ持っているTwitterの別アカウントを使って、何か揚げ足を取るネタを探す。時にはこちらも捏造画像を用いたりして“祭り”に仕立てて仕返しする」(大澤さん)

大澤さんによると、何がしかの事件の当事者や政治家、マスコミ関係者などがTwitter上で何かコメントしたり、資料を出すと、たとえそれが正しい内容であってもまず、「捏造だ!」と書き込み、Twitter上の仲間や自らが持つ別アカウントを用いて拡散していく。そしてターゲットとなっている人物の過去ネット上での書き込みから、「行動パターン」「交友関係」「自宅住所」までネット上に晒す。

■損害賠償1500万円を求められた!

数年前、あるタレントのTwitter上での書き込みが気に入らなかった大澤さんは執拗にこのタレントの書き込みを揶揄する発言をTwitter上で繰り返し、その内容を纏めたブログも立ち上げた。

しばらく経ったある日、大澤さんにとってはそのタレントへの中傷行為が過去のものとなった頃、プロバイダーから「発信者情報開示に係る意見照会書」という書類が送られて来た。平たくいうと「この書き込みをした人の住所や連絡先を聞いている人がいますが教えていいですか?」というお伺いだ。もちろん開示拒否と回答して送り返した。

だが、しばらくするとプロバイダー側から、「発信者情報開示を求める裁判に負けましたので発信者情報を開示します」と連絡が来た。やがて弁護士名で「名誉毀損による損害賠償を求める。1500万円支払え」という内容を示した内容証明郵便が届いた。

「芸能人やタレント、マスコミ関係者、政治家、顔晒してる仕事の人がネットでちょっと書き込みされたくらいで……という気持ちはあります。言いたいことがいえない社会って息苦しいですね」

目下、相手方のタレントと弁護士を挟んで示談交渉中という大澤さん。4月からは大学も最終年次、就活に励む時期だが、示談交渉の行方が気になり、就活にも身が入らない日々を過ごしている。

(引用ここまで・強調は引用者)

 

ネット空間は、意見発信や議論の空間として非常に有益であり、実際私のようなただのサラリーマンが、いち在日朝鮮人として社会に問いかけができるのもネット空間のお陰であるが、匿名で顔や素性が見えないことをいいことに、残念ながら有名人や特定の属性を持つ者に対する、悪趣味な者どもの誹謗中傷や集団リンチが往々にして起こる。枝葉末節をあげつらい、義務のない謝罪や、強いられる謂れのないタテマエを吹っかけられ、疲弊していく被害者が日々量産される。

この者からしたら、『祭り』にして相手が困惑し、逃げ惑い、サイト閉鎖等に追い込まれていくのを楽しみたい「だけ」だと、自らの行いを過小に評価し、そんな「些細なこと」で訴えるなよと言わんばかり。それをもって、「言いたいことが言えない」「息苦しい」と嘆いて見せている。

しかしこれは端的に言うと、『大いなる勘違い』である。彼の攻撃相手には、人格・名誉という、容易に侵害することが許されない初歩的な権利がある。それを自分から出向いて、デマ、クソミソ含め攻撃するのだから立派な侵害行為だ。

「言いたいことが言える社会」とは、社会的少数者や他者と異なる意見の持ち主であっても、自分の立場を表明でき議論の俎上に乗せられる社会のことでではなかろうか。他者に対する誹謗や罵詈雑言を好き勝手言える社会のことではないだろう。そんなものを安易に許せば、社会的議論は低劣化し、多勢の攻撃に無勢が沈黙を強いられる。

在特界隈と保守速報を訴えた李信恵さんの例を挙げるまでもなく、彼の行為は『立派に』生身の人を傷つける。彼はパソコンの画面を相手にキーボードを叩いていることとしか認識していないかもしれないが、その言葉は確実に精神を蝕み、沈黙を強いる。ひとの生命をも奪う威力をも持った、立派な暴力である。

彼の行為は誹りを受けるべき行為であり、何を言おうと後の祭りである。自らの愚かさに気付き、悪い趣味と訣別する日が来ればいいのだが。

こんなことを書けば、必ず何人かの、彼の『同業者』が来訪してきて、「お前もニッポンを誹謗中傷している」「お前の反問も俺の名誉を毀損している」「お前も訴えてやる」「死ね」「帰れ」と書き捨てていく。件の彼の所業と、私のブログ本文及びコメントの、根本的な質的差異を、わざわざ説明してやらなければならず、そしてそれも理解できないほど、この界隈の脳味噌は腐敗が激しい。そんな腐敗した脳味噌の持ち主にわざわざ説明をくれてやるほど利益が無いことは無い。

 

曾野綾子の残忍さが日本でウケる情けない背景
2015年 02月 16日
 曾野綾子トンデモ発言は、ツッコミどころが多過ぎるので話題にする人がよくいる。
 例えば、福島の原発事故。曾野綾子は、被災したといっても、もともと住んでいた人と、原発が出来た後に住んだ人は違うと説く。
 なら福島の不動産は「原発が爆発するかも知れないのでお安くしておきますよ」と言う売り口上だったのか。絶対安全だということだったのではないか。その絶対安全の宣伝を、曾野綾子も業界から金を出されて一役買っていたのではないか。

 こういうのツッコミはいくらでもネタがある。だから、どうしてこんなお粗末な言葉ばかり吐く人が偉そうにしているのかというほうが問題だ。
 
 まず、前に指摘したとおり、曾野綾子は確信犯的に権力に擦り寄り弱い者いじめばかりしているから、ちょうど文革時代の中国みたいに、文壇の江青女史には触らぬ死神に祟り無しとマスコミも批判できないだけなのだが、それを知らない庶民が、政府とか総理とかの委員みたいなのをしているので偉い人なのだと短絡的に考える。そして、その説教を、SMの女王様に鞭打たれてるような感覚で悦ぶのだ。
 
 また、強いものにへつらい弱い者いじめすることは潔くないという感覚を、持ち合わせていない人が多いこともある。

 今回の差別発言を撤回しないという曾野綾子は、これまた勇気のないメディアの一つ毎日新聞の取材に対し、キリシタン弾圧や赤狩りなど歴史上の権力による弾圧に屈しなかった人たちと同じだとしている。つまり、強者の横暴に命懸けで闘った人たちを引き合いに出して、自分も信念にしたがって断固として弱い者いじめをするぞ、ということだ。
 これは、権力と暴力によって迫害されても信念を曲げない勇気と、道理を説かれても自分の間違いを認めない身勝手を、曾野綾子は区別ができないということでもある。
 これを毎日新聞は、「筆を曲げない人」と書いている。ここには皮肉のニュアンスが無いので、地方紙の記者が「毎日」に呆れているツイートがあった。これは残虐な方向に根性が曲がっているということで、筆を曲げないのではない。
  
 現実に、曾野綾子は今回の発言で社会学者の上野千鶴子から「この人まだ懲りないのね」とツイートされていたが、上野もと東大教授がその地位に付く前、学者というよりマスコミ人だった当時、曾野は上野を週刊新潮誌上で批判したが、それに反論されると、指摘された数々の間違いを認めるでも反論するでもなく、週刊新潮でこの話はもう終わりだと一方的に宣言したうえ、上野が書いたことを「下品な文章ですね(笑)」と締めくくった。
 この曾野綾子の態度のほうがよほど下品であり、他の雑誌で第三者からも曾野綾子は批判されていた。しかし、自分より強い魚に追われるとイソギンチャクの中に逃げ込む魚がいるのと同じで、曾野綾子週刊新潮など権力に媚び売り弱い者いじめを専門とするイソギンチャクメディアに逃げ込む。こういうことしかしない人が、迫害に信念を曲げない人であるはずがない。

 つまり、もともと日本は「長いモノには巻かれろ」とばかり言い、相手が強くても毅然とすることを立派だと感じる文化が無いから、このような話がまかり通るのだ。それで、弱い者いじめの放言を、自由に意見していると勘違いし、その種のマスコミ人も安泰だったのだ。

 

曾野綾子の残忍さが日本でウケる情けない背景 わたしはプロテスタントですが、うまく言葉にならないぐらい情けない思いです。 わたしは、時々、「日本人には奴隷根性がある」と思ってしまいます。「長い物には巻かれろ」という言葉のわたしなりの言い換えです。「主権者意識がない」とも言えるでしょう。「主権者意識がないから無責任である」とも言えるでしょう。 結局「楽をしたい」ので、言うべきこと、なすべきことをしないで、無責任を決め込み、「上」から言われることを唯々諾々と受け入れる。あまりに情けない話です。


発達障害者への差別に対して不愉快である。
最近バカのイッチョ覚えで発達障害のレッテル貼りをするバカが多いが品性を疑う。

ついでに、民族差別もやめれ。

人を差別することでしか生きていけない悲しさ。教義で障害者は新興不足で生まれたとか考えているバカと同レベル。

【政治】安倍首相、障害者と交流 - 2ちゃんねる
uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1369302601/
2013/05/23 - 47 :安倍、橋下はニダー:2013/05/24(金) 13:58:59.30 id:DUqVJMdz0: 差別主義者の'統一教会'安倍が障害者を使ってパフォーマンスかいwww

日本人の卑しさと「和」の文化
<< 作成日時 : 2012/06/25 10:53 >>
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「えんだんじ」氏が指摘する日本人の卑劣、卑怯、卑屈の指摘は、身近な社会生活の中でいくらでも思い当たるところがある。
 氏の指摘するところによると、日本民族の欠陥とは、一つは、正義感の欠如、一つは現実直視力の欠如、一つは「長いものに巻かれろ」式の態度、一つは理性より情緒に流されがち、という点にある。そこから日本民族の卑劣、卑怯、卑屈な生き方が生まれる。 


「口うるさく我慢ばかり強いるのに、いじめてる人にはろくに何にも言えない人って、本当に格好悪い」

ツイッターでのいじめ問題などの持論が話題になった転載子役のはるかぜちゃん。一方で、誹謗中傷の書き込みも後を絶たないという


目立つ弱者が許せない!いじめ問題や人種差別問題を蔓延させる「日本型不寛容」の闇について
学校でのいじめ問題、民族差別的なヘイトスピーチデモ、障がい者を狙ったヘイトクライム・・・後を絶たない排斥の連鎖。これらに共通しているのは近代に満たない人権感覚と、「目立つ弱者」がずるくて許せないと言う特徴がある。ツイッターでの議論をまとめた

盲導犬視覚障害を持った女子高生へのヘイトクライムが同じ埼玉県で相次いでいる。一方、ブラック企業問題がいくら叫ばれても労働運動が活発化する動きはみられず、政治家に対する抗議活動も諸外国や昭和時代の日本と比べると減退しており、長いものに巻かれ、弱者を虐げる卑劣な人間を許してしまうような閉塞的な空気が漂っている(刺された盲導犬

白杖の者は人ごみに出るな」「年金生活者&生活保護受給者は社会のお荷物」「ホームレスは社会のゴミ」そんな事をのうのうと言い放つあなたはきっと「人間のクズ」。

それこそ「ソイレントグリーン」の世界を望んでいる人達なのかな?自分がもし、そういう社会弱者になった時潔く消えてくれるのかな?

弱者に対して冷たくキビしい意見の人は、自分はそっち側には絶対ならないと確信しているのかな?歳も取らないつもりなのかな?それとも、もしそうなったら冷たくされても当然だと思ってるのかな?

障碍者バッシングしてる人たち、自分が怪我や病気で障碍者になったらどうするつもりなんだろう。少々の想像力があれば分かることなんだけど。そもそも社会の大多数の人たちは弱者なわけでね。自分より更に弱い立場を叩くってのは自分の立場も悪くすることなんだけどね。

障害者叩きや生活保護叩きに関して、よく「自分がそうなると思っていないから」とか言うしそれもあるけれど、もう一つの側面として「自分がそうなったときは厚遇されるはずだ」という思い込みがそこにあるのではないか。

朝から全盲の女子が膝を蹴られた事件のニュース見てなんとも言えない絶望的な気分…盲導犬が刺された件といい… ベビーカー問題も在日外国人への差別も、みんな根っこでつながってる。とにかく今の日本に流れてるのは「不寛容」の空気… とにかく憎しみに満ちている。ほんと日本終わってるよ…

「1/4の奇跡」と言ったら、

「全ての人は、インターネットとコンピュータ端末のように、
大いなる力(サムシング・グレート)と繋がっているのだ。
そして、障害者は不自由な代わりに、
その大いなる力を感じ取れる能力
(≒超能力)がそなわっているのだ。
だから彼らを大事にしよう。」

日常生活に支障ないようなのも含めて障害者差別のオンパレード
奴らの脳内の選民思想の方がヤバいのに自分らの障害は棚に上げてターゲッティングしてゴイム虐殺虐殺
空腹のときだけ草食獣を襲うライオン以下なのよ思考回路行動原理が奴ら

仲間の愛の戦士たちであるインディゴ・チルドレンやクリスタル・チルドレンのなかには、アスペルガー症候群ADHD注意欠陥多動性障害)やADD(注意欠陥障害)やLD(学習障害)や広汎性発達障害自閉症スペクトラム)などと診断されてしまう子も多いそうですが、それはかれらが愛の戦士の使命として、体を張って現在の地球環境や世界のシステムの危険性をわたしたちに教えてくれているのだと思います。


この新しい人類はよく機能障害と誤診されます。インディゴがAD(H)Dと診断されやすいのに対して、クリスタルたちは自閉症と思われやすいのです。自閉症が記録的に増加していることとクリスタルの出現は偶然の一致でしょうか?

自閉症の人々は自分ひとりの世界に住んでいて他者とは分離されています。彼らが口をきかないのは他者との交流に無関心だからです。クリスタルたちはこれとは全く正反対なのです。クリスタルたちは他者への思いやりが深く親切で、ブルーレイたちを引き継いで、ヒーリングの素質を示すのです。」

この新しいタイプの人類はよく機能障害と誤診される。インディゴたちがAD(H)Dと診断されるのに対して、クリスタルたちは自閉症と思われることが多い。自閉症が記録的な増加をしているのも偶然の一致ではないだろう。自閉症の人々は自分ひとりの世界に住み他者と関わりをもたない。彼らが話をしないのは他者との交流に無関心だからである。

クリスタルチルドレンたちはこれとは正反対である。彼らは他者に対して世話好きで同情的であり、ブルーレイチルドレンを引き継いでヒーリング能力の素質を持っている。

ヴァーチャーは“インディゴチルドレンの育て方”という本にこのように書いている。“ADHDは高い次元に波長が合っている”という意味に解釈するのがインディゴたちにはふさわしい。クリスタルたちは自閉的なのではなく畏敬を感じさせる子どもたちなのです。畏敬に値はしても決して機能障害ではないのです。たとえ機能障害であっても、それは人類が進化し続けるためには、もはやじゃまになった機能なのです。“